41話
ノエは、すぐには答えられなかった。
年貢を下げてくれる人、というのが自分のことだとわかるまでに、少しかかった。
少年が答えを待っている。三重に折った袖の先で、指がシャツの裾をつまんでは、離してを繰り返していた。
畦道のほうから、父が戻ってくる。鍬を肩に担いで、昼を食べに戻ってくる時分だ。門の前に立っている知らない顔を見て、足がゆっくりになる。
「……年貢?」
聞こえていたらしい。父は鍬を肩から下ろして、柄の先を地面についた。少年を見て、ノエを見て、もう一度少年を見る。
「うちの子には、年貢は下げられんぞ」
少年の顔が、固まった。
「うちも、来年から納める身だからな。下げられるもんなら、とっくに頼んでるよ」
父は誰の顔も見ずに言って、鍬の柄についた土を、親指でこそげ落とした。
少年の喉が、もう一度動いた。柱についたままの手の、指の節が白くなっていく。つま先が、門の外のほうへ、少しだけ向きを変えた。
帰ってしまう、とノエは思った。
「──は、話を、聞かせてください」
声のほうが、先に出ていた。父がこちらを見た。少年も見た。
「下げられるかどうかは、わかりません。僕はお代官様じゃないです。でも、何があったのかは聞けます。……聞かせてもらえませんか?」
少年は、しばらくノエを見下ろしていた。それから、柱から手を離して、首だけで小さく頭を下げた。
「……バズといいます。宿の、向こうの村の」
◇
父の椅子に座ると、短い脚が、かたん、と鳴った。
バズは跳ね上がらなかった。踵で土を踏んで、短い脚のほうへ少しだけ体を寄せる。それきり、椅子は鳴らなくなった。でこぼこの畑の上でも、きっとこうやって立っているのだろうか。
ノエは、椅子の前の藁の丸に膝をついた。バズは、自分より低いところにあるノエの顔を見て、落ち着かないように膝の上で両手を組んだ。
「冬に、親父が死にました」
低くて、かすれた声だった。喉の奥に、道の土埃がまだ残っているような。
「秋から寝ついとったんです。……雪解けまで、もちませんでした」
ノエは、バズの肩を見た。落ちた肩の縫い目が、二の腕のなかほどまで下がっている。三重に折り返した袖。
このシャツは、きっと、そのお父さんのものなのだろう。
「春の起こしは、おれと、おふくろとでやりました。弟は、まだ小さくて、石を拾うくらいしかできねえ。手前の畑は、なんとか蒔けたんです」
「手前……奥にも?」
「奥にも一枚あって、そこは草のまんまです」
バズは、組んだ手の親指どうしを、強くこすり合わせた。
「親父が、何年もかけて起こした畑で。株を一本ずつ抜いて」
「年貢は、誰が、いくらだって言ったんですか?」
「村長です。去年と同じだけ、だって。起こせなかったって言っても、帳面には、奥の一枚も載っとるからって」
帳面、とノエは口の中でくり返した。
「……そうだな」
父が、戸口の脇に鍬を立てかけながら言った。
「元の村でも、兄貴が毎年ぼやいとった。年貢は、書記さまの帳面ですべて決まる。書いてある広さのぶんだけ、何があっても取られるってな」
それきり父は黙って、井戸のほうへ手を洗いに行った。
バズは、父の背中を目で追ってから、ノエのほうへ身を乗り出した。
「宿近くの井戸で、聞いたんです。ノーラって村に代筆屋がおって、そこで手紙を書いてもらったら、代官さまが、畑を返してくれたんだって。年貢だって、下がるはずだって」
「それは──」
「そんで、宿の主人さんに、一枚書いてもらいました。そしたら、もう宿じゃ預からんから、ノーラへじかに行けって」
ノエは立ち上がって、小屋へ入った。
床の端に寄せた三枚の、いちばん上。太い字で、行の終わりが少し右へ逃げている。
──この紙を書いてもらえば、年貢が下がると聞いた。……下げてくれ
戸口へ戻って差し出すと、バズの声が、少し大きくなった。
「それ、おれのです」
あの夜、ノエはこの紙に手を載せて考えた。下がらないと思います、と、自分はあの人の顔を見て言えるだろうか。
その顔が、今、目の前にあった。
ノエにできるのは、書くことだけだった。年貢を決めるのは、帳面と、それを書く人たちのほうなのだろう。
「僕は、年貢を下げたりはできません。……できるのは、書くことだけです」
バズの目が、ぱっと開いた。
「書くだけで、ええんですかい!」
「あ、いえ、そうじゃなくて──」
ぐう、と、バズの腹が鳴った。
