27話
雪はあれから降っていない。
晴れた朝ほどよく冷えた。坂の上の雪の面が固く締まって、日が当たると、そこだけが白く光る。
ノエは、小屋の卓に紙を十一枚重ねた。
一枚目の左の端に、上から書いていく。
今、畑に名前のある人。新しく名前を書く人。東。西。南。北。立ち会いに立つ人、三人。
右に、細い線を引く。ここに書いてください、という線。
いちばん下に、広い余白。ほかに、紙に書いておいてほしいことがあれば、ここに。
その下に、小さい字で一行。足りないところを聞き直すときの運び賃は、そちらで持ってください。
アルマの紙と、ほとんど同じだった。息子さんの名前、のところだけ、新しく名前を書く人、に変えた。誰が何を出してくるのか、まだわからない。わからないまま、埋めてもらえる形にしておく。
一枚目を書き終えて、脇へ置いた。
二枚目を引き寄せた。
同じ順に、同じ行を書く。今、畑に名前のある人。新しく名前を書く人。
筆が、紙の上を軽く滑った。
筆先の引っかかりが軽すぎる気がした。
ノエは筆を止めて、二枚を並べた。
一枚目の字は、黒い。線の終わりまで墨がのっていて、はらいの先がきちんと細くなっている。
二枚目は、灰色だった。同じ字が、同じ場所に並んでいる。なのに、線の終わりが途中でかすれて、ふっと消えている。
ノエは、指先に息を吐きかけた。
指が赤くなっていた。爪の際のインクの染みが、赤い指の上でいっそう黒く見える。
冷えているせいだろうか、と思った。
炉のそばへ行って、両手をかざした。掌が温まって、じんと痒くなるまで待った。
戻って、三枚目を書いた。
灰色だった。
四枚目も、灰色だった。
ノエは四枚を並べて、しばらく見ていた。
字は、同じだった。どの行も、一枚目と同じところにある。読むぶんには、何も変わらない。
──読めれば、足りるだろう。
五枚目を引き寄せた。
窓から入る光が、卓の上を横切っていく。十一枚目を書き終えるころには、光は卓を下りて、床の藁の上に落ちていた。
黒い一枚を、束のいちばん上に置いた。
◇
ハンナは、四日目の昼すぎに来た。
戸が開いて、冷たい風といっしょに入ってきた。外套の肩に、雪はついていない。頬だけが赤い。
「ほら」
卓の上に、束が落ちた。
ばさ、と鳴った。
麻紐で、十字にくくってある。紙の大きさが、まちまちだった。手のひらほどのものもあれば、半分に折ってあるものもある。端の揃っていない紙が、紐のところで一つにまとまっている。
「十一枚。数えてあるよ」
「……ありがとうございます」
「それと、こっちが先だね」
ハンナは、袋の奥からもう一枚出した。
折りたたんだ紙だった。広げると、ノエの字が出てきた。
左の端に、上から。今、畑に名前のある人。息子さんの名前。東。西。南。北。立ち会いに立つ人、三人。
自分が書いた、アルマの紙だった。
その右の、線の上に、太い字が入っていた。
一つも、空いていなかった。
名前。息子の名前。東は何に接して、棒がいくつ。西、南、北。立ち会いの三人。ノエが引いた線の上に、宿の主人の太い線が、はみ出さずに載っている。
いちばん下の、広く空けたところにも、一行あった。
急がせて、すまない。
ノエは、その一行を見ていた。
見ているうちに、紙を持つ指に力が入った。紙の端が、少しだけよれた。
うれしかった。線からはみ出していない字。聞いたことが、一つも抜けていないこと。聞いていないことは、一つも書いていないこと。広い余白に、一行だけ、置くように書いてあること。
一回で、ぜんぶ揃った。
「顔に全部出てるよ」
ハンナが言った。
「出ていますか?」
「出てる。霧草のときと、逆向きにね」
ハンナは、袋からもう一枚出した。見本だった。うちの畑の四至を書いた紙が、端を丸めて戻ってきている。
