30話
村じゅうで、鍬の音がしていた。
ざく。ざく。少し離れたところで、もう一つ。ざく。
雪の消えた畑を、どの家も起こしはじめていた。音は、朝から日が傾くまで途切れない。重なったり、ずれたりしながら、坂の下まで続いている。
東のはずれからだけ、違う音がした。
ごつ。
ボルドの一枚は、土の列が四本になっていた。杭から杭へ、黒い筋が並んでいる。傾いているのは、杭だけだった。
起こした土の上に、朝のうちだけ、白い湯気が薄く立つ。昼には消える。
ノエは、小屋の戸口に立って、坂を見ていた。
四日目だった。
坂の下には、誰も来なかった。
日が傾いて、坂の影が門の柱まで伸びた。ノエは、柱の泥の手形を見た。乾いて、白くなっていた。
五日目も、来なかった。
ボルドの列は、六本になった。
道はもう、ぬかるんではいない。日の当たるところから、土が白く乾いていた。
ノエは、卓に戻った。
順番の表がある。十一の横に、出した。三の横は、空いている。
坂には、もう雪がひとかけらもなかった。
◇
六日目の昼、ノエは父と母の畑へ水を運んだ。
手桶に、半分だけ。それ以上入れると、畦道の途中で腕が震える。
父は、畑のまん中で鍬を振っていた。背中の厚いところに、汗で外套が貼りついている。母は、畝の端で石を拾っては、畦の外へ放っていた。
こつん。
「そこに置いときな」
母は、振り向かずに言った。
ノエは手桶を畦に下ろした。水の面が揺れて、空が揺れた。
がらがら、と音がした。
坂の下の道を、荷馬車が上がってくる。馬が一頭。御者台に、赤いものが見えた。
頭巾だった。
「……カルスさん?」
荷馬車は門を抜けずに、畑の脇の道で止まった。御者台の男が、頭巾を脱いで、髪をかき回した。
「やあ、戻りましたで」
父が、鍬を止めた。
「おう。冬の間はどこにいたんだ?」
「街道の宿の、もう一つ先ですわ。雪で、出るに出られんで」
カルスは、御者台から下りた。荷台から、麻袋を一つ下ろした。
ノエは、その袋を知っていた。縄の巻き方も、知っていた。
「ハンナさんの、ですか?」
「ええ。ハンナさんの荷を、わしが預かっとります」
カルスは、袋を畦に置いた。
「わしのほうに、急ぎの荷がありましてな。種ですわ。北の村へ、蒔く日の決まっとる種を、袋二つ。ところが、この道でしょう。荷馬車じゃ、車が泥に食われて、間に合わんで」
「それで、ハンナさんが?」
「馬なら、間に合いますでな。種は、蒔く日を逃すと一年ですから。代わりに、わしがこっちを運んできました。どうせ、帰り道ですで」
カルスは、袋の口に手をかけて、止めた。
「それと、ノエさんに言伝があります。売れたそうで」
父の鍬が、畝に刺さったまま動かなかった。
「……何がだ?」
母が、拾った石を持ったまま、こちらを見ていた。
ノエは、手桶の縁を握った。
「欄の紙を、宿の主人に、売ったんです。ハンナさんに、売ってきてもらいました」
「……売った?」
「書き賃です。村の外の人なので、貰うことにしました」
父は、ノエの顔を見た。それから、カルスを見た。母を見た。
何も言わなかった。
父は、鍬を畝から抜いた。振り上げて、下ろした。
ざく。
ざく、ざく。
さっきより、音が速かった。
母が、石を畦の外へ放った。こつん、と遠くで鳴った。
「銭は、どうするんだい?」
「村の帳面に、入れます」
母は、しばらくノエを見ていた。前掛けで、手の土を拭った。
「なら、先にトバさんのとこに報告だね」
◇
小屋の卓で、カルスが袋を開けた。
中から、紙の束と、小さな麻の包みが出てきた。
包みは、麻紐で十字にくくってあった。結び目が、固い。
ノエは、指の先でつまんで引いた。ほどけなかった。爪を立てた。ほどけなかった。
カルスが、横から手を出した。結び目の下に親指を入れて、一度ひねった。
するりと、紐がゆるんだ。
「十年、荷を解いとりますでな」
カルスは得意げな笑みを浮かべていた。
包みの中には、銭があった。
卓の上に、じゃら、と広がる。
ノエは、銭を見ていた。
村で、銭を見ることは少ない。蔵の麦が、たいていの代わりになる。トバの帳面にある銭は、干し魚のときのぶんだけだった。
「ハンナさんの言伝の、続きです」
