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40話

「じゃ、渡したからね。あたしはボルドのとこへ行ってくるよ」


 ハンナは荷台の隅から、布でくるんだ小さな包みを取り上げた。それを脇に抱えて、畦道を東へ歩きだす。包みの中身を、ハンナは言わなかった。ノエも聞かなかった。


 外套の裾が、指一本ぶんを越えた麦の芽の上で揺れながら、だんだん小さくなっていく。


 ノエは、手の中の紙を見下ろした。


 四つに畳んだ紙は、角がやわらかくなっていた。ハンナの胸のところで、何日も揺られてきたのだろう。表側に書かれた自分の名前は、これまでに見た誰の字よりも震えていた。


 小屋に戻って、卓の前に座る。表の山も、書きかけの書付も、ぜんぶ卓の左へ寄せた。空いたところに紙を置いてから、ノエは、しばらく手を出さなかった。


 ミルダの返事のときは、ボルドの前で開けると決めて、一人では開けなかった。


 今度の紙には、自分の名前が書いてある。


 ノエは、折り目に指をかけた。


◇


 行は、五つあった。


 どの字も、前の返事より細い。一画ごとに筆が止まって、止まったところに墨が小さな粒になって残っている。読もうとすると、目が粒から粒へ、川の飛び石を渡るように進んだ。


 ──あの男の手紙は、わしが、娘に読んだ。


 一行目で、ノエの指が止まった。


 杭は、今も傾いています。


 ボルドが、灯りの下で口の中に何度も転がしてから、やっと言った一行だった。それを、この字の人が、ノエの知らない家の中で、ミルダのために声に出して読んだという。咳で、何べんも止まりながら読んだのかもしれない。


 ──杭のところで、娘が笑うた。わしが戻ってから、いっぺんも見たことのない顔じゃった。


 ノエは、ミルダの顔を知らない。


 知らないのに、その顔がほどけていくところだけは、目の奥に浮かぶ気がした。杭は今も傾いていますか、と先に訊ねてきたのは、ミルダのほうだった。


 ──こっちへ来いとも、お前のところに行くとも、なにも書いてなかった。


 ノエは、小さくうなずいた。書いた本人なのだから、知っている。ボルドの返事は、二行だけだった。


 ──わしは、どっちかが書いてあればええと、そう思うとった。


 四行目は、字がいちばん乱れていた。「思うとった」の手前で墨が溜まって、紙の裏まで染みている。筆が一度紙から離れて、また戻ってきた跡があった。


 ノエは、その染みを親指の腹でなでた。乾いて、ざらりとしている。


 耳の奥で、低い声がした。


 ──待っとる。


 あの夜、ボルドが一度だけ口にして、自分で捨てた言葉だった。紙には一字も載っていない。知っているのは、ノエだけのはずだった。


 この字の人も、待っていたのだ。


 ──あの男が、いつか、書いてなかったほうを言いとうなったら、そのときは、書いてやってくれ。


 最後の行だけ、字がほんの少しまっすぐだった。


 その下に、少し離して、もう一行。


 ──ミルダの、父より


 ノエは、紙を両手で持ったまま動けなかった。


 書いてなかったほう、と口の中でくり返す。


 来い、か。行く、か。


 来い、なら、ミルダは、この字の人のそばを離れることになる。戸の奥で、長い咳をしていた人のそばを。


 それでもいいと、この人は書いていた。どちらとも決めずに、自分の手で。


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。ノエは紙を卓に置いて、両手を膝の上で握った。握った指が、なかなか開かなかった。


