47話
読んでくださっている方、すみません。
遅くなりました。
いつもありがとうございます。
穂は、朝ごとに肥えていった。
父は日が昇ると畝のあいだにしゃがんで、麦の茎を一本ずつ指でつまんでいく。最初の一本が出た朝から、父が首を横に振ることはなくなった。青い葉のあいだから、白っぽい穂の先が、あちこちでのぞいている。
「ノエ。今朝は、向こうの畝にも出とるぞ」
父は畝のあいだから顔を上げて、戸口のノエを見た。父の指の先で、麦の葉の露が光っていた。
「出そろうまで、あと、どのくらいですか?」
「さあな。……雨が一つ来りゃ、すぐだろうな」
父はそう言って、また次の茎をつまんだ。
小屋の卓の上には、トバから預かった箱がある。書き直した紙が箱の中に重なって、箱の底は、もうすぐ見えそうだった。
◇
その人が坂を上ってきたのは、二日後の昼前だった。
女の人だった。頭を布で包み、袖を肘までまくっている。背は母より高く、ずっと痩せていた。腰には、小さな布の袋を下げている。
女の人は門の前まで来ると、足を止めた。両手を前で重ねて、深く頭を下げる。
「……あの。こちらが、聖さまのおうちでしょうか」
ノエは戸口で、手に持っていた筆を落としかけた。
「聖さまでは、ないです。……ノエです」
「じいさまの年貢まで、なんとかしてくださったっていう?」
「じいさまの紙は僕が書きましたけど、まだ、通るかどうかわかりませんよ」
女の人は、頭を上げた。口もとに、そっと手を当てている。
「じいさまも、そう言うとりました。聖さまは、決して通るとは言いなさらん、って」
ノエは口を開けて、それから閉じた。ノエが何を言っても、同じところへ戻ってくる気がした。
井戸のほうから、母が前掛けで手を拭きながら歩いてきた。
「どこから来たんだい?」
「宿の向こうの村です。バズの坊の、向かいの家のもんで。坊に、道を聞いてきました」
母は柄杓で椀に水を汲んで、向かいのおかみさんに渡した。それから、母はノエの顔を見た。
「ノエ。座ってもらいな」
「はい」
◇
おかみさんは、戸口の前の椅子に腰を下ろした。
かたん。
椅子の短い脚が鳴った。おかみさんは小さく肩を跳ねさせて、自分の足もとを見下ろした。口もとでふと笑う。
「……あ。うちの椅子も、一本だけ短いんです」
おかみさんはそう言って、そのまま座り直した。
ノエは椅子の前の、藁の丸に膝をついた。
「バズの坊と同じ紙を、あたしにも書いてもらえんでしょうか?」
おかみさんは、椀を両手で包んだまま言った。
「年貢の紙です。うちも奥の一枚が、今年は起こせとらんので」
「帳面の名前は、どなたですか?」
「うちの人です」
「手前の畑は?」
「あたしと、子どもらとで、蒔きました。奥までは、手が回らんで」
「ご主人は……」
「川向こうの、渡しにおります。荷を担いどるんです」
おかみさんは、椀の水を一口だけ飲んだ。
「奥は、森の端にくっついとる畑なんです。村の者はみんな、あそこはやめとけって言うたんです。日が、昼過ぎまでしか当たらんて」
おかみさんは、椀の縁を指でなぞった。
「けど、うちの人は、起こしゃ畑だって聞かんで。……やっぱり、何年起こしても、麦が太らんのです」
「年貢は、帳面の広さで……」
「ええ。奥のぶんの年貢も、手前の麦で納めんならん。去年それを納めたら、食べるぶんが、冬までもたんようになって」
困ったようにこめかみを掻いている。
「手放しゃ軽うなるって、村長さんは言いますけど。帳面は、うちの人の名前なんで。あたしが決めてええもんじゃないんです」
おかみさんの手の中で、椀が止まった。
「足りんぶんは、銭で麦を買うって。それで、うちの人、冬のあいだ稼ぎに出たんです。春には戻るって言うとったのに。渡しは、雪が解けると荷が増えて、稼ぎどきなんだそうで。夏まで稼いでくるって、宿の人に言伝てがあったきりで」
ノエは、おかみさんの手もとを見ていた。おかみさんの指の先が、ところどころ固く光っている。
