42話
がらがら、がらがら。
坂の下から、車輪の音が駆け上がってくる。ノエは筆を置いて、小屋の戸口へ出た。
荷馬車は坂を一息に上りきって、木で組んだだけの門をくぐった。御者台のハンナが、手綱を片手にまとめている。肩に落とした頭巾の上まで、道の土埃が白く乗っていた。
「着いたよ。先に、馬を入れてくるからね」
ハンナは御者台から飛び降りると、馬の首を掌で一度叩いて、父の納屋のほうへ引いていった。ノエも、なんとなくそのうしろについていく。
納屋の前で、ハンナは戸の端をつかんだ。足を踏ん張って、肩を入れる。いつもの開け方だった。この戸は、少し持ち上げてから引かないと、下の端が土を噛んで動かない。
戸は、すうっと開いた。
勢い余って、ハンナの体が半歩うしろへ泳ぐ。
「──おっと」
馬が鼻を鳴らした。ハンナは戸の端をつかんだまま、開いた戸と自分の手を見比べている。それから一度閉めて、もう一度開けた。すうっ。土を擦る音がしない。
「……この戸、こんなに素直だったっけ?」
ノエも、戸を見た。
戸を吊っている上の縄が、新しい藁縄に替わっていた。きつく締めた結び目が、二つ並んでいる。土に当たっていた下の端は、薄く削られて、白い木の色がのぞいていた。柱とのすき間には、木っ端を削った楔が一本、手で押しこんである。
ノエは、少しも気づいていなかった。
「あの坊主の仕業だ」
うしろで声がした。鍬を肩に担いだ父が、畦道から戻ってきたところだった。
「あいつが出ていった朝には、もう戸が鳴らなくなっとったからな」
「夜明け前に、こつ、こつって、小さい音がしてたね」
父のうしろから、籠を提げた母が言った。
「ねずみにしちゃ、ずいぶん几帳面なかじり方だと思ったよ」
ハンナが、ノエを見た。
「で、坊主ってのは誰のことだい?」
◇
ハンナは、ノエの小屋の戸口の柱にもたれた。
ノエは卓の上から、一枚の紙を取った。丸い文字で埋まった、年貢を軽くしてほしいという願いの書付。
「宿の主人さんの束に、年貢の紙が一枚あったの、覚えてますか? この紙を書いてもらえば、年貢が下がると聞いた、下げてくれ、っていう」
「ああ。あの晩、あんたが夕飯の卓で読んだやつだね」
「その人が、うちまで来たんです。宿の向こうの村から、歩いて。バズさんといいます」
ノエは話した。冬に父親が死んだこと。父親が何年もかけて起こした奥の一枚が、今年は起こせずに草が茂ったままなこと。そこを手放せば年貢は軽くなるけれど、バズは手放したくないと言っていたこと。
話すうちに、ノエの目は、いつのまにか手元の紙へ落ちていた。ハンナは腕を組んだまま、口を挟まずに最後まで聞いていた。
「これを、代官所の窓口へ持っていってほしいんです。バズさんにも、ハンナさんに頼むと言ってあります」
「代官所?」
ハンナの眉が上がった。
「巡回のときに、書記に渡しゃいいじゃないか。そのほうが、ずっと安くつくよ」
「巡回で書記さまに返されたら、間に合わないかもしれません。バズさんの年貢は、今年のぶんのことなので」
ノエは、紙を両手で持ち直した。
「先に窓口に出しておけば、もし返されても、巡回までに書き直せます。巡回で渡すとしたら、通るとわかった紙にしたいんです」
ハンナは、しばらくノエの顔を見ていた。
「代官所は、宿の先だよ。ついでの道じゃない」
「わかってます」
ノエは卓の隅の、布の小さな包みに手を伸ばした。結び目に指をかける。
「ノエ、それはしまっとけ」
戸口の外から、父の声がした。
父は、こちらを見ていなかった。薪の束の前にしゃがんで、ほどけかけた縄を結び直している。
「運び賃は、俺が持つ」
「……父さん?」
「戸の礼だ。ずっと直す直すと言いながら、そのままにしとった戸だからな」
父は結び目を締めて、薪の束を担いだ。
ハンナは、父の背中から納屋の戸へ目を移して、口の端を少し上げた。
「なら、決まりだね」
家の角を曲がる前に、父の担いだ薪の束の縄が、またずるりとゆるんだ。
◇
翌朝、ハンナは荷台の上で荷を積み直していた。
バズの紙は、荷台の隅の箱から出した、油を引いた布で包む。端を二度折って、雨が入らないように押さえる。それを外套の胸の内へしまってから、荷に縄をかけはじめた。
ノエは荷台の下に立って、それを見ていた。朝の風が冷たくて、外套の前を手で合わせる。
ハンナが縄を引く手を止めた。
上からノエを見下ろしている。目が、ノエの首のうしろあたりで止まった。
ノエの外套の頭巾が、首のうしろで裏返しにねじれていた。
