↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
30/52

30話

 村じゅうで、鍬の音がしていた。


 ざく。ざく。少し離れたところで、もう一つ。ざく。


 雪の消えた畑を、どの家も起こしはじめていた。音は、朝から日が傾くまで途切れない。重なったり、ずれたりしながら、坂の下まで続いている。


 東のはずれからだけ、違う音がした。


 ごつ。


 ボルドの一枚は、土の列が四本になっていた。杭から杭へ、黒い筋が並んでいる。傾いているのは、杭だけだった。


 起こした土の上に、朝のうちだけ、白い湯気が薄く立つ。昼には消える。


 ノエは、小屋の戸口に立って、坂を見ていた。


 四日目だった。


 坂の下には、誰も来なかった。


 日が傾いて、坂の影が門の柱まで伸びた。ノエは、柱の泥の手形を見た。乾いて、白くなっていた。


 五日目も、来なかった。


 ボルドの列は、六本になった。


 道はもう、ぬかるんではいない。日の当たるところから、土が白く乾いていた。


 ノエは、卓に戻った。


 順番の表がある。十一の横に、出した。三の横は、空いている。


 坂には、もう雪がひとかけらもなかった。


◇


 六日目の昼、ノエは父と母の畑へ水を運んだ。


 手桶に、半分だけ。それ以上入れると、畦道の途中で腕が震える。


 父は、畑のまん中で鍬を振っていた。背中の厚いところに、汗で外套が貼りついている。母は、畝の端で石を拾っては、畦の外へ放っていた。


 こつん。


「そこに置いときな」


 母は、振り向かずに言った。


 ノエは手桶を畦に下ろした。水の面が揺れて、空が揺れた。


 がらがら、と音がした。


 坂の下の道を、荷馬車が上がってくる。馬が一頭。御者台に、赤いものが見えた。


 頭巾だった。


「……カルスさん?」


 荷馬車は門を抜けずに、畑の脇の道で止まった。御者台の男が、頭巾を脱いで、髪をかき回した。


「やあ、戻りましたで」


 父が、鍬を止めた。


「おう。冬の間はどこにいたんだ?」


「街道の宿の、もう一つ先ですわ。雪で、出るに出られんで」


 カルスは、御者台から下りた。荷台から、麻袋を一つ下ろした。


 ノエは、その袋を知っていた。縄の巻き方も、知っていた。


「ハンナさんの、ですか?」


「ええ。ハンナさんの荷を、わしが預かっとります」


 カルスは、袋を畦に置いた。


「わしのほうに、急ぎの荷がありましてな。種ですわ。北の村へ、蒔く日の決まっとる種を、袋二つ。ところが、この道でしょう。荷馬車じゃ、車が泥に食われて、間に合わんで」


