31話
村の音が変わっていた。
ざく、が減って、代わりに畝の上を歩く足音がする。三歩。止まる。少しして、また三歩。
窓の桟に、朝の光が乗っていた。光の中を細かい埃がゆっくり上がっていく。
父の背中は、その向こうにあった。腰に下げた袋に手を入れて、ひと握り。振ると、粒が扇の形に広がって、黒い土の上に落ちる。
ぱら。
落ちた粒は、すぐに見えなくなった。
起こした土の匂いが、窓から入ってくる。湿っていて、少し甘い。冬のあいだ、この匂いはどこにもなかった。
東のはずれからだけ、違う音がした。
ごつ。
間があって、また、ごつ。
ボルドの列は、七本になっている。あの一枚に、この春、種は落ちない。秋まで、あの音だけが村の音と合わないのだろう。
ノエは、卓の前に座っていた。
二枚の紙が、並んでいる。三の、弟が出してきた欄の紙と、その兄の小さな紙。
その横に、もう一枚ある。
書付の書き出しだった。弟の紙のとおりに書けば、書ける。今、畑に名前のある人。新しく名前を書く人。東、西、南、北。棒の数も、立ち会いの三人も、欄の中に揃っている。順番に写すだけでいい。
一行目まで、二度書いた。
二度とも、そこで筆が止まった。二枚目の書き出しは、一枚目より字が小さかった。
筆の先が乾いていた。四つか五つに割れて、外を向いている。
兄の紙が、目の端にある。
──畑は、弟の名のままでいい。
ノエは、書きかけの紙を、卓の端へ寄せた。
光がそこまで伸びてきていた。字のないところだけが、白く光った。
順番の表の、三の横は、まだ空いたままだった。
◇
昼すぎ、父に呼ばれた。
「袋、持っててくれ」
父の腰の袋が、空になっていた。畦に置いた麻袋から、ノエが種をすくって、父の袋へ移す。粒が、指のあいだからこぼれて、しゃら、と鳴った。
麦より小さくて、丸い。手のひらに載せると、ひやりとした。
畑には、風があった。畝を越えるたびに、乾いた土の粉が低く流れていく。父の外套の裾が、その向きに揺れた。
父は、畝へ戻った。三歩歩いて、手を振る。
ぱら。
母は、畑の向こうの端で、熊手で土をかぶせている。父の撒いたあとを、ゆっくり追っていく。歯が土を掻く音が届いた。
ノエは、麻袋の口を持ったまま、父の背中を見ていた。
「……父さん」
「おう」
「兄弟で、畑を譲り合っている人がいるんです」
父の手が、袋の中で止まった。
それから、ひと握り取り出して、振った。
ぱら。
「譲り合ってるとは?」
「弟さんは、結婚して戻ってくるお兄さんの名前に変えてくれと言っています。お兄さんは、弟さんの名前のままでいいと」
父は、次の畝へ移った。ノエは、麻袋を抱えてついていった。
「これは俺の話だけどな」
父は、こちらを見ずに言った。
「俺は兄貴とは、畑の話をしたことがなかった」
ぱら。
「継ぐのは兄貴だと、初めから決まってたからな。話すことなんてなかったんだ」
ノエは、父の手を見た。土の色をした手が、袋に入って、出て、振られて、また袋に入る。
「村を出るときも、変わらなかった。兄貴は、門のとこに立ってたよ。鍬を持ったままな」
「……父さんは、何か言ったんですか?」
「言わんかった。兄貴もな」
ぱら。
粒が、土に落ちて、消えた。どこへ落ちたのか、もうわからなかった。ノエは、そのあたりを見ていた。
父の袋が、また軽くなっていた。ノエが種を移す。そのあいだ、父は坂のほうを見ていた。
坂の下には、誰もいない。門の柱の影が、道の半分まで伸びていた。
「あとで、人づてに聞いたんだ」
父は、袋の口を指でつまんで閉じた。
「あいつは、どこへ行ってもやっていける男だ、と。兄貴が、寄合で言っていたそうだ」
ぱら。
「面と向かっては、一度も言われたことがないけどな」
