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29/52

29話

 雪が、坂の上から痩せていった。


 ノエは、小屋の卓の前に座っていた。

 卓の端に、紙が一枚ある。


 十一の聞き直しだった。ハンナが発った朝から、そこに置いてある。棚へは、戻さなかった。


 ──誰に、何を書くんだい?


 ハンナの声が、耳の奥に残っていた。

 ノエは、筆を持った。持っただけで、紙の上に下ろせなかった。


 村の人からは、書き賃を取っていない。

 宿の主人の紙も、取っていない。取ろうと思ったことが、なかった。


 書く相手は、いつも向こうから来た。父の椅子に座って、話しはじめる人に書いてきた。


 誰に、と自分から考えるのは、これが初めてだった。

 筆の先が、紙の少し上で止まったままだった。


 窓の光が、卓の縁から、床の藁のほうへ移っていった。


 ノエは、筆を置いた。


 次の日も、同じだった。


 坂の途中に、土がのぞいた。黒い、濡れた土だった。三日目には、それが一本の帯になった。帯の縁から、細い水が道へ流れ出している。


 村の南から、沢の音が届くようになった。

 冬のあいだ、聞こえなかった音だった。ざあ、と低く、途切れない。


 十一の紙は、卓の端にあった。

 その横の紙は、白いままだった。


◇


 夕方、父が蔵にいた。

 戸が開いていて、中から、ざっ、ざっ、という音がしていた。


 父は、麦の山の前にしゃがんでいた。升で麦をすくっては、足もとの麻袋へ移している。升の縁を、手のひらで一度払う。余った粒が、山へ戻る。


 ざっ。


「ボルドさんに渡すぶんですか?」


「おう」


 父は、顔を上げなかった。


「口、持っててくれ」


 ノエは、しゃがんで麻袋の口を両手で広げた。

 升が傾いて、麦が落ちてきた。袋の底に当たって、さらさらと鳴る。粒の重みが指に伝わった。


 五回。六回。


 父は升を置いて、袋の口を縄でくくった。一度結んで、引いた。結び目がするりとほどけた。


 父は、何も言わずに結び直した。


「……ボルドさんは、種の代わりに、何かくれるんですか?」


 父の手が止まった。


「何のはなしだ?」


「種のぶんの、返しを」


 父は、しばらく袋を見ていた。結び目を指で押さえたまま、言った。


「入った年にな。あいつと二人で、東はずれの株を抜いた」


 ノエは、うなずいた。


「次の日は、あいつがうちの株を抜いた。一人じゃ抜けん株だった。この蔵の屋根も、半分はあいつが葺いたんだ」


 父は、縄の端を二度引いた。今度は、ほどけなかった。


「どっちの借りが多いかなんぞ、数えたこともないな」


 袋を持ち上げて、戸口の脇に下ろした。どさ、と鳴った。


 ノエは、自分の手を見た。袋の口を持っていた指に、麦の粉が薄くついていた。


 ボルドの薪の袋を、思い出した。倒れた日の夕方に、戸口に置いていったもの。


 テッサの手袋。一度も使っていないけれど、棚の上にある。


 村の人は、何かを置いていく。


 ノエは、麦の粉のついた指を、握った。

 数えたこともないな。


 ハンナは、数えていた。


 ノエは、目を閉じた。

 小屋の卓の横で、ハンナが指を一本ずつ折っていた。


 五と八と十一は、宿の主人が銭を預かって、あたしに払うと。

 親指。人差し指。中指。

 三本目で、指は止まった。


 目を開けた。

 あの勘定は、ハンナの頭の中にしかない。


 宿の主人が、何人ぶんもの銭を預かる。ハンナが、四日かけて紙を運ぶ。戻ってきて、また銭を受け取る。どの紙のぶんが、いくらで、誰がもう払って、誰がまだなのか。


 紙には、どこにも書いていなかった。


 ──数なら、ハンナさんは読める。


「ノエ、粥だよ」


 母屋から、母の声がした。


◇


 その夜、小屋に灯りをつけた。


 ノエは、新しい紙を一枚引き寄せた。

 左の端に、縦に数を書いた。五。八。十一。そのあとに、空けておく行を、いくつか。


 その右に、線を引いて欄を作る。行き。戻り。値。宿の主人が受け取った銭。


 行きと戻りの欄には、字を書かないことにした。印を一つ、置くだけにする。

 値の欄には、数を書く。


 ハンナが読めるのは、荷札と、値と、村の名前。

 それ以外の字は、この紙には要らない。


 筆が、紙の上を走った。線が、一本ずつ増えていく。沢の音が、ずっと鳴っていた。


 十一の行まで来て、筆が止まった。

 値の欄が、空いたままだった。


◇


 五日目に、雨が降った。

 朝から細い雨がやまない。藁屋根が、しゅう、と鳴りつづけている。