カルスは、咳ばらいを一つした。
「言った値より、多いよ。わけは、紙に書いてあるってさ。三割は、もうもらったからね」
声の出し方まで、ハンナに寄せていた。
ノエは、思わず顔を上げた。
カルスは、頭巾をかぶり直していた。耳のうしろが、少し赤かった。
「……と、言うとりました」
包みの底に、紙が一枚、畳んで入っていた。
開くと、太い字だった。
宿の主人の字だ。はらいのところが、三本に分かれている。
一行目は、欄の紙五枚の値だった。数だけが書いてある。
その下に、もう一行あった。
──冬のはじめに、ただで書き方をもらった。そのぶんも入れておく。
ノエは、その一行を二度読んだ。
冬のはじめ。
リックの畑を紙にしたころだった。宿の主人への返事に、行けません、と書いた。それだけでは足りない気がして、その下に、四至のやり方を書き足した。東、西、南、北。棒の数の入れ方。立ち会いの名前の並べ方。
同じものを一枚写して、棚に置いた。
それきり、あの紙のことを、誰にも言われなかった。
一人目の返事も、二人目の返事も、あの順で来た。十二の紙も。宿の主人の太い字は、いつも東から書きはじめていた。
届いていた。
紙の端が、指の下でよれた。
ノエは、力を抜こうとした。指が、言うことを聞かなかった。
卓の銭を、一枚だけ、指で動かしてみた。じゃり、と鳴った。
もう一度、あの一行を読んだ。
カルスは、窓の外を見ていた。
しばらくして、別の紙を二枚、卓に置いた。
「それと、これも、包みに入っとりました」
小さな紙だった。太い字で、同じ一行が書いてある。
──この紙を持つ者を、一晩泊める。
その下に、宿の主人の名前。
「……泊める?」
「銭の足りんぶんは、泊まりで、ということでしょうな」
カルスは、紙の端を指で揃えた。
「冬明けの宿は、手持ちの銭が少ないもんです。冬のあいだ、客が来とらんですから。泊まりなら、あるもんで払えます」
ノエは、二枚の紙を見た。
宿まで、ハンナの馬で二日。
ノエは、門の外へ三歩しか出たことがない。
紙を、銭の横に並べた。
「それと、こっちは、ハンナさんから預かったもんで」
カルスが、もう一枚出した。
勘定の控えだった。
五と八の行に、印が増えている。宿の主人の欄に、太い字の数が入っていた。値の欄の数と、同じだった。
「五と八の運び賃を、宿の主人から受け取るとき、ハンナさんが、これを見りゃわかる、と言うて寄こしましてな」
カルスは、控えを指でたどった。左の数。印。値。宿の主人の欄。
「勘定のことは、ハンナさん、口では何も言うとらんのです。それで、わしは銭を受け取った。合っとりましたな」
カルスは、また頭巾を脱いだ。髪をかき回した。
「十年、荷馬車の上で、こういうのを頭でやっとりました。……これは、どこで?」
「ハンナさんのために、作りました。ハンナさんが読める字だけで」
カルスは、しばらく黙って控えを見ていた。
「……ほう」
それだけ言って、控えを畳んだ。懐へ入れて、上着の上から二度叩いた。
「ハンナさんに、返さんといけませんで」
叩いた手が、しばらく懐の上から動かなかった。
◇
紙の束には、五と八の返事があった。
五は、棒の数が入っていた。八は、字が線の上に載っていた。
その下に、二枚あった。
一枚は、ノエの引いた欄の紙だった。左の端に、ノエの字が並んでいる。右に、宿の主人の太い字。
「三だそうです」
カルスが言った。
「雪解けの、と宿の主人が言うとりました」
ノエは、紙を取った。
今、畑に名前のある人。そこに、一つ名前がある。
新しく名前を書く人。そこに、もう一つ名前がある。
上の名前は、表の三に、ノエが書いた名前と同じだった。下は、その兄の名前だった。
兄が雪解けに戻る。戻る前に。
戻る前に、畑を兄の名にしておきたかったのだろう。
東、西、南、北。棒の数が入っている。立ち会いの三人も、揃っていた。
余白に、一行あった。
兄が戻る前にと頼んでおきながら、こちらが間に合わなかった。申し訳ない。それでも、兄の名に。
ノエは、窓の外を見た。
坂には、雪がない。
もう一枚は、欄のない、小さな紙だった。
同じ太い字だった。
嫁をもらって、戻った。畑は、弟の名のままでいい。弟が耕した畑だ。
