32話
畝の上に、緑の点が並んでいる。
父が振って、母が土をかぶせたところから、細い芽が顔を出していた。一本の畝に、同じ高さで、同じ間をあけて。
門のそばに立つと、どの家の畑にも、緑の筋が引いてあった。朝ごとに、筋は少しずつ濃くなる。風が渡ると、筋ごと同じ向きに傾いて、また起き上がった。
東のはずれの一枚だけが、黒かった。
ボルドの列は、見に行くたびに数を増やしていた。十四本まで数えて、そこでノエは数えるのをやめた。
ハンナが発ってから、芽が出て、指の先ほどになり、そして指の関節ほどになった。
坂の下には、まだ誰も来ない。
ノエは、門の柱のそばに立っていた。親指の腹で、人差し指の横をなでている。気がつくと、ずっとなでていた。
書いた一枚は、頭の中で、何度でも広がった。
一行目。畑のこと。弟の一行。兄の一行。最後の行。
点の一つまで、そのまま出てくる。どこも直せない。もう、向こうにあるものだ。
書いたものを、あんなに取り返したくなったのは、初めてだった。
「そんなに見てたら、坂がすり減るよ」
母が、籠を抱えて通りかかった。中で、青い菜がしおれかけている。
「……見てないです」
「見てるよ。朝から三べんもね」
母は、笑い飛ばすと足も止めずに行ってしまった。
ノエは、坂から目を外して、自分の足もとを見た。門の内側の土にも、どこから飛んできたのか、芽が一つだけ出ていた。
◇
ぎい、と音がした。
坂の下からだった。木の軋む音。それに、蹄の音が重なっている。
ぽく、ぽく、ぽく。
荷馬車だった。馬が一頭。御者台に、日に焼けた顔がある。頭巾を肩に落として、手綱を片手にまとめていた。
「……ハンナさん?」
ノエは、坂を下りかけた。三歩で、息が上がった。
「走るんじゃないよ。こっちが上がるんだから」
荷馬車は、門を抜けて、ノエの小屋の前まで来て止まった。荷台に、麻袋がいくつかと、小さな樽が一つ。御者台の足もとに、藁でくるんだものが転がっている。
「荷馬車、ですか?」
「もう春だよ。春は荷が多いからね」
ハンナは、御者台から飛び下りた。馬の首を、平手で一度叩いた。
それから、戸口の前の椅子に座った。
かたん、と椅子が鳴った。
「……この椅子、傾いてるね」
「一本だけ短いんです」
「知ってて、置いてんのかい?」
「父が置いたので、そのままです」
ハンナは、椅子の上で一度だけ体を揺すって、かたん、と鳴らした。それから、ノエの顔を見た。
「三のことだろ。聞きたいって顔してるよ」
ノエは、答えなかった。膝をつきかけて、やめた。そのまま、立っていた。
「読んだよ、宿の主人がね。二人を並べて座らせて、あんたの書いたとおりに」
「……宿の主人さんの声は、太かったですか?」
「声?」
ハンナは、目をまるくした。
「細かったね。鳥が鳴いてるみたいな声だよ」
「……そうですか」
あの太い字の人の声が、鳥。ノエは、宿の主人の顔を知らない。知らないまま、細い声で紙を読む、太い腕の人を思い浮かべた。うまくまとまらなかった。
「弟のほうはね、兄さんの一行のとこで、黙っちまった。兄さんは、弟の一行のとこで、天井を見てた」
ノエは、息を止めていた。
「で、読み終わったら、また始まったよ」
「……何がですか?」
「お前が、いや兄貴が、ってさ。冬とおんなじ」
ハンナは、両手を前に出した。何かを掴む形だった。
「そしたら宿の主人が、紙を卓に置いて、二人の首根っこを掴んで、奥の部屋に放りこんだんだ。話がつくまで出てくるなって。あの細い声でね」
「……それで?」
「昼の鍋が煮える前には、出てきたよ」
早かった。
「兄さん、大工なんだってさ」
「……大工、ですか?」
「村を出てから、ずっと街で家を建ててたんだと。宿の馬小屋の屋根も、実は兄さんが葺き直したんだってさ」
ハンナは、椅子の背のないところに、背中を預けかけて、やめた。
「……宿の主人さんは、知ってたんですか?」