父は、畝の端まで歩いていった。振り向かなかった。背中の、汗で色の濃くなったところが、さっきより広がっていた。
ノエは、父の兄の顔を知らない。それなのに、門のところに鍬を持って立っている人の影が、はっきり見えるような気がした。
畑の向こうで、母が熊手を止めていた。こちらを見て、それから、また土をかぶせはじめた。さっきより、ゆっくりだった。
ノエは、麻袋の口を、両手で握っていた。
風が、畝の上を渡っていった。撒いたところも、まだのところも、同じ色に見えた。
指のあいだに、粒が一つ挟まっていた。中指の、墨の染みの横で、小さく丸かった。
ノエは、それを袋の中へ落とした。
「ノエ。父さんの袋が空だよ」
母の声が、畑の向こうから飛んできた。父は、空の袋を腰に下げたまま、次の畝の端に立っていた。
◇
夕方、小屋に戻って、二枚を並べ直した。
窓からの光が横から来ている。低くて、赤い。紙が卓の上に長い影を引いていた。
二枚とも、同じ太い字だった。はらいのところが三本に分かれる。
弟の紙を読んだ。
兄が戻る前にと頼んでおきながら、こちらが間に合わなかった。申し訳ない。それでも、兄の名に。
お兄さんの紙を読んだ。弟の紙の、半分ほどの大きさしかない。
嫁をもらって、戻った。畑は、弟の名のままでいい。弟が耕した畑だ。
弟は、兄のことを書いている。兄は、弟のことを書いている。
書かせた相手は、宿の主人だった。読んでいるのは、ノエだった。
外で、どこかの戸が閉まった。煙の匂いが風に乗って入ってくる。どの家も、飯の支度に入ったのだろう。
──面と向かっては、一度も言われたことがないな。
父の声が、耳の奥に残っていた。
ノエは、弟の紙の余白を指でなぞった。申し訳ない、のところで、宿の主人の字が少し詰まっている。
この一行を、お兄さんは聞いたのだろうか。
弟が耕した畑だ、の一行を、弟は聞いたのだろうか。
カルスは、二人がもめていたと言った。どっちが先に書かせるかで。
宿の主人の前で、二人は、自分の紙のことばかり言っていたのかもしれない。
光が、卓の上を滑っていった。弟の紙の字が、先に暗くなった。兄の紙の字が、あとから暗くなった。
──どちらも、たぶん、相手には言っていない。
ノエは、順番の表を見た。
三の横に、どちらかの名前を書くのだと思っていた。ゆうべは、そのことばかり考えていた。
でも、畑の名前は、もう帳面の上にある。変えるかどうかを決めるのは、その畑を耕してきた弟と、戻ってきたお兄さんだった。
ノエではなかった。
二枚の紙は、どちらもノエに届いた。けれど、本当に届くはずだった相手は、きっと、別にいる。
──宛先が、違うんだ。
窓の光が、卓の縁から床へ落ちた。床の藁が、一列だけ光って、それも消えた。
小屋の中が、灰色になった。
ノエは、灯りをつけなかった。
膝の上で、手を組んでいた。指が冷たい。卓の二枚は、もう白い四角にしか見えない。
宿の主人の前で、二人がどんな顔をしていたのか、ノエは知らない。知らないまま、二人の言葉だけを預かっている。
落ち着かなかった。
ノエは、しばらくそのまま座っていた。
◇
次の日、ノエは東のはずれへ行った。
ボルドの列は、八本になっていた。
起こしたばかりの一本は黒く、前の日の列は、上のほうだけ白く乾いている。八本が並んで、少しずつ違う色をしていた。
土の匂いが、父の畑より強い。三年間、草の下にあった土だった。
ボルドは、ノエを見ても何も言わなかった。首に掛けた布で、顎を一度だけ拭った。
ごつ。
畦道の向こうから、蹄の音がした。
ぽく。ぽく。……ぽく。
音が、揃っていなかった。
ハンナが、馬を引いて歩いてくる。鞍の上には、誰も乗っていない。馬は、左の前脚をつくたびに、首を小さく上げた。
