39話
荷馬車は、父の椅子の手前で止まった。
止まりきるより先に、荷台の上で二人が立ち上がっていた。
「だから、おまえの数え違えだって言ってんだろうが!」
「数えたのは、おまえだろうが! おれは見てただけだ!」
「見てただけのやつが、なんで三本も少ねえって言い切れんだよ!」
荷台が揺れて、馬が迷惑そうに首を振った。ハンナは手綱を片手にまとめたまま、振り返りもしない。
「着いたよ。さっさと降りな」
二人は言い合いをやめないまま、荷台の縁をまたいで下りてきた。
一人は、ずんぐりと背が低い。丸い肩に、太い首がそのまま載っている。額が頭のてっぺんまで禿げ上がっていて、日に焼けたそこだけが、汗でてかてか光っていた。
もう一人は、ひょろりと背が高い。白髪まじりの髪をうしろで一つに結んでいて、首が長い。袖からのぞく手首には、骨がごつごつと浮いている。
どちらも、父と同じくらいの歳に見える。二人とも、肩に一本ずつ長い棒を担いでいた。
ハンナが御者台から飛び降りて、顎で二人をさした。日に焼けた頬に、道の土埃が薄く載っている。
「九と十だよ。あんたの表でいうところのね」
外套の胸のあたりを、ハンナの手が一度だけ押さえた。それから、その手は馬の首へ移った。
ノエは、二人の顔を見比べる。
表の九と、十。九の南の境と、十の北の境は、同じ一本のはずだった。それなのに、棒の数が三本違っていた。
──一本なら、一回聞きゃいいじゃないか。
あのとき、ハンナがそう言って、ノエは十への聞き直しに一行添えた。九の人にも、立ち会ってもらうように。一回の運び賃で、二枚ぶん片づくはずだった。
「……揃わなかった、んですか?」
「揃わねえから、来たんだよ!」
二人の声が、ぴったり重なった。
◇
背の高い十の人が、先に父の椅子へ向かった。
ずんぐりした九の人が、その肩を押しのけて先に腰を下ろす。短い脚が、かたん、と土を打った。
「うおっ」
九の人が跳ね上がった隙に、今度は十の人が座る。かたん。
「なんだ、この椅子は!」
「一本だけ短いんです。元からなので、気にしないでください」
ノエが言っているあいだに、九の人が十の人の袖を引っぱって立たせ、また自分が座ろうとする。十の人が、その襟をつかむ。椅子は二人のあいだで、かたん、かたん、と鳴りつづけた。
納屋の戸口で、父が鍬を壁に立てかけた。
「……椅子は、一つしかないと、言ったろう」
「言っただけで何もしてないから、こうなるんじゃないか」
前掛けで手を拭きながら、母が家の裏から出てきた。
結局、二人とも座らなかった。空いた椅子の両側に立って、まだ睨み合っている。ノエは、誰も座っていない椅子の前で、藁の丸に膝をついた。
「あの……最初から、話してもらえますか?」
十の人が、先に口を開いた。
「あんたの紙が来たろう。北の境を、もう一回測れって。こいつにも見てもらえって」
「だから、見てやったんだよ」
九の人が、横から割りこむ。
「こいつが棒を倒すのを、おれが端から端まで、ちゃんと見てた。小石も、おれが数えた。そしたら、前とおんなじ数だ」
「おんなじ数なら、合ってるってことだろうが」
「おれが自分で測ったときは、三本少なかったんだよ!」
「だから、おまえの数え違えだって言ってんだ!」
「おれは十倒すごとに、ちゃんと石を移した!」
「おれだって移したわ!」
「おまえは昔っから、数が十を越えるとあやしくなるんだ!」
「そりゃ、鼻垂らしてたころの話だろうが!」
二人の声が、だんだん大きくなっていく。畑の向こうで、テッサが鍬を止めて、こっちへ首を伸ばしていた。
「宿の主人の見本の棒に合わせて、二人で同じ日に切ったんだ。棒が違うわけがねえ」
十の人が、肩の棒を下ろしてノエのほうへ突き出した。
「嘘だと思うなら、こいつで測ってみろ」
「こっちのでもいいぞ!」
九の人も、負けじと自分の棒を突き出す。二本の棒の先が、ノエの鼻先で交わった。
ハンナが、その二本の先を指でひょいとつまんで、上へよけた。