「屋根を葺かせたのは、あの人だよ」
「弟さんは、知らなかったんですか?」
「知らなかった。兄さんが、一度も言ってなかったんだとさ。出てきたとき、弟のほう、口が開いたまんまだったよ」
ハンナは、声を出して笑った。
「大工で食べながら、自分の畑は、自分でなんとかするってさ。──そしたら弟が怒ってね」
「怒ったんですか?」
「なら、これは祝いだ、畝を二本持ってけ、って。兄さんは、いらんって。弟は、いるって。いらん、いる、いらん、いる」
ハンナは、指で宙を行ったり来たりさせた。
「宿の主人が、もう一回首根っこに手を伸ばしたら、兄さんが、もらうってさ」
麻袋から、紙が一枚出てきた。
太い字だった。はらいのところが、三本に分かれている。
──畑の東の端から、畝を二本。兄に。書付を、頼む。
その下に、兄と弟の名前が並んでいた。弟が上。ノエが宛名に書いたのと、同じ順だった。
ノエは、その場に座った。
土が、冷たかった。
「なんで座るんだい?」
「……なんとなく、です」
あの夜、灯りもつけずに座っていたのは、なんだったのだろう。卓の端に寄せたままの、書きかけの紙は、なんだったのだろう。
大工だった。
どちらかの名前にするか、しないか、ではなかった。兄には、紙の外に、もう一本、道があった。紙には、一行も書いていなかった道が。
ノエの肩が、下がっていく。
下がってから、ずっと上がっていたことに気がついた。
ハンナは、また笑った。今度は、声が長かった。
◇
「それから、これ。その兄さんから」
ハンナが、麻袋から布の包みを出した。
ノエは、座ったまま受け取った。布をほどくと、木が出てきた。
細い板が二本、角のところで、きっちり組んである。紙の角と、同じ角だった。長いほうは、ノエの肘から指の先くらい。角は、手の脂を吸って黒くなっていた。縁に、小さな刻みが同じ間をあけて並んでいる。
持つと、軽かった。袋の中で温まっていたのか、木が、少しぬるい。
「大工の定規だってさ。これを、書いた子に渡して欲しい、って。線を引くのに使いなって」
書いた子。
会ったこともない人が、ノエのことを呼んでいた。くすぐったかった。
ノエは、定規の縁を、手のひらに当ててみた。どこも、たわまない。
欄の線は、いつも目で引いてきた。長い線ほど、終わりのほうで右へ逃げた。
ボルドの杭も、これを当てれば、まっすぐ立つだろうか。
「それから、嫁さんから言伝だよ」
ハンナの声が、少し低くなった。
──うちの人、一人前と認めてもらえるまでは言えないって言って、ずっと弟さんに隠してたのよ。
「……だってさ」
ノエは、顔を上げた。
「宿で笑ってたのは、そのせいだって。どうせこうなるって、わかってたんだとさ」
──面と向かっては、一度も言われたことがないけどな。
父の声が思い出された。
畑のほうで、父の鍬が鳴っている。芽のあいだの草を、削っている音だった。
「……お兄さんも、言えなかったんですね」
「男ってのは、みんなそうなのかね?」
ハンナは、椅子から立ち上がった。荷馬車のほうへ行って、荷台の縄に手をかけた。
「それからね──」
言いかけて、止まった。
ハンナは、縄の結び目をほどいて、結び直した。指は、一度も迷わなかった。
縄は、ゆるんでいなかった。
「……それから?」
「なんでもないよ。後は、嫁さんのひとりごとだ」
ハンナは、こちらを向かなかった。結び目を、もう一度、上から押さえた。
ノエは、その結び目を見ていた。いつもより、一回多く回してあった。
◇
小屋の卓に、ハンナが紙の束を置いた。
麻紐で、十字にくくってある。ハンナは、一度引いただけでほどいた。
「残りもぜんぶ来たよ。道が乾いたら、みんな宿まで出てきたんだとさ」
六枚あった。
四。六。七。九。十。十三。
どの紙も、欄が全部埋まっていた。太い字が、端から端まで詰まっている。
「宿の主人がね、一枚ずつ見て、空いてるとこは、その場で聞き直したってさ。もう揃ってるって」
