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43話

 空が白みはじめるころ、ノエは二本目の沢を渡っていた。


 倒木の橋は、夜露でまだ濡れている。両手を広げて、一歩ずつ足を置いていく。橋の下では、沢の水がざあざあと岩を叩いている。


 外套の胸の内には、切れ端と、白い紙が一枚。墨の壺と筆は、腰の袋に入れてある。


 斜面のくぼみを上ると、本の家の扉が見えた。


 中へ入って扉を閉めると、沢の音がふっと消えた。


 天井近くの細長い窓から、まだ青い光が斜めに落ちている。棚の前に立つと、自分の息の音だけが聞こえた。


 四至を探したときは、頼りは音しかなかった。


 シイシ、というガロンの言葉だけから、ノエはここで、三冊ぶんの辞典を引き倒した。


 今度は、字がある。


 切れ端の一語の、最初の輪。その輪から始まる語の並ぶ巻を、ノエは棚から抜き出した。両手で抱えて、床に下ろす。


 頁をめくる。


 紙が薄い。高窓の光が、向こう側から透けて見えるようだ。輪の向きが、一枚ごとに、少しずつ切れ端の一語へ近づいていく。


 ぱらり。


 指の先で、二枚がまとめてめくれた。


 通り過ぎた頁の端に、見覚えのある輪が、ちらりとのぞいたように見えた。


 沢を渡ってきた指は、すっかり乾いていた。ノエは指先に、はあっと息を吹きかける。そうして湿った指で、一枚だけ頁を戻す。


──あった。


 切れ端と同じ輪が、同じ向きで、同じつなぎ方で並んでいる。ノエは切れ端を頁の横にそろえて、輪の一つずつを指でたどった。全く同じだ。


 片眼鏡を目に当てる。輪がほどけて、文になった。


──汗租。金銭や物に代わり、労働によって流した汗をもって、租税や債務を納めることをいう。代える租と、流す汗とを記し、納める者の名を添えて、願い出る。


 その下に、小さな字で、書き方の例が一行だけ添えてあった。


──召しに応じて汗を流し、これをもって麦の租の幾分に代えんことを願う。


 ノエは、二度読んだ。


 租税、というのは、年貢のことなのだろう。


 年貢を、汗で納める。


「……汗で?」


 声に出すと、よけいにわからなくなった。


 お役人さまに回収された書付に、ノエは確かに書いた。父が冬に死に、手が足りなかったこと。だから、奥の一枚は起こせなかったこと。


 手が足りなくて困っている人に、汗で納めろ、と書いてある。


 ノエは片眼鏡を外して、もう一度掛けた。文は、変わらなかった。


 床に紙を広げて、写しはじめる。丸い文字は、頁のとおりに、輪の一つも違えないように。その下に、角ばった文字で意味を書き添えた。片眼鏡がなくても、読めるように。


 写し終えるころには、高窓の光が青から白に変わっていた。


◇


 坂を上りきると、荷馬車がまだ門の内に止まっていた。


 ハンナが馬の腹帯を締めている。荷台には、村から預かった干し肉の包みが、もう縄で括りつけてある。


「やっと戻ってきたね。どこまで行ってたんだい?」


「森です。……読めました」


「なら、答えを聞いてから出るよ。あたしが持って帰ってきた言葉だからね」


 畑へ出ようとしていた父が、鍬を担いだまま足を止めた。戸口から、母もひょっこり顔を出す。


 ノエは、外套の胸の内から写しを出した。


「カンソ、って言うみたいです。意味は、年貢を……汗で納めること、だそうです」


「汗?」


 ハンナの手が、腹帯を引いたまま止まった。


「汗なら、あたしだって売るほどかいてるよ。なんだい、汗で年貢を納めるって」


「麦や銭の代わりに、働くことで納める、ということだと思います」


「……ちょいと、お待ちよ」


 ハンナは、腹帯から手を離した。


「あの坊や、手が足りないって書いてもらったんだろ? 親父さんが死んで、奥の畑まで手が回らなかったって」


「はい」


「手が足りないと書いたのに、汗で納めろって言うのかい?」


 ハンナの眉間に、しわが寄った。


「足りない手で、もっと働けってことかい?」


「普請のことじゃないか?」


 父が、鍬を肩から下ろした。


「元の村じゃ、年貢とは別に、毎年呼ばれてやっとったよ。道だの、堀だのをつくるのにな。どこの村でもやってることだ」


 柄の先で、足もとの土を軽く突く。


「ここはまだ年季が明けとらんから、年貢も普請も免れとるがな」


「それとは、違うみたいなんです」


 ノエは、写しの角ばった文字を指でなぞった。


「年貢と別に、じゃなくて。年貢の代わりに、って書いてありました」


「年貢を、普請で払うってのか?」


 父の手が、柄の上で止まった。


「……そんな話、聞いたことないけどな」


 ハンナが、腕を組んだ。


「なら、いっそ冬のうちに、その奥の畑とやらを起こしちまえばいいじゃないかい?」


「雪の上から、鍬を入れるのか?」


 父が言った。


 ハンナは口を開けて、閉じた。


「あんた、鍬を握ったことはあるのかい?」


 母が、戸口の柱にもたれたまま言った。


 ハンナは首を横に振る。


「手綱なら、毎日握ってるけどね」


 父が、鼻から短く息を吐いた。


 それきり、誰も続けなかった。


 馬が首を振って、轡を鳴らした。ハンナは腹帯の端を握ったまま、締めるのを忘れている。母は前掛けで手を拭きかけて、そのまま止まっていた。父の鍬の先が、土の上の同じところを、何度も突いている。