「振り回すんじゃないよ。それも荷なんだからね。運び賃、二本ぶん、ちゃんともらってるんだよ」
それから、ハンナはつまんだ二本の先を見比べて、首をかしげた。
「……そういや、積むとき、変だったんだよね」
「何が、ですか?」
「荷台に、二本並べて寝かしたんだよ。片っぽは、うしろの板からこぶし一つぶん、はみ出してた。もう片っぽは、出なかった」
ハンナは、荷台のうしろの板を顎でさした。
「置き方がずれたんだろうと思ってたけどさ。あたし、荷を寝かすときは、前の板にきっちり当てるんだよ。毎回ね」
二人の言い合いが、ぴたりと止まった。
ノエは、藁の丸から立ち上がった。
「父さん。うちにも棒がありましたよね?」
「ああ、持ってくるよ」
父が納屋から持ってきたのは、ノーラの畑を端から端まで測った棒だった。ハンナがヴェルダの縄張り屋から持ち帰ったもので、両端が手の脂で黒くなっている。
ノエは、椅子の前の土に、三本を並べて寝かせた。片方の端を、父の椅子の脚にそろえて当てる。
村の棒と、九の人の棒は、反対の端でもぴたりとそろった。
十の人の棒だけが、こぶし一つぶん、足りない。
しばらく、誰も口を開かなかった。坂の下から上がってきた風が、椅子の前の土埃を、三本の棒の上へ薄く流していく。九の人は自分の棒を見て、十の人の棒を見て、それから村の棒を見た。十の人は、どれも見ていなかった。
十の人がしゃがみこんで、自分の棒の先をつまんだ。先は小刀で丸く削ってあって、削り跡だけが、ほかのところより白い。
「……これは、ささくれてたから、落としたんだ」
「ささくれて、たんですか?」
「割れてたんだよ。北を測りに行く朝に、気がついたら、先が……」
十の人の声が、そこで止まった。
九の人が、禿げた額を、急に手のひらでこすりはじめていた。
「……おい」
九の人は、返事をしない。
「おまえ、あの朝、畦に蛇が出たって、おれの棒で──」
「……叩いた」
「叩いたな?」
「叩いた。……先が、ぱきっと言った気が、しねえでもねえ」
「言えよ!」
「おまえが、黙って削ってたからだろうが!」
畑の向こうで、テッサが鍬の柄に突っ伏した。母は、急に井戸の桶の具合を見に行った。井戸の陰から、ぷっ、と短い音が漏れる。
ノエは、膝の上で両手を握っていた。笑いをこらえると、腹の奥がひくひくと痛んだ。
◇
「ほかの境は、北より先に測ったんですか?」
ノエが聞くと、十の人は、まだ棒の先を指でなでながら答えた。
「北がいちばん最後だ。東と西と南は、その前の日に済ませた」
「蛇は、北の朝だ」
九の人が、ぼそりと言い足した。
「なら、ほかの三つは、そのままで大丈夫だと思います」
ノエは、九の人の顔を見た。
「北の境は、九の──あなたの棒の数で、書き直してもいいですか?」
九の人が、ぐっと胸をそらした。何か言おうとして口を開けたが、それより先に、十の人の声がした。
「……おう。書いてくれ」
ノエは、小屋から十の紙を持ってきて、父の椅子の座面に広げた。定規を当てて、北の欄の数を一本の線で消し、その横に九の人と同じ数を書く。下の立ち会いの欄に、二人の名前を並べた。
筆を動かしているあいだ、両側から二人の鼻息が聞こえていた。どちらも、身を乗り出しすぎている。九の人の影と十の人の影が、座面の上で重なっていた。
「これで、どちらの紙とも、揃うと思います」
十の人は紙を受け取ると、しばらく両手で持っていた。それから、シャツの胸の内へ手を入れた。
「書き賃は──」
「前の紙の直しなので。前回いただいてます」
十の人の手は、胸の内で一度止まって、それから、ゆっくり出てきた。何も持っていなかった。
「……そうか」
ノエは、筆を持ったまま、二人の顔を見上げた。
「あの……どうして、二人で来たんですか?」
二人が、同時にノエを見た。
「紙でもう一回、聞き直してもよかったと、思うんですけど」
「紙なんぞ待っとったら、穂が出ちまうわ」
十の人が、鼻を鳴らした。