ハンナは荷台から身を乗り出して、片手を伸ばした。頭巾を指でつまんで表に返し、掌で一度、ぽん、と押さえる。
掌の当たったところが、温かかった。ノエは思わず、首をすくめた。
その手が、ぱっと離れた。
縄を扱うときよりもずっと速く、ハンナは手を引っこめた。引っこめた手を、そのまま外套の腰でこする。
「あ……ありがとう、ございます?」
「……裏返ってたんだよ。それだけさ」
ハンナはノエのほうを見ずに、御者台へ飛び移った。手綱を取り上げて、舌を鳴らす。馬が歩きだした。
二歩も行かないうちに、荷台の上で、縄の端がぱたぱたと跳ねた。
「ハンナさん、縄が──」
「わかってるよ!」
声が、いつもより一段高かった。
ハンナは手綱を引いて馬を止め、荷台へ戻った。かけかけのまま放ってあった縄を、ぐいと引いて結ぶ。結び目を作る指は、いつもどおり一度も迷わなかった。
それから、また御者台へ戻る。今度は振り返らなかった。
がらがら、がらがら。車輪の音が、坂を下りていく。
ノエは、首のうしろに手をやった。掌の当たったところだけが、まだ少し温かい。
ハンナが縄をかけ忘れるのを見たのは、初めてだった。
◇
それから、ノエは毎日、表の山を書いた。
宿の束の、名前と村と畑の並び。何枚も書いているうちに、丸い文字の形が頭より先に手のほうに浮かぶようになっていた。
墨を乾かしに戸口へ出るたび、門のほうに目が行く。
門の柱の、ノエの胸ほどの高さのところ。指の節が太い、大きな手の形が残っていることを、ノエはずっと気にしていた。
雨が一晩、降った後のこと。
翌朝、柱を見に行くと、手形はなくなっていた。そこだけ木の色が少し濃く、濡れたまま残っている。
ノエは、その濃いところに、自分の手を重ねてみた。濃いところのほうが、ノエの手より、ひと回り大きかった。
麦は、雨のたびに背を伸ばした。畦道から見ると、畑は、もう土の色より青のほうが多い。
夜、風が出た。
ノエは筆を止めて、耳をすませた。納屋の戸は、もう鳴らなかった。
◇
トバが坂を上ってきたのは、麦の青が、畦道の際まで埋めるようになったころだった。
脇に、蓋のついた木の箱を抱えている。
「ヨナスに聞いたぞ。年貢を下げてほしいと、代官所へ出したそうだな」
トバは戸口の前で立ち止まった。父の椅子には座らずに、箱だけを座面に置く。
「はい。宿の向こうの村の、バズさんの依頼です」
「うむ」
トバは、顎を撫でた。
「来年からは、うちも年貢を納めなならん。年貢の紙が窓口でどう扱われるか、よその話じゃない。……まあ、下見になるな」
それから、咳を一つして、箱の蓋を開けた。
中に、紙の束が入っていた。
ノエが村じゅうの畑を歩いて測り、境と、棒の数と、立ち会った人の名前を書いた、十五枚。秋までに全部、とトバに言われて、一枚ずつ書きためたものだった。
「来年の前に、今年だ。穂が出るころの巡回で、これを書記さまに出す。年季が明けた、という届けだ」
──なら、あの十五枚も、そのときに出そう。
ゲルダの畑を還さない、という領主さまの返書が届いた日に、トバが言った言葉だった。
トバは一枚目を取り上げて、指で名前の行をたどった。
「ヨナス。……うむ、ちゃんと読めるな」
二枚目。
「セルグ。テッサ。……うむ、うむ」
トバの指が、得意げに紙の上をすべっていく。
「わしに読めるんだ。書記さまなら、もっと楽に読めるんだろうな」
ノエは、トバの指の先を見た。
角ばった文字だった。線が短く切れていて、点が多い。トバにも、名前だけなら読める字。
代官所に出す紙は、丸い文字で書く。ガロンの書付のときから、ノエはずっとそうしてきた。
十五枚のどれにも、丸い文字は一つもなかった。
「……トバさん。これ、書き直させてください」
「書き直す?」
トバの指が、止まった。
「代官所に出す紙は、書き方が違うんです。このままだと、たぶん、書記さまに返されます」
トバは、紙とノエの顔を、二度見比べた。それから、こめかみを押さえた。
「十五枚、全部か?」
「全部です」
「まだまだたくさん来とるんだろう。ノエ一人の手で、穂が出るまでに間に合うのかね?」
ノエは、戸口の奥の卓に積んだ紙の山を振り返った。それから、箱の中の十五枚を見た。
「間に合います。間に合うように、書きます」
トバは、しばらくノエを見ていた。やがて、ひとつ頷いて、箱の蓋を閉めた。
「なら、箱ごと置いていくとしよう」
坂を下りていくトバの背中を見送ってから、ノエは箱を持ち上げた。
箱は、思っていたより、ずっと軽かった。
この中の一枚一枚を、穂が出るまでに、役所に通る文字で書き直す。
◇
