26話
ハンナの馬は、うちの納屋にいた。
来た日の夕方から、雪になったのだ。坂の上が白くかすんで、下りていく道が見えなくなった。ハンナは空を一度見上げて、それから手綱を父に渡した。
父は、何も聞かずに鍬を壁ぎわへ寄せた。空いたところに、藁を厚く敷いた。
馬は大きかった。耳の先が、納屋の梁に届きそうだった。
鼻から出る息が、灯りの中で白く太い。
◇
その夜、ノエは小屋で紙を読んだ。
ハンナが持ってきた一枚だった。字は前と同じ、太い線。紙は前より大きい。
一行目に、ヨルン。
二行目に、弟、ギド。
その下に、四つの行が並んでいた。東、西、南、北。それぞれが何に接しているかと、棒の数。
そのまた下に、名前が三つ。一つずつ、行を変えて書いてある。
ノエは、指で行をたどった。
東西南北の順番が、こちらの書いたやり方と同じだった。棒の数の入れ方も同じだった。名前を三つ縦に並べるところまで、同じだった。
胸の奥が、熱くなった。
宿の主人が、あの紙を読んだのだろう。読んで、雪の畑を、こちらの書いた順番どおりに歩いたのだろう。
ノエは、灯りを紙に近づけた。
いちばん下に、もう一行あった。
まん中に杭を二本。北から南へ。東がヨルン、西がギド。
ノエは、その一行を二度読んだ。
畑を、分けるのだ。分けるなら、どこで分けるのかが要る。四至を二つ書くなら、まん中の線が要る。
──聞くのを、忘れていた。
顔が熱くなった。灯りのせいではなかった。
恥ずかしかったのだ。
三つに絞ると言って、ハンナの前で指まで折ったこと。問いの紙を、書いてから二度も読み直したこと。それでも気づかなかったこと。向こうが、何も言わずにそこを埋めてきたこと。
ノエは、紙を卓に置いた。
卓の上には、アルマの紙が載っている。
一行しかない紙が、上だった。
ノエは、ヨルンの紙をその下へ入れかけて、手を止めた。
止めたまま、しばらく動かなかった。
それから、横に置いた。端を指でそろえた。一度そろえて、もう一度そろえた。
灯りの芯が、じじ、と鳴った。
◇
朝になっても、雪は降っていた。
門の横木が、半分まで埋まっている。
母が、鍋の蓋を取った。湯気が梁のほうへ上がっていく。
戸が鳴って、ハンナが入ってきた。頭と肩が白い。
「馬に水をやりに来ただけだよ」
「座りな」
母は、もう椀によそっていた。
「いや、あたしはゲルダさんとこで」
「座りな」
二度目は、一度目より早かった。
ハンナが、すっと座った。
ノエは笑いそうになって、自分の椀のほうを見た。
父は、黙って粥をすすっていた。すすりながら、ハンナの手元を見ていた。
ハンナの指の節は、父ほどではないが太い。爪が短く切ってある。椀の持ち方が、父と同じだった。親指を縁にかけて、底を掌で支えている。
「馬は、よう食うな」
父が、椀を見たまま言った。
「朝に、藁ひと抱えだ」
「悪いね。飼葉のぶんは、置いてくよ」
「いらん」
「いるよ」
「いらん」
母が、二人のあいだに鍋を置いた。ごとん、と鳴った。
「食べてから言いな、二人とも」
ハンナが、口を閉じた。
父も、閉じた。
閉じたまま、二人とも同じ速さで粥をすすった。
ノエの前には、霧草の椀が来た。
茶色い。湯気に、あの苦い匂いが混じっている。
ノエは、一息で飲んだ。
飲んでから、顔をしかめた。
「苦いのかい?」
ハンナが、こちらを見ていた。
「苦いです」
「顔に全部出てるよ」
母が、鼻で笑った。笑ってから、ハンナの椀に、黙って二杯目をよそった。
◇
昼すぎ、ハンナは小屋についてきた。
「やることがないんだよ。馬は寝てるし」
戸口で肩の雪を払ってから、入ってきた。今日は払っていた。
ノエは、新しい紙を一枚出した。
「アルマさんに出す紙です」
「一行しか来てないのに、もう書くのかい?」
「一行しか来ていないので、書くんです」
