45話
雨は、夜のうちに上がった。
朝の畑は、土の匂いが濃い。麦の葉の先に雨の粒が残っていて、日が差すたびにちかちかと光る。
父は畝のあいだにしゃがんで、茎の根もとを指でつまんでいた。しばらくそうしてから、黙って首を横に振る。穂はまだ、顔を出していない。
ノエは小屋の卓で、トバから預かった書付の箱を開けた。
箱の中に残っている紙は、もう、書き直した紙より少なくなっている。頭の一行。名前。村。畑。境のところで片眼鏡を目に当てると、ガラスが朝の湿り気で少し曇っていた。袖でぬぐってから、写しの束をめくる。
その声が聞こえたのは、次の一枚の境に取りかかったときだった。
「ほう」
門のほうからだった。
ノエは片眼鏡を外して、戸口から顔を出した。
門の柱の脇に、人が二人立っていた。
一人は、背がノエより頭一つ高い。肩の落ちたシャツの袖を、三重に折り返している。
「……バズさん?」
バズは、ぺこりと頭を下げた。雨のあとの道を歩いて来たからか、今日は土埃をかぶっていない。焦げた麦わらのような色の髪が、汗で額に貼りついている。足は、すねまで泥だらけだった。
その隣で、もう一人が門の柱を手のひらでぺたぺたと叩いていた。
小さな年寄りだった。背が曲がって、頭のてっぺんがノエの肩ほどしかない。白いひげがまばらに生えて、日に焼けた顔の皺が深い。杖がわりの枝を握った指の節が、どれも太く、こぶになっていた。
「ほう。これがノーラの門かい。木を組んだだけじゃのう」
年寄りは、目を細めて門を見上げた。細すぎて、開いているのかどうかわからない。
「隣のじいさまです」
バズが言った。
垣根の向こうから、ずっとのぞいていたというじいさま。バズが手を押したところを見て、ほう、と声を出したじいさま。ハンナの話の中の人が、今、門の柱を叩いている。
「おれ一人で行くって言うたんですけど」
「坊一人じゃ、また迷うじゃろうが」
「迷いませんでしたよ」
「わしが道を覚えとったからじゃ」
「じいさまは、ここへ来るの初めてでしょうに」
じいさまは、ほう、とだけ言って、また柱を叩いた。
バズは、シャツの胸のあたりを片手で押さえていた。押さえたまま、門の内へ一歩入る。
「あの。これを」
シャツの合わせから、折りたたんだ紙が出てきた。
白い紙だった。ハンナが窓口から持ち帰った切れ端と同じ、すべすべした紙。細い麻の紐が、十字にかけてある。
「お役人さまの使いが、村長のとこへ持ってきたんです。おれへの紙だって、村長が」
「……読んでもらったんですか?」
バズは首を横に振った。
「開けとりません。宿のおやじさんに読んでもらうかって、村長は言いましたけど」
バズの指が、紙の端をそっと押さえた。
「あんたが書いた紙の、返事ですんで。……あんたに、開けてもらいたいと思いまして」
◇
戸口の前の椅子に、じいさまが腰を下ろした。
かたん、と短い脚が鳴る。じいさまは跳ね上がりもせずに、ほう、と言って座面を手のひらで撫でた。
バズは座らなかった。椅子の横に立ったまま、両手をシャツの裾で一度拭いた。
ノエは、すっと椅子の前の藁に膝をつこうとして、やめてバズの前に立った。
紙を受け取る。とても軽い。
紐の結び目に指をかけた。輪を起こして、下をくぐった端を引く。紐は、するりとほどけた。
折り目を開く。
角ばった文字だった。
小屋へ片眼鏡を取りに戻りかけた足が、止まった。これなら、そのまま読める。
井戸のほうから、母が前掛けで手を拭きながら歩いてくるのが見えた。バズとじいさまに気づいて、足が少し速くなる。けれど、ノエの手もとの紙を見ると、少し離れたところで止まった。
ノエは、声に出して読んだ。
「──願い出たバズの願い、聞き届ける」
「……ききとどける?」
バズの声が、かすれていた。
「通った、ってことです」
バズの喉が動いた。
ノエは、次の行に目を移した。
「──今年、奥の一枚にかかる麦は、冬の召しをもって代える」
その一行には、バズは何も聞き返さなかった。
バズの手が、シャツの胸をつかんだ。父親のシャツの、ちょうど胸のところ。押す前に、手を二度拭いたというところ。
「──召しの所と日は、巡回のおりに、追って伝える」
それで、おしまいだった。
沢のほうで、鳥が一羽鳴いた。
誰も、何も言わなかった。
「……奥の、一枚は」
バズが言った。
「手放さんで、ええんですかい?」
「はい。手放さなくて、いいです」
ノエが言い終わる前に、バズの膝が折れた。
しゃがみこんだのではなかった。脚から力が抜けて、そのまま地面に尻をついたようだ。雨のあとのやわらかい土に、父親のシャツの裾が落ちる。大きな両手が、膝の上で開いたり閉じたりしている。
