49話
書記は、三枚の紙から指を離した。
「申し出ること、とは?」
トバは一歩、卓の前へ出た。顎を撫でかけた手を、途中で体の脇へ戻す。
「去年の秋、この村の畑のことで、領主さまに願いを出しました。その返事を、領主さまからいただいております」
「領主さまから、か」
書記の声は、さっきと同じ低さだった。けれど、墨をつけたばかりの筆が、帳面の上で止まっている。
「その返事の、領主さまがご自分の手で書かれたところに、こうございました」
トバは背筋を伸ばして、天井の梁のあたりへ目をやった。
「──この文を書いた者の名を、次の巡回で、書記に……」
トバの口が、そこで止まった。
目の前の椅子に、その書記が座っている。
「……い、いや。書記さまに、申し出よ、と」
テッサが、ぶっ、と吹き出しかけて、両手で口を押さえた。
ノエは、戸口の柱の脇で、トバの横顔を見ていた。
去年の秋、ノエが読んで聞かせた返書の一行だった。言い直したところのほかは、一字も違っていない。
あの一行を、トバは一年のあいだ、ずっと口の中で繰り返してきたのだろうか。
書記は、しばらくトバの顔を見ていた。
「……館からの言付けは、わしのところへは何も来とらん」
トバの顎が、少しだけ下がった。
「だが、領主さまがご自分の手でそう書かれたのなら、名は聞いておく。書いたのは、なんという者だ?」
「ノエと申します」
書記は、帳面の頁を指で戻した。さっき、生き死にを確かめた頁だ。指が、行の上で止まる。
「ノエ。……ヨナスの家の者か」
書記の目が、卓の前に立っている父へ向いた。
「お前が書いたのか」
父の肩が、びくりと跳ねた。
「お、俺ですか。い、いえ、俺は、字は一つも……」
父は大きな手を、顔の前で何度も振った。それから、その手のまま振り返って、戸口を指さした。
「書いたのは、あいつです。……うちの、せがれです」
部屋じゅうの大人が、父の指の先を追って、戸口のほうへ振り返った。
人垣が、左右に割れていく。書記が入ってきたときと同じように、卓から戸口まで、一本の道ができた。
道の先に、ノエが一人で立っていた。隣にいたゲルダは、いつのまにか一歩うしろへ下がっている。
書記の目が、戸口までたどり着いた。
今度は、ノエの上を通り過ぎなかった。
◇
「ノエ、こちらへ」
書記に呼ばれて、ノエは人のあいだにできた道を歩いた。
土間の土を踏む自分の足音が、やけに大きく聞こえる。左右から、大人たちの目がついてくる。テッサの口は、押さえた手の下で開いたままだった。
ノエが卓の前まで来ると、父が半歩よけて、ノエの立つところを空けた。
書記は椅子に座ったまま、ノエを見上げた。書記の目は、ノエの顔を見て、細い首を見て、それからまた顔へ戻った。
「お前がノエか」
「……はい」
書記は、三枚目の紙をノエのほうへ滑らせた。宿のあたりの束から抜いた一枚だ。
「この束も、お前の字か?」
「はい。宿の主人さんが、近くの人たちの話を、欄の紙に書いて送ってくれます。それを、僕が役所に出す文字に移しました」
書記は、束の残りを指で一枚ずつめくった。紙の端が、乾いた音を立てる。
「宿のあたりの村で、ノーラの代筆屋、という名を何度か聞いた」
めくる指は、止まらない。
「どの書付も、名前、村、畑、四至、立ち会った者と、並びが一つも狂っとらん。字の大きさも、行の幅も、みな揃っとる。……だからわしは、どこかで長く書役を務めた年寄りが、ノーラに住みついたんだろうと思っとったんだが」
壁ぎわで、ボルドが、ふん、と鼻を鳴らした。笑ったのかどうかは、ノエにはわからなかった。
「……書役でも、年寄りでもないです」
ノエの声は、自分で思ったより小さかった。
