46話
じいさまとバズが帰ってから、三日が過ぎた。
ノエの卓の端には、じいさまの話を書きとめた書き損じの紙が、あの日のまま置いてある。
名前。村。帳面の名は、じいさま。手前の畑は、おばあさんと二人で蒔いた。奥の一枚は、腰を痛めて起こせなかった。
じいさまから聞いたのは、そこまでだった。その下に続くはずの、汗租の行が書けない。汗を流す人が、じいさまの家にはいないからだ。
卓の上には、順番の表に載せた依頼の紙が、まだ山になっている。昼のうちにその山を崩し、夕方からは、トバから預かった箱の紙を書き直した。ノーラの満了の届けにする、十五枚の紙。書き直していない紙は、もう少しになっている。
本の家にも、二度行った。『官語辞典』の汗租の頁を、前もうしろも、指先が埃で白くなるまでめくった。けれど、じいさまの状況に使えそうな言葉は、どこにも見つからなかった。
◇
ゲルダの一枚だけは、書き直したあとも箱に戻さずにいた。届けを出す人の名前に、ゲルダの名前を書いた紙だ。出す前に、本人に話しておかなければならない。
ゲルダの家は、村でいちばん小さい。
戸口に近づくと、煙の匂いが鼻の奥にしみた。裏の小屋で、干し肉を燻しているのだろう。
「ゲルダさん」
ノエが声をかけると、ゲルダが裏から出てきた。前掛けが灰で白い。煙で赤くなった目をしばしばさせながら、ゲルダはノエの手もとを見た。
「なんだい、その紙は」
「巡回のときに、書記さまに出す届けです。ゲルダさんの畑の」
ノエは紙を広げた。丸い文字が並んでいる。ゲルダには読めない字だ。
「帳面の名前は、今はまだドゥガさんのままです。その下に、畑の引継ぎを申し出る人の名前を書くところがあって」
ノエは、その行を指でさした。
「そこに、ゲルダさんの名前を書きました。でも、出す前に、ゲルダさんにこれでいいか聞いておかないといけないと思って」
ゲルダは、しばらく黙って紙をのぞきこんでいた。
「……どれだい。あたしの名前は」
「ここです」
ゲルダの指が、紙の上へ伸びた。名前の少し上で止まる。触れずに、そのまま宙に浮いている。
「畑を起こしてんのは、ボルドだよ」
ゲルダが言った。
「種を蒔くのはデュラで、草はセルグとテッサが半分ずつ。夏の水汲みは、またデュラだ。あたしは、桶を運んでるだけさ」
「でも、ゲルダさんの畑ですよね」
ゲルダの指が、紙の上から引っこんだ。その手が、前掛けの端をつかむ。
「それから、もう一つ。ドランさんが帰ってきたら、そのときは、ドランさんの名前に書き直してもらえます。領主さまの返事の一文も、下に添えておきました」
ゲルダは、戸口の外へ目をやった。家の前の道が、坂のほうへ下っている。ゲルダはその先を、しばらく見ていた。
「……帰ってきたらね」
それから、ノエのほうへ向き直った。
「それでいいよ。出しとくれ」
前掛けの端を握ったまま、ゲルダはくるりと背を向けた。
「肉が焦げちまうから戻るよ。あんたも、煙くさくなる前に帰んな」
戸口の脇の壁に、鍬が二本立てかけてあった。柄を短く切って、先の丸くすり減ったゲルダの鍬。その隣の大きな鍬には、まだ蜘蛛の巣がかかっていた。
◇
がらがら、がらがら。
ハンナの荷馬車が坂を上がってきたのは、その日の昼過ぎだった。車輪の音が、いつもより、ずっとゆっくりだ。
ノエは戸口を出て、門のほうを見た。
荷馬車が門をくぐってくる。御者台には、ハンナ。その隣に、小さな背中が丸まっていた。白いひげが、風に揺れている。
「……じいさま?」
「ほう。聖さま、また来たぞい」
じいさまは御者台の上から、門の内の畑をぐるりと見回した。
「前に来たときから思うとったが、ここの畝は、えらい曲がっとるのう」
「残った株をよけているんです」
「ほう」
じいさまの細い目が、もっと細くなった。
