37話
「ちょっと、それ、どけとくれよ。鍋が置けないじゃないか」
母が、布を巻いた両手で鍋を提げたまま、卓の前で足を止めた。
卓の真ん中には、麻紐でくくった束が載っている。夕方、ハンナがノエの膝に置いていったものだった。向かいにハンナが座り、その隣では父が、空の椀を手の中でゆっくり回している。
「ごめんなさい。ほどけなくて」
ノエは、もう一度、十字の結び目に指をかけた。爪の先で紐をつまんで引くと、結び目はほどけるどころか、かえって固く締まっていく。
「ほどけないなら、切りゃいいんだよ」
母は鍋をかまどの縁に戻すと、壁に掛けてあった小刀を取る。その刃が紐の下へ差し込まれるまで、ひと息もかからなかった。
「──ま、待った! 待った!」
ハンナが腰を浮かせた。椅子が、がたん、と鳴る。ハンナの手のひらが、刃と束のあいだに割って入った。
「危ないじゃないか。怪我するよ」
「それ、宿の主人の紐なんだよ」
「でも、紐は紐だろ?」
「返す荷を、またそれでくくるんだよ。切ったら短くなって、次から十字に掛からなくなるじゃないか」
母は刃を差しこんだまま、ハンナの顔を見た。ハンナも、母の顔から目をそらさなかった。
父が、椀を卓に置いた。
「……マイラ。粥が冷めるぞ」
「冷めるのは、この紐のせいだよ」
それでも母は小刀を引いた。刃を前掛けで一度ぬぐってから、壁へ戻す。かつん、と鳴った音は、いつもより大きかった。
ハンナは、束をノエのほうへ押しやった。
「上に出てる輪っかに、爪を入れてごらん。そう、そこだよ。起こしたら、下をくぐってるほうの端を引くんだ」
言われたとおりに輪を起こし、下をくぐっている紐の端をつまんで、そっと引く。さっきまで指をはね返していた結び目が、するりとゆるんだ。
「……きれいにほどけました」
「ほどけるように結んであるんだよ。運び屋の技だね」
ハンナはゆるんだ紐を指に巻きとって小さな輪にすると、自分の膝の上に置いた。
母が、鍋を卓に置いた。今度は、音がしなかった。
◇
ノエは、紙を卓の端から並べていった。
一枚ずつ、色が違う。灰がかった紙があり、黄ばんだ紙があり、角が茶色く焼けた紙がある。一枚は帳面をちぎったもので、裏には誰かの勘定の数が並んだままだった。字も違った。見慣れた宿の主人の太い字のあいだに、知らない人の細い字が混じっている。一字ごとに書く人が替わったような、大きさのそろわない字もあった。
椀をよけて並べても、卓はすぐに埋まった。あふれたぶんは、膝の上に重ねていく。
「一、二、三……」
父の太い指も、卓の上で紙を追っていた。
「……二十と、いくつだ?」
「あんたは数えなくていいよ。食べてな」
母が、父の椀に粥をよそった。父はそれを受け取ると、すぐに口をつけた。
ノエは膝の上の紙を、一枚ずつ卓の端へ移していった。最後の一枚を置いて、指を止める。
「三十五枚、です」
声に出してから、もう一度、端から目でなぞった。数は変わらなかった。
順番の表の十三は、紙の右端ぎりぎりに書いてある。十四を書く場所は、もうどこにもない。
ハンナは粥をすすりながら、ノエの顔を見ていた。
「重いはずだろ?」
「で、なんて書いてあるんだい?」
母が、自分の椀を置いて身を乗り出した。
ノエは、いちばん手前の一枚を取った。
「……畑を、息子の名に。父が寝ついた。父の名のあるうちに」
欄の紙だった。冬にノエが引いた線が、宿の主人の手でそっくり写してある。線は少し太く、ところどころ曲がっていたが、欄は一つも空いていない。
次の一枚も、同じ欄の紙だった。
「娘が、嫁に行く。穂が出る前に。畑の端を、持たせてやりたい」
「いい話じゃないか」
母の口の端が上がった。
三枚目は、灰がかった紙に、細い字が三行だけ並んでいた。ノエは声に出すのを忘れて、それを二度読んだ。