「それで、ハンナさんが?」


「馬なら、間に合いますでな。種は、蒔く日を逃すと一年ですから。代わりに、わしがこっちを運んできました。どうせ、帰り道ですで」


 カルスは、袋の口に手をかけて、止めた。


「それと、ノエさんに言伝があります。売れたそうで」


 父の鍬が、畝に刺さったまま動かなかった。


「……何がだ?」


 母が、拾った石を持ったまま、こちらを見ていた。


 ノエは、手桶の縁を握った。


「欄の紙を、宿の主人に、売ったんです。ハンナさんに、売ってきてもらいました」


「……売った?」


「書き賃です。村の外の人なので、貰うことにしました」


 父は、ノエの顔を見た。それから、カルスを見た。母を見た。


 何も言わなかった。


 父は、鍬を畝から抜いた。振り上げて、下ろした。


 ざく。


 ざく、ざく。


 さっきより、音が速かった。


 母が、石を畦の外へ放った。こつん、と遠くで鳴った。


「銭は、どうするんだい?」


「村の帳面に、入れます」


 母は、しばらくノエを見ていた。前掛けで、手の土を拭った。


「なら、先にトバさんのとこに報告だね」


◇


 小屋の卓で、カルスが袋を開けた。


 中から、紙の束と、小さな麻の包みが出てきた。


 包みは、麻紐で十字にくくってあった。結び目が、固い。


 ノエは、指の先でつまんで引いた。ほどけなかった。爪を立てた。ほどけなかった。


 カルスが、横から手を出した。結び目の下に親指を入れて、一度ひねった。


 するりと、紐がゆるんだ。


「十年、荷を解いとりますでな」


 カルスは得意げな笑みを浮かべていた。


 包みの中には、銭があった。


 卓の上に、じゃら、と広がる。


 ノエは、銭を見ていた。


 村で、銭を見ることは少ない。蔵の麦が、たいていの代わりになる。トバの帳面にある銭は、干し魚のときのぶんだけだった。


「ハンナさんの言伝の、続きです」


 カルスは、咳ばらいを一つした。


「言った値より、多いよ。わけは、紙に書いてあるってさ。三割は、もうもらったからね」


 声の出し方まで、ハンナに寄せていた。


 ノエは、思わず顔を上げた。


 カルスは、頭巾をかぶり直していた。耳のうしろが、少し赤かった。


「……と、言うとりました」


 包みの底に、紙が一枚、畳んで入っていた。


 開くと、太い字だった。


 宿の主人の字だ。はらいのところが、三本に分かれている。


 一行目は、欄の紙五枚の値だった。数だけが書いてある。


 その下に、もう一行あった。


 ──冬のはじめに、ただで書き方をもらった。そのぶんも入れておく。


 ノエは、その一行を二度読んだ。


 冬のはじめ。


 リックの畑を紙にしたころだった。宿の主人への返事に、行けません、と書いた。それだけでは足りない気がして、その下に、四至のやり方を書き足した。東、西、南、北。棒の数の入れ方。立ち会いの名前の並べ方。


 同じものを一枚写して、棚に置いた。


 それきり、あの紙のことを、誰にも言われなかった。


 一人目の返事も、二人目の返事も、あの順で来た。十二の紙も。宿の主人の太い字は、いつも東から書きはじめていた。


 届いていた。


 紙の端が、指の下でよれた。


 ノエは、力を抜こうとした。指が、言うことを聞かなかった。


 卓の銭を、一枚だけ、指で動かしてみた。じゃり、と鳴った。


 もう一度、あの一行を読んだ。


 カルスは、窓の外を見ていた。


 しばらくして、別の紙を二枚、卓に置いた。


「それと、これも、包みに入っとりました」


 小さな紙だった。太い字で、同じ一行が書いてある。


 ──この紙を持つ者を、一晩泊める。


 その下に、宿の主人の名前。


「……泊める?」


「銭の足りんぶんは、泊まりで、ということでしょうな」


 カルスは、紙の端を指で揃えた。


「冬明けの宿は、手持ちの銭が少ないもんです。冬のあいだ、客が来とらんですから。泊まりなら、あるもんで払えます」


 ノエは、二枚の紙を見た。


 宿まで、ハンナの馬で二日。


 ノエは、門の外へ三歩しか出たことがない。


 紙を、銭の横に並べた。


「それと、こっちは、ハンナさんから預かったもんで」


 カルスが、もう一枚出した。


 勘定の控えだった。


 五と八の行に、印が増えている。宿の主人の欄に、太い字の数が入っていた。値の欄の数と、同じだった。


「五と八の運び賃を、宿の主人から受け取るとき、ハンナさんが、これを見りゃわかる、と言うて寄こしましてな」


 カルスは、控えを指でたどった。左の数。印。値。宿の主人の欄。


「勘定のことは、ハンナさん、口では何も言うとらんのです。それで、わしは銭を受け取った。合っとりましたな」


 カルスは、また頭巾を脱いだ。髪をかき回した。


「十年、荷馬車の上で、こういうのを頭でやっとりました。……これは、どこで?」


「ハンナさんのために、作りました。ハンナさんが読める字だけで」


 カルスは、しばらく黙って控えを見ていた。


「……ほう」


 それだけ言って、控えを畳んだ。懐へ入れて、上着の上から二度叩いた。


「ハンナさんに、返さんといけませんで」


 叩いた手が、しばらく懐の上から動かなかった。


◇


 紙の束には、五と八の返事があった。


 五は、棒の数が入っていた。八は、字が線の上に載っていた。


 その下に、二枚あった。


 一枚は、ノエの引いた欄の紙だった。左の端に、ノエの字が並んでいる。右に、宿の主人の太い字。


「三だそうです」


 カルスが言った。


「雪解けの、と宿の主人が言うとりました」


 ノエは、紙を取った。


 今、畑に名前のある人。そこに、一つ名前がある。


 新しく名前を書く人。そこに、もう一つ名前がある。


 上の名前は、表の三に、ノエが書いた名前と同じだった。下は、その兄の名前だった。


 兄が雪解けに戻る。戻る前に。


 戻る前に、畑を兄の名にしておきたかったのだろう。


 東、西、南、北。棒の数が入っている。立ち会いの三人も、揃っていた。


 余白に、一行あった。


 兄が戻る前にと頼んでおきながら、こちらが間に合わなかった。申し訳ない。それでも、兄の名に。


 ノエは、窓の外を見た。


 坂には、雪がない。


 もう一枚は、欄のない、小さな紙だった。


 同じ太い字だった。


 嫁をもらって、戻った。畑は、弟の名のままでいい。弟が耕した畑だ。


 ノエは、二枚を並べた。


 同じ字で、同じ畑のことが書いてある。


「その二人なら、宿で見ましたで」


 カルスが、言った。


「兄さんのほうでしょうな、声の大きいのは。宿の主人の前で、どっちが先に書かせるかで、もめとりました。うしろで、若い女の人が一人、笑っとりましたな。あれが、嫁さんでしょう」


