25話
雪が三日降って、二日やんだ。
降っている日は、空がどこにあるのかわからない。やんだ日の朝だけ、空が高いところに戻ってくる。
ノエは、朝に一度、昼に一度、戸を開けて坂を見た。
坂の上のあたりだけ、雪の面が平らなままだった。何も通っていない。
三日目の昼にも、坂を見た。
早く来ないか、と思った。思ってから、自分でおかしくなった。まだ六日しか経っていない。
ハンナは雪しだいだと言った。行きに二日、帰りに二日。宿はリックよりずっと先だ。それを指で数えて、六日では早すぎるとわかっているのに、それでも戸を開けていた。
◇
小屋の卓に、紙を一枚出した。
右の端に、細い線を縦に引いた。その左に、もう一本引いた。
線と線のあいだに、数を入れていくつもりだった。一、二、三。届いた順に、名前をその右へ書く。
一のところは、まだ空いている。
ノエは、線の太さを見ていた。できるだけまっすぐになるように、板の縁を当てて引いた。それでも、下のほうが少し太くなっている。
引き直そうかと思って、やめた。
紙が、もったいないからだ。
◇
戸が鳴った。
「ノエ」
セルグだった。戸を半分だけ開けて、首だけ入れている。外套の肩が、こちらの床に雪を落とした。
「去年の冬な、うちの藁、誰に貸した?」
「デュラさんです」
「それはいつだ?」
「井戸が凍った日の、次の日です。デュラさんが一束持っていって、春に二束返すって言いました」
セルグは、腰に手を当てた。
当ててから、その手で顎をこすった。
「……返ってきとらんな」
「返ってきていませんね」
「わかった」
戸が閉まった。
礼は、なかった。ノエは筆を持ち直した。
セルグはいつもそうだった。
◇
その日の夕方、家を叩く音が外でした。
叩いているのは戸ではなかった。誰かが柱を蹴って、長靴の雪を落としている。
「おるかね?」
トバだった。
入ってきて、まず外套を脱いだ。長居をするつもりらしい。
「座るぞ」
座ってから、卓の上を掌で撫でた。
端から端まで、一度。それから、もう一度。
ノエは、その手を見ていた。
「魚の話だがね」
「はい」
「うむ」
トバは、顎を撫でた。
しばらく撫でていた。
「……いや。その前にな、聞きたいことがある」
「なんですか?」
「秋にな、わしの干し魚のことで、みんな笑っとったろう」
「そうですね」
トバの手が、顎で止まった。
「そう、はっきり言うもんじゃないぞ」
「すみません」
「……で、あのとき、わしのおらんところで、誰ぞ何か言っとったか?」
ノエは、少し考えた。
考えるまでもなかった。頭の中では、もう声がしている。
「テッサさんが、炙ってたのはゲルダさんなのに、村長は火も起こさずに食ってた、と言いました」
「うむ」
「デュラさんが、蔵のものは村のもんだと決めたのは誰だ、と言いました。テッサさんが、村長だよ、と言いました。デュラさんが、じゃあ魚は、と言いました。テッサさんが、魚は蔵に入っとらん、と言いました。デュラさんが、それはずるい、と言いました」
「……もういい」
「セルグさんが、腰に効くんじゃないか、と言いました。テッサさんが、効くわけないだろ、と言いました。セルグさんが、効くかもしれん、と」
「もういいと言うとる」
トバは、こめかみを押さえた。
押さえたまま、天井を見た。
「おまえさんは、そういうところがあるな」
「聞かれたので」
「聞いたわしが悪かった」
トバは、手を下ろした。
下ろしてから、また卓を撫でた。
「……ゲルダは、なんと言っとった?」
「何も言いませんでした」
「そうか」
「下を向いて、口を押さえていました。肩が揺れていました」
トバは、天井を見たままだった。
息を一つ吐いた。
「笑っとったんだな」
ノエは、答えなかった。
答えなかったが、トバはうなずいた。
◇
「本題だ」
トバは、両手を卓の上で組んだ。
「あの魚な。売れとったら、銭が来るだろう」
「来ると思います」
「それはな、村の帳面に書いといてくれ」
ノエは、筆を置いた。
「村の、ですか?」
「うむ」
「あれは、トバさんの魚です」
「わしのだ」
「だったら、トバさんのぶんです。帳面に書くなら、村のぶんとは別にしないと」
言ってから、ノエは早く言いすぎたと思った。
