44話
ハンナの荷馬車が坂を下りていってから、何日かが過ぎた。
昼は、表の山を崩していく。墨を乾かすあいだに、写しの束をめくる。夜は、書き損じの裏に汗租の一語を書いてみる。もう、筆は一度も浮かなかった。
トバから預かった書付の箱は、いつのまにか表の山の陰に隠れていた。
その晩、ノエは表の山を脇へ寄せて、箱を卓の真ん中に置いた。蓋の縁に指をかける。
中の紙は、トバが置いていった日のままだった。
一枚目を取る。ヨナス。
角ばった文字の、自分の字だった。畑の端に膝をついて、棒を数えながら書いた字。紙の隅には、土のついた指の跡がうっすらと残っている。
その下に、セルグ。テッサ。デュラ。めくっていくと、ゲルダの一枚が出てきた。領主さまの返書が届いて、還さずに済んだ畑。紙の端が、ほかの紙より少しやわらかい。トバが何度も取り出して眺めたのかもしれない。
ノエは紙の束を箱に戻して、一枚目だけを手もとに残した。
新しい紙を広げる。
頭の一行は、片眼鏡を掛けなくても書けた。ラントのガロンのために一度だけ書いた、年季が明けたという届けの一行。筆の運びごと、今でも手が覚えている。
名前。村。畑。そこまでも、表の山で毎日書いている並びだった。
境のところで筆を置いて、片眼鏡を目に当てる。
代官さまの帳面に載っているのは、名前だけだ。どこからどこまでがその人の畑なのかは、この紙にしか書いていない。
ガロンの畑の境は、父親の積んだ石の壁と、隣の二人の畑だった。ノーラの畑の境には、井戸があり、置場があり、沢の曲がりがある。写しの束から一語ずつ探しては、丸い文字に移していく。棒の数。立ち会った人の名前。
一枚を書き終えて片眼鏡を外すと、目の縁にガラスの丸い跡がついていた。指でこすると、少しひりひりする。
二枚目。三枚目。
畦の溝で、蛙が鳴いていた。四枚目を書き終えるころには、その声も、いつのまにかやんでいた。
◇
がらがら、がらがら。
坂の下から車輪の音が上がってきたのは、昼を少し過ぎたころだった。
ノエは、筆を置くのも忘れて戸口を出た。筆の先から墨が一滴、土の上に落ちた。
荷馬車が門をくぐるより先に、御者台から声が飛んできた。
「押してったよ!」
ハンナが、手綱を持っていないほうの手を大きく振っている。手のひらを、こちらへ向けたまま。
ノエの足が、坂のほうへ一歩出た。
「あの、バズさんはなんて──」
「荷が先だよ」
ハンナは小屋の前で荷馬車を止めると、御者台から飛び降りた。荷台の縄に指をかける。一つ引くたびに、結び目がするするとほどけていく。
下ろしたのは、鉄の鍋が一つと、麻の袋が三つ。
ノエは、鍋の取っ手をつかんだ。持ち上げようとして、腕がぴんと伸びる。鍋は地面から少しも離れなかった。
「そっちはあたしが持つよ。あんたは袋を一つ」
ノエは袋を一つ抱えた。戸口まで運ぶあいだに、もう息が上がっていた。
ハンナは鍋を片手で提げ、残りの袋を肩に担いで、二往復で運び終えた。それから、荷台の隅から、油を引いた布の小さな包みを取り出した。
「ほら、これ」
布をほどくと、墨の小さな壺が出てきた。
受け取ったノエの手が、ほんの少し浮いた。発つ朝に渡したときより、ずっと軽い。中をのぞくと、底に乾いた墨が薄く張りついているだけだった。
「手のひら一つぶん、だったっけね」
ハンナは、外套の腰で手をはたいた。
「足りたよ。ぴったりさ」
◇
母が、井戸から汲んだ水を椀に入れて持ってきた。
ハンナは礼を言って一息に飲み干すと、荷台の縁に腰を下ろした。足がぶらりと垂れる。
「あの坊やのとこには昼前に着いたよ。家に行ったら、おっかさんが、奥の畑だって言うんでね」
「奥の、ですか?」
「草の中に立ってたよ。腰まである草のまんなかに、鎌も持たずにさ」
ノエの指が、壺の縁で止まった。
「……思い出してたんだろうね。親父さんの起こした畑を」
母が、ぽつりと言った。
ハンナは、母のほうを見て、少しだけ首をかしげた。それから、そうかもしれないねと言った。
「先に、前の紙が通らなかったことを話したよ。それから、汗租のこと。あんたが書き直したこと。あんたの親父さんが言ってたことも、ちゃんと言った。冬が、なくなるかもしれないよってね」
「……バズさんは、なんて」
