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35話

 石の籠が半分ほど埋まったころ、畦道の向こうに、母の頭の布が見えた。


 赤みがかった髪を包んだ、いつもの布だった。両手で籠を提げている。重いのだろう。歩くたびに、小さな肩が左右に揺れている。


 ノエは、石の籠を足もとに置いて立ち上がった。膝から、乾いた土がぽろぽろ落ちる。


 父の鍬が、先に止まった。


 ボルドの鍬は、止まらなかった。


 母は、畦の端に籠を下ろすと、かぶせてあった布をめくった。


 湯気が、ふわりと立った。


 豆を煮た匂いがする。堅く焼いたパンが、布にくるんで入っていた。木の椀が、重ねてある。


 一つ、二つ、三つ。四つ。


 ノエは、母の手元を見た。父と、母と、ノエと。


 母は、椀を一つずつ畦に並べていった。四つ目を置くとき、顔を上げずに言った。


「ボルドさん。冷めるよ」


 ごつ。


 鍬が、下りた。


「……いらんぞ」


「冷めるって言ってんだよ」


「おれは、自分のが──」


「いいから、座りな」


 低い声だった。


 ボルドの鍬が、上で止まった。


 止まったまま、少しのあいだ、動かなかった。それから、刃をそっと土に下ろした。畦まで上がってきて、父の隣に、どさりと腰を下ろす。


 一度で、座った。


 父が、パンをちぎりながら横を向いた。肩が小刻みに揺れている。


「……何がおかしいんだ?」


「いや。……何も」


 母は、豆をよそった椀を、ボルドの前に置いた。


 ボルドは、土のついた手で椀を持ち上げた。一口すすって、止まる。もう一口。三口目からは、止まらなかった。


 ノエも、椀を両手で包んだ。爪のあいだに、土が黒く詰まっている。石を拾っていた指の先が、じんと温まっていく。豆は、塩が少しきつかった。汗をかいたあとだからか、それがとても美味しく感じる。