「……親父に」
バズは、うつむいたまま言った。
「帰ったら、親父に、言うてやらんと」
かたん、と椅子が鳴った。
じいさまが立ち上がっていた。枝を脇にはさんで、曲がった指の手で、バズの背中を二度叩く。何も言わなかった。
ノエは、自分の手もとに目を落とした。
奥の一枚は、納屋の土の上で、バズが指で描いた線だった。冬のことは、昼の汁をすすりながら、バズが何気なく言ったことだった。それが今、知らない人の字になって、ここに並んでいる。
紙の端が、小さく震えていた。
震えているのが自分の指だと気づくまで、少しかかった。
母は離れたところに立ったまま、前掛けの端を両手で握っていた。
それから、くるりと背を向けて、家のほうへ歩いていった。
「……昼は、五人ぶんだね」
背中のまま、そう言うのが聞こえた。
◇
昼は、戸口の前で食べた。
母の提げてきた籠には、木の椀が五つ入っていた。豆の汁と、黒パン。
鍬を担いで戻ってきた父は、門のところでバズの顔を見て、それからじいさまを見た。何も聞かずに井戸で手を洗ってきて、椀を受け取る。
ノエが紙のことを話すあいだ、父は汁をすすっていた。こちらを見ない。
「……橋の上は、冬は風が通って凍えるぞ」
父が、椀の中に向かって言った。
「はい。知っとります」
バズが答えた。
「そうか」
父は椀を空にして、黙って母のほうへ差し出した。母は、ちらりと父の顔を見てから、二杯目をよそった。
じいさまは汁を少しずつすすりながら、ずっとノエのほうを向いている。目が細いので、見ているのかどうか、ほんとうはよくわからない。
「ほう」
じいさまが、椀を膝に置いた。
「字ひとつで、お役所が言うことを聞きよるんか」
「言うことを聞いたんじゃないと思います。お役人さまが、決まりに合わせて決めたんだと──」
「わしは、垣根の向こうから見とったんじゃ。坊が手を押すところをな」
「……垣根の、じいさまかい?」
母が、パンをちぎる手を止めた。
「ほう? わしのことを、知っとりなさるんか」
じいさまは、うれしそうに背を伸ばした。伸ばしても、あまり高くならなかった。
「わしも、名が通ったもんじゃのう」
「名前は聞いてないよ。垣根越しから、ほうって言った人がいたって聞いただけさ」
「ほう」
「それだよ」
じいさまは咳払いをして、もう一度ノエのほうへ向き直った。
「紙一枚で、坊は畑を手放さんで済んだ。わしは、この歳になるまで、そんな話は聞いたことがないわい」
曲がった指を、胸の前で組む。
「こりゃ、筆の聖さまじゃのう」
ノエの手から、パンのかけらが落ちた。
「ひじり……?」
「知らんか? 聖典に出てくるじゃろうが、聖さまは」
「ぼ、僕は、聖さまじゃないです」
ノエは、あわてて首を振った。
「書いたのは、バズさんの言ったことだけです。汗租っていう言葉は、お役人さまが紙の切れ端に書いてくれたもので。冬のことに気づいたのは、母で──」
「あたしは、豆を数えてただけだよ」
母が言った。
「ほう、ほう」
じいさまは、何度もうなずいた。
「聖典の聖さまも、みな、そう言いなさったというわ。わしは何もしとらん、とな」
「いえ、ほんとうに──」
「……前のときも、書くことだけです、って言うとりました」
バズが、椀を持ったまま、ぼそりと言った。
じいさまのうなずきが、いっそう深くなった。
父は、二杯目の椀の底を見ていた。
◇
昼のあと、じいさまは自分から父の椅子に座りなおした。
かたん。
「さて、筆の聖さま」
「……ノエです」
「わしの奥の畑もな、起こせとらんままなんじゃ」
じいさまは、枝の先で自分の足もとの土をつついた。
「坊の紙と、同じのを書いてもらえんかのう。手形なら、ほれ」
じいさまが、手のひらをこちらへ向けた。
小さな手だった。バズの手よりも、ノエの手よりも、ずっと。指の節がこぶのように太く、どの指も少しずつ内側に曲がっている。手のひらの皺に、土が黒く入りこんでいた。
「わしにも押せる。なんなら、ばあさんのぶんも押していくぞ」
「おばあさんの……?」
「帳面には、わしの名しか載っとらんがの」
じいさまは自分で言って、ほう、ほう、と笑った。
ノエは、藁の丸に膝をついた。書き損じの紙を膝に置いて、筆を取る。
「お名前を、教えてください」
じいさまの言った名前を、紙の端に書きとめる。
「帳面の名前も、じいさまの名前ですか?」
「わしが起こした畑じゃからの」
「手前の畑は?」
「ばあさんと、二人で蒔いた。手前だけで、ふたりとも腰が伸びんようになったわい」
「奥は……」
「去年までは、どうにか起こしとった。去年の冬に薪を割っとって、腰をやってのう」
じいさまは、自分の腰を枝でとん、と叩いた。