「黙って聞いてたね。最後まで、ひとことも挟まずに」
ハンナは、足をぶらつかせるのをやめた。
「聞き終わったらね、自分の手を、シャツでごしごし拭いたんだよ。二度ね。汚れてなんかいなかったのに」
ハンナは、自分の胸のあたりで、手のひらを二度こすってみせた。
「人さまの紙だからね。汚しちゃいけないと思ったんだろうよ」
母が言った。
ノエは、あのシャツを覚えていた。肩が落ちて袖を三重に折り返した、父親のシャツ。その胸で、拭いたのだろうか。
「紙は、あたしが荷台の板に広げて、端を押さえてた。坊やは壺に手のひらをつけて、名前の横の白いとこに、上から体ごとのしかかるみたいにして押したよ」
ハンナは、自分の手を荷台の板にぺたりと置いた。
「あとで、あたしの手を横に並べてみたけどね。指一本ぶん、はみ出してたよ」
板の上のハンナの手を、ノエは見た。節の太い、手綱の擦れが残る手。その手より、指一本ぶん大きい手。
ハンナは手を引っこめて、膝の上で組んだ。
「垣根の向こうから、じいさまが一人、ずっとのぞいてたね。押したとこを見て、ほう、って声を出してたよ」
ノエは、顔を上げた。
「……隣のじいさまかもしれません」
「知り合いかい?」
「バズさんが言ってました。隣のじいさまのとこも、奥が起こせてないままなんだって」
ハンナは、ふうん、と鼻を鳴らした。それから、空になった椀を手の中でくるりと回した。
「それでね。言葉は道で落とすって、あたし言ったろ。だから、口で言われたことは持って帰らないつもりだったんだよ」
椀が、止まった。
「けど、一つだけ。あんまり短いから、落としようがなかった」
ハンナは、少しだけ声を低くした。
「押す前に、坊やがこう言ったんだ。──親父も、冬は出とりましたんでって」
母が、椀を受け取ろうとして伸ばした手を、そのまま止めた。目が納屋のほうへ行った。あの晩、バズが藁の上で眠った納屋。夜明け前に、こつ、こつ、と戸を直していった納屋。
「それだけさ。そう言って押してたよ」
ノエは、何も言えなかった。
──冬は畑がねえですから、呼ばれりゃ、どこへでも行けますんで。
寝ついた父親の代わりに、橋の普請に出ていた手。その前の冬は、きっと父親が出ていたのだろう。その前の冬も、たぶん、その前も。
納屋の土の床に、バズが指で描いた畑の線を、ノエは思い出していた。手前の畑と、奥の一枚。奥の一枚の線だけが、一か所深くえぐれていた。
あの線の内側の草の中に、バズは鎌も持たずに立っていたのだ。
喉の奥に、何か固いものがつかえた。飲みこもうとしても、なかなか下りていかない。
──あの坊主の冬が、なくなるぞ。
父はそう言った。ノエもそう思っていた。けれど、バズにとっての冬は、きっとなくなるものではなかった。父親から受け取るものだったのだろう。あのシャツと同じように。
ノエは、壺の底の乾いた墨を親指でなぞった。指の腹が少し黒くなった。
母は、ハンナの手から椀を受け取った。受け取ったまま、しばらく荷台のそばに立っていた。
◇
「で、窓口だけどね」
ハンナは荷台の縁から降りて、馬の腹帯をゆるめはじめた。
「お役人さん、前と同じ人だったよ。あたしの顔を見て、ああって顔をしてね。紙を広げて、読んで。それから、うしろの棚から別の紙を一枚出してきたんだよ」
「別の紙、ですか?」
「前に出した紙さ。あんたが最初に書いたやつ」
ノエは、壺を握りなおした。
「二枚並べて、指でこう、行をたどってね。行ったり来たり」
ハンナの指が、馬の背の上を右へ左へ動いた。
「途中で、指が止まったよ。坊やの手のとこで」
「……手形じゃ、いけなかったんでしょうか?」
「いけないとは言わなかったね。しばらく、じいっと見てたけど。それから、あたしの顔を見た」
腹帯の留め具が、かちりと外れた。
「それからね、いちばんおしまいの一行を、指でとん、とん、って二回叩いたよ。何が書いてあるのか、あたしにはわかんないけどさ」
ノエは息を止めた。
いちばんおしまいの一行。窓口に置かれたままの最初の書付にも、書き直したほうにも、同じ字で書いた一行。
──奥の一枚は、手放したくないこと。
ノエの書いたその一行の上で、会ったこともない人の指が、とん、とん、と鳴ったのだろう。
「そのあと、二枚とも持って奥へ入っちまった」