 ボルドの椀が空くと、母は、黙って鍋の蓋を取った。


「……いらんぞ」


 ボルドは、そう言いながら、椀を引っこめなかった。


 母が、二杯目をよそった。


 父は、パンの最後のひとかけを口に放りこんだ。


「塩、きついか?」


「……きつくねえ」


「そうか」


 二人とも、互いのほうは見なかった。見ていたのは、黒い一枚の真ん中に残った、まだ起こしていない草のほうだった。


◇


「ちょっと、ちょっと!」


 畑の向こうから、声が飛んできた。


 村でいちばん通る声だった。


 テッサが、畦道をこちらへ歩いてくる。背が高いので、芽の上に、頭と肩がずっと見えていた。片手を大きく振っている。もう片方の手は、セルグの袖を掴んでいた。


 セルグは、引っぱられるまま、少し前かがみでついてくる。


「なんだい、なんだい。朝から鍬の音が二つもするから、何ごとかと思ったら」


 テッサは、黒い一枚を見渡した。手が、あっちを指し、こっちを指す。


「ヨナスさんまで。ここは、ボルドの畑だろ?」


「……何しに来た?」


 ボルドが、椀を持ったまま言った。


「見に来たに決まってるじゃないか」


 テッサは、前掛けのかくしから、布の包みを出した。ほどくと、焼き締めたビスケットが、ごろごろ出てきた。


「ほら、みんなでお食べ」


「俺のは?」


 セルグが言った。


「あんたは、さっき食べたろ」


 包みが、母の籠の横に置かれた。


 セルグは、畦に座ろうとして、途中で止まった。腰に手を当てる。そのまま、ゆっくり、ゆっくり、下りていった。


「……腰は、ええのか?」


 ボルドが聞いた。


「ええよ」


「悪いよ!」


 セルグとテッサの声が、重なった。


 セルグは、大きな鼻の頭をかいた。何も言わずに、ビスケットを一つ取る。


 ノエは、口を押さえた。母は、もう声をあげて笑っている。


 テッサは、座らなかった。首を伸ばして、ボルドの起こした列と、父の起こした列をじっと見比べている。


「……ヨナスさん、あんたの起こした畝、なんか曲がってないかい?」


「──ごっふっ」


 父が、パンを喉に詰まらせた。


 ボルドが、鼻を鳴らした。


「ほれ見たことか」


「だから、お前の杭に合わせたら、ああなるんだって」


「杭で引くなと──」


「いいから、いいから!」


 テッサの手が、二人のあいだで大きく振られた。


 そのとき、畦道の向こうから、水の音がした。


 ちゃぷ。ちゃぷ。


 ゲルダだった。小さな体で、水の入った桶を提げている。一歩ごとに、水面が縁まで上がっては戻る。


 ボルドが、腰を浮かせた。


「ゲルダ、それは、おれが──」


「手を出しな」


 ゲルダは、桶をボルドの前に置いた。


「何しに──」


「いいから、さっさと出しな」


 ボルドは、黙って両手を出した。


 ゲルダが、柄杓で水をかける。手のひらの皺から、黒い土が流れていく。指のあいだも、爪のまわりも、ゲルダは柄杓を傾けて、ていねいに流した。


「……もう、食ったあとだぞ」


「なら、次に食うぶんだよ」


 テッサが、吹き出した。


 ボルドは、濡れた手を見下ろした。


「……ゲルダの畑は、今年はもう、起こし終わっとるだろうが」


「だから来たんだよ」


 ゲルダは、柄杓を桶に戻した。


「春になるたんびに、あたしの畑を起こしてんのは、どこの誰だい?」


 ボルドは、答えなかった。


 濡れた手を、腿で拭いた。


 土は、もう落ちていた。


◇


 畦に、人が並んでいた。


 父と、母。テッサと、セルグ。ゲルダ。その真ん中に、ボルドが座っている。


 ボルドは、ビスケットを一つ、手に取った。齧らずに、しばらく持っていた。


 いちばん手前の杭で、外套の裾が、風に揺れている。胸の四角は、二枚ぶん。


 以前、一人でやってるのか、とミルダは聞いた。ハンナは、それに答えられなかったという。


 今なら、ハンナさんも答えられるだろう。


 ノエは、声に出さずに、畦の上の人を数えはじめた。


 父。母。テッサ。セルグ──


「ほら、あんたも食べな。細いんだから」


 テッサの手が、背中をばしんと叩いた。


 数が、どこかへ飛んでいった。


 ノエは、咳きこみながら、ビスケットを受け取った。


 ボルドが、手の中のビスケットをやっと齧る。


 がり。


 眉が、寄った。


「……硬ってぇな」


「焼き締めてあるんだよ!」


 テッサの声が、黒い一枚の端から端まで響いた。


 ゲルダが、下を向いて口元を押さえた。肩が、細かく震えている。


 セルグは、腰をさすりながら、二つ目に手を伸ばしていた。


 包みが空になると、テッサは前掛けをはたいて立ち上がった。


「さ、うちらは帰るよ。うちの草も、待っちゃくれないからね」


 セルグが、畦に手をついた。腰を上げかけて、止まる。もう一度、上げかけて、止まる。


 テッサが、黙って腕を貸した。


 立ち上がったセルグは、ボルドのほうを見ずに言った。


「……秋に、うちのも刈ってったろうが」