トバは、怒らなかった。
組んだ手の指を、一本ずつ動かしている。
「別にすると、どうなるね?」
「あとで、誰のぶんかがわかります。誰がいくら出して、誰がいくら受け取ったか。書いておかないと、来年わからなくなります」
「わかるだろう。わしが覚えとる」
「デュラさんの藁は、一年で忘れられていました」
トバの指が、止まった。
止まってから、顎を撫でた。
「……別にしてくれ。そのうえで、村のぶんに入れる」
「二つ書くことになります」
「二つ書けばええ」
トバは、身を乗り出した。
「そのほうが、後でなにも言われんからの」
ノエは、帳面を出した。板の表紙の、ぶ厚いほうだった。
開いて、書いた。
トバが、横から覗きこんできた。
「字が小さいんじゃないか?」
「え? これで足りますよ」
「小さいと言っとるんだ」
トバは、指の先を舐めて、卓の上に字を書いてみせた。卓には何も残らなかった。
それでも、書き終えるまで指を動かしていた。
「これくらいの大きさだ」
「紙が足りなくなります」
「ふむ」
トバは、外套を取った。
着てから、戸のところで振り返った。
「一人ずつ書く、と返事を出したそうだな?」
「はい」
「届いた順だと」
「そう書きました」
トバは、顎を撫でた。
「順番は、誰が決めるのかね?」
「……届いた順です」
「それは、順番の決め方だ。決めるのは誰かと聞いとるんじゃよ」
ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。
トバは、答えを待たずに出ていった。
戸が閉まったあと、敷居のところに雪の塊が二つ残っていた。
◇
次の日、馬の音がした。
ぼす、ぼす、という音だった。坂の途中で一度止まって、また鳴った。
ノエは、外套も着ずに外へ出た。
出てから、寒さで息が詰まった。それでも門まで歩いた。
ハンナが、馬から下りるところだった。
「早いね」
「待っていました」
「知ってるよ。ゲルダさんが、あんた一日に何度も坂を見てるって言ってたからね」
ノエは、門の柱に手をついた。
ついてから、手を離した。
「来ましたか?」
「来たよ」
ハンナは、袋の縄をほどいた。
中から、紙を一枚出した。
小さい紙だった。厚い紙を、四つに切ったものらしい。切り口が斜めになっている。
字は、あの太い線だった。はらいのところで、三本に分かれている。
ノエは、それを両手で受け取った。
受け取ってから、自分の手が震えているのがわかった。寒いからだと思うことにした。
紙には、二行あった。
ヨルン。畑を、弟と分ける。
「なんて書いてある?」
「名前と、一行です」
「それだけかい?」
「それだけです」
ノエは、紙から目を上げた。
「僕が、そう書いてくださいと書きました。だから、そのとおりに来ました」
声が、大きくなっていた。
ハンナが、少し笑った。
「うれしそうだね」
「うれしいです」
うれしかった。字が小さくまとまっていること。切り口が斜めなこと。名前が、一行目の上に寄せて書いてあること。全部が、こちらの書いたとおりに従って来ている。
会ったことのない人が、こちらの言った形で紙を出した。
ノエは、その場に座りたくなった。
膝が、少し落ちた。ハンナが、腕をつかんだ。
「中で座りな」
◇
小屋の中で、ノエは紙を卓に置いた。
右の端の、一のところへ、ヨルン、と書いた。
書いて、それを見た。
見ているうちに、うれしさが引いていった。
「ハンナさん」
「なんだい?」
「これだと、書けません」
「さっきと言ってることが違うじゃないか?」
「違います。届いたのは、うれしいんです」
ノエは、紙の一行を指でなぞった。
「畑を、弟と分ける。弟さんの名前が、ありません。畑がどこにあるのかも、書いてありません。北が何で、南が何か。立ち会いに立てる人が三人いるのかも、わかりません」
「聞きゃいいだろ?」
「聞くのは聞きます。でも、返事が来るまでに日がかかるんです」
ノエは、指を折った。
「ハンナさんが行って、帰るまでに四日。雪だと、もっとです。一つ聞いて、一つ答えてもらうのに、それだけかかります。三つ聞くなら、いっぺんに三つ聞かないといけません」
「あんた、さっきより喋るね」