がらがら、がらがら。
坂の下から音が上がってきたのは、昼すぎだった。
ノエは、乾かしかけの書付を持ったまま、戸口から飛び出した。
荷馬車は門をくぐって、小屋の前で止まった。ハンナの頬には、土埃の上に、汗の乾いた筋が一本走っていた。
ハンナは、御者台から降りなかった。手綱を片手にまとめたまま、ノエの顔を見る。
「通らなかったよ」
先に、それだけ言った。
ノエの手の中で、書付の端が、くしゃりと鳴った。
ノエの目は、ハンナの顔から離れて、門の柱のほうへ行った。雨で手形の消えた、少し色の濃いところ。
「窓口のお役人さんはね、紙を広げて、ちゃんと最後まで読んでくれたよ。眉のあいだに、こう、しわを寄せてさ」
ハンナは、自分の眉間を指でつまんでみせた。
「字は、よく書けてる。だが、様式が違う、だってさ」
ノエの指が、書付の端をつまんだまま止まった。
──役人が、よく書けてる、と言ったんだ。
ラントの村のガロンが、代官所の窓口から何日も歩いて戻ってきて、ノエに言った言葉だった。あのとき窓口に出したのも、ノエの書いた紙だった。
「どこが違うのか聞いたらね、年貢の願いには決まった書き方がある、それに沿って書き直して出しなさい、って。うしろにも並んでたからね。お役人さんも、口じゃそれ以上は言えなかったんだろうさ」
畑のほうで、鍬の音が止まった。父がこちらを見ている。
「でも、あたしは読めないだろ。口で言われたって、運べやしないよ。言葉は、道で落とすからね。前に、言われたことを音だけ持って帰って、えらい目にあった人がいただろう?」
──シイシが、ない、と。
「だから言ったんだ。せめて、その決まりの名前だけでも書いとくれ、読めるのがいるんだよ、ノーラに、ってね」
ハンナは、外套の胸の内から、油を引いた布の包みを出した。
「お役人さん、しばらくあたしの顔を見てたけどね。帳面の端をちぎって、一つだけ書いてくれたよ。……書きながら、一つ、うなずいてたね」
布がほどかれる。中から出てきたのは、手のひらにのるほどの、小さな切れ端だった。
「お役人さんってのは、字を流れるように書くもんだね。途中で一回も、筆を上げなかったよ」
ノエは、両手で切れ端を受け取った。
「バズさんの紙は……」
「向こうが持ってったきりだよ。窓口に出したもんは、返さないんだってさ」
ハンナは、肩をすくめた。
「宿の井戸じゃ、ノーラの代筆屋の紙なら、窓口で返されないってことになってるんだけどね。……ま、たしかに、返されちゃいないね。持ってかれただけだ」
ノエは、笑えなかった。
ハンナも、それ以上は何も言わなかった。手綱を握り直して、納屋のほうへ馬を向けかける。
「読めるかい?」
ノエは、切れ端に目を落とした。丸い文字が、一語だけ。
「……読めません。見たことのない言葉です」
手綱を握るハンナの手が、一瞬だけ止まった。
「今夜、調べます」
◇
その夜、ノエは切れ端を卓の真ん中に置いた。
ノエの紙より、ずっと白い。指でなでると、肌に吸いつくようにすべすべしている。ちぎられた縁だけが毛羽立って、指の腹に、ちくりと当たった。
そこに、丸い文字が一語だけ並んでいる。
輪をつなげたような形が、途中で一度も途切れずに、端から端まで流れていた。
丸い文字は、前より読めるようになっていた。毎日書いている名前と村と畑の並びなら、片眼鏡を掛けなくても、形でわかる。けれど、この一語は、どの並びの中にもなかった。輪の向きも、つなぎ方も、ノエの手が一度も書いたことのない形だった。
ノエは、切れ端から目を上げた。
あの朝、門の前で、バズは聞いた。
──……下がりますかい?
──それはわかりません。
──でも、書いたことは、ぜんぶ本当のことです。
バズは、うなずいていた。うなずいて、門の柱に手をついて、坂を下りていった。
書いたことは、ぜんぶ本当のことだった。その紙が今、ノエの知らない窓口の向こうで、通らないまま置かれている。
胸の底が、重たく沈んだ。
バズは今ごろ、どんな顔で、まだ草の茂った奥の畑を見ているのだろう。
ノエは、指で切れ端の毛羽をなぞった。ちくりとして、指を離す。
それから、片眼鏡を取り出した。
ガラスを目に当てる。
流れていた線が、ほどけた。輪の一つ一つが、音になって、ノエの頭の中へ順に落ちてくる。
「……カン、ソ」
声に出すと、知らない土地の名前のように聞こえた。
ノエは、もう一度だけ口の中で転がしてから、棚へ手を伸ばした。
『官語辞典』の、革の背表紙。
両手で抱えないと持ち上がらない一冊を、ノエは卓の上へ引き寄せた。