ノエは、一枚ずつ読んだ。
四。揃っている。十三。揃っている。
六の紙の、東の隣に、名前が一つ。七の紙の、西の隣に、名前が一つ。
──違和感が、あった。
ノエは、六と七を横に並べた。
六の紙では、東の隣は、七の人だった。なのに、七の紙では、西の隣は知らない名前が書いてあった。
同じ境のはずだった。
九と十も、並べた。九の南の境と、十の北の境。同じ一本の境なのに、棒の数が、三本違っている。
九の紙の下にだけ、宿の主人の添え書きがあった。
──この者、春の種で銭が尽きた由。聞き直しが要るなら、運び賃は出せん。
「一枚ずつなら、揃ってるんです」
ノエは、並べた紙の上に、指を置いたまま言った。
「でも、並べると合わないんです」
ハンナが、覗きこんだ。字は読めない。それでも、ノエの指が六と七のあいだを行ったり来たりするのを、黙って目で追っていた。
「宿じゃ、一人ずつ来ただろうからね。並べて見る暇なんか、なかったろうさ」
「四と十三は、今夜、書付を書きます。六と七と十は、聞き直しを書きます。畝二本の書付も、今夜に。明日の朝には渡せます」
ノエは、一枚ずつ指でたどりながら言った。言いながら、声が早くなっていった。
ハンナは、止めなかった。卓の端に腰をかけて、九の紙を顎で指した。
「で、それは?」
ノエは、その紙を取った。
南の境の、棒の数を見た。十の紙と、三本違う数。
「……十の返事を、待ちます」
「同じ境なんだろ?」
ハンナは、卓の端に腰をかけたまま、九と十のあいだを指で叩いた。
「一本なら、一回聞きゃいいじゃないか」
ノエは、二枚を見た。九の南の境。十の北の境。一本の線が、二枚の紙に載っている。
「……十の聞き直しに、九の人にも立ち会ってもらうよう、書きます。いっしょに測ってもらえば、十の返事が、九の返事にもなると思います」
「一枚ぶんの運び賃で、二枚かい?」
ハンナは、平手で卓を一度叩いた。
「九の人が聞いたら、泣いて喜ぶね」
ノエは、九の紙を卓の端へ持っていった。書きかけの書付の上に、重ねた。二枚になった。
麻袋の口は、まだ閉じていなかった。
ハンナの手が、その上に置いてあった。
「もう一枚、あるよ」
ハンナが出したのは、麻紐でくくっていない紙だった。四つに畳んである。角が、少しよれていた。
「ベルンに寄ったんだ。帰り道だからね」
ノエの手が、止まった。
「ミルダさんに、開けなって言ったんだよ。それだけさ」
「……でも、ミルダさんは、字が読めないって」
「奥にね、読める人がいたんだよ」
ハンナは、紙を卓に置いた。指で、ノエのほうへ押した。
「あたしは、戸の前の石に座って待ってた。腰かけるのに、ちょうどいい高さの石さ」
家の前に石が一つ据えてある。腰かけるのにちょうどいい高さ。
ボルドが、一度も詰まらずに言った内容だ。ノエがそれをそのまま書いた。
「戸の向こうで、誰かが読んでた。ゆっくりね。咳で、何べんも止まりながら」
ノエの目が、棚のほうへ行った。
いちばん奥。三行を書いた紙が、そこにある。
ハンナは、ノエの目の先を見た。それから、何も言わずに、麻袋の口を縛った。
「しばらくしたら、ミルダさんがこれを持って出てきたよ」
ノエは、紙を手に取った。思っていたより、薄かった。
畳んだ外側に、字があった。
細い字だった。線が、ところどころで震えている。一画の途中で止まって、そこに墨が小さく溜まって、また続いている。
太い字ではなかった。ノエの字でもなかった。
「ボルドって、書いてあるんだろ?」
ハンナが、覗きこんだ。
「そこは、あたしにも読めたよ」
ボルド、の字だった。ハンナが、冬のはじめに、紙の端を畳んで持ち帰った字だった。
「……ボルドさんに渡します」
「読むのは、あんただろ?」
ノエは、紙を持ったまま、しばらく答えなかった。
「……はい」
◇
夕方、ハンナは荷馬車を、父の納屋の脇に入れた。
