28話
屋根の端から、雫が落ちていた。
ぽた、と鳴った。少し間があって、また、ぽた。
小屋の軒の下に、小さな穴が一列に並んでいる。雫が、雪を掘った穴だった。朝のうちは凍っていて、昼が近づくと、穴の底が濡れて黒くなる。
ノエは、卓の上の順番の表を見ていた。
三のところに、雪解けの一枚の名前がある。
兄が雪解けに戻る。戻る前に。
ぽた。
坂の上の雪は、まだ白い。けれど、固く締まった白ではなくなっていた。日の当たるところだけ、ざらざらと粒が立って、少し灰色がかって見える。
雪が解けるまで、あとどれくらいあるのだろう。
ノエは、表から目を上げた。
窓の外から、別の音がしていた。
しゃっ。しゃっ。
雫の音とは違った。硬いものが、硬いものの上を滑る音。井戸のほうからだった。
◇
井戸の脇に、ボルドがしゃがんでいた。
平たい石の上に、細長い石がもう一つ載っている。砥石だった。ボルドは桶の水を手ですくっては、その上に垂らしていた。
鍬の刃を、そこへ当てていた。
三日月の形の刃だった。先のほうが、ほかの家の鍬より深く反っている。その反りに沿って、刃を押し、引く。
しゃっ。しゃっ。
袖を肘までまくっていた。太い腕の毛に、水の粒がいくつも光っている。手袋はしていなかった。指の節が、どれも赤い。
吐く息が、刃の上で白く広がって、すぐに消えた。
「おう」
ボルドは、顔を上げずに言った。
「研いでるんですか?」
「見りゃわかるだろうが」
砥石から、灰色の水が垂れた。井戸のまわりの雪が、そこだけ溶けて、泥の色になっている。
ボルドは、刃を持ち上げて日にかざした。
縁のところが、細く光った。
親指の腹で、刃を横にこすった。縦にではなく、横に。
「まだだな」
また、砥石に当てた。
ノエは、井戸の縁に手をついて、それを見ていた。石の縁は冷たくて、掌がすぐに痛くなった。
「……春のため、ですか?」
「そうだ」
しゃっ。しゃっ。
「杭の頭が、もう出とる」
ボルドが、言った。
ノエは、東のほうを見た。
村の東のはずれ。草も麦も、まだ雪の下にある。その白い中に、黒い点が四つあった。
杭だった。
頭の雪が落ちて、濡れて、黒く光っている。
「今朝、雪を払いに行ったんだ。いつもみたいにな」
ボルドは、刃から目を離さなかった。
「そしたら、もう落ちとった」
しゃっ。
「払わんでも、落ちるようになったんだな」
ボルドの手が、砥石の上で一度だけ止まった。
止まって、また動いた。
ボルドは、鍬を持って立ち上がった。井戸の脇の地面に、鍬の踵を突き立てた。
こつ、と鳴った。
刃の先が、少しも沈まなかった。
「見ろ。上は柔いが、下は石だ」
もう一度、突いた。こつ。
「まだ凍っとる。こういうときに入ると、刃が下の凍ったとこに当たって、欠けるんだ」
「欠けたら、どうするんですか?」
「だから、先に研いどくんだろうが。欠けても、すぐ戻せるようにな」
ボルドは、しゃがみ直した。
しゃっ。しゃっ。
「三年、置いといたからな。あの土は、ここのより硬いぞ。最初の一本が、いちばん硬い」
「最初の一本、ですか?」
「最初に引く畝のことだ」
ボルドは刃を持ち上げて、東のほうへ向けた。刃の先で、杭と杭のあいだを、宙になぞった。
「杭から杭へ、まっすぐ引く。最初の一本が曲がったら、あとが全部曲がる。一枚ぶん、全部な」
ノエは、刃の先の、その向こうを見た。
四つの黒い点。
「……杭は、少し傾いてますよ」
ボルドの刃が、宙で止まった。
「知っとる」
「四本とも、同じほうに」
「知っとるって言うとるだろうが」
声が大きかった。井戸の中で、少しだけ響いた。
それから、ボルドは鼻から息を吐いた。白い息が、太く出た。
口の端が、少しだけ上がっていた。
「だから、杭で引くんじゃねえ。目で引くんだ。杭は、ここだって言うとるだけだ」
刃が、砥石に戻った。
しゃっ。しゃっ。
杭も柱も傾いて打つ人なら、引いた畝も傾くんじゃないかと言いたかったが、ノエはこらえた。
外套の胸のところに手を当てる。
内側には、何も入っていなかった。前に、三行の紙を入れたところだった。今は、小屋の棚のいちばん奥にある。
戸が半分しか開かなかったこと。奥で咳がしていたこと。うしろを見てから、戸を閉めたこと。
掌の下で、胸が動いていた。
「……蒔くんですか?」
口から出たのは、そっちだった。
ボルドは、刃を返して、裏を砥石に当てた。今度は一度だけ、軽く。
「秋にな。起こし終わったらだ」
「秋、ですか?」
「種は、ヨナスに一袋、頼んであるぞ」
ノエは、父の顔を思い浮かべた。粥をすすりながら、何も言わなかった顔だった。
「……父は、何も言っていませんでした」
