29話
雪が、坂の上から痩せていった。
ノエは、小屋の卓の前に座っていた。
卓の端に、紙が一枚ある。
十一の聞き直しだった。ハンナが発った朝から、そこに置いてある。棚へは、戻さなかった。
──誰に、何を書くんだい?
ハンナの声が、耳の奥に残っていた。
ノエは、筆を持った。持っただけで、紙の上に下ろせなかった。
村の人からは、書き賃を取っていない。
宿の主人の紙も、取っていない。取ろうと思ったことが、なかった。
書く相手は、いつも向こうから来た。父の椅子に座って、話しはじめる人に書いてきた。
誰に、と自分から考えるのは、これが初めてだった。
筆の先が、紙の少し上で止まったままだった。
窓の光が、卓の縁から、床の藁のほうへ移っていった。
ノエは、筆を置いた。
次の日も、同じだった。
坂の途中に、土がのぞいた。黒い、濡れた土だった。三日目には、それが一本の帯になった。帯の縁から、細い水が道へ流れ出している。
村の南から、沢の音が届くようになった。
冬のあいだ、聞こえなかった音だった。ざあ、と低く、途切れない。
十一の紙は、卓の端にあった。
その横の紙は、白いままだった。
◇
夕方、父が蔵にいた。
戸が開いていて、中から、ざっ、ざっ、という音がしていた。
父は、麦の山の前にしゃがんでいた。升で麦をすくっては、足もとの麻袋へ移している。升の縁を、手のひらで一度払う。余った粒が、山へ戻る。
ざっ。
「ボルドさんに渡すぶんですか?」
「おう」
父は、顔を上げなかった。
「口、持っててくれ」
ノエは、しゃがんで麻袋の口を両手で広げた。
升が傾いて、麦が落ちてきた。袋の底に当たって、さらさらと鳴る。粒の重みが指に伝わった。
五回。六回。
父は升を置いて、袋の口を縄でくくった。一度結んで、引いた。結び目がするりとほどけた。
父は、何も言わずに結び直した。
「……ボルドさんは、種の代わりに、何かくれるんですか?」
父の手が止まった。
「何のはなしだ?」
「種のぶんの、返しを」
父は、しばらく袋を見ていた。結び目を指で押さえたまま、言った。
「入った年にな。あいつと二人で、東はずれの株を抜いた」
ノエは、うなずいた。
「次の日は、あいつがうちの株を抜いた。一人じゃ抜けん株だった。この蔵の屋根も、半分はあいつが葺いたんだ」
父は、縄の端を二度引いた。今度は、ほどけなかった。
「どっちの借りが多いかなんぞ、数えたこともないな」
袋を持ち上げて、戸口の脇に下ろした。どさ、と鳴った。
ノエは、自分の手を見た。袋の口を持っていた指に、麦の粉が薄くついていた。
ボルドの薪の袋を、思い出した。倒れた日の夕方に、戸口に置いていったもの。
テッサの手袋。一度も使っていないけれど、棚の上にある。
村の人は、何かを置いていく。
ノエは、麦の粉のついた指を、握った。
数えたこともないな。
ハンナは、数えていた。
ノエは、目を閉じた。
小屋の卓の横で、ハンナが指を一本ずつ折っていた。
五と八と十一は、宿の主人が銭を預かって、あたしに払うと。
親指。人差し指。中指。
三本目で、指は止まった。
目を開けた。
あの勘定は、ハンナの頭の中にしかない。
宿の主人が、何人ぶんもの銭を預かる。ハンナが、四日かけて紙を運ぶ。戻ってきて、また銭を受け取る。どの紙のぶんが、いくらで、誰がもう払って、誰がまだなのか。
紙には、どこにも書いていなかった。
──数なら、ハンナさんは読める。
「ノエ、粥だよ」
母屋から、母の声がした。
◇
その夜、小屋に灯りをつけた。
ノエは、新しい紙を一枚引き寄せた。
左の端に、縦に数を書いた。五。八。十一。そのあとに、空けておく行を、いくつか。
その右に、線を引いて欄を作る。行き。戻り。値。宿の主人が受け取った銭。
行きと戻りの欄には、字を書かないことにした。印を一つ、置くだけにする。
値の欄には、数を書く。
ハンナが読めるのは、荷札と、値と、村の名前。
それ以外の字は、この紙には要らない。
筆が、紙の上を走った。線が、一本ずつ増えていく。沢の音が、ずっと鳴っていた。
十一の行まで来て、筆が止まった。
値の欄が、空いたままだった。
◇
五日目に、雨が降った。
朝から細い雨がやまない。藁屋根が、しゅう、と鳴りつづけている。
軒の雫が掘った穴は、もう穴ではなかった。まわりの雪が崩れて、灰色の水たまりになっていた。坂の雪は、朝のうちに半分になり、昼にはまだらになった。
