33話
「六枚だったね。数えな」
ハンナが、手のひらを上に向けて差し出した。
ノエは、その手に書いた紙を一枚ずつ載せた。四の書付。十三の書付。畝二本分の書付。それから、六と七と十の聞き直し。
六枚目を載せたとき、ハンナの親指が、束の端を押さえた。
「……これで、六。たしかに受け取ったよ」
日は、まだ森の端から出きっていない。納屋の前の土が、夜の冷たさをそのまま抱えていた。紙を渡し終えても、ノエの指先はかじかんだままだった。
ハンナは、束を麻袋に入れて、荷台の樽の横に押しこんだ。縄を回す。二度、端を挟む。
「十の返事は、あたしが持ってくるよ。九の人も、ちゃんと引っぱり出すように言っとく」
「お願いします」
ハンナは、御者台に足をかけて、止まった。
目が、ノエの胸のあたりで止まっていた。外套の内側で、畳んだ紙の角が、布を小さく押し上げている。
ハンナは、何も言わなかった。御者台に上がって、手綱をまとめた。
「じゃ、またね」
ぎい、と荷馬車が鳴った。
車輪が、坂の石を一つずつ踏んでいく。ごとん。ぎい。ごとん。音は少しずつ間遠になっていった。
ノエは、外套の上から、胸にしまった紙を押さえる。
紙はまだ温まっていなかった。
◇
ボルドの家の戸は開いていた。
中に、人の気配はない。かまどの灰は白くなっていて、水の桶が一つ、空のまま伏せてあった。
東のほうで、ごつ、と鳴った。
ノエは、畦道を東へ歩いた。
右も左も、緑の筋だった。指の関節ほどの芽が、一本ずつ朝露を載せている。踏まないように歩くと、畦道の真ん中しか残らなかった。
胸の紙は、歩くたびに、外套の内側で小さく擦れた。
中に何が書いてあるのか、ノエは知らない。知らないまま、ボルドの前で開く。
開いて、読んで、それから。
それから、棚の奥の三行のことを、どうするべきなのだろう。
ゆうべ、戸の前で手を下ろしたときには、朝になれば決まっている気がしていた。でも、朝になっても、何も決まってはいなかった。
ごつ。
音が近くなった。
そのうち、緑が切れた。
黒い土の一枚が、そこにあった。
列は、もう数える気にならないほど増えている。起こしたばかりの黒い列と、上だけ灰色に乾いた列が、縞になって並んでいる。四隅の杭は、四本とも、同じほうへ傾いていた。
いちばん手前の杭に、外套が一枚掛けてあった。冬のあいだ、ボルドがずっと着ていた外套だった。
ボルドは、畝の途中にいた。袖をまくった腕が、日に焼けて赤い。
ごつ。
鍬が上がったところで、ボルドがこちらを見た。
「おう。何しに来た?」
「ボルドさんに、手紙を読みに来ました」
鍬が、上がったまま止まった。
ノエは、外套の内側から紙を出した。四つに畳んだ、角のよれた一枚。
「ミルダさんからです。きのう、ハンナさんが持ってきてくれました」
ボルドは、鍬を下ろした。刃が、土に半分だけ入って止まった。
それから、ゆっくり畦まで上がってきた。紙のほうには、目を向けなかった。手のひらを、腿で何度もこすっている。土は、落ちきらなかった。
ノエが紙を差し出すと、ボルドの手は、少し伸びて途中で止まる。
「……おれが持っとっても、しょうがねえだろ」
いつもの声より、ずっと小さかった。
ノエは、紙の外側をボルドのほうへ向けた。
「ここに、ボルドさんの名前が書いてあります」
震えた字だった。ボルドは、それをしばらく見ていた。読めないはずの字を、端から端まで。
「……あいつは、字なんぞ書けんはずだぞ」
「誰かに、読んでもらったそうです。書いたのも、たぶん、その人だと思います」
「誰かって、誰だ?」
「……それは、わかりません」
嘘ではなかった。
ボルドは、ノエの顔を見た。それから、杭のほうへ体を向けた。こちらには、背中だけが残った。
「読め」
ノエは、紙を開いた。
折り目が、かさ、と鳴った。
中の字も、震えていた。行は三つ。少し離れて、もう一つ。思っていたより、ずっと短かった。
ノエは、息を吸った。
「──杭のこと、読んでもらいました」