「……もめて、いたんですか?」


「ええ。どっちも、自分じゃないほうの名前を書けと言うとりましたな」


 カルスは、鼻の頭を掻いた。


「宿の主人は、困った顔で、二枚とも書いとりました」


 カルスは、頭巾をかぶって、立ち上がった。


◇


 トバの家の卓は、今日も光っていた。


 村一番の、大きな一枚板。窓の光が、その上を細長く滑っている。


 トバは、卓の向こうに座っていた。顎を撫でながら、窓の外の畑を見ていた。どこかの家の鍬の音が、ここまで届いている。


 ノエは、麻の包みを卓の上に置いた。


 じゃら、と鳴った。


 トバの顎を撫でていた手が、止まった。


 それから、その手が、こめかみへ行った。


「……ノエ」


「はい」


「これは、どこから持ってきた?」


 声が、低かった。


「宿の主人です」


「宿の主人が、なんでお前に銭を寄こす?」


「紙を、売ったんです。欄の紙を五枚。村の外の人なので、書き賃を取りました。売ったのはハンナさんで、三割はハンナさんのぶんで、残りが、これです。それから、宿の主人が、冬のはじめに送った四至のやり方のぶんも、足してくれて」


 言いながら、声が早くなっていった。


 トバは、こめかみを押さえたまま、目だけ動かして銭を見た。


「……借りたんじゃ、ないんじゃな?」


「借りていません」


 トバの手が、こめかみから下りた。


 長い息を吐いた。


「で、これを、どうする?」


「村の帳面に、入れてください」


 ノエは、帳面を開いた。


 干し魚のときから、誰がいくら出したかを別に書くようになった一枚。出した者の名前が、縦に並んでいる。ヨナス。ボルド。テッサ。デュラ。トバ。


 どれも、ノエの字だった。


 その下が、空いている。


 ノエは、筆を取った。


「貸せ」


 トバが、手を出していた。


 ノエは、筆を渡した。


 トバは、帳面を自分のほうへ向けた。筆の先を、墨に一度つけて、紙の上で止めた。


 書いた。


 ノエ。


 大きかった。上の名前の、倍はあった。二行ぶんを、はみ出して使っている。線が、少し震えていた。


「お前の字は、小さいからな」


 トバは、筆を置いた。


 ノエは、帳面の上の、自分の名前を見ていた。


 自分の名前を、人の字で見るのは、初めてだった。


 ノ、の払いが長い。エ、の横の線が、右へ上がっていく。


 指を伸ばして、触れかけた。墨が、まだ光っていた。


 指を、引っこめた。


「それと、これも」


 ノエは、泊まりの紙を二枚、卓に置いた。


 トバは、一枚を取って、目から遠ざけた。


「……一晩、泊める」


「銭の足りないぶんだそうです」


 トバは、顎を撫でた。


「これは、何升ぶんと書くね?」


「……泊まり、二晩と」


「升で書けんものは、困るな」


 そう言いながら、トバは筆をもう一度取った。ノエの名前の横に、小さく、泊まり二晩、と書いた。


 こちらの字は、小さかった。


 戸口を出るとき、ノエは一度だけ振り返った。


 トバが、袖で卓を拭いていた。


 光っているところを、もう一度。


◇


 その夜、小屋に灯りをつけた。


 卓の上に、二枚の紙を並べた。


 三の、欄の紙。


 兄の、小さな紙。


 同じ太い字が、別々の名前を指している。


 弟の紙のとおりに書けば、畑は兄の名になる。


 兄の紙のとおりなら、書く紙はない。帳面の名が変わらないのなら、出すものはない。本には、そう書いてあった。


 それなのに、兄の紙は、書いてくれと言っている。


 書かなくていいことを、書いてくれと頼んでいる。


 知らないのだろう。弟も、たぶん。


 ノエは、順番の表を引き寄せた。


 三の横は、空いている。


 筆の先を、そこへ持っていった。


 書いた、とも。出した、とも。書けなかった。


 ──決めているのは、僕だ。


 表を作った夜、そう思った。


 あのときは、順番のことだった。


 今、筆の先の下にあるのは、畑の名前だった。


 灯りの炎が、二枚の紙の上で揺れている。


 どちらかの名前に、しなければいけないのだろうか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。