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24/52

24話


 雪は夜のうちにやんでいた。


 戸を開けると、息を吸った鼻の奥が痛んだ。


 空が高い。雲が一枚もない。昨日まで灰色で低かったものが、今朝は青くて、ずっと遠くにある。


 日は森の端から出たばかりだった。光が横から来ている。屋根の雪の、こちらを向いた面だけが白く光って、向こう側は青い影のままだった。


 煙が四筋、まっすぐ上がっている。


 風がない。


 戸の外の高さが変わっている。昨日まで膝の上あたりだった雪が、すねのところで止まっていた。


 道に、足跡が一つだけついている。


 井戸のところからゲルダの家の戸口まで、まっすぐ行って、そこで終わっていた。歩幅がこの村の誰よりも広い。


 雪の面が、朝の光でこまかく光っている。


 ノエが踏むと、しゃり、と鳴った。


◇


 小屋の戸は、蝶番が固くなっていた。


 一度引っかかって、それから開いた。


 内側の霜が、前より厚くなっている。指で押しても、形が残らなかった。


 窓の板の隙間から、光が三本入っていた。埃が、その三本の中だけで動いている。


 卓の上の束は、置いたときの形のままだった。


 光の一本が、いちばん上の紙の端にかかっている。紙の端の繊維が、そこだけ細く立って見えた。


 ノエは、椅子に座った。


 座ると、板が冷たい。外套の裾を敷いてから、座り直した。


◇


 戸が外から叩かれた。


「起きてるかい?」


 ハンナだった。


 戸が開いたぶんだけ、冷たい空気が床を走った。足首のところを、水のように過ぎていく。


 外套の肩に、雪が乗っている。屋根から落ちたぶんらしい。気にする様子はない。払いもせずに、そのまま入ってきた。


「ゲルダさんとこ、暑くてさ」


「冬なのに暑いんですか?」


「あの人、夜中に起きて薪を足すんだよ。二回目でこっちが暑くて起きたんだ」


 ハンナは、椅子に座った。


 座ってから、袋を膝に載せた。


 肩の雪が、光の中を落ちていった。床に当たる音はしなかった。


「昨日、締めたきりだったろ。開けるよ」


 ハンナは、袋の縄をほどいた。


 中からは紙が三枚出てきた。一枚は、ほかの二枚よりだいぶ厚い。


「薄いほうの二つは、読んでくれって話だ。別に急がないってさ」


 ノエは、薄いほうを手に取った。


 紙が、外の匂いをしていた。麻と、革と、馬の匂いだった。


 端のところに、小さく地の名が入っている。


「……ドーゼ」


「そうだよ」


「ドーゼってどこですか?」


 ハンナが、顔を上げた。


「知らないのかい?」


「聞いたことありません」


「渡しのあるとこだよ」


 ノエは、筆の尻で頬をかいた。


 そもそも渡しというものを見たことがなかったのだ。


◇


「ノエ、起きとるかね?」


 戸口から声がした。トバだった。


 外套の肩に雪を載せている。ハンナより分厚く積もっているように見える。


「干し魚の話を聞きに来たんだが、先客か?」


「トバさん、ドーゼって知っていますか?」


「ドーゼ?」


 トバは、敷居のところで足踏みをした。


 長靴の底から、雪の塊が二つ落ちた。


「聞いたことがないな」


「渡しのある村だよ」


 ハンナが、椅子から言った。


「渡し? そりゃ、川向こうのことかね?」


「川向こうって、どっちから見て言ってるんだい?」


「こっちからに決まっとる」


「あたしは、向こうから来るんだよ」


 トバが、口を開けた。


 開けて、そのまま閉じた。


 白い息が、口の前でしばらく消えなかった。


「……わしらは、ずっと川向こうと言っとる」


「うちは荷札に書くからね。書いてなきゃ、どこへ下ろすかわからないだろ?」


 ノエは、紙の端の字をもう一度見た。


「手紙を書いた人は、ドーゼと書いています」


「じゃあ、そいつがそう呼んどるだけだ」


「荷札を扱うみんながそう呼んでるんだよ」


 トバとハンナが、同時にこちらを見た。


 ノエは、二人の顔ではなく、卓の上を見ていた。


 光の三本が、少しだけ動いている。さっきより、紙の内側に寄っていた。


「……返事には、どっちを書けばいいんですか?」


「知らんよ」


「荷札のほうにしときな」


 ハンナが、あっさり言った。


「届かなきゃ、話にならないよ」


 ノエは、紙の隅に、ドーゼ、と書いた。


 その下に、川向こう、と書いた。


 並べて、しばらく見ていた。


 二つとも、同じ場所のことだった。


 トバが、覗きこんできた。


 外套から、外の冷たさがまだ抜けていない。


「どっちがどっちだね?」


「上が、ドーゼです」


「下は?」


「川向こうです」


「ふむ。……魚の話は、またにしよう」


