34話
「入ってください」
「……おう」
ボルドが敷居をまたぐと、小屋が急に狭くなった気がした。
土の匂いがする。ついさっきまで起こしていたのだろうか。外套の裾にも、靴にも、黒いものがこびりついている。
灯りの下で見るボルドの顔は、昼よりもっと赤かった。団子鼻の脇に、汗の乾いた筋が白く残っている。
ノエが灯りの皿を卓に戻すと、壁に大きな影が立った。天井の藁まで届いて、そこで折れ曲がっている。
小屋の中には、ノエの腰かけが一つあるだけだった。
「ちょっと、待っててください」
ノエは戸口を出た。父の椅子は、いつものところにあった。夜露で、座面が少し湿っている。袖で拭いて、両手で抱えて戻った。
依頼に来た人は、この椅子に座る。ずっと、そうしてきた。
「どうぞ」
ボルドは、椅子を見下ろした。それから、腰を下ろした。
かたん。
短い脚が、床を打った。
ボルドは、気づいていなかった。膝に両手を置いて、灯りの皿を見ている。
ノエは、その前に膝をついた。
ボルドは、何も言わなかった。
油の焦げる匂いが、ときどき、土の匂いに混じった。
ボルドの手が、外套の胸へ行った。四角い膨らみの上に、平手を置く。置いたまま、動かさない。
ノエは待った。
ボルドの靴の縁から、乾いた土が一かけら、床に落ちる。
ボルドは、それを見下ろしていた。拾おうともせずに、じっと。
膝の下で、床の土が冷たかった。
「……手紙の、三つめの、あれな」
やっと、ボルドが言った。
「傾いとるか、って聞いとったろう」
読めない人が、二度聞いただけの行を、そらで言っていた。
「聞かれたら、答えるもんだろう?」
ボルドは、灯りを見たまま言った。
「……返事は、催促じゃねえよな?」
冬に、ボルドはこの逆を言った。
──同じもんを二度出しゃ、催促だろ? 催促できる筋じゃねえんだ、おれは。
雪の中で、杭の頭を払いながら。
「返事を、書いてくれ」
ノエは立ち上がって、卓についた。
定規を、脇へ寄せる。新しい紙を一枚、広げる。筆に墨を含ませた。
宛名から書く。外側になるところへ、筆を運んだ。
「ベルンの村。井戸から日の出るほうへ、三軒目。屋根が板で──」
口に出しながら書こうとしたとき、ボルドが遮った。
「それは、もうええ。ハンナは知っとる」
筆の先が、紙に触れる手前で止まった。
ノエは、少し考えてから、短く書いた。
ベルンの村 ミルダへ
「……覚えとったのか?」
「書いたものは、覚えてますよ」
ボルドは、ふん、と鼻を鳴らした。
ノエは、紙の内側になるところへ、筆を戻した。
「なんて書きますか?」
ボルドは、膝の上で指を組んだ。組んで、ほどいた。
「……杭は、今も傾いとる」
声が大きかった。灯りの炎が、ふっと横に寝た。
ノエは、筆を下ろした。
──杭は、今も傾いています。
「それから……」
ボルドは、そこで止まった。
ノエの筆も、次の行の頭で止まった。
「……待っと」
言いかけて、ボルドは口を閉じた。団子鼻から、長い息が抜けた。
「……いや。それは、催促だな」
筆の先に、墨が溜まっていく。ノエは、筆を紙から離した。黒い雫が一つ、皿の縁に落ちる。
待っている、と書いたほうが、ずっと本当だと思った。冬の間じゅう、ただ杭の雪を払うために通っていた人だった。
ノエは、そう思った。
でも、これはボルドの手紙だった。
「来んでも……」
また、止まった。
ボルドは、灯りから目を外した。自分の手のひらを見ていた。
「……それは、嘘だな」
秋にも、ボルドはこうやって言葉を捨てていった。畑がある、は嘘。畑を作る、は弱い。残ったのが、杭は三年抜いていない、の一行だった。
ボルドの手のひらの皺に、黒い土が入っている。
その手を、ボルドはゆっくり握った。
「……秋に、麦を蒔く」
ノエは、顔を上げた。