「奥へ?」
「長かったよ。うちの馬が、水桶を二回空にしたからね」
馬が、ぶるる、と鼻を鳴らした。
奥で、何をしていたのだろう。誰かに見せていたのだろうか。手形の押された紙など、きっと、誰も見たことがなかったのだろう。
ノエは自分が窓口の前に立っているわけでもないのに、壺を握る指に力が入っていた。
「戻ってきて、なんて言ったと思う?」
ノエは首を横に振った。
ハンナは背筋を伸ばした。顎を引いて、眉を少しだけ上げる。
「──この届けは預かる。沙汰は追って、村へ届ける」
役人の真似なのだろう。声まで一段低かった。
ノエはしばらくハンナの顔を見ていた。
「……通った、んですか?」
「通ったとは、言わなかったね」
ハンナは、肩をすくめた。
「でも、様式がどうのとも言わなかったよ。眉のしわもなかった」
ハンナが手綱を取り上げた。その指の先が、黒かった。人差し指と中指の、腹のところ。
「ハンナさん、指……」
「ああ、これかい?」
ハンナは、自分の指を見下ろした。
「坊やが押すあいだ、紙の端を押さえてたって言ったろ。手のひらが大きすぎて、はみ出してきたんだよ」
「灰でこすると、よく落ちますよ」
「いいよ。そのうち落ちる」
ハンナは指を握りこんで、馬を納屋のほうへ引いていった。
ノエは自分の指を見た。親指の腹で、人差し指の横をなでる。さっき壺の底からもらった墨が、少しだけのびた。
◇
夕飯のあと、父は黙って立ち上がり外へ出ていった。
すうっ、と納屋の戸の開く音がした。少しして、また、すうっ。
戻ってきた父は、炉の前に腰を下ろして、削りかけの鍬の柄を取り上げた。
「戸に、何か用だったのかい?」
母が聞いた。
「用はない」
しゃ、と木が削れた。
しばらくして、父が柄から目を上げないまま言った。
「……ついでに畑も見てきた。穂ばらみが始まっているよ」
「もうそんなかい?」
母が、椀を重ねる手を止めた。
「茎の根もとが、ふくらんできとる。あと何べんか雨が来れば、穂が顔を出すぞ」
父はそれきり黙って、また柄を削った。
ノエは小屋のほうへ目をやった。暗がりの向こうの卓に、書き直した紙が四枚、並んでいるはずだった。十五枚のうちの、四枚。
◇
翌朝、ハンナは干し肉の包みを数えながら荷台に積んだ。最後の包みに縄をかけてから、御者台へ上がる。
手綱を取る指の先は、まだ黒かった。
「まだついてますね」
「灰がなかったんだよ」
ノエは、母屋の炉のほうを振り返った。灰なら、桶に山ほどある。
「炉にたくさんありますけど……?」
ハンナは返事をせずに、手綱を振った。
がらがら、がらがら。
車輪の音が、いつもより少し急いで、坂を下りていった。
ノエは、首をかしげたまま、それを見送った。
車輪の音が聞こえなくなっても、門の向こうの坂には、土埃がしばらく白く浮いていた。風が来て、それが森のほうへ流れていく。
ノエは、自分の指先に目を落とした。きのう壺の底からもらった墨は、灰でこするまでもなく、もうほとんど薄くなっていた。
◇
その晩、ノエは箱から次の紙を取り出した。
ゲルダの一枚だった。
頭の一行を書く。名前。村。畑。帳面の名は、ドゥガ。ゲルダの死んだ旦那の名前のままだ。
その次は、届け出る者の名を書く行だった。
ガロンの届けには、死んだ父親の名のあとに、届け出る者としてガロンの名を書いた。
ゲルダの子のドランは、どこにいるのか、まだ誰も知らない。帰ってくるまで、この畑のそばで待っているのはゲルダだ。
ノエは筆に墨を含ませた。
ゲルダ。
丸い文字で、一つずつ、ゆっくりと書く。
──帳面にございません。
代官さまの従者がそう言った日のことを、ノエは覚えている。あの日、ゲルダの名前はどの紙の上にもなかった。
その下に、領主さまの返書の一文を添える。片眼鏡越しに、何度も読み返した一文。
──いずれとも定まらぬあいだは、動かさぬ。
ドランが帰ってきたら、そのときにまた書き直せばいい。
筆を置く。
墨が乾いていくあいだ、ノエはその名前から目を離さなかった。
戸口の外で、麦の葉がこすれ合う音がしていた。あの青の中で、穂がもう育ちはじめている。
──あたしの畑だよ。
あの日、ゲルダはそう言った。
その一言を、穂が出るころ書記さまの前に出すのだ。