「なんだい?」
「……お兄さんへの、詫びの手紙です。二十年、会っていないって」
母は何も言わなかった。父の匙が、椀の縁で一度止まった。
四枚目は、宿の主人の太い字だった。
「この紙を書いてもらえば、年貢が下がると聞いた。……下げてくれ」
父が、顔を上げた。
「……下がるのか?」
「下がるわけないだろ」
母の声が、ノエより先に出た。
「下がらないと……思います」
ノエが言い足すと、父は「そうか」とだけ言って、空になった椀を母のほうへ出した。母は黙って、二杯目をよそった。
「宿近くの井戸じゃあね──」
ハンナが、匙の先で卓の上の紙をさした。
「──ノーラの代筆屋が一枚書いたから、代官様が畑を返してくれた、ってことになってるのさ」
「返してくれたんじゃないです。取り上げられずに済んだ、っていうだけで──」
「井戸端の話に、そんな細かいとこは残らないよ」
ノエは口を開けたまま、言葉の続きを探した。見つからなかった。
五枚目は、ふるえた大きな字だった。本人が書いたのだろう。線が何度も途中で止まっては、そこからまた書き継いである。
「……女房が、出ていった。戻ってくる手紙を、一通」
「戻ってくるかどうかは、手紙じゃなくて、亭主の振る舞い次第だよ」
母はそうカラリと言い飛ばすと、ちらりと隣を見る。
父は二杯目の粥を、ひと息に半分すすった。
「……俺は、何もしとらんぞ」
「まだ、何も言ってないよ」
ハンナが、椀で口を隠して肩を揺らした。
ノエも笑いかけて、六枚目を手に取ったところで止まった。
帳面をちぎった、あの紙だった。表には名前が一つと、その下に一行だけ。字は大きく、線は太すぎたり細すぎたりして、紙の端からはみ出しそうだった。
「字は、ここまで書ける。あとを、たのむ」
ハンナが、横から首を伸ばした。
「……たのむ、は読めるね」
それきり、ハンナは粥に戻った。
残りの紙を、ノエは声に出さずに読んでいった。畑を誰の名にするか。隣とどこで境を引くか。どこの村の誰に、何を伝えてほしいか。欄の紙で来たものもあれば、紙の真ん中に一行だけ書いてあるものもある。年貢の一枚と女房の一枚のほかにも、ノエには書けないことを頼んでいる紙が、あと二枚あった。
どの紙も、ノーラの代筆屋に宛ててある。卓の上に一枚置くたびに、ノエの知らない顔が一つずつ増えていくようだった。
年貢の一枚に、手のひらを載せる。宿の主人の太い字の下で、紙はかすかにざらついている。
この紙に、何と書いて返せばいいのだろう。
最後の一枚も、宿の主人の字だった。宛名だけが、いつもとは違っていた。
「ああ、それね」
ハンナが匙を置いた。
「あの人が、くくる前に自分で書いて、いちばん下に入れてたよ。あんた宛てさ」
ノエは、その紙を開いた。
「宿屋が、紙で埋まった。この束で、しまいにする。次からは、ノーラへじかに行けと言う。道は、教えておく」
読み終えても、しばらく誰も口を開かなかった。
「……ここへ、来るのかい? 知らない人が?」
母の声が、いつもより少し高かった。
「もう言ってたよ。あたしが発つ前の日から、井戸のまわりでね」
ハンナは、椀の底に残った粥を匙で集めた。
「ま、あの人の道の教え方じゃ、半分は迷うだろうけどね」
父は、戸のほうを見ていた。戸の外のいつものところには、背もたれのない椅子が出してある。
「……椅子は、一つしかないな」
「あんたが座らなきゃいいんだよ」
母に言われると、父は、そうか、という顔をして、三杯目の椀を出した。
ノエは宿の主人の紙を、両手で持ったままでいた。太い字の行の終わりが、どれも少しだけ右へ逃げていた。
◇
小屋に戻ると、ノエは紙を床に並べた。卓には、とても載りきらなかった。