「それに、こいつ一人で来させたら、自分の数で書かせるに決まっとる」
「おまえ一人で来させたら、三本ちょろまかすだろうが!」
九の人が言い返して、二人はまた、椅子をはさんで睨み合った。
ノエは、筆を洗いに小屋へ戻った。卓の隅に、布の小さな包みがある。女房の紙の男が置いていった銭は、まだ一度もほどいていなかった。
◇
二人は、その日のうちに帰ると言った。
「畑が待ってるからな」
「待ってんのは、おまえの女房だろうが」
「おまえのとこもだろうが!」
言い合いながら、二人は坂を下りていく。十の人の肩には、棒が二本と、九の人の麻袋が載っていた。九の人は手ぶらのまま、ときどき十の人の背中を、肘で小突いている。
ハンナが、ノエの隣で腕を組んだ。
「運び賃、二人ぶん、あの背の高いほうが出したんだよ」
「……二人ぶん、ですか?」
「九の人は、払えないからね」
ノエの耳の奥で、九の紙の添え書きが、宿の主人の太い字のまま浮かんだ。
──この者、春の種で銭が尽きた由。
母が、坂の二人を眺めて、目を細めた。
「……あれで、仲がいいんだねえ」
「荷台の上でも、ずっとあの調子だったよ。……夜は、肩くっつけて寝てたけどね」
坂の途中で、九の人が十の人の肩から、短いほうの棒を引き抜いた。それで、十の人の尻をぱしんと叩く。十の人が振り返って何か怒鳴ると、九の人も怒鳴り返して、それから二人とも、同じところで吹き出した。
笑い声だけが、坂を上ってきた。
二人の背中は、坂の途中でだんだん小さくなっていく。坂の白い土の上で、二人ぶんの足跡が、くっついたり離れたりしながら下っていた。
ノエは、空いた父の椅子の前に立ったまま、それを見ていた。座面の木目に、墨が一滴、小さく落ちていた。
◇
納屋の中は、汗をかいた馬の匂いと、干した藁の匂いでいっぱいだった。
ハンナは、ひと掴みの藁で、馬の首をこすっている。藁を握る指の節に、麻の粉が白くついていた。ノエは桶に水を汲んできて、その足もとに置いた。
「宿の主人がね、この束のぶんは、書けたら持ってきなってさ。うちで渡すから、って」
「運び賃は……」
「あの人の束への、返事だろ? あの人持ちだよ」
ハンナは、藁を持ち替えた。
「一人前のことも、ちゃんと言っといたよ」
「あの人、なんて……」
「知っとる、だってさ。紙を見りゃ、わかるって」
ノエは、桶の縁を握った。
「……残りも、すぐに書きます。書けたぶんから、次の便で持っていってください。宿の主人さんに、もう待たせませんって」
「言っとくよ。……あんまり、夜ふかしするんじゃないよ」
あとね、とハンナは続ける。
「お礼の手紙も、渡したよ。いつか、お声を聞きに行きます、だってね」
「……どうして、知ってるんですか?」
馬の首をこすっていたハンナの手が、止まった。
「……あの人が、勝手に読み上げたんだよ。かまどの前で。細い声でね」
藁が、また動きだした。さっきよりずっと強く、ごしごしと鳴る。馬が、ぶるる、と鼻を鳴らした。
「あたしは、たまたま、そこにいただけさ」
あの夜、宿の主人の顔を思い浮かべようとして、ノエにはうまくできなかった。
今は、かまどの前で、鳥の鳴くような声が、自分の書いた一行を読んでいるところが、少しだけ思い浮かぶ。
ノエは、うつむいた。前髪が目にかかって、ちょうどよかった。
「ベルンには……」
「寄ったよ。ボルドのとこへは、これから行く」
ハンナは藁を馬の背に放ると、外套の胸に手を入れた。さっき、荷台の前で押さえていたところだった。
出てきたのは、四つに畳んだ紙が一枚。
「それと、これ。ミルダさんから。あんたに、だってさ」
ノエは、両手で受け取った。
表に、ノエの名前が書いてある。震えた字だった。
その字を、ノエは知っていた。
ボルドさんの畦で、指でなぞりながら読んだ、ミルダさんの返事。三つの行から少し離れて、最後に一行だけ置かれていた字。
──代わりに書いた。
あの一行と、同じ字だった。