ハンナは小屋の前で荷馬車を止めると、御者台から飛び降りた。荷台には回らずに、反対側へ回りこむ。
「今日の荷は、これ一つさ」
ハンナはじいさまの両脇に手を差しこんで、ひょいと持ち上げた。じいさまの足が、宙でぶらぶら揺れる。
「ほう、ほう」
地面に下ろされると、じいさまは枝をついて、ハンナを見上げた。
「力持ちの娘さんじゃのう」
「道のまんなかに、枝ついて立ってたんだよ。止まらなきゃ、轢いちまうとこさ」
「止まってくれると、思うとったわい」
ハンナは外套の腰から小さな布の袋を出して、ノエの前で振ってみせた。しゃら、と中で音がする。
「運び賃は、これでもらったよ。行きと帰りで、ひと袋」
袋の口から、豆が一粒こぼれた。ハンナがそれを指先でつまみ上げる。白い小さな豆に、茶色のまだらが散っていた。
「豆で払われることは、たまにあるけどね。これはいい豆だね。街へ持ってきゃ、売れると思うよ」
「せっかく渡したもんを、売るんじゃないわい」
じいさまはそう言ってから、ほう、と付け足して、門の柱をぺたぺたと叩いた。
「じゃ、食べるよ」
ハンナは豆を袋に戻すと、ノエのほうを向いた。
「それから、聞いたよ。じいさまから、道々、三べんもね」
「……沙汰のこと、ですか?」
「通ったんだってね。あの坊やの紙」
「はい」
ハンナの口の端が、ぐっと上がった。
「そりゃそうさ。あたしが二度も運んだ紙だからね」
ハンナの手のひらが、ノエの背中をばしんと叩いた。ノエは前へ二歩よろけた。
「村じゅうに言いふらしてたよ、このじいさま。聖さま、聖さまってね」
「わしは、ほんとのことを言うたまでじゃ」
「……僕はノエです」
ハンナが、声を出して笑った。
じいさまは目を細めて、ハンナとノエの顔を、かわるがわる見た。
「ほう。して、この娘さんは、聖さまの嫁御かの?」
「運び屋だよ!」
ハンナの声が、いつもより一段高かった。
「ハンナさんは、いつも手紙を運んでくれる運送屋さんです」
ノエが言い添えると、ハンナはこちらを一度だけ見た。何か言いかけて、やめる。それからハンナは馬の轡をつかんで、納屋のほうへずんずん引いていった。
ノエは、首をかしげた。言い方が、違っていたのだろうか。
◇
じいさまは戸口の前の椅子に腰を下ろした。かたん、と短い脚が鳴る。
母が井戸の水を椀に入れて持ってくると、じいさまは両手で受けて、ほう、とうまそうに飲んだ。
「さて、聖さま」
「……ノエです」
「村の者がな、わしの代わりに、冬の普請に出ると言うとる」
ノエは、じいさまの顔を見た。
「坊の話を、村じゅうでしたんじゃ。聖さまが考えてくださる、とな。そしたら、若いのが何人か、うちへ来よってのう」
じいさまは、枝の先で足もとの土をつついた。
「みんな、親父の代に、わしが株を起こしてやった家の者じゃ。その礼なんじゃと」
「株を……」
「汗を流す者がおるなら、書いてもらえるじゃろ?」
じいさまの細い目が、こちらを向いていた。
ノエは、膝の上で指を組んだ。
──橋の丸太を担ぎに行くかもしれません。……雪の中を。
バズが言っていたことを、ノエは思い出していた。冬の普請は、村から何日も離れて出るものだ。
「その人たちは、自分の普請にも、出るんですよね」
「そりゃ、出るわい」
「そこへ、じいさまのぶんが、さらに乗ります」
じいさまは、何も言わなかった。枝の先が、土の上で止まっている。
書けます、とは言えなかった。けれど、書けません、と言えば、じいさまの村の若い人たちの気持ちを、突き返すことになる。ノエの親指の腹が、人差し指の横を何度もなでていた。
がつん。
畑のほうで、硬い音がした。
じいさまの顔が、音のほうへ向いた。畑の端で、父が鍬を持ったまま、足もとを見下ろしている。
「ほう。……今のは、株の根に当たった音じゃな」
じいさまは枝をついて立ち上がった。かたん、と椅子が鳴る。
