50話
穂が、重くなりはじめていた。
巡回の朝には白っぽかった穂が、根もとのほうから、うっすらと黄色く色づいてきている。まっすぐ空を向いていた穂先も、今朝はどれも少しずつ首を垂れていた。風が渡ると、畑じゅうの穂がさらさらと擦れ合う。
「トバさん! 判を捺した届けは、まだ戻ってこないのかい?」
その朝も、テッサの声が、村長の家のほうから聞こえてきた。
少し間があって、もう一度。
「あとで戻すって、そのあとってのは、いつなんだい!」
ノエは小屋の卓で、表の山の一枚を書いていた。テッサの声が届くたびに、筆の先が少しだけ止まる。
巡回の日から、何日か過ぎていた。畑の端に置き去りにされていた鍬は、もうどこにも立っていない。村は、いつもの鍬の音に戻っている。
テッサだけが、毎朝トバの家に寄ってから畑へ出る。
坂の下から、音が上がってきた。
がらがら、がらがら。
ノエは筆を置いて、戸口から顔を出した。
荷馬車が、坂を上ってくるところだった。書記の馬が、ぽく、ぽく、と下りていった坂だ。荷台の上で、縄の束が跳ねている。御者台に、日に焼けた顔。頭巾は肩に落としてある。
荷馬車は坂を一息に上りきって、小屋の前で止まった。
「ハンナ!」
ノエが口を開くより先に、テッサが畑のほうから駆けてきた。背の高い体が、穂の上に頭と肩だけ出して、まっすぐこちらへ向かってくる。
「受けたんだよ! 全部!」
「……なんだい、いきなり。何を受けたって?」
ハンナは手綱を片手にまとめたまま、御者台の上からテッサを見下ろした。
「届けだよ! この村の畑の届け、十五枚! 巡回の書記さまが、一枚残らず受けてったんだよ!」
テッサのうしろから、セルグが腰をさすりながら歩いてきた。テッサは、振り返りもしない。
「うちの人の紙が読まれたときなんかね、あたしが先に『ありません!』って答えてやったんだから」
「……書記さまに聞かれとったのは、わしだったんだがな」
セルグが、大きな鼻の頭をかいた。
ハンナが、声を出して笑った。御者台の板が、ぎしりと軋む。
ひとしきり笑ってから、ハンナはノエのほうを見た。
「ほんとかい?」
「……十五枚、全部受けてもらえました。判は代官所で捺して、捺した届けは、あとで村へ戻してくれるそうです」
「だから毎朝、トバさんとこへ聞きに行ってんだよ」
テッサが胸を張る。
「判なんてのは、そんなにすぐ捺せるもんじゃないだろうさ」
ハンナは御者台から、ひょいと飛び降りた。
テッサが、ノエのほうへくるりと向き直る。
「それとさ、ノエ。あんた、門のとこで、書記さまに何か言われてたろ? 戸口からじゃ何にも聞こえなかったけどさ」
「……たいしたことじゃないです」
ノエは、荷台の縄の束を見ていた。
ハンナの目が、一度だけノエの上で止まった。
テッサは「ふうん?」と首をかしげた。そこへ、セルグがテッサの袖を引く。
「……戻るぞ。刈り入れの前だ」
「わかってるよ!」
二人の背中が、穂のあいだを遠ざかっていく。テッサの声だけが、しばらく畑の上に残っていた。
「さ、話はあとだ」
ハンナは荷台の縄の結び目に指をかけた。一度引いただけで、結び目がするするとほどける。
「こっちは、刈り入れ前の荷だよ。あんたの親父さんに頼まれてたやつさ」
麦を束ねる縄の束が四つと、鎌の刃の包みが一つ。
ノエは縄の束を一つ抱えた。乾いた藁の匂いが、鼻に入ってくる。思ったより重い。ノエが一つを抱えて納屋まで歩くあいだに、ハンナは二つを両肩に担いで、もう戻ってきていた。
荷を下ろし終えると、ハンナは手のひらについた粉を、外套の腰ではたく。
「坊やの村の、向かいのおかみさんに頼まれたよ。ノーラに手紙を預けてあるから、ってね」
ノエは小屋に戻って、卓の端から四つ折りの紙と、布の包みを取ってきた。
「ご主人への手紙です。ドーゼの渡しで、荷を担いでいるそうなんです。……こっちは、運び賃です」
ハンナは包みの口をほどいて、鼻を近づける。
「茸だね。……干し方がうまいよ。森の匂いがまだ残ってる」
「おかみさんが、森で採ったそうです」
「これは……売らないで食べようかな。言われる前にね」
ハンナは包みの口を結び直すと、四つ折りの紙を外套の胸の内へしまった。
「ドーゼの渡しなら、荷札を書く人がいるよ。毎日、荷の中身と行き先を書いてる人だからね。手紙くらいは、読んでくれるさ」