 ノエは、写しを見ていた。手が足りない。汗で納める。どちらの言葉も、紙の上から動かなかった。


 やがて、ハンナが腹帯をぐいと締めた。


「あたしは、もう出なきゃならない。この先の村で、荷を待ってる人がいるんだ。次に来るまでに、なんとかなりそうかい?」


「わかりません」


 ノエは、写しを持つ指に、少し力を入れた。


「でも、考えます」


 ハンナは、ノエの顔を見下ろして、一つうなずいた。それから御者台へ上がって、手綱を取った。


 がらがら、がらがら。


 車輪の音が、坂を下りていった。


◇


 写しは、卓の隅に置いた。


 昼は、表の山を崩していく。宿の束の、名前と村と畑の並び。丸い文字の形は、もう手のほうが先に覚えている。


 墨を乾かすあいだに、辞典の写しを手に取る。


──召しに応じて汗を流し、これをもって麦の租の幾分に代えんことを願う。


 呼ばれたら、働きに出る。そのぶん、麦を納めなくていい。


 意味はわかる。けれど、バズの手は、既に足りていない。春の起こしも、母親と二人きりで、やっと手前の畑が蒔けただけだった。


 ノエは写しを置いて、また筆を取った。


 夜は、書き損じの束から一枚取って、その裏に、書付の頭を書いてみた。名前。村。帳面の名。手前の畑は、蒔いた。奥の一枚は、起こせなかった。


 そこから先へ、筆が進まない。


 流す汗は、と書こうとして、止まる。


 何晩めかに、束から取った一枚を裏返すと、そこにはもう、同じ書き出しが並んでいた。名前。村。帳面の名。いつかの晩の、ノエの字だった。


 終わりは、やはり、流す汗は、のところで途切れていた。


 卓の端では、トバの置いていった箱が、蓋を閉じたまま置かれている。


 写しの折り目は、何度も開くうちに、やわらかくなっていった。


 麦は、そのあいだにも背を伸ばした。畦道から見る畑は、もう青ばかりで、土の色はほとんど見えない。


 穂が出るまでに。


 トバの声が、耳の奥で、何度もくり返された。


◇


 その晩は、風が強かった。


 夕飯のあと、ノエは写しを膝に載せたまま、炉の前に座っていた。父は鍬の柄を小刀で削り、母はざるの豆をより分けている。


 がたり。母屋の板戸が、一度鳴った。


 母の手が止まった。


 より分けた豆を手のひらに載せたまま、母は板戸のほうへ顔を向けた。板戸の向こう、暗がりの先に、納屋がある。


 風が、もう一度吹いた。板戸が、また鳴った。


 納屋のほうからは、何も聞こえなかった。


「……そういやあの子、冬は畑がないって言ってなかったかい?」


 ノエは、母の顔を見た。


 昼の戸口。母は椀を受け取るときに、バズの手に目を落とした。付け根のまめの並びの上に、もう一列。横に長いまめ。


──冬は畑がねえですから、呼ばれりゃ、どこへでも行けますんで。


 あのとき、ノエはバズの懐のふくらみばかり見ていた。


 夜明け前の、こつ、こつ、という音。納屋の戸を直していったのも、あの手だった。


 ノエは、膝の上の写しに目を落とした。


──召しに応じて汗を流し。


 呼ばれりゃ、どこへでも。


 手が足りなかったのは、春だった。奥の一枚を起こして、蒔いて、麦を育てる季節。