ノエは、紙を横に長く置いた。
左の端に、上から順に書いていった。
今、畑に名前のある人。息子さんの名前。東。西。南。北。立ち会いに立つ人、三人。
それぞれの右を、空けておいた。空けたところに、細い線を引いた。ここに書いてください、という線だった。
「なんだい、それ?」
「埋めてもらうところです」
「ヨルンのときは、三つ聞いただけだったろ?」
「三つだったから、四つ目を向こうが書いてくれたんです。書いてくれなかったら、もう一回、四日かかっていました」
ノエは、線の端をそろえた。
「アルマさんは、春までしかありません。息子さんが出る前に、畑の名前を変えないといけない。紙が行って、帰ってきて、それを僕が書いて、また行って。一回増えるたびに四日です。雪なら、もっとです。だから、一回で済ませたいんです」
言いながら、ノエは最後の行に書き足した。
ほかに、紙に書いておいてほしいことがあれば、ここに。
その下を、広く空けた。
ハンナが、卓に肘をついた。紙を横から見ている。
「あんた、ずいぶん先まで数えてるんだね」
「数えないと、春に間に合わないので」
「……で、ヨルンのほうは? あれは、もう書けるんだろう?」
ノエの手が、止まった。
「書けます。これが終わったら、書きます」
「なんで、アルマが先なんだい?」
「春まで、と書いてあるので」
ハンナは、横に置いたヨルンの紙を見た。
端のそろった紙だった。
「ヨルンは、先に出して、先に答えたんだよ」
ノエは、ヨルンの紙の、いちばん下の一行を見ていた。聞いていないのに、書いてあった一行。
「……わかっています」
ハンナは、それ以上言わなかった。
窓の隙間の白が、少しだけ暗くなった。雪が強くなったらしい。
◇
「で」
ハンナが、卓を指で一度叩いた。
「これの運び賃は、誰が持つんだい?」
ノエは、筆を置いた。
置いてから、ハンナのほうを見た。今度は、卓ではなく顔を見た。
「この紙は、宿の主人に持ってもらいます。いつもの返事と同じなので」
「うん」
「ヨルンさんに三つ聞いたぶんは、僕が持ちます」
ハンナの目が、少しだけ細くなった。
「あれは、僕の頼み方が足りなかったからです。名前と一行だけ送ってくれ、と書いたのは僕です。一行で書けないのは、はじめからわかっていたはずでした」
ハンナは、うなずいた。
「しくじったほうが持つ。それが筋だね」
あっさりした声だった。荷の値を言うときと同じ声だった。
ノエは、紙の最後の行を指で押さえた。
「でも、この紙から先は、違います。書いてあるところを埋めてもらって、それでも足りなくて聞き直すときは、その人に持ってもらいます。ここに、そう書きました」
指の下に、小さい字で一行あった。
足りないところを聞き直すときの運び賃は、そちらで持ってください。
「あんた、こういうのは自分で言えるんだね」
ハンナは、その一行を見ていた。
読めないはずの一行だった。それでも、目が行の端から端まで動いた。一度動いて、また端へ戻った。
ハンナの右手が、卓の上に上がった。
叩くのだと思った。荷の話が決まると、この人はいつも板を叩く。
手は、下りてこなかった。
掌を広げたまま、卓の少し上で止まっている。指の腹の硬いところに、窓の隙間の白が当たっていた。
ハンナは、その手を見た。
自分の手を、他人の手みたいに見ていた。
それから、ゆっくり握った。
「……ちょっと待ちな」
「はい」
「今のは、なしだ」
ノエは、瞬きをした。
「どれがですか?」
「持つってやつだよ。あんたが」
「でも、今、筋だって」
「筋だよ」
ハンナは、握った手を膝の上に下ろした。
「筋だってのは、あたしが言ったんだ。取り消しやしないよ。しくじったやつが持つ。荷でも、そうするからね」
「なら」
「なのに、なんだか、あんたが払うってのが気に入らないんだよ」