馬を外して、飼葉をやる。それから、御者台の足もとの、藁の包みを抱えて、ノエの家の戸口まで来た。
鍋の匂いがしていた。豆と、塩漬けの肉。母が、戸口で柄杓を持ったまま、こちらを見た。
「これ」
ハンナは、藁の包みをノエの腕に押しこんだ。
重かった。藁の中で、とぷん、と鳴った。
「油だよ。灯りの」
「……油、ですか?」
「冬のあいだ、あんたの紙で、運び賃を稼がせてもらったからね。その礼だよ」
「紙の運び賃は、宿の主人さんが──」
「細かいこと言うね。もらっときな」
ハンナは、腕を組んだ。
「夜に書いてんだろ? ゲルダさんとこから、あんたの小屋の灯りが見えるんだよ。あの人が夜中に薪を足しに起きるたびに、まだついてる」
「……見えるんですか?」
「見えるよ。坂の上だもの」
ハンナは、それだけ言って、納屋のほうを振り返った。馬が、飼葉に鼻を突っこんでいた。
母が、柄杓を鍋に戻した。
戸口から出てきて、ノエの腕の包みを、両手で持ち上げた。重さを確かめるように、一度だけ上下させた。
「いい油だね」
それから、ハンナを見た。
ハンナは、馬のほうを見ていた。
母は、包みを、ノエの腕に戻した。家の油の甕のほうへは、持っていかなかった。
「それはあんたのだよ」
母の口の端が、少しだけ上がっていた。
ノエは、腕の中の包みを見ていた。藁の端が、一本ほつれていた。
「座りな。食べていくといいよ」
ハンナは、何か言いかけた。
「座りな」
二度目は、一度目より早かった。
卓につくと、父がハンナのほうを見て、それから母を見た。母は、小さく首を振った。父は、黙って椀を置いた。
◇
食べ終えてから、ノエはボルドの家まで行った。
外套の内側に、畳んだ紙を一枚入れていた。油の包みより、ずっと軽かった。
村は、もう暗かった。どの家の戸口も閉まっている。芽の畝は、闇の中で、ただの黒い筋に戻っていた。
ボルドの家の戸口も暗かった。
中から、いびきが聞こえた。太くて、長い。途中で一度引っかかって、また続く。
ノエは戸の前に立った。
叩けば起きるだろう。起きて、何しに来た、と言うのだろう。
ノエは手を上げた。
戸の板の、手前で止まった。
ボルドのいびきが、また一度引っかかった。
ノエは手を下ろした。
──明日の朝に。
そう決めて、来た道を戻った。
小屋に戻って、灯りの皿に、ハンナからもらった油を足した。
炎が、すっと背を伸ばした。卓の上が、いつもより明るい。
定規を紙に当てた。
筆を引く。線は終わりまで逃げなかった。
四の書付を書いた。十三の書付を書いた。畝二本分の書付を書いた。東の端から二本。兄と弟の名前を並べて。
三枚の聞き直しを書いた。十の紙には、九の人にも立ち会ってもらうよう、一行添えた。
筆を置いたときには指が固まっていた。一本ずつ、ゆっくりとほどいた。
卓の端には二枚の紙が重なっている。書きかけの書付と、十の返事を待つ九の一枚。
その横に、畳んだ紙がある。
震えた字の、ボルド。
秋に書いた一枚が、頭の中に広がった。ボルドが一度も詰まらずに言ったことを、言ったとおりに書いた。井戸から日の出るほうへ三軒目。屋根が板。戸が傾いている。家の前に、石が一つ。
杭は、三年、抜いていない。
その一枚を、咳で何べんも止まりながら、誰かが読んだ。
ノエは、棚の奥を見た。
三行は、まだそこにある。戸は半分しか開かなかったこと。奥で、年寄りの咳がしていたこと。ミルダが、うしろを見てから、戸を閉めたこと。
宛名を書かずに、誰にも渡していない。
明日、ボルドの前で、この手紙を読むのはノエだった。
読みながら、咳の人のことを知っているのも、ノエだけだった。
知っていて、黙って読む。
──今まで黙っていたことは、はたして正しかったのだろうか。
灯りの油は、たっぷりあった。今夜は、もう足さなくてもいい。
炎の下で、震えた字の名前が、小さく揺れていた。




