48話
灰色の外套を纏った男が、門をくぐり馬の足をゆるめた。
馬は、ノエたちの畑の脇を歩いてくる。乾いた土の上で、蹄が、ぽく、ぽく、と鳴った。
馬の背の男は、手綱を片手に持ったまま、畑のほうへ顔を向けていた。白っぽい穂の先が、馬の腹のあたりで揺れている。男は穂を見ていた。それから、曲がった畝を見た。株をよけて、父が引いた畝だ。
ノエは、その顔を覚えていた。去年も、その前の年も、穂が出るころに見た顔だった。
頬がこけて、日に焼けている。髪には白いものが混じっていた。外套は肩のところだけ色が抜けて、薄くなっている。裾には、乾いた泥が筋になってこびりついている。
去年、畑を見に来た代官の外套には、泥が一つもついていなかった。
馬が父の前で止まった。
「馬に水をやりたい。井戸は、前のところか」
男の声は低くて、少しかすれていた。
父は鍬を畝の脇へ寝かせて、頭を下げた。
「……はい。村長の家の、手前です」
男は小さくうなずいた。それだけで、馬はまた歩きだした。蹄の音が、村の奥へ遠ざかっていく。
父は、下げていた頭をゆっくりと上げた。それから、ノエを見た。
「ノエ。お前は、歩いて来いよ。走るんじゃないぞ」
「……走りません」
「そうか」
父は口の端で笑うと、鍬を拾って、家のほうへ駆けていった。母を呼びに行くのだろう。
ノエは、畑のあいだの道を歩いた。
どの畑も、穂が出そろっていた。風が渡るたびに、白っぽい穂の先が、同じほうへそろって傾く。傾いて、また起き上がる。テッサの畑でも、デュラの畑でも、穂は同じように揺れていた。
畑の端には、鍬が何本も土に刺したまま置き去りにされていた。
村の奥から声が上がる。
「来たよ! 書記さまだよ!」
テッサの声だった。姿より先に声が届いた。
井戸のそばで、灰色の外套が馬の首を撫でていた。馬は桶に鼻先を沈めて、水を飲んでいる。
ノエはその脇を通り過ぎた。書記は、こちらを見なかった。
◇
トバの家の戸口には、もう人があふれていた。
二十人あまりの大人が、一つの部屋に詰めこまれている。汗の匂いと、土の匂いがした。みんな、畑からそのまま来たのだろう。手の土を、服の裾で払っている。
部屋のまん中に、村でいちばん大きな卓がある。卓は、今朝も磨き込まれた艶に光っていた。その卓の上に、蓋のついた木の箱が一つ置いてある。
トバは卓の端に立って、袖で卓の縁を拭いていた。光っているところを、何度も繰り返し拭いている。
ノエは、戸口の柱の脇で足を止めた。中へ入る隙間が、もうない。
戸口のすぐ内側に、ゲルダがいた。ゲルダは小さな体を一歩ずらすと、ノエの袖を引いて、自分の隣に立たせた。何も言わない。ゲルダの前掛けから、干し肉を燻した煙の匂いがした。
卓の向こうでは、テッサが背の高い体を折り曲げて、デュラの耳もとへ顔を寄せていた。声をひそめているつもりらしい。けれど、戸口のノエのところまで、よく聞こえる。
「ねえ。畑のことを聞かれたら、なんて言やいいんだい?」
「……変わりない、だろ。毎年そう言っとる」
「変わったじゃないか! 去年、杭を打ち直したろ。あんたが二本引いて、あたしが二本引いて」
「あれは、お前のほうが先に……」
デュラは何か言いかけて、口を閉じた。
「なんだい?」
「……なんでもない」
テッサの手が、宙で二度、行ったり来たりした。それから、テッサは自分の口を押さえた。
壁ぎわでは、ボルドが腕を組んでいた。ボルドの目は、卓の上の箱から動かない。
人のあいだを縫って、父と母が入ってきた。母は前掛けを外していない。母の手は、井戸の水でまだ赤かった。
母は部屋を見回して、戸口のノエを見つけた。
「ノエ。そこにいな」
母は顎で、ゲルダの隣をさした。ノエはうなずいた。
戸口の外で、馬が鼻を鳴らした。
ノエのいる戸口の柱の脇からは、外の様子が見える。書記が、馬を引いて歩いてきたところだった。馬の口もとから、水が滴っている。書記は鞍から膨らんだ革の袋を下ろすと、馬の腹帯をゆるめた。それから、馬の首を手のひらで軽く叩いた。急いでいる手つきではなかった。
部屋の中は、誰も喋らなくなった。
窓から差しこむ日の筋の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
テッサは口を押さえたままでいる。デュラは自分の足もとを見ている。セルグは、腰をさすっていた手を止めていた。
ノエは、卓の上の箱を見た。
箱の中の十五枚を、ノエは頭の一行から最後の名前まで、全部言える。いちばん上がヨナス。二枚目がセルグ。ゲルダの一枚には、領主の返事の一文が添えてある。