「おかみさんも、それを聞いたらほっとすると思います」
◇
空いた荷台の板を、ハンナは掌で払っていた。縄くずが板のすき間から落ちていく。帰りに積む、村の干し肉の場所を空けているのだろう。
「坊やの村にも巡回が来たってさ。あんたのとこの後だったらしいね」
ノエは、払われていく縄くずを見ていた。
「バズさんは──」
「坊やの名前、帳面に載ったみたいだよ」
ハンナの手が、板の上で止まった。
「畑の持ち主の名前が、親父さんから坊やに書き換わったんだって。じいさまが言ってたよ。坊やが、読めもしないのに首を伸ばして帳面をのぞきこんでたってね」
ハンナは、少しだけ声を低くした。
「坊やは坊やで、こう言ってたよ。──字は読めんですけど、書記さまがおれの名前を書くとこは、ずっと見とりました、ってね」
ノエは坂の下のほうへ目をやった。宿の向こうの村は、ここからは見えない。
逆さまの丸い文字を、ノエは思い出していた。自分の名前が書かれていくのを、ノエも卓のこちら側から見ていた。
気がつくと、親指の腹で人差し指の横をなでていた。いつからなでていたのか、自分でもわからない。
「それとね、召しのことも言われたってさ」
ハンナはまた板を払いはじめた。
「初雪が降る前に、宿に集まれ。どこの普請に行くかは、集まったときに言う、だって」
「橋の普請でしょうか? 去年の冬、バズさんは橋に出ていたって」
「さあね。橋なら、宿のずっと向こうだけど。ま、坊やはどこへでも行くって顔してたよ」
ハンナは肩をすくめる。
「じいさまも、帯にはさんでた紙をちゃんと書記さまに渡したってさ。通るかどうかは、代官所で決めて、あとで知らせるって」
「じいさまの紙、通るといいんですけど」
「お役所ってのは、なんでも、あとで、なんだね」
ハンナは笑って、それから、ふと手を止めた。
「それから、じいさまがね──」
言いかけて、ハンナは首を横に振った。
「じいさまが、何か言ってたんですか?」
「……いや。あれは、じいさまの冗談だ。あのじいさまの話は、半分は冗談だからね。全部聞いてたら、日が暮れちまうよ」
ハンナは荷台から飛び降りると、馬の首を軽く叩いた。
「この子に水をやってくるよ」
◇
夕方、母が鍋に茸を入れた。
ハンナが包みから一握りだけ取り出して、「少し、入れとくれよ。あたしの運び賃だけどね」と母に渡したのだ。
湯の中で茸がふくらむと、家じゅうにふくよかな森の匂いが広がった。
「いい茸だね」
母が鍋をかき回しながら言った。父は鼻をひくつかせて、椀を取りに立った。
卓に、椀が四つ並んだ。
「縄、助かったよ。刈り入れまでに間に合わんかと思っとったんだ」
父がハンナに言った。
「鎌の刃は、着ける前に一度研ぎなよ。鍛冶屋の研ぎは、けっこう荒いからね」
「……そうなのか?」
「そうなんだよ。うちの親父が、いつも言ってる」
ハンナは汁をすすってから、ふと思い出したように言った。
「そういや、テッサさんが言ってたね。ノエが、門のとこで書記さまに何か言われてたって」
父が、椀を口もとで止めた。
母も、鍋の蓋を持ったままこちらを見ている。
ノエは、椀の中の茸を見ていた。茸のかさが、汁の上でゆっくり回っている。
それから、椀を卓に置いた。
「……書記さまに言われました。僕の名前が代官所から館へ回ったら、館から呼び出しがかかるかもしれない、って」
誰も、すぐには何も言わなかった。
鍋の中で、茸が、ことこと揺れている。
「……館って、領主さまの、館かい?」
母の声だった。
「はい」
「なんで、黙ってたんだい?」
母は鍋の蓋を置いて、ノエの顔をまっすぐに見た。怒っている声ではなかった。
「……書記さまも、かもしれない、としか言わなかったので」
ノエは、父のほうを見た。
「それにあの日は、父さんが、うちの畑になるって言ってたから。……館の話を、その日に持ち出したくなかったんです」
父は、口もとで止めていた椀を、ゆっくり卓に置いた。
しばらく、ノエの顔を見ていた。それから、母のほうへ目を向けて、笑った。照れくさそうな、それでいて、どこか誇らしげな笑い方だった。
「……聞いたか、マイラ。俺は元の村じゃ、書記さまの前に出たこともなかった男だぞ」
「知ってるよ。このあいだも、声が震えてたね」
「そのせがれが、館に呼ばれるかもしれんのだと」