◇


 気がつくと、小屋を出て、畦道を東へ歩いていた。


 麦の芽が、風のたびに同じほうへ寝ては起きる。その上を、ひばりが一羽、高く鳴きながら上がっていった。ノエの息は、すぐに浅くなった。胸の奥で、ゼェ、と細い音がする。


 村の東のはずれが見えるところで、足を止めた。


 麦の青い畑が、そこで途切れている。その先は、起こしたばかりの土の色だった。秋まで、何も蒔かない土。四隅に、頭のすり減った黒い杭が四本立っている。


 ハンナの背中は、もうこちらへ戻りかけていた。脇に抱えていた包みは、なくなっている。


 ボルドは、手前の杭の脇に立っていた。


 鍬は、足もとの土に寝かせてある。片手が杭の頭に載っていた。傾いた杭の傾いたぶんだけ、ボルドの肘も曲がっている。


 杭を、まっすぐに押し直すのかと思った。


 ボルドは押さなかった。手を載せたまま、ただ、杭と同じほうを向いて立っていた。


 鍬の音が、しない。


 風が二度、三度と麦を寝かせても、その背中は動かなかった。赤ら顔が、ここからでは見えない。広い肩の上で、外套の襟が風にめくれていた。


 やがて、ボルドは杭から手を離して、鍬を拾った。


 ざく。


 起こした土に、刃が入る音が、遠くまで届いた。ざく、ざく。さっきまで止まっていたぶんを取り戻すように、少しだけ速い。


「見てたのかい?」


 すぐそばで声がして、ノエは肩を跳ね上げた。ハンナが、畦道の途中で腕を組んでいた。


「……何を、渡したんですか?」


「荷だよ」


「どんな、荷ですか?」


「運ぶ前に、中身を聞かれたことはあるけどね。運んだあとに聞かれたのは、初めてだよ」


 ハンナは、東のはずれを顎でさした。


「言えないよ。知りたいなら、本人に聞きな。……答えやしないだろうけどさ」


 ざく、ざく、と鍬の音が続いていた。


◇


 夕食の卓では、ハンナがいちばんよく食べた。


 母のよそった豆の汁を、ひと息で半分まで空ける。黒パンをちぎる手も速い。二日、荷台の上で干し肉ばかりかじっていたらしい。


 父は匙を持ったまま、しばらく汁の表面を見ていた。


「……ボルドは、何か言っとったか?」


「おう、とだけね」


 ハンナは、パンを汁に浸しながら答えた。


「包みを受け取って、おう。次の便の話をしたら、おう。帰りしなに、おう」


「……そうか」


 父は匙を置いて、空いた椀を母のほうへ差し出した。


「何も言っとらんのに、なんであんたが動揺してんだい」


 母はそう言いながら、父の椀に汁をよそった。いつもより、少し多かった。


 ノエの椀は、まだ半分も減っていなかった。母がちらりとこちらを見て、黒パンを一切れ、黙ってノエの皿へ移した。


 ノエは、それを両手でちぎった。ちぎっただけで、口に運ぶのを忘れていた。


◇


 その夜、ノエは灯りの皿を卓の真ん中へ寄せた。


 新しい紙を一枚。筆に墨を含ませて、書き出す。


 ──ベルンの村、ミルダさんのお父上へ。ご用件、たしかに承りました。


 そこまで書いて、筆が止まった。


 卓の左に積んだ書付の、いちばん上の一枚が目に入る。宿の束の、誰かの畑の書付。その書き出しも、同じ形をしていた。ご用件、たしかに。


 毎日、何枚も書いてきた言い回しが、勝手に手から出てきていた。


 ノエは、紙を裏返した。


 紙は、無駄にできるほどあるわけではない。ちょっとした書き損じで捨てたなら、母に何と言われるか。


 裏の白いところを見ながら、しばらく考える。


 宿の束の書付なら、迷わずに書ける。欄があって、名前と、数と、境がある。どこに何を入れればいいか、紙のほうが教えてくれる。


 この手紙には、欄がなかった。


 ボルドは、どうしたか。待っとる、も、来んでも、も捨てて、本当にあることだけを言った。杭のことと、麦のこと。


 なら、自分が言えるのも、自分が見たことだけだった。


 ノエは、裏の白いところに書きはじめた。


 ──東はずれの杭は、まだ傾いたままです。


 ──今日、ボルドさんが、その杭に手を置いていました。


