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25/52

25話

 雪が三日降って、二日やんだ。


 降っている日は、空がどこにあるのかわからない。やんだ日の朝だけ、空が高いところに戻ってくる。


 ノエは、朝に一度、昼に一度、戸を開けて坂を見た。


 坂の上のあたりだけ、雪の面が平らなままだった。何も通っていない。


 三日目の昼にも、坂を見た。


 早く来ないか、と思った。思ってから、自分でおかしくなった。まだ六日しか経っていない。


 ハンナは雪しだいだと言った。行きに二日、帰りに二日。宿はリックよりずっと先だ。それを指で数えて、六日では早すぎるとわかっているのに、それでも戸を開けていた。


◇


 小屋の卓に、紙を一枚出した。


 右の端に、細い線を縦に引いた。その左に、もう一本引いた。


 線と線のあいだに、数を入れていくつもりだった。一、二、三。届いた順に、名前をその右へ書く。


 一のところは、まだ空いている。


 ノエは、線の太さを見ていた。できるだけまっすぐになるように、板の縁を当てて引いた。それでも、下のほうが少し太くなっている。


 引き直そうかと思って、やめた。


 紙が、もったいないからだ。


◇


 戸が鳴った。


「ノエ」


 セルグだった。戸を半分だけ開けて、首だけ入れている。外套の肩が、こちらの床に雪を落とした。


「去年の冬な、うちの藁、誰に貸した?」


「デュラさんです」


「それはいつだ?」


「井戸が凍った日の、次の日です。デュラさんが一束持っていって、春に二束返すって言いました」


 セルグは、腰に手を当てた。


 当ててから、その手で顎をこすった。


「……返ってきとらんな」


「返ってきていませんね」


「わかった」


 戸が閉まった。


 礼は、なかった。ノエは筆を持ち直した。


 セルグはいつもそうだった。


◇


 その日の夕方、家を叩く音が外でした。


 叩いているのは戸ではなかった。誰かが柱を蹴って、長靴の雪を落としている。


「おるかね?」


 トバだった。


 入ってきて、まず外套を脱いだ。長居をするつもりらしい。


「座るぞ」


 座ってから、卓の上を掌で撫でた。


 端から端まで、一度。それから、もう一度。


 ノエは、その手を見ていた。


「魚の話だがね」


「はい」


「うむ」


 トバは、顎を撫でた。


 しばらく撫でていた。


「……いや。その前にな、聞きたいことがある」


「なんですか?」


「秋にな、わしの干し魚のことで、みんな笑っとったろう」


「そうですね」


 トバの手が、顎で止まった。


「そう、はっきり言うもんじゃないぞ」


「すみません」


「……で、あのとき、わしのおらんところで、誰ぞ何か言っとったか?」


 ノエは、少し考えた。


 考えるまでもなかった。頭の中では、もう声がしている。


「テッサさんが、炙ってたのはゲルダさんなのに、村長は火も起こさずに食ってた、と言いました」


「うむ」


「デュラさんが、蔵のものは村のもんだと決めたのは誰だ、と言いました。テッサさんが、村長だよ、と言いました。デュラさんが、じゃあ魚は、と言いました。テッサさんが、魚は蔵に入っとらん、と言いました。デュラさんが、それはずるい、と言いました」