灯りの皿を床に下ろし、その横に膝をつく。並べた紙の上に指を置くと、一枚ごとに手ざわりが違った。毛羽立った紙、指が吸いつくようになめらかな紙、手の脂を吸って柔らかくなった紙。どれも、誰かがどこかから持ってきた紙だった。
棚から、順番の表を出した。一から十三まで、数と名前が縦に並んでいる。十二の横に「書いた」、十一の横に「出した」、三の横に「返した」。どれも、自分の字だった。
新しい紙を一枚取って、大工の定規を当てた。雪解けの一枚の兄が、ハンナに託してよこしたものだった。紙の右端に線を二本引くと、縁の小さな刻みが、指の腹にこつこつと当たった。
いちばん上に「十四」と書きかけて、筆が止まる。
冬に宿へ送った紙には、こう書いた。
──届いた順に書きます。
この三十五枚は、一度に届いている。届いた順は、ここにはない。
ノエは、床の紙を見渡す。
雪の日、アルマの紙を上に置いた。期限が書いてあった。そのぶん、ヨルンの書付は次の便まで待つことになった。
雪解けの一枚には、こう書いてあった。
──兄が雪解けに戻る。戻る前に。
その紙が戻ってきたとき、坂の雪は、もうどこにもなかった。
グレタの聞き直しは、運び賃がなくて、しばらくノエの手元に残った。そのあいだに、十二の横には「書いた」が入った。ノエは、何もしていなかった。
ノエは、父が寝ついたという一枚を拾い上げて、自分の膝の前に置いた。娘が嫁に行くという一枚を、その隣に。期限の書いてある紙がもう一枚見つかって、それも並べた。
残りの紙を、欄の揃っているものと、空いたところのあるものとに、左右へ分けていく。宿の主人の添え書きのある一枚を手に取ったとき、指が少しのあいだ止まった。それから、ほかの紙と同じように、欄の揃っているほうへ置いた。
兄への詫びの紙は、どちらにも置けなかった。しばらく持ったまま見ていて、それから膝のうしろに、別に置いた。遠くの誰かへの言伝も、その上に重ねていった。
年貢の一枚と、女房の一枚と、書けないほかの二枚は、いちばん端に置いた。
書きかけの「十四」の紙を脇へよけて、もう一枚、新しい紙を取った。いちばん上に、父が寝ついたという一枚の名前を書く。名前を一つ書くたびに、床の紙を一枚、表の順に重ねていった。期限のあるものの横には、短い線を一本ずつ入れた。手紙の束と端の四枚は、表に載せなかった。
最後の名前を書き終えると、ノエは積み上がった山を両手でそろえた。紙の色がまちまちなので、端をそろえても、山の横腹はまだらに見える。
三枚の書付は、その夜のうちに書いた。
定規を当てると、欄の線は終わりまで逃げなかった。父が寝ついたという一枚には、新しく名前を書く人の欄に、息子の名前がある。その下に、立ち会いの名前が三つ。ノエはそれを一字ずつ写しながら、寝ているという父親の名前を、いつもよりゆっくり書いた。
三枚目を書き終えて、筆を置こうとして、やめた。
床の端に、宿の主人の紙がある。
棚の奥から、泊まりの書付を一枚出した。宿の主人の小さな字で「この紙を持つ者を、一晩泊める」と書いてあり、その下に、宿の主人の名前があった。
ノエは、その名前を宛名に写した。
書きはじめると、筆は思っていたより迷わなかった。
宿の主人さんへ
ノーラのノエです。
冬から、たくさんの紙を、ありがとうございました。
宿屋なのに、手紙屋の仕事までさせてしまって、すみませんでした。
次からは、こちらで受けます。
いただいた泊まりの書付は、大事に取ってあります。
いつか、お声を聞きに行きます。
細い声なのだと、以前ハンナが言っていた。鳥が鳴いているみたいだ、と。
あの太い字を書く人が、細い声でこの手紙を読むところを、ノエは思い浮かべてみた。うまく、思い浮かべることができなかった。