 軒の雫が掘った穴は、もう穴ではなかった。まわりの雪が崩れて、灰色の水たまりになっていた。坂の雪は、朝のうちに半分になり、昼にはまだらになった。


 昼すぎ、坂の下に影が見えた。

 馬だった。首を低くして、一歩ずつ上がってくる。鞍の上の人は、外套の頭巾を深くかぶっていた。


 ノエは、戸口に立った。

 馬は門を抜けて、まっすぐ父の納屋のほうへ行った。


 しばらくして、小屋の戸が開いた。


「ひどい道だよ」


 ハンナは、戸口で外套を脱いだ。両手で絞った。ばたばたと、敷居に水が落ちた。

 髪が、額に貼りついていた。指の先が、白くなっている。


「紙は、今日は一枚もないよ。五と八のは、宿に置いてきたばかりだ。向こうが書いて戻すまで、待っちゃいられないからね」


「三も、ですか?」


「三もだよ。宿のまわりの道が、雪解けで田んぼみたいになってるんだとさ。出てこられる者がいないって。……炉、借りるよ」


 ハンナは炉の前にしゃがんで、両手をかざした。手の甲から、薄く湯気が立った。


 ノエは、卓の上の紙を取った。

 この何日かで、何度か線を引き直した一枚だった。


「この前の、答えです」


 ハンナの手が、炉の上で止まった。

 振り向いて、紙を見た。それから、ノエの顔を見た。


「言えるようになったのかい?」


「ハンナさんに。勘定の控えを、書きます」


 ノエは、紙を炉のそばの床に置いた。膝をついた。ハンナと、目の高さが同じになった。


「左の端が、紙の数です。表の数と同じです」


 ハンナの目が、左の端を下りていった。


「……五。八。十一」


 声に出して、読んだ。


「その右が、行きと戻りです。ハンナさんが持って出たら、ここに印を一つ。戻ってきたら、こっちに一つ」


「印でいいのかい?」


「印でいいです。字は、要りません」


「ここは?」


 ハンナの指が、次の欄の上で止まった。


「値です。ハンナさんが決めた値を、書きます」


「数なら、あたしにも読めるね」


 ハンナの指が、その隣の欄へ移った。


「……で、ここは、宿の主人が書くんだね。預かった銭を」


「そうです。ハンナさんは、値の欄と見比べるだけです。数が合っていれば、それでいいんです。合わなければ、どの紙のぶんか、左を見ればわかります」


 言いながら、声が早くなっていくのがわかった。

 ハンナは、止めなかった。


 紙を、床から取り上げた。炉の火のほうへ傾けた。

 左の数を、指でたどる。値の欄。宿の主人の欄。もう一度、左の数。

 指は、一本も折らなかった。


「これ一枚で、何回ぶんだい?」


「行きと戻りで、十回ぶんは書けます。春までは、足りると思います」


 ハンナは、紙を膝の上に置いた。

 炉の中で、薪が、ぱち、と爆ぜた。


「十一は、値が空いてるね」


「……そこは、ハンナさんに決めてもらおうと思って」


 ハンナは、しばらく十一の行を見ていた。

 それから立ち上がって、紙を卓の上へ持っていった。


 平手で、卓を一度叩いた。

 ぱん。

 いつもの音だった。


「十一の紙は、あたしが運ぶよ。これ一枚と引き換えだ」


「……いいんですか?」


「いいも悪いも、取引だよ。あたしは、四日ぶんの勘定を、もう頭で持たなくていい。安いくらいさ」


 ノエは、膝をついたまま、長く息を吐いた。

 吐いた息が、炉の火を少しだけ揺らした。


◇


「それとね」


 ハンナは、椅子を引いて座った。


「宿の主人、あんたの見本を写すのに、一晩かかったってぼやいてたよ。欄の紙も、そのうち何枚か写すつもりだってさ。あと何人来るか、わからないからね」


「宿の主人さんが、写すんですか?」


「あの太い字で、線をまっすぐ引くのは骨だろうね」


 ハンナは、控えの紙の端を、指で弾いた。


「欄の紙、書いて売りな。宿の主人に」


 ノエは、ハンナを見た。


「売る、んですか?」


「写すより、買うほうが早い。あの人なら、そう言うと思うよ」


「でも、書き賃は、取っていないので」


「村では、だろ?」


 ハンナは、ノエを見ていた。


「宿の主人は、この村の人かい?」


 ノエは、答えなかった。


 父の手が、升を傾けていた。袋の口を持つ指に、麦の重みが落ちてきた。

 株を抜いた次の日に、株を抜いた。蔵の屋根を、半分葺いた。


 割ったら、余ったんだ。


 村の人は、何かを置いていく。ノエが置けたのは、字だけだった。だから、書き賃は取らなかった。取れば、置いたことにならない気がした。


 宿の主人には、何ももらっていない。

 屋根を葺いてもらったことも、株を抜いてもらったこともない。顔も、知らない。


 ──返すものが、ない。


 なら、取っていいのだろうか。


「……取って、いいんでしょうか?」


