38話
「ノエ、まだ来ないのかい? 宿のほうからの人ってのは」
テッサの声が、畑の向こうから飛んできた。鍬の柄に両手を重ねて、その上に顎を載せている。
ノエは、父の椅子の座面から顔を上げた。座面には、昼のうちに書き終えた書付が三枚、墨を乾かすために並べてある。
「まだみたいです」
「昨日もまだだったじゃないか」
「……そうですね」
「おとといもだよ! あんた、ちゃんと坂を見てるのかい?」
「……見てないです。書いてるので」
テッサは鍬の柄から顎を離して、隣の畝を振り返った。
「ちょいと、聞いたかい? ノエってば、坂を見てないんだってさ」
隣の畝で、セルグは黙って鍬を振っていた。ざく、と土に刃が入る。返事のかわりのように、もう一度、ざく、と鳴った。
「もういいよ。あたしが見とくからね!」
テッサはそう言って、本当に坂のほうへ体ごと向き直った。鍬は、柄に顎を載せたまま動かなかった。
ノエは、乾いた書付を重ねて、小屋へ戻った。
小屋の床の山は、毎日、少しずつ低くなっている。朝、表を開いて、上から順に一枚取る。欄を読み、定規を当て、名前を写す。書き終えた紙は卓の左へ置いて、表の名前の横に「書いた」と入れる。表の右側には、もう「書いた」の字が縦に並びはじめていた。
そのぶん、右手の中指のたこは、日ごとに硬くなっていく。夜、灯りの皿の前で手を開くと、爪の際の墨は、水で洗っても落ちなくなっていた。
畑の麦は、指一本ぶんの丈を、いつのまにか越えていた。風が来ると、芽の先が一斉に同じほうへ寝て、畑の土の色が一瞬だけ見えなくなる。
小屋の床の端には、まだ四枚が残っていた。
◇
「ノエ! ノエってば!」
テッサが畦道を走ってきた。前掛けの裾を片手でつまんで、もう片方の手で、門のほうをさしている。
「来たよ! 知らない人だよ!」
ノエは筆を置いた。
戸口から出ると、テッサはもう門のほうへ引き返していた。その背中を追って、ノエも畦道を急ぐ。三歩目で、息が上がった。
門の柱に、男が一人、片手をついていた。
木で組んだだけの柱に、土埃の手形が大きく残っている。男はそこから手を離して、一度、自分の手のひらを見た。それから、門の内側を見回した。
父より、いくらか若いだろう。赤茶けた髪が、短く刈ったまま伸びて、あちこちへ跳ねている。頬はこけて、顎には不揃いな髭がある。日に焼けた首筋に、汗の筋が乾いて白く残っていた。
背中に、口を縛った麻袋を一つ。足もとを見ると、革の靴の底がすり減って、片方の紐は藁を縒ったものに替えてあった。
「……その、ノーラの、代筆屋さんは、こちらで?」
男の声は、低くかすれていた。何日も、誰とも喋っていない声に聞こえた。
テッサが、ノエの背中をぐいと押し出した。
「この子だよ」
男の目が、ノエの顔へ下りてくる。頭のてっぺんから、細い腕、墨の染みた右手まで。それから、もう一度、顔へ戻った。
「……その、代筆屋さんの、息子さんか?」
「本人だよ!」
テッサが、ノエより先に答えた。
男は、口を開けたまま、しばらく閉じなかった。
ノエは、男の手を見ていた。指が太くて、関節のところどころが白くひび割れている。その手が、麻袋の紐を握り直した。
「宿の主人の、教えてくれた道で来たんだが」
男は、門の外の坂を振り返った。
「……途中で、二度、戻ったんだ」
テッサが、前掛けで口を押さえて背中を丸めた。
◇
男が父の椅子に腰を下ろすと、短い脚が、かたん、と土を打った。
男は、ばね仕掛けのように立ち上がった。
「す、すまん。脚が──」
「一本だけ短いんです。元からなので」
ノエが言うと、男は椅子の脚をのぞきこんで、それから、そっと座り直した。今度は、かたん、の音に肩を縮めただけで、立ち上がらなかった。
ノエが、椅子の前の藁の丸に膝をつく。
「お、おい、膝が──」
「汚れないんです。これがあるので」
ノエは胸を張って、言った。
男は藁の丸を見下ろして、何か言いかけて、やめた。