 トバは、それだけ言って出ていった。


 敷居のところに、雪が落ちていた。


 戸が閉まると、また静かになった。


◇


 厚いほうの紙は、字が大きかった。


 線が太い。筆の先が割れているらしく、はらいのところで三本に分かれている。


 紙も厚い。指で挟むと、しっかりした重さがあった。村で使っている紙とは違う。


 ノエは、声に出して読んだ。


 途中で、一度止まった。


「……どうした?」


「十三人、いるみたいです」


「十三?」


「近くの人が十三人、代官所に出す紙を書いてほしいと書いてあります」


 ハンナが、身を乗り出した。


 卓に肘をついて、紙を横から覗きこむ。読めないはずだった。それでも、覗きこんでいる。


「宿の主人は字が書けるんだろう?」


「書けるみたいです。この手紙も、自分で書いているみたいですし」


「じゃあ、自分で書きゃいいんじゃないか?」


「書ける字と、通る紙は、違うんだと思います」


 言ってから、ノエは紙の下のほうを指でなぞった。


「北は何、南は何、と並べて、立ち会いを三人。順番を間違えると、窓口で返されます。名前の位置も決まっています。上から二行目です。三行目だと返されます」


「……あんた、それをどこで覚えたんだい?」


「本に書いてありました」


 ハンナが、鼻から息を出した。


 笑ったのだと、少し遅れてわかった。


「で、まだ先がある?」


「あります」


 冬のあいだ、宿に部屋を一つ空けてある。食事も出す。春の巡回の前に、十三人ぶんを揃えたい。


 読み終えて、ノエは紙を卓に戻した。


 戻した紙が、少しめくれて、また平らになった。


 光の三本は、もう卓の縁まで下りていた。


◇


「この宿までは、どのくらい遠いんですか?」


「リックより、ずっと先だよ」


 ハンナは、外套の前を開けた。


 小屋の中が暖かいわけではなかった。息が白い。それでも開けた。パタパタと胸元を煽いでいる。


「馬なら行けるさ。ただし、あんたを乗せるなら休み休みだ。それに、雪が積もったらその日は動けない。三日待たされることもあるよ」


「泊まりは、いくつになりますか?」


「行ってみないとわからないね」


 ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。


 二度なでて、止めた。


「やっぱり行けません」


「体が理由かい?」


「いえ、違います」


 言い切ってから、少し言葉が足りていないと思った。


「体だけが理由なら、ハンナさんにお願いしてたと思います」


 ハンナの眉が、上がった。じっとノエの表情を見ている。


 見られていることが、わかった。


 それでも、ノエは卓の木目のほうを見ていた。木目が、卓の端で二つに分かれている。そこをずっと見ていた。


「リックは、ここから半日の距離でした。行くのに、父と母を村の仕事から二日抜くことになりました。村から、大人が二人いなくなったんです。それでも、着きませんでした」


「らしいね」


「その宿に僕がひと冬いたら、そのあいだ、少なくとも母も村にいなくなります。それに、この村には冬のあいだ書く人が誰もいなくなります」


 ノエは、卓の束を見た。


 霧草が、向こうの村にあるかもわからない。その煎じ方も母しか知らない。


 十三、と書いてあるところだけ、特に線が太い気がする。


「人手が空くのは、冬だけです。春は起こしで、夏は水で、秋は刈り入れで。行けるのが冬だけなんです。夏なら断れました。冬だから、断る理由を探さないといけません」


 ハンナが、椅子の背に寄りかかった。


 背もたれが、かん、と鳴った。


「あんた、トバさんみたいなこと言うね」


「トバさんに教えてもらったことですから」


「なるほどね。前は、言われるまで気づかなかったってことだろう?」


「はい。言われてから、それでも行きました」


「……」


「行って、倒れました」


 ハンナは、何も言わなかった。


 袋の口を、開けたままにした。


 小屋の外で、屋根の雪が落ちる音がした。


 どすん、と一度だけ鳴って、それきりだった。


◇


 ノエは、手に息を吹きかけた。


 二度吹いて、筆を持った。


 最初の一字が太くなった。指がまだ動いていない。


 中指の外側のたこが、筆の軸に当たる。冷えているせいか、いつもより硬く感じた。


 書いたのは、三つだった。


 そちらへは行けません、と書いた。理由は体のことではなく、村の人手のことだと書いた。冬に村を空けると、村の者が書けなくなること。


 次に、十三人ぶんを一度には書けないと書いた。


 最後に、こう書いた。


 一人ずつなら、書けます。名前を一つと、その人が何を出したいのかを一行、書いて送ってください。届いた順に書きます。


 書いてから、読み直した。


 届いた順に、のところで、目が止まった。