言えるのに、ノエの指は、さっきから人差し指の横をなでていた。
書記が、革の袋を提げて、戸口のほうへ歩いてきた。
◇
書記が戸口をくぐると、ノエとゲルダは柱のほうへ体を寄せた。部屋の大人たちも左右に分かれて、卓までの道ができた。
書記の外套が、ノエの肘をかすめる。乾いた泥の匂いがした。
トバが、自分の座るはずの椅子を引いて、書記に譲った。
書記は椅子に腰を下ろして、革の袋を卓の下に置く。それから、外套の内から帳面を出した。厚い帳面だった。角がすり切れて、丸くなっている。小さな墨の壺と、筆を一本。書記はそれを、卓の上に並べた。
書記の手が、帳面の頁をめくった。
ノエは、その手を見ていた。
書記の右手の中指は、たこのところで、少し内側へ曲がっていた。たこは固く盛り上がって、黄色くなっている。指の皺の一本一本に、墨が入りこんでいた。洗っても、もう落ちないのだろう。
ノエは、自分の右手を見下ろした。
同じところに、たこがある。けれど、ノエのたこはまだ小さくて、指で押せばへこみそうだった。ノエの中指は、まっすぐだった。
書記は帳面の行を指でたどりながら、名を一つずつ読み上げはじめた。
「ヨナス」
「おります」
父の声だった。
「マイラ」
「おります」
「ノエ」
「……います」
書記の筆が、帳面の上で小さく動いた。書記は、顔を上げなかった。
去年も、その前の年も、こうだった。名を呼んで、返事を聞いて、うなずいて、次の名を呼ぶ。生きているか、死んだか。書記が聞くのは、それだけだった。
「ゲルダ」
「おるよ」
ノエの隣で、ゲルダが小さな体から声を張った。
名前は、続いた。セルグ。テッサ。デュラ。ボルド。ボルドの「おる」は、いつもの声より低かった。
最後の名を呼び終えると、いつもの年なら、書記は帳面を閉じる。筆を拭いて、壺に蓋をして、外の馬のところへ戻っていく。
今年の書記は、帳面を閉じなかった。
「……この村は、今年で年季が明けるな。届けは、揃っとるか」
誰も、返事をしなかった。
テッサが、デュラの袖を引いた。デュラは、自分の足もとを見たままだった。
トバが、ごほん、と咳をした。
「は。こちらに」
トバは両手で、箱を書記のほうへ押した。光った卓の上を、箱はするすると滑っていった。
書記は、箱を見た。それから、トバの顔を見た。
書記の左手が、箱の蓋を取った。
書記は、いちばん上の紙を指先でめくった。二枚目。三枚目。書記の指は、箱の底のほうまで、一枚ずつ紙をめくっていった。どの紙でも、終わりのほうの行で、書記の指が止まった。
「……縄張り屋の名がないな」
書記が、顔を上げた。
「どこの縄張り屋を呼んだ」
「呼んでおりません」
トバは、顎を撫でた。
「村の者で、棒を倒して測りました」
書記は、しばらくトバの顔を見ていた。それから、箱の中へ目を落とした。
「揃わん村も、毎年ある」
書記の声は、さっきと同じ低さだった。
「開拓の村で、自分らで測った届けが出てきたのは、初めてだ」
トバの顎が、少しだけ上がった。
書記は、もう一度だけ箱の中を見下ろした。
「畑ごとに読む。名を呼ばれた者は、前へ」
◇
書記は、いちばん上の一枚を取り出した。
ヨナス、と書いた紙だ。
書記は紙を卓の上に平らに置いて、頭の一行に指を当てた。指が、丸い文字の上を滑っていく。
ノエは息を止めて、その指を見ていた。
止まるとしたら、境の言葉のところだろう。写しの束を一つずつ確かめながら移した言葉だ。
書記の指は、止まらなかった。名前の行も、境の行も、立ち会いの行も、同じ速さで滑っていった。最後の行まで来て、指が紙から離れた。
ノエは、止めていた息を吐いた。
書記が、紙を読み上げはじめた。
「──ノーラ開拓村、ヨナス。年季の満つるにより、ここに届け出る」
硬い声だった。ノエの書いた丸い文字は、書記の声になると、もっと硬く聞こえた。
「──四至。北は、村の道に接す。南は、沢の曲がりに接す。西は、門の柱より、坂の肩に至る──」
硬い言葉のあいだに、ときどき、聞き慣れた言葉がまじる。
村の道。沢の曲がり。門の柱。
去年の夏、父が棒を倒しながら、口にしていた言葉だった。
卓のそばに立っている父の背中が、少しだけ動いた。
書記は東の境を読み、立ち会った者の名を読んだ。トバ、と読んだところで、トバの顎を撫でる手が止まった。
書記が、顔を上げた。
「ヨナス。前へ」
父が、人のあいだを抜けて、卓の前へ出た。
父は大きな手のひらを、腿のところで二度ぬぐった。それから、両手を体の脇に下ろした。下ろした指の先が、少し開いたり閉じたりしている。
──あれは、土地を持っとる者の話だ。