ボルドの背中は、動かなかった。杭の頭を見ているのか、その向こうの森を見ているのか、ここからはわからない。
「──私は、そちらへは行けません」
読み終えて、ノエは次の行へ目を移そうとした。
その前に、ボルドの声がした。
「……そうか」
ボルドは、振り返らなかった。そのまま畝へ下りて、半分埋まった鍬の柄を掴んだ。
「なら、ええ」
鍬が、上がった。
前にも、ボルドはそう言った。そのたびに、話はそこで終わった。
今度も、そこで終わらせるのだろう。
刃の先から、土の粒がこぼれていた。
「──よくないです」
声が、先に出ていた。
鍬が、上で止まった。
ボルドが、振り返った。赤い顔の中で、目だけが細くなっている。
「……何が、よくねえんだ?」
ノエの口は、止まらなかった。
「冬のはじめに、ハンナさんがミルダさんの家へ行ったとき──戸は、半分しか開かなかったそうです。奥で、年寄りの咳がしていたって。長い咳だったって。ミルダさんは、一度うしろを見てから、戸を閉めたんだって、ハンナさんが言っていました」
一息だった。
棚の奥に、冬じゅう置いてあった三行だった。宛名も書かずに、誰にも渡さずに。
それを今、ぜんぶ、ボルドの前に曝け出した。
「きのう、ハンナさんが言ってました。戸の向こうでこの手紙を読んでいた人も、咳で、何べんも止まっていたって」
言ってしまった。
口の中が、からからに乾いていた。手の中で、紙の端が小さく鳴っている。紙を持つ指が、震えていた。
「……ずっと、言えませんでした」
ごめんなさい、と小さな声で付け加えた。
ボルドは、何も言わなかった。
鍬が、ゆっくり下りてきた。振り下ろしたのではなかった。刃は、土の上に置かれただけだった。
「年寄り?」
ボルドは、畝の上に立ったまま、ノエを見ていた。
「あの家に、年寄りなんぞ、おらんかったぞ」
ノエは答えられなかった。咳の人の顔を、ノエは知らない。
ボルドの目が、杭へ行った。それから、ノエの手の中の紙へ戻った。
「──まだ、あるんだろ?」
「え?」
「紙の続きだ。お前、まだ畳んどらんだろうが」
ノエの手の中で、紙は、開いたままだった。
「もう一回、読め。頭からだ」
ボルドは、畦に上がって、どっかりと腰を下ろした。外套の掛かった杭の、すぐ脇だった。傾いた杭が、ボルドの肩の上にかぶさっている。
ノエも、その隣にしゃがんだ。
紙を、二人のあいだに広げた。一行目の頭に、人差し指を置いた。
「──杭のこと、読んでもらいました」
ボルドは、今度は杭を見なかった。紙を見ていた。読めない字を、ノエの指が動くとおりに。
「──私は、そちらへは行けません」
ボルドの顎が、少しだけ動いた。硬いものを噛むような動きだった。
ノエの指が、三行目へ下りた。
「──あなたの打つ杭は、今も傾いていますか?」
ボルドの息が、止まった。
ノエも、その行から指を離せなかった。
秋に書いた一枚には、杭は三年抜いていない、としか書いていない。傾いているとは、一字も書いていない。
それを知っていたのは、ミルダのほうだったのだろう。
ボルドが、顔を上げた。
四本の杭が、同じほうへ傾いている。その一本に、外套が掛かっている。
「……傾いとるわ」
声は、大きかった。畑の向こうの端まで、届きそうな声だった。
顔は、そうではなかった。団子鼻の先が、赤くなっていた。口の端が、上がりかけては、下りた。
ノエは、最後の一行に指を移した。三つの行から、少し離れた一つ。
そこだけ、字がいちばん震えていた。墨が、二か所で溜まっている。
「──代わりに書いた」
名前は、なかった。
ミルダの言葉ではなかった。書いた人の言葉だった。
ノエも、誰かの代わりに書いている。
この人も、同じだったのだろう。咳で何べんも止まりながら、ミルダの言葉を、一字ずつ。そして最後に、自分の一行を、少しだけ離して。
会ったこともない人なのに、この一行を書いたときの手の重さが、わかる気がした。
ボルドは、その一行を、ノエの指の下で見ていた。
「……それが、書いたやつか?」
「はい」