「ひと冬、ばあさんに粥を口まで運んでもろうたわ」
じいさまは笑ったが、バズは笑わなかった。
「……手放そうとは、思わなかったんですか?」
じいさまは、枝の先から目を上げなかった。
「わしの手で起こした畑じゃ。わしが死ぬまでは、帳面から消しとうない」
それだけ言って、また枝の先で土をつついた。
ノエは、紙の上の並びを見た。名前。村。帳面の名。手前は蒔いた。奥は起こせなかった。手が足りなかった。
そこまでは、バズの書付と同じ並びだった。
その先に、汗租が来る。代える租と、流す汗。
「じいさま。冬は、普請に──」
言いかけたノエより先に、バズが口を開いた。
「じいさま」
バズは、地面に目を落としていた。
「汗租っちゅうのは、冬の普請に、決まりより余計に出るってことなんです。そのぶんで、年貢を払う」
「ほう」
「どこで何をするかは、言われるままです。橋の丸太を担ぎに行くかもしれません。……雪の中を」
じいさまは、何も言わなかった。
こちらに向けていた手のひらを、ゆっくりと自分のほうへ返す。指を握ろうとして、途中で止まった。こぶになった節から先が、それ以上曲がらない。
「……ほう」
さっきまでとは違う、小さな声だった。
ノエは、筆を紙から離した。
墨が一滴、紙の端に落ちて、にじんだ。
「……この形では、書けません」
じいさまが、顔を上げた。
「汗租は、汗を流す人が、自分の名前で出すものなので。じいさまの名前で、冬の普請に出るとは、書けません」
「そうか」
じいさまは、曲がった指で白いひげを撫でた。
「そうじゃろうのう」
それから、しばらくノエの顔を見ていた。細い目の奥で、何かが光ったように見えた。
「ほう。……書けんもんは、書けんと言いなさるか」
「……書けないので」
「わしが若いころにな、街で、字が書けるという男に頼んだことがある。銭さえ渡せば、なんぼでも書いてくれたわい。何も、変わらなんだがの」
じいさまは、ぽんと膝を打った。
「ええ紙書きは、嘘を書かんのじゃな。やっぱり、聖さまじゃ」
「嘘を書かないのは……ふつうのことだと、思います」
「ほう、ほう!」
じいさまは、今日いちばん大きな声で笑った。
ノエは、どこで笑われたのかわからないまま、筆を握っていた。バズが、じいさまとノエの顔を、かわるがわる見ている。
「あの」
ノエは、紙の端のにじみを見ながら言った。
「汗租じゃない形が、あるかもしれません。……少し、考えさせてください」
「ほう。聖さまが、考えてくださる」
じいさまは、満足そうに椅子の上で頭を下げた。ただでさえ丸い背がさらに丸まる。かたん、と脚が鳴った。
◇
その晩、バズとじいさまは納屋に泊まった。
藁を厚く敷いたのは父だった。じいさまは横になるなりいびきをかきはじめて、それは戸を閉めても小屋まで聞こえてきた。
ノエは、小屋の卓で昼の書き損じを広げた。
名前。村。帳面の名。手前は蒔いた。奥は起こせなかった。
その下が、白い。
卓の隅の、汗租の写しを開く。何度も開いたので、折り目がやわらかくなっている。
──召しに応じて汗を流し、これをもって麦の租の幾分に代えんことを願う。
召しに応じて汗を流す人が、じいさまの家にはいない。
灯りの芯が、じじ、と鳴った。油を足すかどうか迷って、ノエは写しを閉じた。
◇
翌朝、二人は早くに村を発った。
バズは、ノエの手から沙汰の紙を受け取ると、シャツの合わせの奥へしまった。紐は、ゆうべのうちにノエが十字にかけなおしておいた。一度で、きれいに結べた。
母が渡した布の包みは、三つあった。バズは何も聞かずに、三つとも抱えた。
門の前で、バズは深く頭を下げた。
「……巡回のおりに、お役人さまがまた何か言うてきたら」
「そのときも、持ってきてください」
バズは、もう一度頭を下げた。
じいさまは、門の柱の根もとにかがんで、藁を巻いた靴の紐を結び直していた。結び終えると、柱に手をついて、よいしょ、と立ち上がる。
「ほう。世話になったのう、聖さま」
「……ノエです」
二人の背中が、坂を下りていく。バズの歩幅が、じいさまに合わせて半分になっていた。
ノエは、門の柱に目をやった。
じいさまが手をついたところに、手の形が残っていた。根もとの泥がついた手のひらの、小さな跡。
いつか、バズの手形が残っていたのと同じ柱だった。あれは、ノエの手よりひと回り大きかった。
これは、ノエの手より小さい。
指の跡が、どれも少しずつ内側に曲がっている。まっすぐに伸びた指は、一本もなかった。
ノエは小屋へ戻って、卓の上の書き損じを引き寄せた。
名前の下の、白いところ。
──汗も麦も出せない畑のぶんを、何で払えばいいのだろう。