灯りの皿の油は、半分ほどに減っていた。右手を開くと、中指の横がじんと痛む。ノエは筆を置いたその場で、床に座りこんだ。
◇
戸を開けると、夜露を吸った土の匂いが、小屋の中へ流れこんできた。
ノエは、父の椅子に紙を載せて、その前の藁の丸に膝をついた。書付が三枚と、宿の主人への手紙が一枚。その上から、宿の主人の紐を十字に掛ける。
ゆうべほどいたときの手の動きを、ノエは覚えていた。輪を起こして、下をくぐった端を引く。その逆を、ゆっくりたどっていく。一度目は、輪が裏返って崩れた。二度目は、紐が紙の角からずり落ちた。
三度目の結び目ができたところで、がらがら、と車輪の音がした。
ハンナの荷馬車が納屋のほうから回ってきて、小屋の前で止まった。御者台の上から、ハンナがノエの手元を見下ろしている。
「どれ、貸してみな」
ハンナは御者台から飛び降りると、結び目をつまんで、くいと引いた。もう一度、引いた。
結び目は、ほどけなかった。
「……ほどけないね」
ハンナの口の端が上がった。それから、開いたままの戸口から、小屋の中をのぞきこんだ。
床の上に、まだらな紙の山がある。そのいちばん上に、ゆうべの表が載っていた。
「あれ、何だい?」
「順番の表です。新しいの」
ハンナは中へ入って、表を両手で広げた。名前は読めなくても、数と線は読める人だった。
「この、横の短い線は?」
「期限のあるものです。往って戻ってくるあいだに、間に合わなくなりそうなのを、先にしました。その次が、欄の揃ってるもので、空いてるところがあるのは、その後です」
「銭のないのは?」
「銭では、動かしてません」
ハンナの目が、床の端へ行った。表に載っていない紙が、二つに分けて置いてある。
「そっちは?」
「手紙のは、一行では書けないので、別にしました。……その人の話を、聞かないと」
「その端っこの四枚は?」
「……書けない紙です」
ハンナは、しばらく何も言わなかった。表を持ったまま、床の山を上から順に、目でなぞっている。
「あたしは、冬に、袋から出した順でいいだろって言ったっけね」
「はい、そう言ってました」
「あたしが決めてたら、こうはならなかったよ」
ハンナは表を畳んで、ノエの胸に押し返した。
「あんた、もう一人前の代筆屋だよ。宿の主人にも、そう言っとくからね」
ノエは、表を受け取った。
耳の先が熱くなっていくのが、自分でわかる。何か返そうとして口を開けたが、出てきた声は、ひどく小さかった。
「……まだ、手紙は、一枚も書けてません」
「そんなこと、知ってるよ」
ハンナは笑って、戸口へ戻っていった。照れくさくて、ノエは手の中の表の端ばかり見ていた。
ハンナは、父の椅子から束を持ち上げた。いちばん上の一枚の宛名に、目が止まる。
「宿の主人のかい、これ?」
「お礼の手紙です。……あの、運び賃は」
「あの人の紙への、返事だろ? なら、運び賃はあの人持ちだよ」
「お礼の手紙の運び賃を、お礼する人に払ってもらうんですか?」
「向こうが先に書いてよこしたんだ。筋は通ってるよ」
ハンナは束を麻袋に入れて、御者台に上がった。手綱を片手にまとめる。
「行ってくるよ」
がらがら、がらがら。
車輪の音が坂を下りて、遠ざかっていく。ノエは藁の丸に膝をついたまま、それを聞いていた。
宿の主人が井戸のまわりで言いはじめたのは、ハンナが宿を発つ前の日だという。歩いて来るなら、ハンナの荷馬車よりずっとかかるだろう。それでも、もう宿を出た人がいれば、今ごろは道の半ばあたりにいるのかもしれない。
小屋の床の端には、表に載せなかった四枚が残っている。
あの紙を書いた人も、その中にいるのだろうか。
目の前の椅子は、空いていた。短い脚の一本が、朝の土から少しだけ浮いている。
下がらないと思います、と、自分はあの人の顔を見て言えるだろうか。