「バズの坊とこと、同じなんです。奥のぶんさえ冬の普請で払えたら、手前の麦で、食べていけると思うんです」
「バズさんに書いた紙は、冬の普請に出る人が、自分で願い出るものなんです」
「……あたしが出られりゃ、ええんですけど」
おかみさんは、自分の手を見下ろした。
「子どもらを置いて、雪ん中を何日もっていうわけには」
「ご主人なら、出られるかもしれません。でも、ご主人の冬のことは、ご主人に聞かないと書けません」
おかみさんは、口もとに手を当てて、小さく笑った。
「うちの人がおったら、あたしが来んでも、自分で頼みに来とったでしょうに」
笑った顔のまま、おかみさんは門のほうを見た。坂の下へ、道が細く伸びている。
ノエの親指の腹が、人差し指の横を、一度、二度となでた。
「……おかみさん。ご主人に、手紙を書きませんか?」
「手紙?」
おかみさんの目が、門からノエへ戻ってきた。
「うちの人は、字なんか読めませんけど」
「渡しには、荷札があります。荷札を書く人なら、読めるんじゃないかと思います」
「川向こうへ、行ったことがおありなんですか?」
「ありません。でも、荷札で名前を見たことがあるんです」
ノエは、宙に指で字をなぞった。
「ドーゼ、っていうみたいです」
「……ドーゼ」
おかみさんは、知らない言葉を口の中で転がすように、もう一度言った。
「あそこに、そんな名前があったんですね」
おかみさんは、しばらく門の外を見ていた。それから、空になった椀を膝の上に置いた。
「……お願いします。書いてください」
◇
ノエは卓へ移って、紙を広げた。戸口は開けたままにしておいた。
おかみさんは椅子に座ったまま、戸口の脇に目をやった。戸口の脇には、母の繕い物の籠が置いてある。籠のいちばん上に、父のシャツが畳んであった。鍬を振るたびに突っ張る肘のところが、すり切れて白く透けている。
「あの……それ、繕わせてもらえんでしょうか」
母が、井戸の脇から振り向いた。
「いいよ、そんなの。うちのだよ」
「書いてもらうぶんです。銭は、持っとらんのですが、針なら持ってきとりますんで」
おかみさんは腰の袋から針を出すと、もう糸を通していた。母はしばらく、おかみさんの手を見ていた。それから井戸の脇から歩いてきて、黙って籠を椅子の横へ寄せた。
「手紙には、何と書きますか?」
ノエが聞いた。
おかみさんの針が、シャツの肘に入った。
「……そうですね」
すっ、すっ、と糸が布を抜けていく。おかみさんのひと針ごとに、間がそろっていた。
「奥のところは、今年は起こせんかった」
ノエは、言われたとおりに書いた。角ばった文字で、一行目。
「向かいのバズの坊は、奥のぶんの年貢を、冬の普請で払うことになったよ。お役所が、それでええって」
おかみさんの針は、止まらない。ノエは二行目を書いた。
「あんたも冬に、こっちの普請に出たら──」
おかみさんの針が、布の手前で止まった。
それから、すぐにまた布へ入った。
「奥のぶんは、それで払えるかもしれん。手前の麦は、食べるぶんに回せる」
ノエは三行目を書いた。
「……用件は、それだけです」
ノエは三行を、頭から読んで聞かせた。おかみさんは、針を動かしながら聞いていた。最後まで聞くと、おかみさんは糸の端を歯で、ぷつりと切った。
「それで、ええです」
おかみさんは、繕い終えたシャツを膝の上で広げた。肘のところに、小さな縫い目がまっすぐ並んでいる。
その縫い目を、おかみさんは親指でなでた。
「……うちの人も、肘から抜けるんです。シャツが」
おかみさんの親指が、縫い目の上で止まった。
「この春は、繕うもんが、なくって」
ノエは筆を持ったまま、待った。
墨が筆の先にたまって、皿の縁へ一滴落ちた。
「……一つ、足してもらえますか」
おかみさんは、シャツを畳みはじめた。袖を折って、身ごろを折って、もう一度、袖を折る。
「帰ってきて、って」
ノエは、四行目を書いた。