「言うような話じゃねえだろ」
ボルドは、刃の水を指で払った。
「ひと夏かかる。かかってええんだ。三年、置いとった。ひと夏ぐらい、なんでもねえよ」
刃を持ち上げた。
日にかざした。
縁が、一本の細い線になって光った。
親指の腹を、横に当てた。
今度は、何も言わなかった。
坂のほうから、蹄の音がした。
ボルドの親指が、刃の上で止まった。
蹄の音が近づいて、井戸の脇で止まった。馬の鼻から、白い息が二本、太く出ている。
「精が出るね」
ハンナが、鞍から下りた。手綱を井戸の柱に二度巻いて、端を挟んだ。
「おう」
ボルドは、ハンナを見なかった。ハンナの鞍のうしろの、麻袋を見ていた。
一度だけだった。
それから、鍬を肩に担いで立ち上がった。
「馬に飲ませてやれ。井戸の水は、冷てえぞ」
「知ってるよ」
「お前も、戻れ」
ボルドは、ノエに言った。
「お前が倒れたら、またヨナスが背負うんだ」
ボルドは、東のほうへ歩いていった。三日月の刃が、肩の上で日を返していた。
雪の上に、足跡が一本ついていく。
ハンナは、その背中を見ていた。
それから、ノエを見た。
ノエは、桶の中の、灰色の水を見ていた。
ハンナは、何も言わなかった。袋の縄を手際よくほどいた。
◇
「今日は四枚だよ」
小屋の卓に、四枚が並んだ。
「雪が緩んで、道がぬかるんでるんだとさ。宿まで来られたのは、まだ四人だけだって」
四枚とも、宿の主人の太い字だった。左の端には、ノエの字が並んでいる。
ノエは、表の数と見比べた。
五。八。十一。十二。
三は、なかった。
五の紙を取った。
名前が入っていた。新しく名前を書く人も、入っていた。
東の線の上には、こう書いてあった。道まで。
西。隣の畑まで。南。沢まで。北。林まで。
棒の数が、どこにもなかった。
何に接しているかだけが、線の上に載っている。そこから先が、ない。
立ち会いの三人は、揃っていた。余白は、空いていた。
八の紙を取った。
太い字が、線の上に載っていなかった。
東のことが、上の行へはみ出している。新しく名前を書く人の欄に、半分かぶさっていた。南は、北の線の上に書いてあった。棒の数は、あるところと、ないところがある。
欄と欄のあいだを、字が斜めに渡っていた。
いちばん下の、広く空けたところは、白いままだった。
「そっちのは、はみ出してるね」
ハンナが、横からのぞいていた。
「読めるんですか?」
「読めやしないよ。でも、線からはみ出してるのは見りゃわかる」
ノエは、紙を持ったまま、目を閉じた。
アルマに送った紙を、頭の中で広げた。
今、畑に名前のある人。息子さんの名前。東。西。南。北。立ち会いに立つ人、三人。ここに書いてください、の線。ほかに、紙に書いておいてほしいことがあれば、ここに。足りないところを聞き直すときの運び賃は、そちらで持ってください。
筆の運びごと、一行ずつ出てくる。
目を開けて、手元の紙の、左の端を見た。
同じだった。
息子さんの名前、のところが違うだけだった。
アルマの紙は、線からはみ出さずに戻ってきた。
頼み方が、悪かったのだろうか。
それなら、アルマの紙も、悪かったはずだった。
ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。
何度なでても、指の先には何も出てこなかった。
十二の紙を取った。
右の線の上に、太い字が載っていた。
空いている線が、なかった。
名前。新しく名前を書く人。四つの辺と、それぞれの棒の数。立ち会いの三人。どの字も、線の上に座るように載っている。
いちばん下の余白に、一行あった。
まん中に杭を三本。北から南へ。甥と二人で打った。
畑を、甥と分ける。あの紙だった。
分けるなら、まん中の線が要る。欄には、線のことを書いていなかった。
聞いていないのに、書いてあった。
ノエは、甥と二人で、のところを見ていた。
雪の畑を、二人で歩いたのだろう。一人が棒を倒して、一人が小石を移して。杭を打つたびに、どちらかが後ろへ下がって、まっすぐかどうかを見たのだろう。
指の先で、その一行の端に触れた。
触れたまま、動かさなかった。
頬が、ゆるんでいた。自分でもわかった。
「ずいぶん、ゆっくり読むね」
「……うれしくて」
ハンナは、それ以上言わなかった。最後の一枚を、指の先でこちらへ押した。
十一の紙だった。
グレタ。畑を、娘の名に。
名前は入っていた。娘の名前も。
東。西。南。北。どれも、何に接しているかだけだった。棒の数が、ない。
立ち会いの線には、名前が一つだけあった。あとの二本は、空いている。
余白は、白かった。
ノエは、紙を卓に置いた。
「揃ってるのは、一枚だけかい?」