いつか父がそう言っていたのを、ノエは覚えていた。元の村で、父は書記の前に出たことが、一度もなかったのだろう。継ぐのは、兄だったから。
ノエは、父の手を見ていた。
太い指だった。爪が割れて、割れたところに土が入っている。入った年、ボルドと二人で株を抜いた手だ。石を拾って、畝を引いて、毎朝、麦の茎をつまんできた手だ。
ノエは、柱をつかんでいる自分の手に目を落とした。
ノエの手には、中指の横の小さなたこと、墨の染みしかない。
書記は、父の顔を見上げた。
「相違ないか」
父の喉が、ごくりと鳴った。
「……そ、相違……」
父の声が、そこで止まった。部屋じゅうが、父の次の一言を待っていた。テッサでさえ、口を開けたまま黙っている。
「……ありません」
書記は、ひとつうなずいた。筆を墨につけて、帳面のヨナスの名の横に何かを書いた。生き死にを聞いたときより、筆が長く動いた。
書記は、ヨナスの紙を自分の左手の脇へ置いた。
「受けた」
それだけだった。
壁ぎわで、ボルドの組んでいた腕がほどけた。
父は、しばらく卓の前に立っていた。それから、父はゆっくりと振り返った。
父の目が、人の頭の上を越えて、戸口まで来た。戸口の柱の脇にいるノエのところで、父の目が止まった。
「……ノエ」
父は、ほかの誰も見ていなかった。
「お前の書いた紙で、うちの畑になるんだな」
ノエは、答えようとして口を開けた。
何も、出てこなかった。
ノエは、うなずいた。うなずいたまま、顔を上げられなかった。
戸口から差しこんだ日が、足もとの土間に落ちていた。日の中に、畑の土が点々と散っている。村の大人たちが、足の裏につけて運んできた土だ。戸口から卓のほうへ、父の大きな足あとが続いていた。
ノエの足のまわりにだけ、畑の土が落ちていない。
鍬を十回振れば、息が上がった。毎晩、母はノエのために霧草を煎じている。霧草を採りに行くのは、一日がかりだ。リックの村へ行こうとした日は、道の半ばで膝が折れて、父の背中で帰ってきた。
父の足あとが、にじんだ。
──よかった。
ノエの頭に浮かんだのは、それだけだった。
やっと、返せたのかもしれない。いつも何かを置いていってくれる村の人たちに。いちばん近くで、ずっと待っていてくれた二人に。
ノエは、泣きそうだった。声を出したら、きっと泣いてしまう。ノエは唇を噛んで、戸口の柱の木肌をつかんだ。
母が、父の脇腹を肘でつついた。
「……なんだ」
「なんでもないよ」
母は、窓の外を見ていた。窓の外で、白っぽい穂が揺れている。母は前掛けの端で、目の下をこすった。
「……この家は、埃っぽいね」
トバが、はっとしたように卓を見下ろした。卓は、今朝も光っている。トバは袖で、光っているところを、もう一度拭いた。
父が、母の隣へ戻った。戻るとき、父の大きな手が、母の背中に一度だけ触れた。
窓から差しこむ日の筋の中で、埃はまだ、ゆっくりと舞っていた。
◇
書記は、箱から二枚目を取り出した。
セルグ、と書いた紙だ。
書記は紙を平らに置いて、頭の一行に指を当てた。
今度は、指がすぐに止まった。
書記は、左手の脇に置いたヨナスの紙を取って、セルグの紙の隣に並べた。二枚の頭の一行を、指でかわるがわるたどる。
頭の一行は、どちらも同じだ。ノエはもう、片眼鏡を掛けずにその一行を書ける。筆の運びも、線の太いところも、細いところも、十五枚とも同じになっているはずだった。
書記は、卓の下に置いた革の袋へ手を伸ばした。
袋の中から出てきたのは、紙の束だった。細い麻の紐が、十字にかけてある。書記は紐の結び目に指を入れて、一度ひねった。紐が、するりとほどけた。
書記は束から一枚を抜いて、二枚の隣に並べた。
三枚の紙が、卓の上に並んだ。
ノエは、三枚目の紙から目が離せなかった。
丸い文字だった。名前。村。畑。四至。立ち会った者。行の並びを、ノエは知っていた。
冬から春にかけて、宿の主人の太い字の欄の紙から、ノエが一枚ずつ移した書付だった。
書記の指が、三枚の頭の一行を、順にたどっていった。一枚目。二枚目。三枚目。
「……同じ手だな」
書記の口から、小さな声がもれた。
書記が、初めて部屋を見回した。
書記の目は、卓のそばのトバを見て、壁ぎわのボルドを見た。テッサを見て、デュラを見た。父と母を見た。一人ずつ、大人の顔をたどっていく。
書記の目は、戸口まで来た。戸口の柱の脇にいるノエの上を、そのまま通り過ぎて、トバの顔へ戻った。
トバが、ごほん、と咳をした。
トバは顎を撫でていた手を下ろすと、背筋を伸ばした。
「書記さま。その字を書いた者のことで、村長として、申し出ることがございます」
書記の指が、三枚の紙の上で止まった。