父は、ノエに目を戻す。
「ノエ。黙ってるようなことじゃないだろう」
「……ごめんなさい」
父は、空になった椀を、母のほうへ差し出した。
母は黙って二杯目をよそってから、ふと、父の肘に目をやった。おかみさんの繕った縫い目が、灯りの下で、そろって光っている。
「……何を着せていくんだい」
「え?」
「館だよ。呼ばれたら、その格好で行くつもりかい?」
ノエは、自分のシャツの袖口を見下ろした。墨の染みが、ぽつぽつと散っている。
「あのおかみさんに、もう一枚頼んどくんだったね」
母は、口の端だけで笑った。
ハンナが、椀を置いた。
「呼ぶってのは、用があるってことだろ」
三人の目が、ハンナに向く。
「用のない者を、わざわざ館まで呼びやしないよ。荷と同じさ。いらない荷を、遠くから取り寄せる者はいないからね」
「……館に、僕への用なんてあるんでしょうか」
「さあね。中身は、着いてから開けるもんだよ」
ハンナはそう言って、二杯目の汁をすすった。
それきり、ハンナは館の話をしなかった。椀の底に残った茸を、匙で一つずつすくっていた。
◇
翌朝、ハンナは夜が明けきらないうちから、村の干し肉の包みを荷台に積んでいた。
ゲルダの家に泊まったのだろう。外套から、燻した煙の匂いがする。
ノエは、門まで荷馬車について歩いた。
門の柱のところで、ハンナは手綱を片手にまとめたまま振り返った。
「呼び出しが来たら、まっさきにあたしに言いな」
ノエは、ハンナの顔を見上げた。
「館までなんて、あんたの足じゃ、着く前に倒れちまうよ。荷台に乗せてってやる。次からは藁を一束、余計に積んでくるからね。荷台は揺れるんだよ」
「……でも、まだ呼ばれるかどうかもわかりませんよ」
「だから、来たらって言ってるんだよ」
ハンナは、荷台の板を掌で一度叩いた。
「ほかの運送屋に頼んだりしたら、承知しないからね」
「ほかの運送屋さんなんて、僕、ハンナさんしか知りませんよ」
ハンナの手が、荷台の板の上で止まった。
「……そうかい」
板の上の手を、ハンナはしばらくどかさなかった。
「なら、いいんだよ。知らないままで」
ハンナは肩に落としていた頭巾を、頭の上まで引き上げた。御者台に上がってからも、頭巾の端をずいぶん深く引っぱっている。
朝の日差しは、まだそれほど強くなかった。
ハンナは手綱を握った。けれど、振らなかった。
「……ゆうべの話だけどね」
頭巾の陰から、前を向いたままでハンナが言った。
「じいさまの話。冗談だと思って、聞き流してたんだよ。けど、あんたの呼び出しの話を聞いたら、なんだか冗談に聞こえなくなっちまってね」
ノエは、御者台を見上げた。
「じいさまが、帯から紙を出して、書記さまに渡したらさ。書記さま、紙をひと目見て、こう言ったんだって」
ハンナは顎を引いて、声を一段低くする。
「──この字は、ノーラの十五枚と同じ手だな」
ノエの指が、シャツの裾の上で止まった。
村長の家の卓で、書記は十五枚と宿のあたりの束を並べて、同じことを言った。
「手ってのは、字の書きぶりのことかね。じいさまにも、なんのことだかわからなかったらしいけど」
ハンナは続けた。
「で、じいさまが、いつもの調子で言ったんだと。それは、ノーラの筆の聖さまに書いてもろうた紙じゃ、ってね。そしたら書記さま、帳面をばんばん叩いて、大笑いしたんだってさ」
ノエは、あの書記の顔を思い浮かべた。頬がこけて、声が低くて、笑うときは、息が抜けるように小さく笑う人だった。
帳面をばんばん叩いて笑うところは、どうしても思い浮かばなかった。
「じいさまは、聖さまの名が代官所まで通っとるんじゃ、って、村じゅうに言いふらしてたよ」
ハンナが、頭巾の陰から振り返った。
「……聖さまってのは、あんたのことだろ?」
「……ノエです」
ハンナは、声を出して笑った。
「じいさまに、そう言っといてやるよ」
ハンナが手綱を振った。
がらがら、がらがら。
荷馬車は門を抜けて、きのう上ってきた坂を下りていく。
ノエは、門の柱の脇に立っていた。
朝の風が穂の上を渡っていく。重くなった穂先がさらさらと擦れ合う。
がらがらの音が、坂の下で小さくなっていく。
書記の帳面には、ノエの名前がある。
その名前と一緒に、筆の聖さま、という呼び名まで、代官所へ運ばれていったのだろうか。
──代官所から、館へ。