「一枚です」
「残りの三枚は?」
「聞き直します。五は、棒の数を。八は、はみ出したところを、もう一度。十一は、棒の数と、立ち会いのあと二人を」
言いながら、自分の声が平らになっていくのがわかった。
「聞き直しの運び賃は、向こう持ちだったね」
「そう書きました」
「なら、五と八と十一は、宿の主人が銭を預かって、あたしに払うと」
ハンナは、指を一本ずつ折った。
ノエは、十一の紙の、名前の下を見た。
前に届いた紙には、ここに一行が足してあった。この者、銭なし。
「……十一の人は、銭がないそうです」
ハンナの指が、折れたまま止まった。
「なら、運べないね」
荷の値を言うときの声だった。高くも、低くもなかった。
「あたしは、ただで運ぶ荷は持たないよ。親父にも持たされない。一度やると、次から全部ただになるからね」
ハンナは、袋の口を縛り直した。
「明日の朝、出るよ。聞き直しの紙は、今夜のうちに書いときな」
◇
窓の光が、床の藁から消えたころ、灯りをつけた。
十二の書付から書いた。
一枚の畑を、二つにする。まん中の杭三本が、東の半分では西の境になり、西の半分では東の境になる。同じ線を、向きを変えて二度書いた。
それから、聞き直しの紙を書いた。
五の人へ。東、西、南、北の、棒の数を。
八の人へ。東はここ、西はここ。線の引き方を、横に小さく書き添えた。
十一の人へ。棒の数と、立ち会いのあと二人を。
相手の紙を横に置いて、足りないところだけを聞いた。
五と八を、重ねた。明日、ハンナが持っていく。
十一の紙は、重ねなかった。卓の端に、一枚だけ離して置いた。
ノエは、順番の表を引き寄せた。
十二の横に、小さく書いた。書いた。
筆の先を、一つ上へ上げた。
十一。
横は、空いている。
筆の先が、紙の少し上で止まった。書くことが、なかった。
表を作った夜、グレタを上へ上げかけて、戻した。上へ上げれば、銭がないから上げたことになる。
今日は、ノエは何もしていない。
何もしていないのに、十二が、十一を追い越していった。
灯りの炎が、細くなっていた。油が、少なくなっている。
ノエは、油を足さなかった。
炎が小さくなって、表の上の十一の数が、先に暗がりへ沈んだ。
◇
翌朝、坂の雪は、昨日より灰色だった。
ハンナは、井戸で馬に水を飲ませていた。
桶の水面に、薄い氷が張っていた。ハンナが拳で一度叩くと、ぱり、と割れた。
ノエは、十二の書付と、五と八の聞き直しを渡した。
ハンナは、三枚を袋に入れた。縄を二度回して、端を挟んだ。
鐙に、足をかけた。
「待ってください」
声が、思ったより大きく出た。
ハンナが、鐙から足を下ろした。
ノエは、外套の内側から、もう一枚出した。
十一の聞き直しの紙だった。今朝、卓の端から取って、胸のところに入れてきた。
「これも、持っていってくれませんか?」
ハンナは、紙を見なかった。
「運び賃は、誰が持つんだい?」
ノエは、口を開いた。
「僕が──」
「言うと思ったよ」
ハンナは、手綱を柱から外した。外しただけで、鞍には上がらなかった。
「で、何で払うんだい?」
「……春になれば、麦が」
「それは、あんたの麦かい?」
ノエは、口を閉じた。
畑は、父の名前で帳面に載っている。麦を蒔くのも、刈るのも、父と母だった。蔵の麦を量るとき、ノエは升を持ったことがない。
「藁も、薪も、あんたの親父さんのだろ。この前の飼葉とは、わけが違うよ。あれは、あたしの馬が、あんたの家の藁を食べたぶんだからね」
ノエは、自分の手を見た。
紙を持っている右手。中指の外側に、たこがある。爪の際に、インクの染みがある。
ほかには、何もついていなかった。
昨日のボルドの手は、砥石の水で灰色だった。ハンナの指の腹には、麻の粉が白くついている。父の手には、いつも土がついている。
ノエの手についているのは、書いたあとだけだった。
「……書くことなら、できます」
声が、小さくなった。
「じゃあ、誰に、何を書くんだい?」
ノエは、答えられなかった。
村の手紙は、書き賃を取っていない。取らないと、自分で決めた。宿の主人から来た紙も、書き賃は一枚ももらっていない。
書いたものが、銭になったことは、一度もなかった。
ハンナは、しばらくノエの顔を見ていた。
それから、鐙に足をかけて、鞍に上がった。
「それが言えるようになったら、また言いな。次は四日先だよ。道がこれじゃ、もっとかかるかもしれないけどね」
馬が、坂を下りていった。ぬかるんだ雪に、蹄の跡が深くついた。跡の底に、すぐに水がにじんだ。
ノエは、井戸の脇に立っていた。
右手に、十一の紙を持ったままだった。
紙の端が、朝の風で、小さく鳴った。