 それだけだった。セルグは、腰をさすりながら、もう畦道のほうを向いていた。


 ボルドも、何も返さなかった。


「明日も、見に来るからね」


「……来んでええわ」


「来るよ」


 テッサは、振り返りもせずに言った。長い腕が、帰り道でも、あっちとこっちを指していた。


◇


 次の日も、その次の日も、鍬の音は二つ鳴った。


 母は毎日、籠に椀を四つ入れて畦道を歩いた。ゲルダの桶は、昼すぎに来た。テッサは、来たり来なかったりした。来る日は、姿より先に声が届いた。


 セルグはもう来なかった。テッサが、来させなかったらしい。


「デュラがね、来年は自分がいちばんに手伝うんだって、そう言ってたよ」


 ある日、テッサが、ビスケットの包みをほどきながら言った。


「来年も起こすのか、ここは?」


 父が、手を止めずに聞いた。


「知らないよ。とにかく、いちばんがいいんだってさ」


 ボルドの鍬が、一つ、空振りしたように土を叩いた。


 何日かすると、ゲルダが口を開く前に、ボルドのほうから両手を出すようになった。


 ゲルダは、柄杓を傾けながら、口の端だけで笑った。


 ノエは毎日、石を拾った。十も拾えば息が上がるのは同じだった。それでも、座り込んでから立ち上がるまでが、少しずつだけど短くなっている。


 爪のあいだの土は、洗っても、もう全部は落ちなくなった。中指の横の墨の染みと並んでいる。


 芽は、指の関節ほどから、指一本ぶんの長さになった。


 黒い一枚の真ん中に、草の帯が残っている。ボルドの端から一本、父の端から一本。帯は、日ごとに細くなっていった。


 その帯が、鍬を二本並べたほどの幅になった日の夕方だった。


 小屋の戸が鳴った。


 どん。


 叩き方で、誰だかすぐにわかる。


 戸を開けると、ボルドが立っていた。外套は着ていない。まくったままの袖から出た腕に、丸くて平たいものを抱えている。


「やるよ。……藁が、余ってな」


 ボルドは、それを突き出した。


 藁を渦状に巻いて、編み込んだものだった。両手を広げたほどの大きさで、日なたの匂いがする。


 受け取ると、思っていたより重かった。指で押すと、ぎゅっと詰まった手ごたえが返ってくる。


 編み目は、ところどころ詰まりすぎたり、ゆるすぎたりしていた。それでも、渦は一度も途切れていない。


 丸は、少しだけ、片側に傾いていた。


「藁が余ったんですか?」


「そうだ」


「でも、これ、わざわざ編んでつくったものじゃないですか?」


「……編んだら、余ったんだよ」


 ボルドは、それ以上言わせなかった。


 ノエの手から、藁の丸を取り返す。戸口の外へ出た。


 父の椅子が、いつものところにある。


 その前の土の上に、ボルドは藁の丸を置いた。


 ちょうど、ノエが膝をつくところだった。


 ボルドは、つま先で、丸を少しだけずらした。椅子の、真正面に。


 それから、何も言わずに坂のほうへ歩いていった。


「あの、ボルドさん!」


 ボルドは振り返らなかった。片手だけが、肩の上で一度、振られた。


 ノエは、椅子の前にしゃがんだ。


 藁の丸に、膝をついてみる。


 土の冷たさが、少しも来ない。


 あの夜、小屋の床は冷たかった。ノエはボルドの前に膝をついていて、ボルドは、ずっと灯りの皿を見ているようだった。


 見ていたのは、灯りだけではなかったのかもしれない。


 書いた手紙のことを、ボルドは一言も言わなかった。


 鼻の奥が、つんとした。


 膝をついたまま、目の前の椅子を見る。短い脚の一本が、土から少しだけ浮いている。


 次にこの椅子に座る人の前で、自分は、この上に膝をつく。


 藁の丸は、椅子の正面で、少しだけ傾いていた。


◇


 それは、草の帯がとうとう、鍬一本ぶんになった時だった。


 ノエは、石でいっぱいになった籠を、畑の外へ空けに行くところだった。


 坂の下で、がらがら、と鳴った。


 ボルドの鍬が、止まる。


 父の鍬は、もう一つだけ振り下ろされた。ごつ、と低く鳴って、それから止まった。


 がらがら、がらがら。


 車輪の音だった。坂の石を蹴散らすような勢いで、みるみる近くなってくる。


 ボルドは鍬を畝に立てた。いちばん手前の杭まで歩いていって、外套を外す。


 袖に腕を通した。前を合わせる。胸の四角を、平手で押さえた。二度。


 父は、鍬の柄に顎を載せて、それを見ていた。何も言わなかった。


 ボルドが坂のほうへ歩きだす。


 呼びに行くのは、ノエのはずだった。


 ノエは籠を置いた。中の石が、がら、と鳴る。


 走れば、三歩で息が上がる。ノエは早足で、その背中を追った。


 ボルドの足は、坂の手前で一度だけ止まった。


 外套の胸に、また手が行く。


 それから、また歩きだした。


 車輪の音が、坂を一息に上りきって、止まった。


「──おや」


 御者台の上から声が降ってくる。


「出迎えとは、珍しいね?」


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