「僕は、宿の主人さんの紙に書いてあることを移しただけです」
書記の目が、ノエの顔から下へ降りていく。卓の縁に置いた、ノエの右手のところで止まった。
中指の横の小さなたこ。爪の際の墨の染み。
書記は、自分の右手をノエの手の隣に置いた。
二つの手が、光った卓の上に並んだ。書記の中指は、たこのところで内側へ曲がっている。ノエの中指は、まっすぐだった。
「わしは、ようやく字が揃うようになったころには、中指がこう曲がっておった」
書記の声は、低いままだった。
「お前の指は、まだまっすぐだ。それで、十五枚と、この束を、全部同じ手で揃えて書いとる。移しただけの者に、ここまで揃った字は書けんよ」
ノエは、何か言おうとした。
宿の主人さんが、欄にきちんと書いてくれているからです。毎日、書いているからです。
どれを口にしても、書記の曲がった中指の前では、言い訳にしか聞こえない気がした。
ノエは、自分のまっすぐな中指を見下ろしたまま、黙っていた。
書記が小さく笑った。息が抜けたような笑い方だった。
「どこで覚えたかは聞かん。わしの帳面には要らんことだからな」
書記は筆を取ると、帳面の頁の端に、小さく何かを書きつけた。
逆さまの丸い文字だった。それでも、ノエには読めた。
自分の名前だった。
「この通り、名はわしの帳面に書いた。代官所へ持って帰る。館へ回すかどうかは、代官所が決めることだ」
書記は筆を置いて、箱のほうへ手を伸ばした。
「続きを読む。セルグ、前へ」
ノエは、人のあいだの道を戸口へ戻った。ゲルダが黙って、自分の隣を空けた。
◇
セルグは、腰をさすりながら卓の前へ出た。その背中を押すようにして、テッサもついてくる。
書記は、セルグの紙を卓の上に平らに置いて、読み上げはじめた。
「──ノーラ開拓村、セルグ。年季の満つるにより、ここに届け出る。……西は、デュラの畑に接す。境に、新しき杭を打つ──」
杭、と読まれたところで、テッサの手が宙に浮いた。
書記が、顔を上げた。
「相違ないか」
「ありません!」
テッサの声だった。部屋じゅうに響いた。
「杭は、去年打ち直したんです! あたしが二本引いて、向こうも二本引いて、それで、ちょうど──」
「……セルグは、どれだ」
書記の目は、テッサの顔を見ていなかった。テッサの隣を見ていた。
セルグが、腰をさすっていた手を、そのまま肩の高さまで上げた。
「……わしです」
「相違ないか」
「……ねえです」
書記の筆が、帳面の上で動いた。
「受けた」
テッサは、自分の口を両手で押さえた。押さえたまま、トバに首根っこを掴まれて、壁ぎわへ下げられていく。
そこから先は早かった。
書記が名を呼ぶ。呼ばれた者が、前へ出る。書記が紙を読み上げて、「相違ないか」と聞く。
「ありません」
「……ねえ、と思います」
「思います、では困るのだが」
「ね、ねえです!」
書記の左手の脇に、受けた紙が一枚ずつ重なっていく。ノエは戸口の柱の脇で、その数を数えていた。数えなくても、次に呼ばれる名前はわかっていた。
「ボルド。前へ」
壁ぎわで、ボルドの腕組みがほどけた。
ボルドは大きな体で人のあいだを抜けて、卓の前に立った。団子鼻の先が、もう赤い。
「──北は、道の突き当たりに接す。南は、沢に接す。西は、セルグの畑に接す。東は、村の置場に接す。四隅に杭を打ち、これを境の印とす──」
杭、のところで、ボルドの首が少しだけ縮んだ。
書記は、何も言わずに最後の行まで読んだ。
「相違ないか」
「ねえ!」
ボルドの声が、梁まで届いた。
書記が、顔を上げた。ボルドの赤い鼻を、しばらく見ている。
「……受けた」
ボルドは、くるりと背中を向けた。壁ぎわへ戻るまで、ボルドは一度も、戸口のノエのほうを見なかった。
◇