 会ったことのない十三人が、紙の上で一列に並ぶ。並べるのは自分だった。


 ノエは、親指の腹で人差し指の側面をなでた。


 なでてから、紙を伏せた。


 墨が、まだ乾いていなかったかもしれない。伏せてから、そう思った。


◇


「これも、一緒にお願いします」


 ノエは、棚から二枚出した。


 一枚は、昨日渡しそびれた返事。もう一枚は、その写しだった。


 並べて、卓に置いた。


 置いてから、手が止まった。


 同じ字だった。同じ順番で、同じ行に並んでいる。


 それなのに、二枚目のほうが薄い。


 墨の乗りが違う。線の終わりのところが、かすれて切れている。


 急いで書いたからだろうか、とノエは思った。


「同じのが二枚あるね」


「四至のやり方です。動かないものを選ぶこと、棒を十倒したら結び目を一つ作ること、見た者の名前を三つ並べること」


「それを、教えちまうのかい?」


 ハンナが、紙の端をつまんだ。


「教えたら、あんたに頼まなくなるんじゃないのかい?」


「そのほうが、いいんです」


「ふうん」


「僕は、行けませんから」


 ハンナは、しばらくその紙を持っていた。


 光に透かすように、少し持ち上げた。


 それから、袋に入れた。


「運び賃は、向こうから取るからね」


「はい」


「宿の主人なら払えるさ。麦じゃなくて、銭でね」


◇


「ハンナさん」


「なんだい?」


「昨日の、ボルドさんの字ですけど」


 ハンナの手が、止まった。


 袋の紐から、指が離れた。


「持ってるよ」


 外套の内側から、紙の端が出てきた。四つに畳んである。畳み目のところが、少し毛羽立っていた。


 何度か開いたらしい。


 ノエは、紙を一枚出して、卓に置いた。


「ノーラ、って読めますよね」


「読めるよ。荷札にいつも書いてあるからね」


 ノエは、ノーラ、と書いた。


 その下に、ノエ、と書いた。


「これが僕の名前です。見てください。はじめの字が、どっちも同じなんです」


 ハンナが、紙に顔を近づけた。


 近づけてから、離した。それから、また近づけた。


 まつげの先が、光っている。溶けた雪が、まだ残っていた。


「……たしかに同じだね」


「はい。音が同じなら、字も同じなんです」


「これが、ノの音ってことかい?」


「はい。荷札の村の名前も、みんなそうです。ラントのラと、ラの音は同じです。だから、一つ覚えると、ほかの村でも使えます」


 ノエは、そこで言葉が速くなった。


「ボルドさんの字も、ボとルとドで、ドはドーゼのドと」


「待ちな」


 ハンナが、手のひらをこちらへ向けた。


「一日に一つだよ」


 ノエは、口を閉じた。


 筆を置いて、また持った。


「……はい」


「楽しそうだね、あんた」


「楽しいです」


 言ってしまってから、ノエは板の縁を見た。


 ハンナは、笑わなかった。


 畳んだ紙を開いて、卓の上に並べただけだった。


「じゃあ、これの一つ目は」


「ボです。点が二つ付いています。それで一つです」


「……点で変わるのかい?」


「変わります」


 ハンナは、点のところを指で押さえた。


 押さえたまま、動かなかった。


 指の腹が、紙より大きい。点が、その下に隠れていた。


「面倒くさいねえ」


「はい」


 ハンナは、紙を手早く畳み直した。


 さっきと同じところで折れていた。


◇


 門のところで、馬が雪を踏んでいる。


 ぼす、ぼす、と鳴った。


 門は木を組んだだけのもので、横木の上に雪が細く乗っていた。馬が踏むたびに、その一部が崩れて落ちる。


 日はもう高い。


 朝に横から来ていた光が、今は上から落ちている。影が短くなっていた。


「次も、雪しだいだね」


「はい」


「十三人ぶん、もし一度に来たらどうするんだい?」


 ノエは、すぐには答えなかった。


「……わからないです」


「順番は、あんたが決めるんだよ」


 ノエは、何も言わなかった。


「基本は、先に出したもんが先だ。荷と同じだよ」


「……荷は、後に回しても腐りません」


 ハンナの手が、手綱の上で止まった。


 止まってから、また動いた。


「腐るものだってあるさ。腐るもんはね、後に積むんだよ。先に下ろせるようにね」


「どれが腐るか、紙だけではわからないんです」


 ハンナは、袋を掌で一度叩いた。


「じゃ、聞くしかないね」


「……はい」


「あんたはそれをやるんだろ?」


 ハンナは、鐙に足をかけた。


 馬が、坂を下りていく。


 雪の上に、行きと帰りの跡が二本並んだ。


 坂の下のほうで、馬の背が一度だけ光った。それから、木の影に入って見えなくなった。


 蹄の音は、しばらく聞こえていた。


 音がなくなってからも、ノエは門のところに立っていた。