──帰ってきて。
四行目の字は、ほかの三行より、少しだけ大きくなった。
「ご主人のお名前を、教えてください」
おかみさんが言った名前を、ノエは宛名の行に書いた。その下に、ドーゼ、と書き足す。
「運び賃は、どうしたら……」
「ハンナさんが、次に来たときに運びます。……運び賃は、必ず取られます」
「荷馬車の娘さんですね。じいさまを、乗せてきてくれた」
おかみさんは腰の袋から、小さな布の包みを出した。
「干した茸です。森で採ったもんで。これで、足りるでしょうか」
「足りるかどうかは、ハンナさんが決めます。でも……ハンナさんは、食べ物で払われるのは、嫌いじゃないと思います」
おかみさんは、また口もとに手を当てた。
おかみさんは、畳んだシャツを籠のいちばん上に戻した。シャツは、前より、ずっと平たく畳んであった。
おかみさんは門の前まで行くと、もう一度ノエのほうへ向き直った。
「今度は、うちの人と来ます。うちの人の紙は、うちの人の口で、頼ませますんで」
おかみさんは、門の外の坂を見下ろした。
「聖さまの紙なら、通りますから」
ノエが何か言うより先に、おかみさんは深く頭を下げた。
坂を下りていくとき、おかみさんは一度だけ坂の途中で振り返った。振り返って、もう一度頭を下げた。
母は籠のそばに立って、いちばん上のシャツを持ち上げた。母は肘の縫い目を、日に透かして見ている。
「……あたしより、ずっと目がそろってるね」
母はノエを見て、口の端だけで笑った。それから、母はシャツを籠に戻した。
ノエは卓へ戻って、書いたばかりの手紙を見下ろした。
四行目だけが、ほかより大きい。
ノエは書き直そうかと思って、筆を取った。墨をつけて、紙の上で筆を止めて、それから筆を置いた。
◇
ノエは手紙を四つに畳んで、卓の端に置いた。手紙は、ハンナの次の便を待つことになる。
その晩、ノエは箱から最後の一枚を出した。
ノエは片眼鏡を掛けて、元の紙の角ばった文字を、丸い文字に直していく。名前。帳面の名。四至。立ち会った者。頭の一行は、もう見なくても書ける。境の言葉だけは、片眼鏡で写しの束を一つずつ確かめた。
最後の行を書き終えて、ノエは片眼鏡を外した。
灯りの芯が、二つに見えた。
ノエは目を閉じて、しばらく指で瞼を押さえていた。もう一度目を開けると、芯は一つに戻っていた。
ノエは最後の一枚を、書き直した紙の上に重ねた。これで、十五枚。箱の底は、もう見えなかった。
◇
あくる朝、父は繕い物の籠から、いちばん上のシャツを取って袖を通した。
父は鍬を担いで、ノエと一緒に家を出た。ノエは箱を両腕で抱えている。父は東はずれへ、ボルドの畑を手伝いに行く。ノエは、その先のトバの家へ行く。
どの家の畑にも、白っぽい穂の先がのぞいていた。テッサの畑にも。デュラの畑にも。ゲルダの家の裏からは、今日も細く煙が上がっている。
東はずれまで来ると、畑の向こうの端で、ボルドが鍬を振っていた。
この春、ボルドと父が両端から起こした畑だ。ノエも、ここで石を拾った。
その一枚にだけは、麦が一本もない。黒い土の畝が、傾いた杭のあいだに並んでいる。秋に麦を蒔くまで、この一枚は土のままだ。
ボルドの鍬が、振り上げたところで止まった。ボルドの目は、父の腕に向いていた。
「おい、ヨナス。なんだ、その肘は」
父は腕を曲げて、自分の肘を見た。父は肘を顔の前へ持ち上げて、縫い目をしげしげと見た。
「……こんなに、きれいに縫ってあったか?」
「きのう来られたおかみさんです。書き賃に、って」
ノエが言うと、父は、肘の縫い目とノエの顔を、二度見比べた。
「……ノエの書き賃を、俺が着とるのか」
ボルドが、ぶはっと吹き出した。ボルドの笑い声は大きくて、畑の向こうの森まで届きそうだった。ノエは、箱を抱えたまま口を押さえられなかった。肩だけが揺れた。
ボルドは笑いを鼻の奥へ押しこむと、鍬を肩に担いで、畦をこちらへ歩いてきた。ボルドの目が、今度はノエの抱えている箱に向いた。