「これは、僕の仕事のことなので」
ノエは、筆を持った。
「三つにします。それ以上は、たぶん向こうが面倒くさがります」
ハンナが、椅子の背に寄りかかった。
「運び賃は?」
ノエは、筆を止めた。
「……こちらで持ちます」
「銭はあるのかい?」
「麦なら、あります」
「麦は、この時期に運ばせるもんじゃないよ。重いし、濡れるからね」
ハンナは、掌を上に向けた。
「あんた、村の中はただでやってるだろ?」
「もらっています。薪とか、粥とか」
「なら、外はどうすんだい? 会ったこともない十三人のぶん、あんたが運び賃を持つのかい?」
ノエは、答えなかった。
答えられなかった。
ハンナは、それ以上言わなかった。袋の中から、小さい布の包みを出して、卓に置いた。
じゃら、と鳴った。
「なんですか、これ?」
「魚の銭だよ。一袋ぶんで受けたぶんより、かなり高く売れた。差額だ」
「トバさんに、渡してください」
「あたしが渡すと、あの人また取り返しに来るからね」
ハンナは、真顔だった。
「頭の上に上げるのは、もうやめといてやるよ」
◇
その夜、ノエは三つの問いを書いた。
弟さんの名前。畑の四つの辺が、それぞれ何と接しているか。立ち会いに立てる人が三人いるか、いるならその名前。
書いて、乾かした。
それから、棚の二枚目を出した。四至のやり方を書いた写しだった。
紙が、少し反っている。字は同じだった。同じ順番で、同じ行に並んでいる。
ノエは、それを問いの紙に重ねた。
やり方だけなら、これで足りる。
◇
戸の外で、薪を割る音がした。
父だった。
ノエは、灯りを持って外へ出た。父は、切り株の上に薪を立てているところだった。
「まだ起きとったか?」
「はい」
父は、振り下ろした。
かん、と鳴って、薪が二つに割れた。片方が雪の上に転がった。
「返事が来たんだろ。母さんから聞いたよ」
「来ました。でも、書けないんです。畑のことが、何も書いてなくて」
父は、次の薪を立てた。
こちらを見ていない。
「弟と分けるんだろう」
「はい」
「分けるって決まっとるなら、もめとらんな」
「……わかりません」
「もめてたら、分けるとは書かないだろう」
父は、振り下ろした。
「もめてたら、取られるとか、寄こさんとか、そう書く」
ノエは、父の手元を見ていた。
斧の柄を握る指が、太い。爪が一枚、割れている。
「もめてないなら、急がなくていいんでしょうか?」
「知らん」
父は、割れた薪を拾った。
「……まあ、うちの兄貴のときは、もめとったな」
「どうなりましたか?」
「寄こせ、寄こさんで二年だ。二年、待てんかったらしい」
父は、薪を腕に抱えた。
抱えたまま、一度こちらを向いた。
「灯り、消して寝ろよ」
◇
四日後、また雪になった。
二日降って、やんだ。
やんだ日の午後に、馬の音がした。
ノエは、門で待っていた。今度は外套を着ていた。
ハンナは、下りる前に言った。
「一枚だけだよ」
ノエは、手を出した。
紙を受け取って、そこで止まった。
字が違う。前と同じ太い線だが、前より行が詰まっている。書き足したらしく、下のほうに小さい字が入っていた。
アルマ。畑を、息子の名にしたい。息子が春に村を出る。出る前に。
ノエは、二度読んだ。
二度目のほうが、ゆっくりだった。
「ヨルンさんからは、来ていませんか?」
「来てないね。あたしが聞いたのは、まだ返事が届いてないってことだけだ」
ハンナは、手綱を持ったままだった。
「次も雪しだいだよ」
馬が、坂を下りていった。
◇
小屋に戻って、灯りをつけた。
卓の上に、紙を二枚並べた。
右の端に線を引いた紙を、その横に置いた。一のところに、ヨルン。二のところは、まだ空いている。
ノエは、二のところに、アルマ、と書いた。
書いてから、手を止めた。
ヨルンの紙には、いつまでに要るとは書いていない。アルマの紙には、春、と書いてある。
届いたのは、ヨルンが先だった。
ノエは、棚から一枚出した。
宿の主人へ出した返事の、写しだった。自分の字で、そこに書いてある。
一人ずつなら、書けます。届いた順に書きます。
その行の墨は、薄かった。
ノエは、二枚の紙を、もう一度見た。
それから、アルマの紙を、上に置いた。