声が、いつもより遅かった。
言葉を一つずつ、荷台に下ろすみたいに置いていく。いつもなら、まとめて放る人だった。
ハンナは、ノエのほうを見なかった。窓の隙間の、白いところを見ていた。
耳の縁が、赤かった。
小屋の中は、外より少しだけ暖かい。少しだけだった。
しばらく、誰も喋らなかった。屋根の雪が、どこかで滑る音がした。
「……飼葉だ」
ハンナが、言った。
「飼葉、ですか?」
「あんたの親父さん、飼葉の銭を受け取らないだろ。うちの馬が食べてるのは、あんたの家の藁だ。それと、あんたの運び賃で、あいこにしとく」
「それは、父の藁です」
「あんたの家の藁だよ」
ハンナは、ようやくこちらを向いた。
「勘定は、合ってる」
合っているのかどうか、ノエにはわからなかった。
藁ひと抱えが幾らで、四日の運び賃が幾らなのか。ハンナなら、すぐに言えるはずだった。でも、言わなかった。
ハンナは、膝の上の手をもう一度卓に上げた。
ぱん、と叩いた。
いつもより、小さい音だった。
叩いた手は、そのまま卓の上に置かれていた。すぐには、どかなかった。
ノエは、その手を見ていた。
ハンナが運び賃を取らないと言うのを、初めて聞いた気がした。取らないのに、合っているのだと言う。
何かが、いつもと違った。
何が違うのかは、わからなかった。わからないまま、ノエは筆を持ち直した。
◇
夕方、ノエは母と父に同じことを話した。
雪がやんだら、ハンナに二枚持っていってもらうこと。一枚はアルマの紙で、一枚はヨルンの書付。聞き直しの運び賃のこと。
「春までに、あと五回は往復できると思います。雪が続かなければ、ですけど」
父は、粥を食べていた。
ノエが日数を数えはじめたところで、父は椀を差し出した。
母が、黙っておかわりをよそった。
「五回あってもね」
ハンナが、匙を置いた。
「次からは、一回で十一人ぶんだよ」
ノエは、ハンナを見た。
「宿の主人がね、ヨルンの紙を出したあと、あれを近在の連中に見せたんだってさ。そしたら、残りの十一人が、みんな名前と一行を書きはじめた。自分で書けない者は、宿の主人に書かせてる。紙を受け取りに寄ったとき、そう言われたよ」
「……十一人、ですか?」
「十一人だよ。次に行ったら、まとめて持たされるはずだよ」
土間が、静かになった。
鍋の中で、粥が一度だけ、ぽこ、と鳴った。
父が、また椀を差し出した。
母は、今度は父の顔を見てから、よそった。
「……あんた、いつから、そんなに勘定するようになったんだい?」
母が、ノエに言った。語尾が、湯気の中に消えた。
「あたしが教えたんじゃないよ」
ハンナが、先に言った。
父は、三杯目を黙って食べ終えた。
食べ終えてから、椀を置いた。置いた椀の底を、しばらく見ていた。
◇
食べ終えると、ハンナは戸口で外套を着た。
土間の隅に、父がくくった薪の束が立てかけてある。縄が一か所ゆるんで、束の真ん中が下へずれていた。
ハンナは、それを見た。
見てから、しゃがんだ。
縄をほどいて、薪を膝で押さえて、もう一度巻いた。指が一度も止まらなかった。最後に端を挟んで、束を立てた。
束は、まっすぐに立った。
父が、それを見ていた。
「うまいもんだな」
「縄は、毎日扱ってるからね」
「うちのは、いつもほどけるんだ」
「あんたが結ぶからだよ」
母だった。
ハンナが、声を出して笑った。
戸を開けると、雪が斜めに吹きこんだ。ハンナは、それを肩で受けたまま、ゲルダの家のほうへ歩いていった。
足跡は、すぐに埋まった。
◇
次の日も、雪だった。
ノエは、アルマの紙に、もう一枚を足した。
見本だった。
空けた線のところを、どう埋めればいいのか。埋め方を、一枚書いて見せる。ヨルンのときは、向こうがこちらのやり方をそのまま写して返してきた。写すものがあれば、写してくれる。