 自分の声が、頼りなく聞こえた。


「取らなきゃ、宿の主人のほうが困るんじゃないかね。十三人ぶん、会ったこともない子どもに、借りっぱなしだよ」


 ハンナは、肩をすくめた。


「あたしなら、嫌だね」


 ノエは、控えの紙を見た。

 自分の字で、欄が並んでいる。ハンナが読める字だけで。


 欄の紙も、同じはずだった。宿の主人の、あの太い字が、はみ出さずに載るように引いた線。


「……売ります」


 ハンナが、うなずいた。


「それで、銭は、村の帳面に入れてもらいます」


 ハンナの眉が、上がった。


「あんたの銭だよ?」


「トバさんの帳面です。干し魚のときから、誰がいくら出したか、別に書くようになったので」


 言いながら、帳面の一枚を思い浮かべた。

 出した者の名前が、縦に並ぶところ。ヨナス。ボルド。テッサ。デュラ。トバ。


 どの名前も、ノエの字だった。

 ノエの名前が、そこに書かれたことは、一度もなかった。


 喉の奥が、熱くなった。

 早く、トバさんの顔が見たかった。こめかみを押さえるだろうか。卓を磨く回数が、増えるだろうか。


 ハンナが、声を出して笑った。


「宿の主人から銭を取って、村に払うのかい。変な商売だね」


「……商売、なんですか?」


「ものを売って、銭をもらうんだ。りっぱな商売だよ」


 ハンナは、乾きかけた外套を肩にかけ直した。


「売るのは、あたしがやるよ。あんたは宿へ行けないだろ。干し肉と同じだ。三割もらうよ」


「値は、どうしますか?」


「あたしが決めてくる。悪いようにはしないよ。あんたの門出なんだからね」


◇


 その夜、欄の紙を書いた。


 五枚、とハンナは言った。


 雨の音が、藁屋根の上で細くなったり、太くなったりした。


 一枚目の左の端に、上から書いた。今、畑に名前のある人。新しく名前を書く人。東。西。南。北。立ち会いに立つ人、三人。


 右の線は、前に引いたものより、少しだけ間を広くした。

 宿の主人の字は、太い。はらいのところで、三本に分かれる。あの字が、線の上に座るくらいの幅。


 五枚を書き終えて、重ねる。


 それから、順番の表を引き寄せた。

 十一の横は、空いたままだ。

 ノエは、そこに小さく書いた。出した。


 灯りの炎が、細くなっている。

 ノエは、油を足した。


 炎が、また丸くなった。表の上の十一の数が、灯りの中に戻ってきた。


◇


 翌朝、雨は上がっていた。

 坂の雪は、ほとんど消えていた。日陰の溝に、細く白いものが一本残っているだけだった。坂は、一面の黒い土になっていた。


 三の紙は、まだ戻っていない。

 ハンナは、納屋から馬を出してきた。


 鞍のうしろの袋に、紙を入れた。十一の聞き直し。勘定の控え。欄の紙、五枚。


 縄を二度回して、端を挟んだ。


「三割だからね」


「はい。忘れません」


 ハンナは鞍に上がった。坂を下りていく蹄の跡に、すぐ水がたまった。


 ノエは、門の柱に手をついた。離すと、柱に泥の手形が残った。


 東のほうから、音がした。

 ごつ。

 少しあいて、また、ごつ。


 ノエは、畦道を東へ歩いた。

 東のはずれの一枚は、雪が消えて、去年の草が倒れたまま、茶色く寝ていた。その中を、踏み跡が一本、奥へ続いている。


 ボルドが、杭の脇に立っていた。

 三日月の鍬を、肩の高さまで上げていた。


 振り下ろす前に、ボルドは片目をつぶった。杭の向こうの、もう一本の杭を見ていた。


 ごつ。

 刃が、土に入った。半分だけ入って、止まった。

 ボルドは、柄を手前に倒した。土が、黒い塊になって起きた。塊の下から、白い、細い根がのぞいた。


 一歩下がった。また、振り上げた。

 ごつ。


「何しに来た?」


 ボルドは、こちらを見ずに言った。


「見に来ました」


「見るもんなんぞ、ねえぞ」


 ごつ。

 起こした土が、杭から杭へ、一列に並んでいく。


 ノエは、踏み跡の端に立って、その列を見た。

 杭は、四本とも、同じほうへ少し傾いている。


 土の列は、傾いていなかった。


「……まっすぐです」


「目で引くと言うたろうが」


 ボルドは、振り返らなかった。


 ごつ。

 最初の一本が、また少し伸びた。


 ノエは、坂のほうを振り返った。

 坂の下に、馬の影が小さく見えた。やがて、それも見えなくなった。


 あの袋の中に、ノエの書いた紙がある。

 初めて、銭になるはずの紙だった。


 宿の主人の手に渡って、そのあと、誰の手へ渡っていくのか。

 ノエは、まだ、そこまでは考えていなかった。


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