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36話

 ハンナは、御者台の上で、手綱を片手にまとめていた。


 頭巾を肩に落としている。日に焼けた頬に、坂を上ってきた風で、髪が一筋はりついていた。


 その目が、ボルドの顔から胸へ下りる。


 そこで止まった。


「……襟、ねじれてるよ」


 ボルドが、自分の胸を見下ろした。


 外套の襟が、片方だけ内側に折れこんでいる。


 ボルドは、襟を掴んで引っぱり出した。力まかせだったので、今度は反対の襟が折れこんだ。


「今度はもう片っぽだよ」


 団子鼻の先から耳のほうまで、赤いものが広がっていく。


「急いで着たんだろ?」


「……外套は、着とるもんだろうが」


「ふうん」


 ハンナは、ボルドの手首を見た。外套の袖口から、土のついた腕がのぞいている。袖をまくったまま、上から着たのだろう。


「で、坂の上まで、何の用だい?」


 ボルドは、答えなかった。外套の前を開けて、手を内側へ入れる。


 出てきた手紙は、一枚だった。四つに畳んである。


 もう一枚は、外套の中に残った。胸の四角が、半分の厚さになる。


 ハンナの目が、残ったほうの四角へ行った。自分が運んできた手紙だとわかったのだろう。何も言わなかった。


「……ベルンへ、頼む」


 ボルドは、紙を突き出した。ハンナのほうは見ていない。見ているのは、荷馬車の車輪だった。


 ハンナは、すぐには手を出さなかった。紙とボルドの顔を、一度ずつ見る。


「返事かい?」


「……おう」


「あんたが書いたのかい?」


「言ったのは、おれだ」


 ボルドの顎が、少しだけ、こちらへ動いた。


「書いたのは、こいつだ」


 ハンナの目がノエに来た。ノエは黙ってうなずいた。


 ハンナは紙を受け取った。両手だった。


 ボルドは腰の袋の口をほどいた。銭を出して、一枚ずつ、ハンナの手のひらへ落としていく。


 ちゃり。


 ハンナの指が閉じかけたところへ、もう一枚が落ちた。


「多いよ」


「……ええから」


「よくないよ」


 ハンナは一枚をつまんで、ボルドの手のひらに戻した。


「ただで運ぶ荷は持たないし、多くもらう荷も、持たないんだよ。どっちも、筋が狂うからね」


 ボルドは、戻された一枚をしばらく手のひらに載せていた。それから、黙って袋の口を縛った。


 ハンナは紙を麻袋に入れた。袋の口を締めて、掌で一度、叩く。


「宿へ行って、帰りに寄るよ。ベルンは帰り道だからね」


「……おう」


 ボルドは、背を向けた。坂を下りていく。


 外套の襟は、まだ片方だけ、折れこんでいた。


 ハンナは、その背中を見送ってから、ノエを見た。


「あれ、出迎えに来たんじゃなかったんだね」


「待ちきれなかったんだと、思います」


 ハンナが、声を出して笑った。御者台の板が、笑い声に合わせて小さく軋んだ。


 その足もとに、麻紐でくくった包みが一つある。ハンナの靴の踵が、その上に載っていた。


「あんたのも、あるよ」


 ハンナは、踵で包みを軽く叩いた。


「でも、あとだ。今回は重いからね。馬を納屋に入れたら、持ってくよ」


 それから、顎を東へしゃくった。


 黒い一枚の端で、父が、鍬の柄に顎を載せたまま、まだこちらを見ていた。


「ところで、なんでボルドの畑に、ヨナスさんがいるんだい?」


◇


 ノエは、畑の端に置いたままの籠を拾った。石が、がら、と鳴る。


 畦道を歩くあいだに、鍬の音が戻ってきた。


 ごつ。ごつ。


 少し遅れて、低いのが一つ。


 ハンナの足は速い。三歩ぶん先へ出ては、振り返らずに、歩幅だけを縮めた。


 両側の畑では、芽が指一本ぶんの長さにそろって、風が来るたびに同じほうへ寝ている。起こしたばかりの土の匂いが、そこへ混じってきた。


 黒い一枚は、ほとんど端から端まで黒かった。


 真ん中に、草の帯が一本だけ残っている。鍬一本ぶんの幅だった。その両側から、二つの鍬が、帯をはさむように土を起こしていく。