 冬は、違う。


「……払えるかもしれません」


 声が、少しかすれた。


「奥の一枚のぶんを、冬の手で」


 父の小刀が止まった。


「麦の代わりに、冬に普請へ出る、ってことか?」


「はい」


 写しの端を押さえていた指に、いつのまにか力が入っていた。やわらかくなった紙に、新しいしわが寄っている。ノエはあわてて指を離して、しわを手のひらでのばした。


 父は、しばらく黙って、削りかけの柄を見ていた。


「……普請は普請で毎年呼ばれる。そこへ、年貢のぶんが乗るんだろう。決まりより、ずっと多く出ることになる」


 ノエは、口を開きかけて、閉じた。


「あの坊主の冬が、なくなるぞ」


 炉の火が、さっきより小さくなっていた。


 誰も、薪を足そうとしなかった。母は手のひらの豆を、ざるへ戻さずにいる。父の小刀は、柄に当てたまま動かない。板戸が、また一度、がたりと鳴った。


 ノエは、写しの角ばった文字を見ていた。召しに応じて。呼ばれたら、行く。呼ばれるたびに、あの硬い手で。


「……バズさんに、聞こうと思います」


 ノエは、写しを畳んだ。


「バズさんの年貢の話で、バズさんの冬の話です。いいかどうかは、バズさんが決めることだと思います」


 父は、しばらくノエを見ていた。それから、優しく頷いて小刀を持ち直した。


 しゃ、と木の削れる音が、また始まった。


 母が、手のひらの豆を、ようやくざるへ戻した。


◇


 小屋へ戻ると、灯りの芯が短くなっていた。


 ノエは、油を少しだけ足した。


 書き損じの束から一枚取って、裏返す。片眼鏡を掛ける。


 まず、あの一語だけを書いてみた。


 一つ目の輪を描く。二つ目へつなごうとしたところで、筆が浮いた。線が途切れて、墨が小さく溜まる。


 もう一度。今度は、三つ目の輪の向きが逆になった。


 もう一度。


 切れ端を、筆を持つ手のすぐ横に置く。役人の筆の運びを、線の太さと細さで追う。太くなるところで、筆を押す。細くなるところで、力を抜く。


──途中で一回も、筆を上げなかったよ。


 書き損じの裏が、輪で埋まっていく。四つ目か、五つ目で、筆が一度も浮かずに、端まで流れた。


 ノエは、新しい紙を広げた。


 名前。村。帳面の名が、まだ父親のものであること。手前の畑は、蒔いた。奥の一枚は、起こせなかった。父が冬に死に、手が足りなかったこと。


 そこまでは、手が覚えていた。窓口に置かれたままの書付と、一字も違わない。


 変えるのは、その先だった。


 汗租。


 筆が、端まで流れた。


 代える租は、奥の一枚のぶん。帳面に載っている、あの広さのぶん。


 流す汗は──


 幾晩も止まっていたところで、今度は、筆が止まらなかった。


 召しに応じて。


 写しの例の言い回しを、そのまま移していく。呼ばれりゃ、どこへでも。バズの言葉が、丸い文字の形をして、紙の上に並んでいった。


 最後に、もう一行。


 奥の一枚は、手放したくないこと。


 この一行だけは、どこも変えなかった。


 書き終えて、片眼鏡を外す。丸い文字が、ただの輪の並びに戻った。それでも、頭の中では、一行目から終わりまで読める。