バズは腹を両手で押さえて、耳まで赤くなった。戸口の奥から、母の顔がのぞく。
「話は、食べてからにしな」
◇
母は、バズを先に井戸へ行かせた。
桶の水を頭からかぶると、土埃が肩を伝って、足もとに黒い筋を作る。濡れた髪は、焦げた麦わらのような色をしていた。
昼は、戸口の前で食べた。母が籠に椀を四つと、黒パンを入れて出てくる。豆の汁から、炒った麦の香ばしい匂いが上がった。
バズは、汁をひと口すすって、それから止まらなくなった。椀の底が、すぐに見える。
その手が黒パンをちぎって、半分を口へ運び、もう半分を、袖の折り返しの陰から、シャツの懐へ滑りこませた。
ノエは、懐のふくらみを見た。家に、小さい弟がいると言っていた。
母も、見ていた。何も言わずに、空いた椀へ汁をよそい直す。
「宿からここまで、何べん迷ったんだい?」
「一度だけです。宿の主人さんが、地べたに棒で、道を描いてくれたんで」
「この前の人は、二度迷ってたよ」
「その人には、描いてやらんかったんですかね?」
「さあね。描いてもらって、それでも迷ったのかもしれないよ」
父が汁にむせた。
母は、バズの椀を受け取るとき、その手に目を落とした。
「あんたのその手、鍬だけのまめじゃないね」
バズは、自分の手のひらを見た。付け根のまめの並びの上に、もう一列、横に長いまめがある。
「冬は、橋の普請に出とりましたんで、それだと思います。親父が寝ついとったんで、おれが代わりに。……冬は畑がねえですから、呼ばれりゃ、どこへでも行けますんで」
「そりゃ、親父さんも助かったろうね」
バズは、少し笑って、黒パンの残りを口に入れた。
ノエは、まだ懐のふくらみを見ていた。
ちゃぷ、ちゃぷ、と、水の音が畦道を近づいてくる。
ゲルダだった。小さな体で、水の入った桶を提げている。一歩ごとに、水面が縁まで上がっては戻る。毎日この時分に、東はずれのボルドのところへ桶を運んでいるのだった。
ゲルダは戸口の前で足を止めて、知らない顔を下から見上げた。それから、その足もとを見た。
革の靴は、つま先が口を開けかけている。すねのところまで、土埃が白くこびりついていた。
「足を出しな」
「え?」
「いいから、さっさと出しな」
バズが目を白黒させて、ノエを見た。ノエは、小さくうなずいた。
前にも一度、ゲルダがこうして桶を提げてきたことがあった。ラントの村から何日も歩いて、門の前に立った男の足を、ゲルダは同じように洗った。父親を亡くしたばかりの、ガロンという男だった。
バズは椅子に座ったまま靴を脱いで、おそるおそる足を出した。ゲルダは柄杓で桶の水を汲んで、足の甲から、指のあいだまで、ていねいに流していく。足もとの土が、茶色く濡れて広がった。
「……つめてえ」
「冷たいのが、いいんだよ」
「でも、これ、誰かに持っていく水じゃ──」
「ボルドのぶんは、また汲みゃいいんだよ」
柄杓が、途中で止まった。
ゲルダの目は、バズの袖に向いていた。三重に折り返した、大きすぎる袖。
「……その袖。親父さんのかい?」
バズは、少しのあいだ黙っていた。それから、うなずいた。
「冬に」
「そうかい」
ゲルダは柄杓を桶の縁にかけて、濡れた手のまま、バズの袖の折り返しを一つほどいた。もう一度、きちんと揃えて折り直す。反対の袖も、同じようにした。
「うちのも、まだ小屋の壁に立てかけたまんまだよ。でっかい鍬がね。蜘蛛の巣が張っちまって、使いもしないのにさ」
それだけ言うと、ゲルダは軽くなった桶を提げ直して、東のほうへ歩いていった。
バズは、その背中が畦道の向こうへ小さくなるまで、ずっと見ていた。揃え直された袖の先で、指が、膝の上にじっと置かれていた。
◇
日が傾いてから、母がバズに納屋を貸した。
「泊まっていきな。まぁ、貸せるのは納屋だけどね。うちは宿屋じゃないんだから、文句は言わないでおくれよ」
納屋には、藁の匂いと、土の床の冷たさがあった。ノエは紙と板を膝に載せて、敷いた藁の上に座った。藁の先が、布の上からでもちくちくと刺さる。
「帳面の名前は、お父さんですか?」
「親父のまんまです。巡回が来たら、おれの名にするって、村長が」
「畑は、手前と奥とに?」
「手前のが、こう並んどって」
バズは、納屋の土の床に、指で線を引いた。四角が二つ。その奥に、少しいびつな四角がもう一つ。
「奥の畑には、まだ株の跡がそこらじゅうに残っとります」