母が、桶を提げて家の裏から出てきた。男を見ると、足を止めずに井戸のほうへ回って、柄杓に水を汲んでくる。
「ほら、飲みな」
男は両手で柄杓を受け取って、ひと息で飲んだ。喉が、ごくりと大きく鳴った。
「それで、どの紙のひとですか?」
ノエが聞くと、男は自分の名を言った。
聞いたことのある名だった。小屋の床の端の四枚の、いちばん上。ふるえた大きな字で、何度も止まっては書き継いであった紙の、あの名前だった。
「……女房さんの、手紙の」
「そうだ」
男は、柄杓を膝の上で握ったまま、ノエを見た。
「女房が戻ってくる手紙を、一通……書いてもらえるか?」
ノエは、男の手から目を上げた。
顔を見る。日に焼けた頬の上で、男の目は、少しも動かずにノエを待っている。
喉が、からからに乾いていた。
「……すみません。女房さんが戻ってくるような手紙は、書けません」
声は、思っていたよりはっきり出た。
男は、すぐには何も言わなかった。柄杓を握った指から、少しずつ力が抜けていく。
「……だろうな」
それだけ言って、男は柄杓を母に返した。
母は柄杓を受け取ると、桶の縁に掛けて、男の前に立った。
「で、その女房さんは、今どこにいるんだい?」
「姉さんのとこに。……うちから、半日の」
「半日?」
母が、男の足もとを見た。すり減った靴の底と、藁の紐を。
「ちなみに、ここまでは?」
男は答えずに、片手を上げた。指を一本ずつ立てていって、五本で止まる。それから、少し迷って、もう片方の手の指を一本、足した。
「途中で、二度、戻ったんで」
母の肩が、小刻みに揺れはじめた。こらえきれずに、前掛けで口を押さえる。
「半日のとこへは行かないで、こんな遠くまで歩いてきたのかい!」
男の首筋が、赤くなっていった。
ノエの耳の奥で、夕食の卓の声がした。
──戻ってくるかどうかは、手紙じゃなくて、亭主の振る舞い次第だよ。
すり減った靴の底を、ノエはもう一度見た。
「……行っても、口が、思うように動かねえんだ」
男が、膝の上で両手を組んだ。太い指が、組んではほどけ、また組まれる。
「あいつがおったころから、おれは何も言わんかった。汁がうまくても、うまいと言わん。手間をかけても、すまんと言わん。言わんでも、わかっとるもんだと思っとった……」
畦道のほうから、鍬を担いだ父が戻ってきた。男の言葉が聞こえたのか、父は井戸の脇で足を止め、桶の水で黙って手を洗いはじめる。
「出ていく日の前の晩に、あいつが言ったんだ。あんたは、あたしがおってもおらんでも、同じなんだろ? って」
母が、ちらりと父の背中を見た。
父は手を洗う手を止めずに、男のほうを見ないまま言った。
「……言わんでも、伝わっとると、そう思っとったんだろう?」
「そうなんです」
男が顔を上げた。
「わかっとると、思っとったんです」
父は、それきり何も言わなかった。濡れた手を腿で拭くと、鍬を納屋の壁に立てかけに行った。母の口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「なら、言いに行きゃいいじゃないか。半日なんだろ?」
母に言われて、男は首を振った。
「口が、動かねえんです。それに、あいつは字が読めん。紙だけ置いてきても──」
男の声が、そこで止まった。
自分の手を見ている。ふるえた大きな字を書いた、あの手だった。
「……おれが、読むしか、ねえのか」
誰に言ったのでもない声だった。
ノエは、膝の上で親指の腹を人差し指の横に当てた。
戻ってくる手紙は、書けない。でも、この人が、自分の口で読む手紙なら。
「それなら、書けます」
男の目が、ノエに戻ってきた。
「あなたが、自分で、女房さんの前で読む手紙なら──それなら書けます」
◇
夜、父の椅子を小屋の中へ運び入れた。
男は、その椅子に浅く腰かけて、背中を丸めていた。卓の上には、灯りの皿と、新しい紙が一枚。ノエは床の端の四枚から、男の紙を抜いてきて、その隣に並べる。
ふるえた大きな字を、男は少しのあいだ眺めていた。