 ハンナが、畦の端で足を止めた。


 畦の上には、木の椀が四つ、重ねて伏せてある。母が、昼に置いていったものだった。


 杭には、また外套が掛かっていた。襟は、片方だけ折れこんだままだった。


 ちゃぷ。ちゃぷ。


 畦道の向こうから、ゲルダが桶を提げてくる。


 ボルドの鍬が止まった。ボルドは畝から上がると、ゲルダが口を開く前に、両手を前へ出した。


 柄杓の水が、手のひらの土を流していく。


 ハンナは、それを黙って見ていた。


 椀の山を見る。二つの鍬を見る。ゲルダの桶を見る。


 唇が、小さく動いていた。声は出ていない。


 数えているのだろう、と思った。


 ノエも、何日か前に、畦の上の人を数えようとした。テッサに背中を叩かれて、途中で数が飛んだ。


 ハンナの唇は、最後まで動いて、止まった。


「おう」


 濡れた手を腿で拭きながら、ボルドがこちらを向いた。


「何しに来た?」


「見に来たんだよ」


 ハンナは、畦の端に立ったまま言った。


「あんたが、一人でやってるのかどうかをね」


 ボルドの手が、腿の上で止まった。


 ゲルダが柄杓を桶に戻す。ことん、と鳴った。


 父の鍬は、止まらなかった。


 ボルドはハンナを見た。ハンナもボルドを見ていた。


 ボルドの目が、先に外れた。畦の椀へ行って、父の背中へ行って、ゲルダの桶へ行った。


 ノエの指が、籠の縁を握り直した。中の石が小さく鳴った。


「……見りゃ、わかるだろうが」


 声は大きかった。


 ボルドは、それきり畝へ下りた。鍬を掴む。


 ごつ。


「わかったよ」


 ハンナは、ボルドの背中に言った。


「そう伝えとくからね」


 ボルドは振り返らなかった。鍬が上がって、下りた。さっきより、少しだけ深く入った音がした。


 ノエは、ハンナの横顔を見上げた。


「……ミルダさんに、言うんですか?」


「そうだよ」


「運び賃は──」


「いらないよ」


 ハンナは、黒い一枚から目を離さずに言った。


「聞かれたのは、あたしだからね。あの日は答えられなかったけど」


 杭の外套の裾が、風で揺れた。


「今度は、ちゃんと答えてあげられるよ」


◇


 夕方、父の椅子に、ハンナが座った。


 かたん。


 短い脚が、土を打った。座面には、昼のあいだの日なたの温みがまだ残っていたのだろう。ハンナは背もたれに体をあずけて、長い息を吐いた。


 膝の上に、麻紐でくくった包みを載せている。両手がその上に重ねてあった。


 ノエは椅子の前にしゃがみかけて、止まった。


 藁の丸がある。


 膝をつくと、土の冷たさは来なかった。


 ハンナが、ノエの膝の下をのぞきこんだ。


「……椅子も傾いてりゃ、敷物も傾いてるね」


「そうですね」


「誰が編んだかは、聞かなくてもよさそうだ」


 ハンナの口の端が、上がった。


 ノエは膝の上で指を組んだ。組んで、ほどく。親指の腹が、人差し指の横をなでていた。


 聞きたいことがある。どう聞けばいいのかが、まだ決まっていなかった。


「──あんた、その手」


 ハンナの声で、指が止まった。


「どうしたんだい?」


「……石を、拾ってたんです。ボルドさんの畑で」


 ハンナは包みから片手を離した。ノエの右手を取って、ひっくり返す。


 硬い指だった。指の腹が、ざらりとしている。


 ノエの爪のあいだには、黒い土が詰まっていた。中指の横には、墨の染みがある。


「こっちが墨で、こっちが土か」


 ハンナの親指が、墨の染みの上を一度なでた。


「前は、墨だけだったのにね」


 ハンナは、ノエの手を見ていた。


 見ている時間が、少し長かった。


 それから、手を離した。離した手を、包みの上に戻す。顔が納屋のほうを向いた。馬が飼葉を噛んでいる音がする。


 ノエは自分の手を見下ろした。ハンナの指の硬さが、まだ手の甲に残っている。


 今なら、聞けるだろうか。


「ハンナさん」


「なんだい」