「で、そっちは。届けか?」
「トバさんに、返しに行くところです」
ボルドは、箱の蓋を見下ろした。蓋の下の紙は、ボルドには見えない。見えても、ボルドには読めない。
「……おれのも、入っとるんだろうな」
「入っています」
「東はずれも、か?」
ボルドの目が、箱からノエの顔へ移った。
「去年測ったとおりに、書きました。四本の杭のとおりに」
「……杭が傾いとることは、書いとらんだろうな」
「書いてません」
ボルドは、鼻から長く息を吐いた。それから鍬を担ぎ直して、ノエに背を向けた。
「……よし」
ボルドの声は大きかった。ボルドは振り返らずに、畝のほうへ戻っていった。父は、ノエの肩を一度だけ軽く叩いてから、ボルドのあとを追った。
◇
トバの家の卓は、今朝も光っていた。
ノエが箱を置くと、トバは蓋を開けて、いちばん上の一枚を取り上げた。トバは顎を撫でながら、紙を目から遠ざける。近づける。また遠ざける。
「……ノエ。これは、なんと書いてある?」
「ヨナス、です」
「うむ。ヨナスだな」
トバは二枚目を取った。じっと見て、それからトバは黙って紙をノエのほうへ向けた。
「セルグです」
「うむ。……うむ」
トバは、三枚目を取らなかった。トバは二枚を箱へ戻して、蓋の上に両手を載せた。
「わしには、一つも読めん」
トバは、少しだけ口をとがらせた。
「……書記さまなら、読めるんだろうな」
「読めるように、書きました」
トバは、ごほん、と咳をした。それから、トバは卓の上でしばらく指を組んでいた。
「ところで、ノエ」
トバは、ノエの目をまっすぐに見た。
「あの返事に、書いてあったろう。去年の、領主さまの手書きのところに」
ノエは、うなずいた。ノエは、書いたものも読んだものも、筆の運びごと覚えている。
──この文を書いた者の名を、次の巡回で、書記に申し出よ。
「書いたのは、僕です」
「知っとる」
トバは、こめかみを押さえた。
「申し出るのは、村長の役目だ。わしが、書記さまに、お前の名を言う」
それから、トバは人差し指で、卓の上に何か書きはじめた。大きな字で、二つ。
ノエ、と読めた。
トバは書き終えると、袖でそこを拭いた。字のなかったところまで、念入りに拭いた。
「……申し出たら、どうなるんですか?」
「さあな。わしにも、わからん」
トバは、光った卓を見下ろしたまま言った。
「わからんが、まあ……書記さまに聞かれて、知らんと言う村長にはならんで済む」
帰り道、ノエの腕の中は空だった。
来るときは箱で見えなかったノエの手が、体の前にある。中指の横に、墨の染みがある。
去年の秋の返書を、ノエは思い出していた。一枚目は、片眼鏡を掛けなければ読めない、館の丸い文字。二枚目は、領主さまの角ばった手書き。その手書きの終わりのほうに、申し出よ、とあった。
トバの指が卓に書いた二つの字は、袖で拭かれてもう見えない。
──書記さまの帳面に、自分の名前が載ったのなら、その字は、どこまで運ばれていくのだろう。
ノエは、空の手を握って、また開いた。
◇
その晩、雨が来た。
屋根の藁を、細い雨が一晩じゅう叩いていた。
雨が上がってからは、朝が来るたびに、畑が白っぽくなっていった。
父は、穂を数えなくなった。
「もう、数えても追いつかんな」
父はノエを見て、笑った。
ノエは日に何度も、坂のほうを見た。がらがら、という音は、まだ坂の下から聞こえてこない。卓の端の手紙は、ずっとそこにあった。
その朝、父に呼ばれて畑へ出ると、畝という畝から、穂が出そろっていた。少し前まで青かった畑が、どこを見ても、白っぽい穂の先で霞んでいる。
「ノエ」
父が、鍬を持ったまま、坂のほうを見ていた。
坂の下から、馬が一頭、上ってくる。
馬の背に、灰色の外套が揺れていた。毎年、穂が出るころに一度だけ見る色だ。
父は鍬を下ろして、ノエを見た。
「……来たぞ。うちの番だ」
灰色の外套が、門をくぐった。