「ちいと、見せてもらおうかの」
◇
父は、麦のあいだの草を、鍬の角で削っていたところだった。
その足もとの畝のあいだに、黒い切り株が一つ、頭を出している。父の鍬は、土の下に隠れていた根に当たったらしい。
「じいさま。足もとが悪いですから」
父は鍬を脇へ寄せて、じいさまに道をあけた。
「入った年から、こいつだけは、どうにも抜けんのです。それで、畝のほうをよけて引いとります」
じいさまは、ほう、と言って株のそばにかがみこんだ。枝の先で、株のまわりの土をつつく。一か所。少しずれて、もう一か所。耳を地面に近づけるようにして、またつつく。
「こいつは、北の根が石を抱いとるのう」
父が、じいさまの顔を見た。
「……わかりますか」
「わかるわい。わしの村の株は、だいたいわしが起こしたんじゃぞ」
じいさまは、枝で株の北側の土をとん、と叩いた。
「この根を一本だけ、切りなされ。ほかは、あとでええ」
父は、言われたところへ鍬を一度だけ入れた。ざくり、と土の深いところで音がした。
「それと、まっすぐな棒を一本。石を一つ」
父が納屋の脇から長い棒を持ってくるあいだに、じいさまは石をつま先で転がして、株の根もとへ寄せた。
それから、棒に手を伸ばした。
じいさまの指は、棒をつかもうとして止まった。こぶになった節から先が、曲がらない。棒はじいさまの手のひらの上を転がって、土に落ちた。
じいさまは、ほうとも言わなかった。棒を拾おうともしなかった。かわりに枝を脇にはさみ直して、その先で石の上をさした。
「ここへ、かけなされ。……そう。もうちいと、手前じゃ」
父が棒の先を株の下へ差しこみ、石にかける。反対の端に、父は軽く手をかけただけだった。
それだけで、株が土から浮いた。
何年も動かなかった黒い株が、根を何本も引きずりながら、ずるりと持ち上がった。株の下から、こぶし二つぶんほどの石が顔を出す。根が、その石を抱きこむように巻きついていた。
父は、棒に手をかけたまま、じいさまを見た。
それから、照れくさそうに笑った。
「……何年も、抜こうとしとったんですがね」
「ほう、ほう」
「村の株を、みんな見てもらいたいくらいです」
「腰が治ったらの」
じいさまが笑った。
ノエは、じいさまの手を見ていた。
棒も、鍬も、何も握っていない手。どの指も少しずつ内側に曲がって、何もつかめない手。
その手が枝でさしただけで、何年も動かなかった株が持ち上がった。
「じいさま」
ノエの声が、少しかすれた。
「今のを、書いてもいいですか?」
「何をじゃ?」
「株の起こし方を、教えることを。……じいさまの汗として」
じいさまの細い目が、ほんの少し開いたように見えた。
「教えるだけで、汗になるんか?」
「それは、お役人さまが決めることです。通るかどうかは、わかりません」
ノエは、株の下から出てきた石を見た。
「でも、それなら、汗を流す人は、じいさまです。ほかの人の冬は、減りません」
じいさまは、しばらく黙っていた。それから枝の先で、持ち上がった株をこつんと叩いた。
「……わしの、汗か」
ほう、とは言わなかった。
◇
その晩、ノエは書き損じを横に置いて、新しい紙を広げた。
名前。村。帳面の名。手前は蒔いた。奥は起こせなかった。そこまでは、バズの書付と同じ並びなので、もう手が覚えている。それから、汗租。代える租は、奥の一枚のぶん。
流す汗のところで、ノエの筆が止まった。株を起こす。教える。その言葉を官語でどう書くのか、ノエは一度も見たことがない。
夜明けを待って、ノエは本の家へ向かった。二本目の沢を渡り、扉を閉めると、沢の音が消える。今度は、何の言葉を探せばいいのかがわかっていた。頁をめくる指は、迷わなかった。
ノエが小屋へ戻っても、納屋からはまだ、じいさまのいびきが聞こえていた。