箱の中には、紙が一枚だけ残っていた。
ノエは、その一枚の端を知っていた。ほかの紙より、少しだけやわらかくなっている。
書記は最後の一枚を取り出して、卓の上に平らに置いた。
「──ノーラ開拓村、ドゥガの畑。帳面の名、ドゥガ。届け出る者、ゲルダ──」
ノエの隣で、ゲルダの小さな体が固くなった。
書記は四至を読み、立ち会った者の名を読んだ。最後の一行に来て、書記の指が止まった。
「──いずれとも定まらぬあいだは、動かさぬ」
書記は、その一行を読んだあと、しばらく黙っていた。
「……この一文は、領主さまの裁定だな」
「は。さきほど申し上げた、領主さまの返事にあったものでございます」
トバが答えた。
書記は、紙の上の一行を、指でもう一度なぞった。
「行方の知れん者の畑は、行方が知れるまで動かさん。この裁定は、管内の先例として、代官所に回ってきとる」
トバの顎を撫でていた手が、止まった。
「……よその村の畑まで、でございますか」
「同じような畑の届けを、わしも、この裁定に沿って何度か受けた」
書記は紙から目を上げて、トバを見た。
「あの裁定が出たのは、この村の畑だったか」
「……は」
「道理で、言付けがわしに届いとらんわけだ。代官所に回ってきたのは、裁定の中身だけだ。領主さまの手書きのところまでは、回ってこんからな」
トバの顎を撫でる手が、ゆっくりと動きはじめた。
書記は、届け出る者の名のところに指を置いた。
「ドゥガの、倅の名は」
「ドランと申します」
トバの声が、少しだけ低くなった。
「……ドランか」
書記は、閉じた帳面の表紙に手を置いた。
顎をさすり、視線が斜め上を向く。
「館の前の広場に、板があるのだ。人探しやら物探しやらの紙を貼るためのな。貼られた紙は、館の書役が写して綴じて、管内ごとに代官所へ回す」
「……では、ドランの紙も、その綴じに」
「去年の綴じに、ドランに宛てた紙の写しがあった」
ノエの親指が、人差し指の横で止まった。
ドランに宛てた紙。ゲルダの言葉を、ノエが書いた手紙だ。カルスが都まで運んで、板に貼った。
書記は、表紙の上で指を一本折った。
「その写しの端に、書役が書き添えをしとった。領主さまのお言いつけにより、この紙は剥がさずに残す、と」
もう一本、指が折れる。
「上に別の紙を貼られんよう、四隅に釘を四本足した」
三本目。
「春の市が立つ前には、同じ紙をもう一度貼り直した。……そう書いてあった」
書記は、指を開いた。
「写しにそんな書き添えがあるのは、ほかに見たことがない。だから、覚えとった」
ノエは、カルスの話を思い出していた。
去年の秋、カルスは都の板をもう一度見に行った。板は三日で埋まるのに、ドランに宛てた紙の上には、何も貼られていなかった。紙の四隅には、釘が四本増えていた。その四本だけ、錆びていなかった。
あの釘を打ったのは、館の書役だったらしい。
ノエの知らない誰かが、ノエの書いた紙を、板の上に残してくれていた。
ゲルダの目が、戸口の外へ向いていた。
開け放した戸口の向こうに、村の道が見える。道は門を抜けて、坂の下へ続いている。
「ゲルダ。前へ」
書記に呼ばれても、ゲルダはすぐには動かなかった。
ゲルダは道の先から目を戻すと、前掛けで手を一度拭いた。それから、人のあいだの道を、小さな体で歩いていった。
卓の前に立つと、ゲルダの頭は、座っている書記の頭とほとんど変わらない高さだった。
書記は、ゲルダの顔をまっすぐに見た。
去年、畑を見に来た代官は、ゲルダと一度も目を合わせなかった。答えたのは、若い従者だった。
──帳面にございません。
──あたしの畑だよ。
「相違ないか」
ゲルダの手が、前掛けの端を握った。
「……ないよ」