ハンナは、頭巾を肩に落としていた。日に焼けた額に、汗が光っている。手綱を握る指の節に、麻の粉が白くついていた。坂の下から、ずっと歩いてきたのだろう。
馬が、鼻から長く息を吐いた。首の毛が、汗で筋になっている。
「おい」
ボルドが、鍬を止めていた。
「その馬、左の前がおかしいだろ」
「わかってるよ。坂の下で、急に歩き方が変わったんだ」
ボルドは、鍬を土に立てて、畦へ上がってきた。馬の肩に手を置いて、前脚をそっと持ち上げる。馬は、嫌がらなかった。
太い指が、蹄の縁を上から下へなぞった。爪の先で一度押して、そこで止まる。
腰の小刀を抜いた。
かり、と音がした。
土の上に、小さな石が落ちた。指の先ほどの、尖った石だった。
「蹄の、柔いとこに入っとった」
ボルドは、脚を下ろした。
「明日の朝までは乗るなよ」
「……一晩かい?」
「一晩で済みゃ、安いだろうが」
ハンナは、何か言いかけて、やめた。馬の首を、平手で一度叩いた。
「助かったよ」
ボルドは答えずに、畝へ戻った。鍬を抜いて、刃の土を一度払った。
ごつ。
高いところで、鳥が鳴いていた。途切れずに、ずっと同じ調子で鳴いている。
ハンナは、ノエのほうを向いた。
「控えは、カルスさんから返してもらったよ。……で、荷は?」
「一枚だけです。今夜、書きます。三の、雪解けの紙の」
「ああ。カルスさんから聞いたよ。兄弟で、名前を押しつけ合ってるんだって?」
ハンナは、手綱を指に巻いた。
「で、どっちの名前にするんだい?」
ノエは、ボルドの列を見た。八本。どれも、杭から杭へ、まっすぐだった。
「……僕が、決めることじゃないと思います」
ハンナの指が、手綱の上で止まった。
「畑は、今、弟さんの名前です。変えるかどうかは、二人が決めることです。だから、二人に返します。二人が書いたことを、そのまま」
「そのまま?」
「お兄さんが書いたことを、弟さんに。弟さんが書いたことを、お兄さんに。宿の主人さんに、二人がそろっているところで読んでもらいます」
ハンナは、しばらくノエを見ていた。
「ふうん」
馬の鼻面を撫でた。馬が、鼻を鳴らした。
「で、そいつは、誰の荷になるんだい?」
「……誰の、ですか?」
「聞き直しなら、向こう持ち。返事なら、宿の主人持ち。そういう話だったろう? あたしは、どっちでも運ぶよ。銭の出どころが違うだけだからさ」
ノエは、口を開きかけて、閉じた。
二人に、紙を返す。そう言えば、聞き直しにも見える。
でも、何も聞かない。欄も引かない。二人が書いたことに、答えるだけだった。
「これは、返事です」
「なんでだい?」
「何も聞かないからです。書いてもらったことに、答えるだけです。……答えの中に、二人の言葉が入っているだけで」
ハンナは、手綱を巻き終えた。
「なら、宿の主人持ちかな」
それだけ言って、馬を引いて、父の納屋のほうへ歩きだした。
ぽく。ぽく。……ぽく。
ごつ、とボルドの鍬が鳴った。二つの音は、最後まで揃わなかった。
ノエは、しばらくそこに立っていた。
ボルドは、一度もこちらを見なかった。八本目の端まで来て、一歩下がる。片目をつぶって、杭の向こうの杭を見た。
ごつ。
九本目の最初の一振りが、土に入った。黒い土が、塊になって起きた。
◇
その夜、小屋に灯りをつけた。
沢のほうで、蛙が鳴いていた。いっせいに鳴いて、いっせいにやんで、また鳴きだす。
灯りの油の匂いと、墨の匂いが、卓の上で混ざっている。
新しい紙を一枚、引き寄せた。欄は引かなかった。
宛名に、名前を二つ書いた。弟の名前を上に。先に頼んできたのは、弟だったからだ。その下に、お兄さんの名前を。
それから、一行目。
この紙は、お二人がそろっているところで、宿の主人さんに読んでもらってください。