ノエは、二枚を並べた。
同じ字で、同じ畑のことが書いてある。
「その二人なら、宿で見ましたで」
カルスが、言った。
「兄さんのほうでしょうな、声の大きいのは。宿の主人の前で、どっちが先に書かせるかで、もめとりました。うしろで、若い女の人が一人、笑っとりましたな。あれが、嫁さんでしょう」
「……もめて、いたんですか?」
「ええ。どっちも、自分じゃないほうの名前を書けと言うとりましたな」
カルスは、鼻の頭を掻いた。
「宿の主人は、困った顔で、二枚とも書いとりました」
カルスは、頭巾をかぶって、立ち上がった。
◇
トバの家の卓は、今日も光っていた。
村一番の、大きな一枚板。窓の光が、その上を細長く滑っている。
トバは、卓の向こうに座っていた。顎を撫でながら、窓の外の畑を見ていた。どこかの家の鍬の音が、ここまで届いている。
ノエは、麻の包みを卓の上に置いた。
じゃら、と鳴った。
トバの顎を撫でていた手が、止まった。
それから、その手が、こめかみへ行った。
「……ノエ」
「はい」
「これは、どこから持ってきた?」
声が、低かった。
「宿の主人です」
「宿の主人が、なんでお前に銭を寄こす?」
「紙を、売ったんです。欄の紙を五枚。村の外の人なので、書き賃を取りました。売ったのはハンナさんで、三割はハンナさんのぶんで、残りが、これです。それから、宿の主人が、冬のはじめに送った四至のやり方のぶんも、足してくれて」
言いながら、声が早くなっていった。
トバは、こめかみを押さえたまま、目だけ動かして銭を見た。
「……借りたんじゃ、ないんじゃな?」
「借りていません」
トバの手が、こめかみから下りた。
長い息を吐いた。
「で、これを、どうする?」
「村の帳面に、入れてください」
ノエは、帳面を開いた。
干し魚のときから、誰がいくら出したかを別に書くようになった一枚。出した者の名前が、縦に並んでいる。ヨナス。ボルド。テッサ。デュラ。トバ。
どれも、ノエの字だった。
その下が、空いている。
ノエは、筆を取った。
「貸せ」
トバが、手を出していた。
ノエは、筆を渡した。
トバは、帳面を自分のほうへ向けた。筆の先を、墨に一度つけて、紙の上で止めた。
書いた。
ノエ。
大きかった。上の名前の、倍はあった。二行ぶんを、はみ出して使っている。線が、少し震えていた。
「お前の字は、小さいからな」
トバは、筆を置いた。
ノエは、帳面の上の、自分の名前を見ていた。
自分の名前を、人の字で見るのは、初めてだった。
ノ、の払いが長い。エ、の横の線が、右へ上がっていく。
指を伸ばして、触れかけた。墨が、まだ光っていた。
指を、引っこめた。
「それと、これも」
ノエは、泊まりの紙を二枚、卓に置いた。
トバは、一枚を取って、目から遠ざけた。
「……一晩、泊める」
「銭の足りないぶんだそうです」
トバは、顎を撫でた。
「これは、何升ぶんと書くね?」
「……泊まり、二晩と」
「升で書けんものは、困るな」
そう言いながら、トバは筆をもう一度取った。ノエの名前の横に、小さく、泊まり二晩、と書いた。
こちらの字は、小さかった。
戸口を出るとき、ノエは一度だけ振り返った。
トバが、袖で卓を拭いていた。
光っているところを、もう一度。
◇
その夜、小屋に灯りをつけた。
卓の上に、二枚の紙を並べた。
三の、欄の紙。
兄の、小さな紙。
同じ太い字が、別々の名前を指している。
弟の紙のとおりに書けば、畑は兄の名になる。
兄の紙のとおりなら、書く紙はない。帳面の名が変わらないのなら、出すものはない。本には、そう書いてあった。
それなのに、兄の紙は、書いてくれと言っている。
書かなくていいことを、書いてくれと頼んでいる。
知らないのだろう。弟も、たぶん。
ノエは、順番の表を引き寄せた。
三の横は、空いている。
筆の先を、そこへ持っていった。
書いた、とも。出した、とも。書けなかった。
──決めているのは、僕だ。
表を作った夜、そう思った。
あのときは、順番のことだった。
今、筆の先の下にあるのは、畑の名前だった。
灯りの炎が、二枚の紙の上で揺れている。
どちらかの名前に、しなければいけないのだろうか。