雪の残る井戸端で、蒔くんですか、と聞いたことがある。秋にな、とボルドは言った。何のために蒔くのかは、言わなかった。研いだ刃を親指の腹で横にこすって、まだだな、と言っただけだった。
「それで、ええ」
ボルドは、握った手を膝に置いた。
「それしか、ねえんだ」
ノエは、筆に墨を含ませ直した。
──秋に、麦を蒔きます。
「名前は、要るか?」
「書きましょう」
ノエは、すぐに答えた。
「ミルダさんの手紙にも、ボルドさんの名前が書いてありました。こっちにも、要ると思います」
ボルド、と書いた。
ボルドが、身を乗り出した。
「……あっちのと、同じ字か?」
「同じ字です。書いた人が違うので、少し形は違って見えますけど」
「ふん」
ボルドは、椅子に戻った。かたん。今度も、気づかなかった。
ノエは、紙を両手で持って、読んだ。
「杭は、今も傾いています。秋に、麦を蒔きます。ボルド」
「……短えな」
「……そうですね。でも、ミルダさんのも、同じくらい短かったです」
ボルドは、答えなかった。目を閉じていた。
膝の上で、握っていた指が、一本ずつ、ゆっくりほどけていった。
捨てた二つを、ノエは覚えている。待っとる。来んでも。
紙には、一字も載っていない。
載っていないのに、二行のうしろに、ちゃんとある気がした。
──この人の手紙を、書けてよかった。
墨が乾くのを待って、ノエは紙を四つに畳んだ。
差し出すと、ボルドは片手で受け取った。外套の前を開けて、内側に入れる。先に入っていた一枚の上に、重ねた。
平手で、押さえた。二度。
胸の四角は、さっきより、少しだけ厚くなった。
「ハンナが来たら、呼べ」
ボルドは、立ち上がった。
「運ぶ銭は、おれが出す」
「わかりました」
戸口で、ボルドは振り返らずに言った。
「……灯り、消しとけよ。油がもったいねぇぞ」
戸が閉まった。
足音が、坂のほうへ遠ざかっていった。
ノエは、しばらく戸を見ていた。
部屋の真ん中に、父の椅子が残っている。夜露で湿っていた座面が、丸く乾いていた。ボルドの座っていた形だった。
ノエは、椅子を抱えて、戸口の外のいつものところへ戻した。短い脚が、土の上で、かたん、と鳴った。
ノエは、灯りの皿をのぞいた。油は、まだたっぷり残っている。
吹き消した。
暗くなった小屋に、土の匂いだけが、しばらく残っていた。
◇
朝の畑で、ノエは芽のあいだにしゃがんでいた。
芽と芽のあいだから、細い草が顔を出している。それを、指でつまんでひっこ抜く。鍬は持たせてもらえないからだ。
しゃがんだ膝に、朝露がしみてくる。きのう、母がはたいてくれた膝だった。
父は少し先で、鍬の角を使って草を削っていた。母は、向こうの端にいる。
東のほうで、ごつ、と鳴った。
ごつ。ごつ。ごつ。
きのうより、間が短かった。振り上げてから下ろすまでの、あの一つぶんの間がない。
父の鍬が、止まった。
父は、東のほうへ顔を向けた。しばらく、そのまま聞いていた。
「……急いどるな」
誰に言ったのでもない声だった。
「ゆうべ、戸が鳴ってたね」
向こうの端から、母が言った。声が笑っている。手は止めていない。
「ずいぶん遠慮のない叩き方だったよ」
ノエは、草をつまんだまま答えなかった。
母も、それ以上は何も言わなかった。
父が、鍬を肩に担いだ。
担いだまま、一度だけ、蔵のほうを見た。
「ちょっと、行ってくるよ」
「昼は?」
「持ってきてくれ」
「……あいよ」
母は、笑いを噛み殺したような顔で、また草に屈んだ。
父が、畦道を東へ歩きだした。
ノエは、抜いた草を畝の脇に置いて、そのあとについていった。父は振り返らなかった。母は止めもしなかった。
◇
黒い一枚は、きのうより広かった。
いちばん手前の杭に、外套が掛けてある。胸のところが、四角く垂れていた。
ボルドは、こちらを見なかった。鍬が上がって、下りる。ごつ。刃が抜けきらないうちに、もう次が上がっている。