書いてから、ノエは筆を持ったまま、その一行を見た。
宿の主人の声を、ノエは聞いたことがない。あの太い字の人は、声も太いのだろうか。
自分の手の影が、紙の右半分にかかっていた。灯りを、少し左へ寄せた。
その下に、畑のことを書いた。
畑は、今、弟さんの名前で帳面に載っています。兄さんの紙のとおりなら、出す紙はありません。弟さんの紙のとおりなら、書付はすぐに書けます。東も西も南も北も、立ち会いの三人も、揃っています。
筆を止めて、墨をつけ直した。
次の行に、弟の紙に書いてあったことを写した。
兄が戻る前にと頼んでおきながら、こちらが間に合わなかった。申し訳ない。それでも、兄の名に。
宿の主人の太い字を、ノエの字に置き換えるだけで、ほかは何も変えなかった。点の一つも。
紙の上で、筆の先が小さく鳴った。
その下に、兄の紙に書いてあったことを写した。こちらも、一字も変えなかった。
二つの言葉が、一枚の紙の上に並んだ。
別々の紙に、同じ太い字で書かれていたものが、今は、同じ小さな字で、上と下にある。
最後の行で、筆が止まった。
父の背中が浮かんだ。袋に手を入れて、振る。こちらを見ないで話す、その様子が。
ノエは、書いた。
どちらにするかは、お二人で決めてください。書付が要るときは、宿の主人さんに言ってもらえれば、すぐに書きます。
紙を乾かしているあいだに、順番の表を引き寄せた。
三の横は、空いている。
書いた、ではない。出した、でもない。
ノエは、少し考えて、小さく書いた。
返した。
灯りの炎が、表の上で揺れた。十二の、書いた。十一の、出した。三の、返した。
同じ自分の字が、三つ、違う言葉を並べていた。
外で、蛙が、またいっせいに鳴きだした。
◇
翌朝、馬はまっすぐ歩いていた。
坂の下から、霧が薄く上がっている。草は、露で重そうに垂れている。起こした畑の上に、白い湯気が立っていた。
どの家の畝にも、ゆうべのうちに土がかぶせてあった。
ハンナは納屋の前で、馬の左の前脚を持ち上げた。蹄の裏を指で押して、馬が嫌がらないのを確かめてから、下ろした。
鞍のうしろの袋に、紙を入れる。三の返事が一枚。勘定の控え。
縄を二度回して、端を挟んだ。
「ゆうべ、ゲルダさんとこで、カルスさんの話を思い出してたんだけどさ」
ハンナは、鞍に手をかけたまま言った。
「兄さん、嫁さんを連れて戻ったんだろ?」
「……そう、書いてありました」
「畑は、弟の名のままでいいって?」
「はい」
「じゃ、その二人は、どこの畑で食べてくんだい?」
ノエは、袋の中の紙を思い浮かべた。一行目から、最後の行まで。
「……書いて、ありませんでした」
「だろうね」
ハンナは、鞍に上がった。
「ま、決めるのは向こうだろ。あんたが、そう言ったんだ」
手綱を引いた。
蹄の音が、坂を下りていく。
ぽく、ぽく、ぽく。
揃っていた。
ノエは、鞍のうしろの袋を見ていた。揺れるたびに、縄の端が跳ねる。坂の曲がりで、袋が先に見えなくなって、馬の尻が見えなくなって、ハンナの背中が最後に消えた。
音は、霧の中へ入って、それから聞こえなくなった。
ノエは、門の柱に手をついた。乾いた木の、ざらりとした手触りだった。離しても、手形は残らなかった。
呼び止めれば、よかったのだろうか。
何を書き足すのかは、わからなかった。わからないけれど、書き足したかった。
東のほうから、ごつ、と鳴った。
兄の紙が、頭の中に広がる。一字も違えずに。
嫁をもらって、戻った。
その人のことは、そこにしか書いていなかった。
宿の主人の前で、兄と弟がもめていたとき、うしろで笑っていたという人。
日が、坂の上まで来ていた。門の柱の影が、短くなっていく。
宛名には、兄と弟の名前を並べた。
その人の名前を、ノエは、知らなかった。