 ──長いあいだ、置いていました。


 三行目を書き終えて、筆が止まる。


 書いてやってくれ、という一行が、卓の上の紙の中から、こちらを見ていた。


 ボルドが何を言うかは、ノエには決められない。言うかどうかもわからない。


 でも、言いたくなったときに、誰が書くのか。それだけは、ノエのことだった。


 ──ボルドさんが言いたくなったら、そのときは、僕が書きます。


 ──ノーラの、ノエ


 灯りの芯が、じじ、と鳴った。皿の油は、もう底のほうに少し残っているだけだった。ノエは油を足さずに、墨が乾くのを待った。


 壁の向こうから、母の声がした。


「……ノエ。油、もったいないよ」


「……はい。もう寝ます」


 灯りを吹き消すと、窓の隙間から、細い月が見えた。


◇


 朝、ハンナは荷台の上で、書き終えた書付の束を麻紐でくくっていた。結び目を作る指が、一度も迷わない。


 ノエは、四つに畳んだ紙を一枚、両手で差し出した。


「これも、お願いします。ベルンへ」


 ハンナは束をくくる手を止めずに、目だけを紙へ動かした。


「宿の束のかい?」


「……いえ。僕の、手紙です」


 麻紐を引く手が、止まった。


「あんたの?」


「ミルダさんの、お父さんに」


 ハンナはしばらく黙っていた。それから、紐の端を口にくわえて、もう一度、強く引いた。


「……あの、咳の人かい?」


 ノエがうなずくと、ハンナはそれ以上、何も聞かなかった。何が書いてあるのかも、何も。


「手紙なら、運び賃は本人持ちだよ」


「わかってます」


 ノエは小屋へ走った。三歩目で息が上がって、残りは歩いた。


 卓の隅の、布の小さな包み。結び目を、初めてほどく。女房に向けた手紙の男が置いていった銭は、ひと晩の夜気を吸って、すっかり冷たくなっていた。


 ノエは銭をつまんで、手のひらの中に握りこんだ。息を整えながら、ゆっくり荷馬車のところへ戻る。


 差し出そうと手を開くと、銭は、もう冷たくなかった。


 ハンナはそれを手のひらで受けて、じっと見た。


「……初めて自分の銭で出す手紙が、ベルンのじいさん宛てとはね」


 ハンナの口の端が、少しだけ上がっていた。


「だめ、ですか?」


「だめなもんかい」


 ハンナは銭を腰の袋へ落とすと、ノエの手紙を外套の胸の内へしまった。書付の束とは、別のところだった。


「行ってくるよ」


 荷台が、ごとん、と石を一つ乗り越えた。車輪の音が坂を下りていき、やがて麦の向こうへ消えていった。


◇


 昼まで、ノエは表の山を書いた。


 三枚書いて、墨を乾かしに父の椅子のところへ出たとき、門のほうに目がいった。


 木で組んだだけの門の、柱の根もとに、誰かが座っていた。


 膝を抱えて、顔を膝に押しつけている。片方のつま先だけが動いて、門の下の土を、内から外へ、外から内へ、何度もならしていた。朝、ハンナの荷馬車が出ていったときには、誰もいなかったはずだった。


 ノエは、乾かしかけの書付を椅子の座面に置いて、門のほうへ歩いた。


 畑の向こうで、テッサが鍬を止めてこちらを見た。けれど、今日は何も言わなかった。


 近づくと、その誰かが顔を上げた。


 少年だった。歳は、ノエとそう変わらないだろう。背はノエより頭一つ高い。日に焼けた頬がこけて、唇の皮がむけている。頭からかぶった土埃で、髪の色がよくわからなかった。


 着ているシャツが、体に合っていない。肩が落ちて、袖を三重に折り返してある。その折り返しから出た手は、ノエの手とまるで違った。指の節が太くて、手のひらの付け根に、硬そうなまめが並んでいる。


 少年は、柱に手をついて立ち上がった。


 ノエの顔を見て、細い腕を見て、墨の染みた指を見た。それから、門の内側の、麦の青い畑を見回した。


 少年の喉が、ごくりと動いた。


「……年貢を、下げてくれるという人は、ここですかい?」


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