「宿の主人がね、これは返しとくってさ。写したから、もういいんだと」
「写したんですか?」
「近在の連中に見せて回るのに、一枚じゃ足りないんだって」
ノエは、見本を受け取った。
受け取ってから、麻紐の束を見た。
「今夜は、ゲルダさんとこに泊まるよ。明日の朝、出るからね」
ハンナは、椅子を引いて座った。
「で、ヨルンのは?」
「書けています」
ノエは、棚のいちばん手前から書付を取った。
「今度は、ほんとに書けてるんだね」
「今度は、ほんとに書けています」
◇
麻紐を、ほどこうとした。
十字の結び目が、固かった。爪を入れても動かない。ハンナが横から手を出して、一度引いただけでほどいた。
十一枚が、卓の上に広がった。
ノエは、一枚ずつ取った。
どれも、太い線だった。はらいのところで、三本に分かれる。十一枚、全部。
一行目に、名前。二行目に、一行。
畑を、娘の名に。
畑を、甥と分ける。
去年、父が死んだ。父の名のままになっている。
名前が違う。一行が違う。字だけが、同じだった。
三枚目に取った紙は、一行が短かった。
畑のこと、よろしく頼む。
畑をどうしたいのかが、書いていない。本人がそう言ったのか。宿の主人が、長い話を縮めてそう書いたのか。
どちらなのかは、字からはわからなかった。十一枚、同じ字だったから。
もう一枚、手が止まった。
名前の下の一行は、こうだった。兄が雪解けに戻る。戻る前に。
ノエは、それを二度読んだ。
兄が戻る前に、何をしたいのか。それが書いていない。何をしたいのかわからないのに、急いでいることだけはわかる。
もう一枚。
グレタ。畑を、娘の名に。
その下に、同じ太い線で、もっと小さく一行が足してあった。
この者、銭なし。聞き直しの運び賃は出せぬ由。
ノエは、指でその一行をなぞった。
宿の主人の言葉だった。グレタの言葉ではない。宿の主人がアルマの紙の最後の一行を読んで、それをグレタに伝えて、グレタが何か言って、それを宿の主人が書いたのだろう。
グレタが何と言ったのかは、わからない。
ノエは、右の端に線を引いた紙を出した。
一に、ヨルン。二に、アルマ。三から十三までは、数だけが下へ並んでいる。
三のところへ、筆を持っていった。
筆は、そこで止まった。
「どうしたんだい?」
「どれが先に届いたのか、わからないんです」
「一度に届いたんだよ。あたしの袋で」
「だから、わからないんです」
ハンナが、束のいちばん上を指で叩いた。
「袋から出した順でいいだろ。あたしが上から入れたんだから、上から」
「それだと、ハンナさんが決めたことになりませんか?」
ハンナの指が、止まった。
「……あたしは、宿の主人が渡した順に入れただけだよ」
「なら、宿の主人さんが決めたことになります」
「宿の主人は、書いた順に重ねたんだろうさ」
「それなら、宿に書いてもらいに来た順になります。それは届いた順じゃありません。家が宿に近い人から、先になるかもしれません。遠くの人は、雪の日には来られなかったかもしれない」
言いながら、自分の声が早くなっていくのがわかった。
ハンナが、手のひらをこちらへ向けた。
「わかった、わかったから」
ハンナは、椅子の背にもたれた。
「じゃ、どうすんだい?」
ノエは、十一枚を見た。
「……今夜、考えます」
それから、朝から重ねてあった束を出した。
「アルマさんの書付は、今夜書きます。揃っているので、一晩で書けます。明日の朝、ヨルンさんのといっしょに持っていってください。それと、これを。宿の主人さんに渡して、一人に一枚ずつ回してもらってください。見本は、宿の主人さんが写したそうなので、それを見せてもらえば足ります」
ハンナは、束の一枚目と二枚目を持ち上げた。
窓のほうへ向けた。