昼すぎ、坂の下に影が見えた。
馬だった。首を低くして、一歩ずつ上がってくる。鞍の上の人は、外套の頭巾を深くかぶっていた。
ノエは、戸口に立った。
馬は門を抜けて、まっすぐ父の納屋のほうへ行った。
しばらくして、小屋の戸が開いた。
「ひどい道だよ」
ハンナは、戸口で外套を脱いだ。両手で絞った。ばたばたと、敷居に水が落ちた。
髪が、額に貼りついていた。指の先が、白くなっている。
「紙は、今日は一枚もないよ。五と八のは、宿に置いてきたばかりだ。向こうが書いて戻すまで、待っちゃいられないからね」
「三も、ですか?」
「三もだよ。宿のまわりの道が、雪解けで田んぼみたいになってるんだとさ。出てこられる者がいないって。……炉、借りるよ」
ハンナは炉の前にしゃがんで、両手をかざした。手の甲から、薄く湯気が立った。
ノエは、卓の上の紙を取った。
この何日かで、何度か線を引き直した一枚だった。
「この前の、答えです」
ハンナの手が、炉の上で止まった。
振り向いて、紙を見た。それから、ノエの顔を見た。
「言えるようになったのかい?」
「ハンナさんに。勘定の控えを、書きます」
ノエは、紙を炉のそばの床に置いた。膝をついた。ハンナと、目の高さが同じになった。
「左の端が、紙の数です。表の数と同じです」
ハンナの目が、左の端を下りていった。
「……五。八。十一」
声に出して、読んだ。
「その右が、行きと戻りです。ハンナさんが持って出たら、ここに印を一つ。戻ってきたら、こっちに一つ」
「印でいいのかい?」
「印でいいです。字は、要りません」
「ここは?」
ハンナの指が、次の欄の上で止まった。
「値です。ハンナさんが決めた値を、書きます」
「数なら、あたしにも読めるね」
ハンナの指が、その隣の欄へ移った。
「……で、ここは、宿の主人が書くんだね。預かった銭を」
「そうです。ハンナさんは、値の欄と見比べるだけです。数が合っていれば、それでいいんです。合わなければ、どの紙のぶんか、左を見ればわかります」
言いながら、声が早くなっていくのがわかった。
ハンナは、止めなかった。
紙を、床から取り上げた。炉の火のほうへ傾けた。
左の数を、指でたどる。値の欄。宿の主人の欄。もう一度、左の数。
指は、一本も折らなかった。
「これ一枚で、何回ぶんだい?」
「行きと戻りで、十回ぶんは書けます。春までは、足りると思います」
ハンナは、紙を膝の上に置いた。
炉の中で、薪が、ぱち、と爆ぜた。
「十一は、値が空いてるね」
「……そこは、ハンナさんに決めてもらおうと思って」
ハンナは、しばらく十一の行を見ていた。
それから立ち上がって、紙を卓の上へ持っていった。
平手で、卓を一度叩いた。
ぱん。
いつもの音だった。
「十一の紙は、あたしが運ぶよ。これ一枚と引き換えだ」
「……いいんですか?」
「いいも悪いも、取引だよ。あたしは、四日ぶんの勘定を、もう頭で持たなくていい。安いくらいさ」
ノエは、膝をついたまま、長く息を吐いた。
吐いた息が、炉の火を少しだけ揺らした。
◇
「それとね」
ハンナは、椅子を引いて座った。
「宿の主人、あんたの見本を写すのに、一晩かかったってぼやいてたよ。欄の紙も、そのうち何枚か写すつもりだってさ。あと何人来るか、わからないからね」
「宿の主人さんが、写すんですか?」
「あの太い字で、線をまっすぐ引くのは骨だろうね」
ハンナは、控えの紙の端を、指で弾いた。
「欄の紙、書いて売りな。宿の主人に」
ノエは、ハンナを見た。
「売る、んですか?」
「写すより、買うほうが早い。あの人なら、そう言うと思うよ」
「でも、書き賃は、取っていないので」
「村では、だろ?」
ハンナは、ノエを見ていた。
「宿の主人は、この村の人かい?」
ノエは、答えなかった。
父の手が、升を傾けていた。袋の口を持つ指に、麦の重みが落ちてきた。
株を抜いた次の日に、株を抜いた。蔵の屋根を、半分葺いた。
割ったら、余ったんだ。
村の人は、何かを置いていく。ノエが置けたのは、字だけだった。だから、書き賃は取らなかった。取れば、置いたことにならない気がした。
宿の主人には、何ももらっていない。
屋根を葺いてもらったことも、株を抜いてもらったこともない。顔も、知らない。
──返すものが、ない。
なら、取っていいのだろうか。