「……もういい」


「セルグさんが、腰に効くんじゃないか、と言いました。テッサさんが、効くわけないだろ、と言いました。セルグさんが、効くかもしれん、と」


「もういいと言うとる」


 トバは、こめかみを押さえた。


 押さえたまま、天井を見た。


「おまえさんは、そういうところがあるな」


「聞かれたので」


「聞いたわしが悪かった」


 トバは、手を下ろした。


 下ろしてから、また卓を撫でた。


「……ゲルダは、なんと言っとった?」


「何も言いませんでした」


「そうか」


「下を向いて、口を押さえていました。肩が揺れていました」


 トバは、天井を見たままだった。


 息を一つ吐いた。


「笑っとったんだな」


 ノエは、答えなかった。


 答えなかったが、トバはうなずいた。


◇


「本題だ」


 トバは、両手を卓の上で組んだ。


「あの魚な。売れとったら、銭が来るだろう」


「来ると思います」


「それはな、村の帳面に書いといてくれ」


 ノエは、筆を置いた。


「村の、ですか?」


「うむ」


「あれは、トバさんの魚です」


「わしのだ」


「だったら、トバさんのぶんです。帳面に書くなら、村のぶんとは別にしないと」


 言ってから、ノエは早く言いすぎたと思った。


 トバは、怒らなかった。


 組んだ手の指を、一本ずつ動かしている。


「別にすると、どうなるね?」


「あとで、誰のぶんかがわかります。誰がいくら出して、誰がいくら受け取ったか。書いておかないと、来年わからなくなります」


「わかるだろう。わしが覚えとる」


「デュラさんの藁は、一年で忘れられていました」


 トバの指が、止まった。


 止まってから、顎を撫でた。


「……別にしてくれ。そのうえで、村のぶんに入れる」


「二つ書くことになります」


「二つ書けばええ」


 トバは、身を乗り出した。


「そのほうが、後でなにも言われんからの」


 ノエは、帳面を出した。板の表紙の、ぶ厚いほうだった。


 開いて、書いた。


 トバが、横から覗きこんできた。


「字が小さいんじゃないか?」


「え? これで足りますよ」


「小さいと言っとるんだ」


 トバは、指の先を舐めて、卓の上に字を書いてみせた。卓には何も残らなかった。


 それでも、書き終えるまで指を動かしていた。


「これくらいの大きさだ」


「紙が足りなくなります」


「ふむ」


 トバは、外套を取った。


 着てから、戸のところで振り返った。


「一人ずつ書く、と返事を出したそうだな?」


「はい」


「届いた順だと」


「そう書きました」


 トバは、顎を撫でた。


「順番は、誰が決めるのかね?」


「……届いた順です」


「それは、順番の決め方だ。決めるのは誰かと聞いとるんじゃよ」


 ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。


 トバは、答えを待たずに出ていった。


 戸が閉まったあと、敷居のところに雪の塊が二つ残っていた。


◇


 次の日、馬の音がした。


 ぼす、ぼす、という音だった。坂の途中で一度止まって、また鳴った。


 ノエは、外套も着ずに外へ出た。


 出てから、寒さで息が詰まった。それでも門まで歩いた。


 ハンナが、馬から下りるところだった。


「早いね」


「待っていました」


「知ってるよ。ゲルダさんが、あんた一日に何度も坂を見てるって言ってたからね」


 ノエは、門の柱に手をついた。


 ついてから、手を離した。


「来ましたか?」


「来たよ」


 ハンナは、袋の縄をほどいた。


 中から、紙を一枚出した。


 小さい紙だった。厚い紙を、四つに切ったものらしい。切り口が斜めになっている。


 字は、あの太い線だった。はらいのところで、三本に分かれている。


 ノエは、それを両手で受け取った。


 受け取ってから、自分の手が震えているのがわかった。寒いからだと思うことにした。


 紙には、二行あった。


 ヨルン。畑を、弟と分ける。


「なんて書いてある?」


「名前と、一行です」


「それだけかい?」


「それだけです」


 ノエは、紙から目を上げた。


「僕が、そう書いてくださいと書きました。だから、そのとおりに来ました」


 声が、大きくなっていた。


 ハンナが、少し笑った。


「うれしそうだね」


「うれしいです」


 うれしかった。字が小さくまとまっていること。切り口が斜めなこと。名前が、一行目の上に寄せて書いてあること。全部が、こちらの書いたとおりに従って来ている。


 会ったことのない人が、こちらの言った形で紙を出した。


 ノエは、その場に座りたくなった。


 膝が、少し落ちた。ハンナが、腕をつかんだ。


「中で座りな」


◇


 小屋の中で、ノエは紙を卓に置いた。


 右の端の、一のところへ、ヨルン、と書いた。


 書いて、それを見た。


 見ているうちに、うれしさが引いていった。


「ハンナさん」


「なんだい?」


「これだと、書けません」


「さっきと言ってることが違うじゃないか?」


「違います。届いたのは、うれしいんです」


 ノエは、紙の一行を指でなぞった。


「畑を、弟と分ける。弟さんの名前が、ありません。畑がどこにあるのかも、書いてありません。北が何で、南が何か。立ち会いに立てる人が三人いるのかも、わかりません」


「聞きゃいいだろ?」


「聞くのは聞きます。でも、返事が来るまでに日がかかるんです」


 ノエは、指を折った。


「ハンナさんが行って、帰るまでに四日。雪だと、もっとです。一つ聞いて、一つ答えてもらうのに、それだけかかります。三つ聞くなら、いっぺんに三つ聞かないといけません」