「株の跡?」
「抜ききれんかったのが、何本か。親父は、あの株をよけて畝を引くのが、うまかったんです。おれがやると、まっすぐでいいところまで曲がって──」
ノーラの畑にも、抜ききれなかった株の跡が残っている。畝はそれをよけて、少しずつ曲がっていた。入った年に、父とボルドが二人がかりで抜いたという株も、まだ何本かは、土の下に根を張っているはずだった。
ノエは、奥の四角の線を、人差し指でなぞる。土は冷たくて、少し湿っている。指を離すと、腹に黒い土がついていた。
バズの指が、同じ線の上に置かれた。節の太い指と、中指の横に墨の染みた指が、土の上に並ぶ。
「村長は、奥の一枚を手放しゃ、年貢はそのぶん軽くなるって言うんです」
バズの指が、線の上で止まった。
「……でも、あそこは、親父が」
そこで、声が切れた。バズは指を土から離して、膝の上でこすった。こすっても、黒いのは取れなかった。
バズは、自分の手のひらを見下ろした。付け根に並んだ、硬いまめ。
「親父の手は、これより、もっと硬かったんです」
ノエは、バズの手を見ていた。それから、土の上に残った奥の四角を見た。線の一か所だけ、指で強く押したように深くなっていた。
納屋の外で、風が戸を一度だけ鳴らした。バズは、床の奥の四角を見たまま、しばらく動かなかった。
「草にしときたくもねえし、手放すのも、いやなんです。両方いやだなんて、わがままですよね……?」
ノエは、板の上の紙を見た。それから、バズの顔を見た。
「今の、そのまま書いていいですか?」
「今のって……わがままですよ?」
「わがままでも、これが本当のことだと思います」
バズは何か言いかけて、やめた。納屋の戸の隙間から入る夕方の光が、床の奥の四角を、斜めに横切っていた。
◇
その夜、ノエは片眼鏡を掛けた。
代官所に出す紙は、丸い文字で書く。ガロンの書付のときから、ずっとそうしてきた。丸い文字は、片眼鏡を掛けなければなかなか読めない。それでも、自分で書いたものなら、外しても全部そらで言える。
筆を下ろす。さり、と紙が鳴った。
名前。村。帳面の名が、まだ父親のものであること。手前の畑は、蒔いた。奥の一枚は、起こせなかった。父が冬に死に、手が足りなかったこと。
さり、さり。
起こせなかったぶんの年貢を、軽くしてほしいこと。
そして、奥の一枚は、手放したくないこと。
書きながら、ノエは何度か筆を止めた。名前があって、畑があって、それがどういう畑かを書く。宿の束で、毎日のように書いてきた書付と同じ並びだった。
年貢の書付を、ノエは一度も見たことがない。
『官語辞典』の頁をめくっても、手がかりになりそうな文は見つからなかった。四至を引いたときのように、こうしろと教えてくれることはない。
さり、と最後の一字を置いて、筆を上げた。
片眼鏡を外す。丸い文字が、ただの丸い形の並びに戻った。それでも、頭の中では、一行目から終わりまで、筆の運びごと読める。
この形で、本当に通るのだろうか。
納屋のほうからは、物音一つしなかった。
◇
朝、バズは、まだ暗いうちから門のところにいた。
濡れて乾いた髪が、寝癖で一方へ寝ている。シャツの懐は、ゆうべのまま、ふくらんでいた。
母が、布の包みを一つ持って出てきた。
「道で食べな」
「いや、そんな──」
「それは、弟のぶんなんだろう?」
母は、バズの懐を顎でさした。
「こっちは、あんたのぶんだよ。いいから、黙って持ってきな」
バズは包みを受け取って、しばらく母の顔を見ていた。それから、深く、深く頭を下げた。下げたまま、なかなか上がらなかった。
ノエは、ゆうべの紙を胸の前に持っていた。
「ハンナさんっていう運び屋さんが次に来たら、代官所へ持っていってもらいますから」
「……下がりますかい?」
「それはわかりません」
ノエは、紙を持つ手に少し力を入れた。
「でも、書いたことは、ぜんぶ本当のことです」
バズは、うなずいた。うなずいて、門の柱に手をついた。きのう、立ち上がるときに手をついたのと、同じところだった。
坂を下りていく。朝の光が、坂の白い土を照らしはじめていた。
何歩か下りたところで、バズが振り返った。
「あの。……隣のじいさまのとこも、向かいの、亭主が稼ぎに出たきりのとこも」
包みを抱えた手に、力が入るのが見えた。
「……うちだけじゃ、ねえんです。奥が、草のままなのは」