ボルドは、長いこと黙っていた。
膝の上で、太い指が、土の塊を一つ、ゆっくり崩した。粉になった土が、指のあいだからこぼれていく。
「……出とった親父さんが、戻っとるのか?」
ひとりごとのような声だった。
「ミルダさんの、お父さんですか?」
「ああ。……何年も、戻っとらんかったんだ」
ボルドは、手のひらの土を払った。
「……字なんぞ、書けたんか」
それきり、ボルドは黙った。
ボルドは、もう一度、二行目を見ていた。行けません、の行。指で差してはいない。それでも、ノエには、どの行を見ているのかがわかった。
「……そりゃあ」
そこまで言って、ボルドは口を閉じた。続きは、出てこなかった。
ノエは、紙を畳んだ。四つに。角を揃えて。
差し出すと、今度は、ボルドの手は止まらなかった。両手で受け取った。
ボルドは立ち上がって、杭から外套を外した。内側の胸のところに、紙を入れた。外套の上から、平手で一度、押さえた。
それから、外套を、また杭に掛けた。
畝へ下りて、鍬を抜いた。
なら、ええ、とは言わなかった。
ごつ。
さっきより、遅かった。振り上げてから下ろすまでに、一つ、間がある。
ノエは、しばらく畦にしゃがんでいた。
杭に掛かった外套が、風で裾だけ揺れていた。胸のところが、四角く、少しだけ重たげに垂れている。
ボルドは、一度もこちらを見なかった。畝の端まで来て、一歩下がる。片目をつぶって、杭の向こうの杭を見る。
ごつ。
鍬の音を、四つ数えた。
ノエの手のひらに、畦の土がついていた。払おうとして、やめた。
それから、立ち上がった。
◇
昼すぎ、畑から戻ってきた母が、ノエの膝を見た。
「どこに座ってきたんだい? 真っ黒だよ」
「……畦です。ボルドさんの」
母は、東のほうを見た。何も聞かなかった。
「そこに立ちな」
母は、ノエの前にしゃがんで、膝を平手ではたいた。
ぱん。
黒い粉が飛んだ。
ぱん。
まだ飛んだ。
「あそこの土は、随分としつこいね」
母は、そう言いながら、もう一度はたいた。三度目のほうが、音が大きかった。
膝が、じんとした。
母は、立ち上がって、手のひらの粉を払った。それから、東のほうをもう一度だけ見て、鍋のほうへ行った。鼻歌が、少しだけ聞こえた。
◇
夕方、小屋に戻って、棚の奥に手を入れた。
三行の紙は、指の先に、すぐ触れた。
引き出して、卓に置く。
戸は半分しか開かなかった。奥で、年寄りの咳がしていた。ミルダは、うしろを見てから、戸を閉めた。
冬じゅう、この三行はここにあった。宛名もないままに。
同じことを、今朝、口で言った。紙より、ずっと下手な言い方で。一息に。
黙っていたのが正しかったのか、ノエには、まだわからなかった。
黙っていたあいだに、ボルドは杭の雪を払い、鍬を研ぎ、土を起こした。その列の一本一本を、ノエは畦から見ていた。
でも、今朝言ったことは、取り返したいとは思わなかった。
卓に置いた自分の手を見た。
爪のあいだに、黒い土が入っていた。ボルドの畦の土だった。中指の横には、墨の染みがある。土と墨が、指一本ぶんの幅で並んでいた。
ノエは、三行の紙を、定規の隣に置いた。棚には、戻さなかった。
窓の外で、どこかの家の戸が閉まった。
◇
灯りの皿には、まだ油がたっぷり残っていた。
書くものはなかった。四も十三も、畝二本も、聞き直しも、今朝ぜんぶまとめて出ていった。
卓の上には、定規と、三行の紙だけがある。
炎が、ときどき、背を縮めては伸びた。
外は、もう暗い。ゲルダの家のほうにも、灯りは見えなかった。どの家も、とうに寝ている時刻なのだろう。
ノエは、灯りを消そうとして、皿に手を伸ばした。
指が、皿の縁に触れたところで──
どん。
戸が鳴った。
どん、どん。
叩く手が、大きい。戸の板ごと、揺れていた。
ノエは、立ち上がった。灯りを持って、戸を開けた。
ボルドが立っていた。
外套を着ている。胸のところが、四角く、小さく膨らんでいた。
「……起きとったな?」
ボルドは、ノエの手の灯りを見た。
「灯りが、見えたんでな」