「こっちのは、少し色が薄いね」
「手が冷えていたからかもしれません」
「ふうん」
ハンナは、二枚を重ね直した。端を膝で一度とんとそろえて、袋に入れた。
「ま、読めりゃいいさ。読むのは宿の主人だ」
◇
その夜、アルマの書付を書いた。
今の名前の人。息子の名前。四つの辺と、棒の数。立ち会いの三人。返ってきた紙の太い字を、上から順に、自分の字に移していく。
迷うところが、一つもなかった。
書き終えた紙は、墨が黒かった。
灯りの油を、少し足した。
それから、十一枚を卓に並べた。
卓に、並びきらなかった。四枚が、床の藁の上にはみ出した。
ノエは、膝をついた。
十一枚を、上から見下ろした。十一の名前。十一の一行。同じ太い字。
雪解けの一枚を、手に取った。
期限が書いてあるのは、これ一枚だけだった。
三のところに、その名前を書いた。
書けた。理由が、紙の上にあったから。
四のところで、筆が止まった。
残りの十枚には、いつまで、が書いていない。父が死んだ人も、甥と分ける人も、娘の名にしたい人も。
巡回は、穂が出るころに来る。それまでに出せばいいのは、十枚とも同じだった。
ノエは、紙を一枚ずつ入れ替えてみた。
死んだ人のいる紙を、上に。
それでは、生きている人が待たされる。
一行の長いものを、上に。
それでは、字の書けない人が損をする。宿の主人に短く書かれた人が、下へ行く。
畑のこと、よろしく頼む。この一枚は、どこへ置いても、置いた理由が言えなかった。
灯りの芯が、じじ、と鳴った。
ノエは、十枚をいったん重ねた。
重ねたものを、そのまま上から見た。麻紐をほどいたときの順だった。ハンナの袋から出た順。宿の主人が重ねた順。
四から十三まで、その順に書いた。
グレタは、十一に入った。
ノエは、その名前を見ていた。
銭なし、の一行が、名前のすぐ下にある。
筆の先を、四のあたりまで持っていった。
持っていって、戻した。
上へ上げれば、銭がないから上げたことになる。
十一のまま、灯りを消した。
◇
翌朝、ハンナは三つの包みを鞍のうしろにくくって出ていった。
ヨルンの書付。アルマの書付。十一枚の、欄の紙。
縄を二度回して、端を挟んだ。坂を下りていく馬の足跡が、固い雪の上に浅くついた。
◇
昼すぎに、トバが来た。
入ってくるなり、咳を一つした。
「ゲルダから聞いた。十三人だそうだな」
「あと十一人です」
トバは、外套を脱がなかった。長居をするつもりはないらしい。
卓の上の、順番の表を見た。
顎を撫でた。
上から、指でたどっていった。一、ヨルン。二、アルマ。三。
「三は、なんで三番目なんだ?」
「雪解け、と書いてあったので」
「ふむ」
指が、下りていく。四。五。六。
「四から後は?」
ノエは、少し黙った。
「……袋から、出た順です」
「ハンナの袋か?」
「宿の主人さんが、重ねた順だと思います」
「ほう」
トバの指が、十一のところで止まった。
止まっただけだった。字を読んでいるのか、読んでいないのか。顔は、紙のほうを向いたままだった。
やがて、指が卓から離れた。
トバは、もう一度咳をした。
「わしは、何も言うとらんぞ」
それだけ言って、出ていった。
戸が閉まった。敷居に、雪の塊は残らなかった。今日は、坂の雪が固い。
ノエは、表の前に座り直した。
十三の名前が、並んでいる。
ヨルン。アルマ。雪解けの一枚の名前。その下に、十の名前。
全部、自分の字だった。
昨日、ハンナに言ったことを思い出した。それだと、ハンナさんが決めたことになります。
袋から出た順は、ハンナも、宿の主人も、決めていない。
その順でいいと、筆を持って書いたのは──。
ノエは、表の墨を見ていた。
どの名前も、黒かった。同じ筆跡だった。
──決めているのは、僕だ。