「あんた、さっきより喋るね」


「これは、僕の仕事のことなので」


 ノエは、筆を持った。


「三つにします。それ以上は、たぶん向こうが面倒くさがります」


 ハンナが、椅子の背に寄りかかった。


「運び賃は?」


 ノエは、筆を止めた。


「……こちらで持ちます」


「銭はあるのかい?」


「麦なら、あります」


「麦は、この時期に運ばせるもんじゃないよ。重いし、濡れるからね」


 ハンナは、掌を上に向けた。


「あんた、村の中はただでやってるだろ?」


「もらっています。薪とか、粥とか」


「なら、外はどうすんだい? 会ったこともない十三人のぶん、あんたが運び賃を持つのかい?」


 ノエは、答えなかった。


 答えられなかった。


 ハンナは、それ以上言わなかった。袋の中から、小さい布の包みを出して、卓に置いた。


 じゃら、と鳴った。


「なんですか、これ?」


「魚の銭だよ。一袋ぶんで受けたぶんより、かなり高く売れた。差額だ」


「トバさんに、渡してください」


「あたしが渡すと、あの人また取り返しに来るからね」


 ハンナは、真顔だった。


「頭の上に上げるのは、もうやめといてやるよ」


◇


 その夜、ノエは三つの問いを書いた。


 弟さんの名前。畑の四つの辺が、それぞれ何と接しているか。立ち会いに立てる人が三人いるか、いるならその名前。


 書いて、乾かした。


 それから、棚の二枚目を出した。四至のやり方を書いた写しだった。


 紙が、少し反っている。字は同じだった。同じ順番で、同じ行に並んでいる。


 ノエは、それを問いの紙に重ねた。


 やり方だけなら、これで足りる。


◇


 戸の外で、薪を割る音がした。


 父だった。


 ノエは、灯りを持って外へ出た。父は、切り株の上に薪を立てているところだった。


「まだ起きとったか?」


「はい」


 父は、振り下ろした。


 かん、と鳴って、薪が二つに割れた。片方が雪の上に転がった。


「返事が来たんだろ。母さんから聞いたよ」


「来ました。でも、書けないんです。畑のことが、何も書いてなくて」


 父は、次の薪を立てた。


 こちらを見ていない。


「弟と分けるんだろう」


「はい」


「分けるって決まっとるなら、もめとらんな」


「……わかりません」


「もめてたら、分けるとは書かないだろう」


 父は、振り下ろした。


「もめてたら、取られるとか、寄こさんとか、そう書く」


 ノエは、父の手元を見ていた。


 斧の柄を握る指が、太い。爪が一枚、割れている。


「もめてないなら、急がなくていいんでしょうか?」


「知らん」


 父は、割れた薪を拾った。


「……まあ、うちの兄貴のときは、もめとったな」


「どうなりましたか?」


「寄こせ、寄こさんで二年だ。二年、待てんかったらしい」


 父は、薪を腕に抱えた。


 抱えたまま、一度こちらを向いた。


「灯り、消して寝ろよ」


◇


 四日後、また雪になった。


 二日降って、やんだ。


 やんだ日の午後に、馬の音がした。


 ノエは、門で待っていた。今度は外套を着ていた。


 ハンナは、下りる前に言った。


「一枚だけだよ」


 ノエは、手を出した。


 紙を受け取って、そこで止まった。


 字が違う。前と同じ太い線だが、前より行が詰まっている。書き足したらしく、下のほうに小さい字が入っていた。


 アルマ。畑を、息子の名にしたい。息子が春に村を出る。出る前に。


 ノエは、二度読んだ。


 二度目のほうが、ゆっくりだった。


「ヨルンさんからは、来ていませんか?」


「来てないね。あたしが聞いたのは、まだ返事が届いてないってことだけだ」


 ハンナは、手綱を持ったままだった。


「次も雪しだいだよ」


 馬が、坂を下りていった。


◇


 小屋に戻って、灯りをつけた。


 卓の上に、紙を二枚並べた。


 右の端に線を引いた紙を、その横に置いた。一のところに、ヨルン。二のところは、まだ空いている。


 ノエは、二のところに、アルマ、と書いた。


 書いてから、手を止めた。


 ヨルンの紙には、いつまでに要るとは書いていない。アルマの紙には、春、と書いてある。


 届いたのは、ヨルンが先だった。


 ノエは、棚から一枚出した。


 宿の主人へ出した返事の、写しだった。自分の字で、そこに書いてある。


 一人ずつなら、書けます。届いた順に書きます。


 その行の墨は、薄かった。


 ノエは、二枚の紙を、もう一度見た。


 それから、アルマの紙を、上に置いた。


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