 胸の底に沈んでいたものが、少しだけ、軽くなっていた。


◇


 がらがら、がらがら。


 ハンナの荷馬車が坂を上がってきたのは、ひばりの声が、空の高いところから降ってくるようになったころだった。


 ハンナは御者台から飛び降りると、荷台の縄をほどいた。塩の袋が二つと、布の巻きが一つ。それを戸口の前へ下ろすと、今度は蔵から運ばれてきた干し肉の包みを、一つずつ数えながら荷台へ積んでいく。


 最後の包みに縄をかけてから、ハンナはノエのほうへ振り返った。


「で、なんとかなったかい?」


 ノエは、書付を胸の前に持っていた。


「書けました。冬の普請で、年貢の一部を納めさせてほしい、という願いです。……でも、バズさんに、まだこれでいいか聞いていません」


 ノエは、父の言ったことを話した。今までの決まりより多く出ることになること。バズの冬が、なくなるかもしれないこと。


 ハンナは、手綱を片手にまとめたまま、最後まで聞いていた。


「代官所へ持っていく前に、バズさんの村へ、寄ってもらえませんか?」


「宿の向こうなら、道の脇みたいなもんさ」


 ハンナは、あっさり言った。


「ただし、口で聞いて帰ってくるのは、なしだよ。言葉は、道で落とすからね」


「でも、バズさんは、字が……」


「字じゃなくたっていいだろ。名前の代わりに、なんか置いてってもらいなよ。あの坊やのだって、ひと目でわかるもんをさ」


 ノエは、書付から目を上げた。


 門の柱が見えた。


 ノエは柱の前まで歩いていった。胸ほどの高さのところ。雨のあと濃く濡れていた木の色は、もうまわりと同じに乾いている。どこに手形があったのか、ノエにも、もうわからない。


 そのあたりに、そっと手のひらを当てる。


 乾いた木が、少しざらついた。


 ノエは荷馬車の下へ戻って、書付の、名前の横の白いところを指でさした。


「ここに、バズさんの手を、押してもらってください。墨をつけて、手のひらごと」


「手形かい?」


「バズさんが、いいって言ったら、です」


 ハンナは、しばらくノエの顔を見下ろしていた。それから、身を乗り出して、書付を受け取った。


「あの坊やが、冬はやっぱり休みたいって言ったら?」


「そのときは、窓口へは出さないで、持って帰ってきてください」


 翌朝、ハンナは油を引いた布で書付を包んだ。端を二度折る。その上から、ノエの渡した小さな墨の壺を、布ごと一緒にくるんだ。


「ずいぶん、ちっちゃい壺だね」


「手のひら一つぶんなら、足りると思います」


 ハンナは、ふっと笑った。包みを外套の胸の内へしまって、御者台へ移る。手綱を取り上げて、舌を鳴らした。


 がらがら、がらがら。


 車輪の音が、坂を下りていく。


 ノエは、自分の手のひらを見下ろした。中指の横に、墨が染みている。


 門の柱の、消えた手形は、ノエの手よりひと回り大きかった。


 あの余白に、あの手が押されて戻ってくるのか。


 それとも、白いまま戻ってくるのか。


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