父は、畑の反対の端まで回っていった。まだ草の残っている、起こしていないところ。そこで、肩から鍬を下ろした。
足を開く。
振り下ろした。
土が、大きく割れた。ボルドの鍬より、ずっと低い音だった。
父の背中は厚い。振り上げるたびに、肩が盛り上がって、シャツの縫い目が突っ張った。赤黒い腕は、ボルドの腕より、ひと回り太い。
ボルドの鍬が、止まった。
「……何しに来た?」
父は、答えなかった。二度目を振り下ろした。
「いらんぞ。春は、みんな自分の畑で──」
「うちのは、もう芽が出たぞ」
父は、ボルドのほうを見ずに言った。三度目。
「……ここは、おれのだ」
「知っとるよ」
四度目。
「株を抜いたときから、知っとる」
ボルドの口が、開いたまま止まった。
父は、割れた塊を刃の背で崩した。それからやっと、少しだけ顔を上げた。
「起こし終わらんと、秋に蒔けんだろうが。種を預かっとるのは、俺だぞ?」
秋に蒔く。
ノエは、「えっ?」という声を呑み込んだ。ゆうべ、紙に書いた一行だった。
ボルドの首が、ぐるりとこちらを向いた。目をギロリと剥いている。
ノエは、首を横に振った。二度。三度。
種の袋は、春に、父が蔵で量っていた。袋の口を持っていたのは、ノエだった。
ボルドは、ノエと父を、何度か見比べた。それから、鼻から長い息を出した。
何も言わずに、畝へ戻った。
ごつ。
父の鍬が、低く応えた。
二つの音は、揃わなかった。ボルドのほうが速い。父のほうが深い。畑の両端から、少しずつ、真ん中へ寄っていく。
二人とも、相手のほうを見なかった。黙って、自分の列だけを起こしていた。
一年目の春も、こうだったのだろうか。株を抜いて、石を除けて。そのころのノエは、まだ家の中で、村の話を座って聞いていて、その姿を見たことがなかった。
しばらくして、ボルドが鍬を止めた。畝の端で一歩下がって、片目をつぶる。
見ていたのは、杭ではなかった。父の起こした列だった。
「……おい、曲がっとるぞ」
「お前の杭に合わせたら、こうなるんだよ」
父は、手を止めずに言った。
ボルドの顔が、赤くなった。もともと赤い顔が、もっと。
「杭で引くんじゃねえって、言うとるだろうが!」
「そんなこと、いつ言ったんだ?」
「目で引くんだ、目で!」
ノエは、口を押さえた。押さえても、肩が揺れた。
ボルドが、こちらを睨んだ。
「ノエ! 突っ立っとるなら、石を拾え」
「……石、ですか?」
「起こした土に、出とるだろうが。籠は、そこのを使え」
指差された杭の根もとに、編み目のほどけかけた籠が一つ、転がっていた。
ノエは籠を抱えて、黒い列のあいだに入った。
起こしたばかりの土は、柔らかかった。靴が、少し沈む。起こされた土の塊を指で割ると、中から白っぽい石が出てくる。拳ほどのもの。指の先ほどのもの。どれも、ひやりとしていた。
拾って、籠に入れる。拾って、入れる。
十も拾わないうちに、息が上がった。
ノエは、畝のあいだにしゃがんだまま、息を整えた。
爪のあいだに、また土が入っていた。きのうの土の上に、今日の土が重なっている。
顔を上げると、畑の両端に、背中が二つあった。
雪の日の、ハンナの声を思い出していた。ベルンの、ミルダの家から戻ってきた日だった。
──あんたのことは、聞かれた。
──体を壊してないか、って。一人でやってるのか、って。あとは、忘れた。
──三つ聞かれて、あたしが答えられたのは一つだけだ。
あの日、ボルドは空の桶を提げたまま、それを黙って聞いていた。
今は、鍬を振っている。同じ畑に、父もいる。
杭の外套が、風で裾だけ揺れている。胸の四角は、二枚ぶんで、重たげだった。
忘れたという三つ目のことを、ハンナは、あれから一度も口にしていない。
次にハンナが来たら、思い出したか聞いてみたい。そう思った。
ごつ。
二つの鍬が、初めて、同じときに鳴った。