写しの用例の、「汗を流し」のところだけを入れかえる。
──召しに応じて株を起こす術を教え、これをもって麦の租の幾分に代えんことを願う。
最後の一行は、じいさまの言ったとおりに書いた。
──奥の一枚は、生きているあいだは、手放したくないこと。
朝飯のあと、ノエは椅子に座ったじいさまの前に膝をついて、書いた紙を一行ずつ読んで聞かせた。名前。村。奥の一枚。株を起こす術を教えること。最後の一行まで読むと、じいさまは目を閉じたまま、一度だけ深くうなずいた。
「わしの言うたとおりじゃ」
「巡回で、書記さまがじいさまの村に来たら、そのときに渡してください」
「心得たわい」
じいさまは紙を小さく畳んだ。腰に巻いた布の帯をゆるめて、そのあいだへ大事そうにはさみこむ。
それから懐を探って、布の袋をもう一つ、卓に置いた。ハンナの袋より、ひと回り小さい。
「書き賃じゃ。ばあさんが持ってけと」
◇
門の前で、ハンナが馬の腹帯を締め直していた。
じいさまは門の柱に手をついて、それを見ていた。それから、ノエのほうへ枝の先をちょいちょいと振った。
「聖さま。ちいと」
ノエが近づくと、じいさまは背伸びをした。それでもノエの耳には届かなかったので、ノエが腰をかがめた。
「ばあさんには、言うなよ」
じいさまの声が、いつもよりずっと小さかった。
「奥の畑の、いちばん端にな。毎年、豆を蒔いとるんじゃ。あれが嫁に来るときに、里から持ってきた豆でのう。あの端で採っては、次の年、またあの端に蒔いてきた」
ノエは、卓の上に置いてきた小さな袋のことを思った。白い豆に、茶色のまだら。
「豆なら、ほかへ蒔けばええと思うじゃろ」
ノエは、何も言えなかった。
「手前の畑にも、蒔いてみたことはある。育つには育つんじゃ。けんど、まだらがぼやけてのう。粒も、ちいそうなる」
じいさまは、枝の先で門の柱の根もとをつついた。
「ああいう粒になるのは、なぜか、あの端だけなんじゃ」
──いい豆だね。街へ持ってきゃ、売れるよ。
ハンナがそう言っていた。
白いひげの下で、じいさまの口がもごもごと動いた。
「端だけ残したら、ばあさんは気づくわい」
それだけ言って、じいさまは門の柱から手を離した。
──わしの手で起こした畑じゃ。
あのとき、じいさまはそう言っていた。帳面から消したくないのは、奥の一枚まるごとでなければいけなかったのだろう。おばあさんに、豆のためだと思わせないために。
「乗りな、じいさま!」
ハンナの声が飛んできた。
じいさまは、ほう、といつもの声で返事をした。ハンナがまた両脇に手を差しこんで、じいさまを御者台へ持ち上げる。宙で揺れる足に合わせて、ほう、ほう、と二度鳴った。
ハンナは自分も御者台に飛び乗り、手綱を取ってから、ノエのほうを振り返った。
「そうそう。じいさまの村じゃ、次は誰が聖さまに頼むかで、もめてたよ」
「……僕はノエで──」
ノエが言い終わる前に、ハンナは手綱を振った。
がらがら、がらがら。
車輪の音が、来たときと同じように、ゆっくりと坂を下りていった。
◇
小屋へ戻ると、卓の上に、小さな布の袋があった。
ノエは口をほどいて、手のひらに少しあけた。白い小さな豆に、茶色のまだらが散っている。一粒ずつ、まだらの形が違っていた。
ノエは一粒も落とさないように、豆を袋へ戻して、口を固く結んだ。
畑のほうで、父の呼ぶ声がした。
「ノエ」
父は、きのう株の抜けた畝のそばにしゃがんでいた。株のあった穴は、もう土でならしてある。
その隣の畝で、父は麦の茎を指でつまんでいた。いつもなら、しばらくそうしてから首を横に振る。今日の父は、首を振らなかった。
青い葉のあいだから、穂の先が一本、白っぽくのぞいていた。
「……この穂が出そろうころには、うちの畑の番だな」
父は、ノエをじっと見据えて言った。