見本には、うちの畑を使った。
四つの辺と、棒の数と、立ち会いの三人。測った日のことは、紙を見なくても頭の中にある。
終わったときには、窓の隙間の白が、上から落ちる光になっていた。
ノエは、ヨルンの紙を引き寄せた。
一枚の畑を、二つの四至にする。
東の半分は、ヨルン。まん中の杭二本が西の境になる。西の半分は、ギド。同じ杭二本が、こちらでは東の境になる。
一本の線を、二度書くことになる。向きを変えて。
東の半分を書き終えた。
立ち会いの三人の名前を、下に並べた。
西の半分の、一行目を書いた。
そこで、筆の先が紙の上で揺れた。
指が、軸を持っていなかった。持っているつもりで、持っていない。中指の外側のたこだけが、軸に当たっている。
ノエは、筆を置いた。
置いてから、その場に座った。
椅子ではなく、床にだった。背中が、卓の脚に当たった。
「床に座るんじゃないよ。冷えるだろ」
ハンナが、戸口から言った。いつ来たのかわからなかった。
「少しだけです」
「少しでも冷えるんだよ」
ハンナは、入ってきて、ノエの腕をつかんで立たせた。
立たせてから、卓の上を見た。
紙が三枚ある。アルマの紙と、見本と、半分だけのヨルンの書付。
「どれが、どれだい?」
「上が、アルマさんのです。その下が見本です。横のが、ヨルンさんの」
「ヨルンのは?」
「半分です」
「今日は、もうやめな。手が止まってるよ」
ノエは、震えている自分の指先をしばらく眺めてから、小さく頷いた。
ハンナは、そんなノエの様子を、ただ黙って見ていた。
◇
三日目の朝、雪がやんだ。
思っていたより、早かった。
空が高いところに戻っていた。坂の上の雪の面が、朝の光を返している。
父が、納屋から馬を引いてきた。
「今日、出るよ。北の遅れが三日ぶんも溜まってるんだ」
「ヨルンさんのが、まだ」
「どれくらい?」
ノエは、小屋のほうを見た。
「半分です。昼までには」
ハンナは、坂を見た。
「昼に出たら、宿に着く前に日が暮れちまうよ」
ノエは、答えなかった。
答えられなかった。昼までに、と言ったのは自分だった。昨日、途中で筆を置いたのも自分だった。
アルマの紙を、先に書いたのも。
「……アルマさんのだけ、持っていってください」
「いいのかい?」
「ヨルンさんのは、次に」
「次は、四日先だよ。雪なら、もっとだ」
「わかっています」
ハンナは、ノエの顔を見ていた。
ノエは、ハンナの手元を見ていた。袋の縄をほどく指が、止まっていた。
やがて、指が動いた。
ハンナは、アルマの紙と見本を袋に入れた。袋を鞍のうしろにくくりつけた。縄を二度回して、端を挟む。
「宿の主人には、ヨルンのは書けてるって言っとくよ」
「まだ、書けていません」
「半分は書けてるんだろ?」
ハンナは、鐙に足をかけた。
馬が、坂を下りていく。雪の上に、跡が一本ついた。
ノエは、門のところで見ていた。
跡の先が、木の影に入って見えなくなるまで。
◇
小屋に戻って、ヨルンの書付の続きを書いた。
西の半分。まん中の杭二本。立ち会いの三人。
昼前に、書き終えた。
ノエは、書付を棚に置いた。写しの束の、前だった。いちばん手前の、すぐに取れるところ。
それから、右の端に線を引いた紙を出した。
一のところに、ヨルン。その横に、小さく書き足した。
書いた。まだ、出していない。
二のところに、アルマ。
三のところは、空いている。
ノエは、筆を持った。
三、と書いた。その下に、四、と書いた。五、六、七。
線と線のあいだに、数を下へ並べていった。
十を過ぎたところで、筆が紙の下の端に来た。
十一、十二は、詰めて書いた。
十三は、紙の外に出そうになった。
ノエは、端のぎりぎりのところに、小さく、十三と書いた。
書いてから、その紙を持ち上げた。
十一の数が、まだ名前のないまま、下まで並んでいた。