「ミルダさんに聞かれたって言ってた、三つ目のことですけど」


 ハンナは、納屋を見たままだった。


「……思い出しましたか?」


 ハンナの指が、包みの麻紐にかかった。宿の主人の、十字の固い結び目だった。


 ほどかなかった。


「忘れちゃ、いないよ」


 ハンナは、ゆっくり、こちらへ顔を戻した。


「言わないでくれって、頼まれたんだ。ボルドには、ってね」


 ノエは、雪の日のハンナの声を思い出していた。


 ──三つ聞かれて、あたしが答えられたのは一つだけだ。


 ──あとは、忘れた。


「今日まで、誰にも言ってないよ」


 ハンナは、腰の麻袋に手を当てた。昼に、ボルドの紙を入れた袋だった。


「でも、これを持って、あの人の前に立つのは、あたしなんだよ。何が書いてあるのか、あたしには読めない。わからないままじゃあ、答えてあげられないからね」


 声が、いつもより遅かった。


 それから、ハンナは言った。


「……あの人は、私を恨んでいないか、って」


 ノエは、息を止めた。


「戸を閉める前にね。聞いてから、自分の口を押さえてたよ。言わないでください、って言ったのは、そのあとだ」


 ハンナは、包みの上で手を組み直した。


 ノエの耳の奥で、別の声がした。


 あの雪の日、ボルドは、坂へ歩きだして三歩目で言った。


 ──三年、何もせんかったのは、おれのほうも同じだ。


 ──あの女に、聞ける義理じゃねえんだ。


 ミルダは、聞いてから、口を押さえた。


 ボルドは、聞かなかった。


 膝の上で、ノエの指がいつのまにか握られていた。


「……で」


 ハンナがノエを見た。


「その紙に、答えは書いてあるのかい?」


 灯りの皿が、目の奥に浮かんだ。父の椅子。膝の上で、ゆっくり握られていく手。


 杭は、今も傾いています。


 秋に、麦を蒔きます。


 ボルドが捨てた二つも、覚えている。待っとる。来んでも。


 どれも、ボルドの言葉だった。すべて、ミルダさんに向けた言葉だった。ハンナにも、伝えてはいけない。


 それでも、一つだけなら、言ってもいいと思った。


「責める言葉は、一字も書いてありません」


 ハンナの目が、少しだけ大きくなった。


「ボルドさんが、何も知らないで書いたものです」


 ハンナは、何も言わなかった。


 その目が、東のほうへ行った。暮れかけた畑の向こうで、鍬の音はもう止んでいる。


 腰の麻袋を、掌で一度、叩いた。いつもより、ずっと小さい音だった。


「……そうかい」


「ボルドさんには、言いません」


 言ってから、自分で少し驚いた。考えるより先に、口から出ていた。


「だろうね」


 ハンナが少しだけ笑った。


 咳の三行を棚の奥にしまっていた冬、紙は、ずっとそこで重かった。


 今は、何も重くない。


 答えは、もうハンナの麻袋の中にあって、帰り道にベルンへ運ばれていく。


 ノエが言わなくても、きっと届く。


◇


「さ、こっちの話だ」


 ハンナが、膝の包みを持ち上げた。


 ノエの膝の上に、どさりと置く。


 藁の丸が、膝の下で、ぎゅっと沈んだ。


 重かった。


 麻紐が、十字に掛かっている。紐の下で、紙の束が、端をそろえきれずに段になっていた。一枚一枚の紙の色が、少しずつ違う。


「十のは、まだだよ。これは、みんな新しいやつさ」


「……何枚、あるんですか?」


「数えてみな」


 ノエは顔を上げた。


 銭も、飼葉も、日数も、指を折らずに数える人だった。


「ぜんぶ、ノエのためのものさ」


 ハンナは、背もたれに体をあずけた。かたん、と椅子が鳴った。


「宿の主人がね、ぼやいてたよ」


「繁盛はしてるみたいだったけどね。うちは宿屋で、手紙屋じゃないんだがな、ってさ」


 ノエは、十字の結び目に指をかけた。


 引いても、ほどけなかった。


 膝の上の束は、藁の丸より、ずっと重かった。


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