「……自分で書いた字は、なんとか読めるんだ。でも、人の書いた字は、半分もわからんくて」
「じゃあ、この字の大きさで書きますね」
ノエは、筆を取った。
男は、ぽつりぽつりと話した。話すたびに、途中で止まった。止まると、天井の梁を見上げて、それからまた話した。ノエは、男が言ったとおりの言葉を、一字ずつ離して、大きく書いていく。
かまどの火を、何べんも消したこと。汁を作ってみたら、塩が辛すぎて、自分でも飲めなかったこと。女房さんが座っていたところに、気がつくと籠を置いていたこと。
紙の上で、男の言葉が、男の字と同じくらいの大きさで並んでいく。
最後の一行の前で、男が黙った。
灯りの芯が、じじ、と小さく鳴った。
「……それを、言いに行くんだな。おれは」
ノエは、その言葉を書いた。
おまえが出ていってから、かまどの火を、何べんも消した。
汁を作った。からくて、飲めなかった。
おまえの汁は、うまかった。
ずっと、言わんかった。すまん。
それを、言いに来た。
男は、紙を両手で持った。
「……読んで、みてもいいか?」
「どうぞ」
男の唇が動いた。声は出ていない。指で一字ずつ押さえながら、口の中で読んでいる。三行目で、指が止まった。
それから、声に出して読みはじめた。
「おまえが、出ていってから」
一字ごとに、声がつかえた。かまど、で止まり、何べんも、で止まる。止まるたびに、男は息を吸い直した。
「おまえの、汁は」
そこで、声が切れた。
男は紙を持ったまま、しばらく動かなかった。灯りの皿の火が、男の頬の上で揺れている。
戸の外で、母の足音が止まった。それきり、足音は戻っていかない。
「……うまかった」
男は、最後まで読んだ。
「それを、言いに、来た」
紙を膝に下ろすと、男は、長い息を吐いた。
ノエは、膝の上で両手を握っていた。自分の書いた字が、知らない人の声になって小屋の中に出ていくのを、ノエは初めて、こんなに近くで聞いている。
男は紙を四つに畳むと、麻袋の口を開けた。紙を、いちばん奥へしまう。かわりに、布の小さな包みを取り出した。
卓の上で、布をほどく。銭が、何枚か並んでいた。
「書き賃だ。足りるかは、わからんが」
ノエは、すぐには手を出せなかった。
「あの、頼まれたものは、書けていないので──」
「取っときな」
戸が開いて、母が顔だけをのぞかせた。
「この人は、あんたに払うつもりで、あの坂を上ってきたんだよ。そうなんだろ?」
男は、母を見て、うなずいた。
ノエは、両手で銭を受け取った。手のひらの上で、銭はまだ、男の懐の温みを残していた。
男は、もう一枚、銭をつまんで差し出した。
「それと、これは、泊まりと飯の」
「いらないよ」
母の声が、すぐに返ってきた。
「うちは宿屋じゃないよ。納屋に藁を敷いといたから、さっさと寝な」
戸が閉まった。
男は差し出した手を、しばらく宙に浮かせていた。それから、銭を布に戻して、包みを結び直した。
◇
朝、男は、坂の上で一度だけ振り返った。
藁の紐は、夜のうちに父が新しいのに替えていた。坂を三歩下りたところで、その紐がほどけた。男はしゃがみ込んで、自分で結び直す。納屋の戸口で、父が急に鍬の柄を眺めはじめた。
結び直した紐を踏みしめるように、男はゆっくり坂を下りていく。麻袋が背中で揺れて、すり減った靴の底が、坂の白い土に跡をつけていった。
うちへ帰る道とは、半日ぶん、違う道だと言っていた。
男の背中が、坂の途中で小さくなる。ノエは父の椅子の前で、それを見送っていた。椅子の座面は、まだ朝露で湿っている。
がらがら、がらがら。
坂の下から、車輪の音が上がってきた。
男が、道の端へよける。その脇を、荷馬車が勢いよく上ってくる。御者台で手綱を片手にまとめているのは、ハンナだった。
すれ違いざまに、ハンナが男を振り返った。それから、こちらを見上げて、片手を大きく振る。
ノエも手を上げかけて、止まった。
荷台の上に、知らない顔が、二つ並んでいた。