小さな声だった。けれど、戸口のノエのところまで、ちゃんと届いた。
書記はひとつうなずくと、筆を墨につけて、帳面に書きこんだ。それから、最後の一枚を、左手の脇の紙の上に重ねた。
「受けた」
壁ぎわで、ボルドが天井を見上げた。春が来るたびにゲルダの畑を起こしてきた男は、そのまま、しばらく顔を下ろさなかった。
ゲルダが、ゆっくりと戸口へ戻ってくる。
ノエの隣に立つと、ゲルダはノエの袖をつかんだ。この朝、ノエを自分の隣に立たせたときと同じ手だった。
今度は、引かなかった。つかんだまま、ゲルダの指はなかなかほどけなかった。
「……あの子に宛てた紙、まだ都の板に貼ってあるんだってさ」
ゲルダは、戸口の外の道の先を見ていた。
「釘を、四本も足してさ」
ノエは、袖をつかむゲルダの指を、ほどかなかった。
会ったこともない書役の手を、ノエは思い浮かべた。その人の中指も、この書記と同じように曲がっているのだろうか。
◇
書記は、左手の脇の紙を、そろえて持ち上げた。
ノーラの十五枚の上に、宿のあたりの束を重ねる。それから、さっきほどいた細い麻の紐を、二つの束ごと十字にかけた。
同じ手で書かれた紙が、一つの束になった。
「判は、代官所で捺す。捺した届けは、追って村へ戻す」
書記は束を革の袋に入れると、帳面と墨の壺と筆を外套の内へしまった。
テッサが、壁ぎわから身を乗り出して、我慢しきれないように口を開いた。
「それじゃ、うちの畑は──」
「届けはわしが受けた。判が捺されれば、お前たちの畑だ」
書記はそれだけ言って、立ち上がった。
書記が戸口をくぐると、大人たちは左右に分かれて頭を下げた。ノエもゲルダと一緒に、柱のほうへ体を寄せた。
外で、書記は馬の腹帯を締め直した。馬の首を、手のひらで二度叩く。手綱を取ると、書記は馬に乗らずに、引いて歩きだした。
大人たちは、戸口の外でそれを見送っている。
ノエは、少し離れて、そのあとを歩いた。父に言われたとおり、走らなかった。
村の道を、書記と馬がゆっくり下っていく。どの畑でも、白っぽい穂が揺れていた。土に刺したまま置き去りにされた鍬が、畑の端に何本も立っている。
門の柱のところで、書記は足を止めた。あぶみに片足をかけてから、書記は振り返った。
ノエは、門の手前で立ち止まった。
「ノエ」
今朝、生き死にを確かめたときは、顔も上げずに呼ばれた名前だった。今は、書記の目がノエの顔にある。
「領主さまが、ご自分の手で、書いた者の名を申し出よと書かれた。わしは長く巡回をしとるが、そういう話は聞いたことがない」
書記は、あぶみに足をかけたまま言った。
「お前の名が代官所から館へ回れば、領主さまの館から、お前に呼び出しがかかるかもしれん。……覚えておけ」
「……呼び出し、ですか?」
「かもしれん、だ。館のことは、わしにもわからんからな」
書記は、馬の背に体を上げた。
蹄が、ぽく、ぽく、と坂を下りはじめた。
灰色の外套の、色の抜けた肩が、坂の下で小さくなっていく。外套は、一度も振り返らなかった。やがて、蹄の音も聞こえなくなった。
ノエは、門の柱の脇に立っていた。
風が、穂の上を渡っていく。うしろの村は、しんとしていた。誰の声もしない。森の端のほうで、鳥が一羽、短く鳴いた。
しばらくして、村のほうで、鍬の音が一つ鳴った。置き去りにしていた鍬を、誰かが拾ったのだろう。少し遅れて、もう一つ。
ノエは、自分の右手を見下ろした。
まっすぐな中指。小さなたこ。
館。領主さまの館。
ドランに宛てた紙を、四本の釘で、板の上に残してくれた館だ。
その館で、今度は誰かが、ノエの名前を読むのかもしれない。
風がもう一度渡って、門の脇の穂が、書記の下っていった坂のほうへ、そろって傾いた。