「……取って、いいんでしょうか?」
自分の声が、頼りなく聞こえた。
「取らなきゃ、宿の主人のほうが困るんじゃないかね。十三人ぶん、会ったこともない子どもに、借りっぱなしだよ」
ハンナは、肩をすくめた。
「あたしなら、嫌だね」
ノエは、控えの紙を見た。
自分の字で、欄が並んでいる。ハンナが読める字だけで。
欄の紙も、同じはずだった。宿の主人の、あの太い字が、はみ出さずに載るように引いた線。
「……売ります」
ハンナが、うなずいた。
「それで、銭は、村の帳面に入れてもらいます」
ハンナの眉が、上がった。
「あんたの銭だよ?」
「トバさんの帳面です。干し魚のときから、誰がいくら出したか、別に書くようになったので」
言いながら、帳面の一枚を思い浮かべた。
出した者の名前が、縦に並ぶところ。ヨナス。ボルド。テッサ。デュラ。トバ。
どの名前も、ノエの字だった。
ノエの名前が、そこに書かれたことは、一度もなかった。
喉の奥が、熱くなった。
早く、トバさんの顔が見たかった。こめかみを押さえるだろうか。卓を磨く回数が、増えるだろうか。
ハンナが、声を出して笑った。
「宿の主人から銭を取って、村に払うのかい。変な商売だね」
「……商売、なんですか?」
「ものを売って、銭をもらうんだ。りっぱな商売だよ」
ハンナは、乾きかけた外套を肩にかけ直した。
「売るのは、あたしがやるよ。あんたは宿へ行けないだろ。干し肉と同じだ。三割もらうよ」
「値は、どうしますか?」
「あたしが決めてくる。悪いようにはしないよ。あんたの門出なんだからね」
◇
その夜、欄の紙を書いた。
五枚、とハンナは言った。
雨の音が、藁屋根の上で細くなったり、太くなったりした。
一枚目の左の端に、上から書いた。今、畑に名前のある人。新しく名前を書く人。東。西。南。北。立ち会いに立つ人、三人。
右の線は、前に引いたものより、少しだけ間を広くした。
宿の主人の字は、太い。はらいのところで、三本に分かれる。あの字が、線の上に座るくらいの幅。
五枚を書き終えて、重ねる。
それから、順番の表を引き寄せた。
十一の横は、空いたままだ。
ノエは、そこに小さく書いた。出した。
灯りの炎が、細くなっている。
ノエは、油を足した。
炎が、また丸くなった。表の上の十一の数が、灯りの中に戻ってきた。
◇
翌朝、雨は上がっていた。
坂の雪は、ほとんど消えていた。日陰の溝に、細く白いものが一本残っているだけだった。坂は、一面の黒い土になっていた。
三の紙は、まだ戻っていない。
ハンナは、納屋から馬を出してきた。
鞍のうしろの袋に、紙を入れた。十一の聞き直し。勘定の控え。欄の紙、五枚。
縄を二度回して、端を挟んだ。
「三割だからね」
「はい。忘れません」
ハンナは鞍に上がった。坂を下りていく蹄の跡に、すぐ水がたまった。
ノエは、門の柱に手をついた。離すと、柱に泥の手形が残った。
東のほうから、音がした。
ごつ。
少しあいて、また、ごつ。
ノエは、畦道を東へ歩いた。
東のはずれの一枚は、雪が消えて、去年の草が倒れたまま、茶色く寝ていた。その中を、踏み跡が一本、奥へ続いている。
ボルドが、杭の脇に立っていた。
三日月の鍬を、肩の高さまで上げていた。
振り下ろす前に、ボルドは片目をつぶった。杭の向こうの、もう一本の杭を見ていた。
ごつ。
刃が、土に入った。半分だけ入って、止まった。
ボルドは、柄を手前に倒した。土が、黒い塊になって起きた。塊の下から、白い、細い根がのぞいた。
一歩下がった。また、振り上げた。
ごつ。
「何しに来た?」
ボルドは、こちらを見ずに言った。
「見に来ました」
「見るもんなんぞ、ねえぞ」
ごつ。
起こした土が、杭から杭へ、一列に並んでいく。
ノエは、踏み跡の端に立って、その列を見た。
杭は、四本とも、同じほうへ少し傾いている。
土の列は、傾いていなかった。
「……まっすぐです」
「目で引くと言うたろうが」
ボルドは、振り返らなかった。
ごつ。
最初の一本が、また少し伸びた。
ノエは、坂のほうを振り返った。
坂の下に、馬の影が小さく見えた。やがて、それも見えなくなった。
あの袋の中に、ノエの書いた紙がある。
初めて、銭になるはずの紙だった。
宿の主人の手に渡って、そのあと、誰の手へ渡っていくのか。
ノエは、まだ、そこまでは考えていなかった。