 外套の裾が冷たくなってきて、それでやっと歩きだした。


◇


 家に戻ると、土間で母が鍋を火にかけていた。


 霧草の匂いがする。


 朝と晩に飲まされていたころより、匂いが薄い。


 湯気が、天井の梁のあたりまで上がっていた。梁の下側だけ、黒く濡れている。


「東のはずれまで、行ってきます」


 母は、鍋から目を上げなかった。


「……坂は?」


「下りません。村の中です」


 母は、木の匙で鍋をひと回しした。


 回してから、縁に置いた。


 それから、壁の釘に掛かっていた外套を取って、ノエのほうへ出した。


 朝に着ていたものではなかった。父のものだった。


「大きいです」


「重ねな」


「暑いです」


「途中で脱いじゃだめだよ」


 母は、それだけ言って、また鍋のほうを向いた。


 背中が、こちらを向いたままだった。


 ノエは、袖を二度折ってから、腕を通した。


 外套は、土と汗の匂いがした。


 洗ってあるはずだった。それでも、匂いは残っていた。


◇


 その日の昼、ノエは東のはずれへ歩いた。


 坂ではない。村の中の道だった。


 それでも、二度止まった。


 一度目は井戸のところで、二度目は柵のところだった。柵に手をついたら、折った袖の中へ雪が入った。


 外套が重い。父は、あの日もこれを着ていた気がする。ノエを背負って、半日分の道を戻ったときだ。


 家並みが、途中で終わる。


 そこから先は畑だった。


 刈り跡は雪の下で、どこからが誰の畑なのか、線が消えている。柵の横木の上にだけ、雪が細長く乗っていた。


 遠くで、木が鳴った。


 乾いた音だった。雪の重みで、枝が折れたのだろう。


 風はなかった。


 それでも、耳が痛かった。


 畑の草は、雪の下に埋もれている。


 腰まであったはずのものが、何も見えない。白いだけの一枚になっている。


 その白いところに、足跡が一本あった。


 行きと帰りで、同じところを踏んであった。


◇


 ボルドがいた。


 白いだけの一枚に、黒いものが四つ立っている。その一つの横にいた。


 影が、長く西へ伸びている。人の影と、杭の影が、途中で重なっていた。


 ボルドは杭の頭に手を当てて、雪を払っていた。払ってから、次の杭へ歩いている。


「ボルドさん」


「おう」


 ボルドは、振り返らなかった。


 三本目の杭の雪を払っている。


「何を、しているんですか?」


「埋まると、どこだかわからんくなるからな」


「雪が解けたら、出てきますよ」


「解けるまでが長いんだよ」


 ボルドは、四本目へ行った。


 手袋をしていない。指が赤くなっていた。


 払われた雪が、外套の裾にかかる。ボルドは、それも払わなかった。


 杭の頭を掌で押して、動かないのを確かめている。


 ──杭は三年、抜いていない。


 自分が書いた一行が、そのまま浮かんだ。


 紙の、下から二行目だった。書いたときに、途中で筆が引っかかったことまで覚えている。


◇


「ボルドさん」


「なんだ」


「もう一度、書きませんか?」


 ボルドの手が、杭の上で止まった。


 止まってから、また動いた。雪が、二回に分けて落ちた。


「……なんて書くんだ?」


 ノエは口を開いた。


 開いたまま、何も言えなかった。


「一度は、届いてるんだろ」


 ボルドは、こちらを見なかった。


「届いたのに、開けなかっただけだろうが。中身は、まだあの人のとこにある」


「まだ読んでいません」


「読まんでも、そこに置いてある」


 ボルドは、杭から手を離した。


 外套の腹で、掌を拭った。二度拭って、それでもまた拭った。


「同じもんを二度出しゃ、催促だろ?」


「……それは、そうかもしれません」


「催促できる筋じゃねえんだよ、おれは」


 ノエは、雪の上を見ていた。


 足跡が、二人ぶんになっている。


 自分のほうが、浅い。


 ──奥で、咳がしていました。


 言葉が、喉のところまで来た。


 来て、そこで止まった。


 ハンナは中を見ていない。自分も見ていない。見ていないものを、この人に渡していいのか、わからなかった。


 それに、渡してしまえば、この人は行くだろう。


 雪の道を、ひと冬かけてでも行く気がした。


 ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。


「おい」


「……はい」


「なんか言いたそうだな」


「……いえ」


 ノエは、そう言った。


 言ってから、手を外套の内側に入れた。


 内側は、外より暖かかった。それが、なんだか居心地が悪かった。


◇


 ボルドは、四本目の雪を払い終えた。


 払ってから、畑のまん中のほうを見た。


「春になったら、ここを起こす」


「──麦を、蒔くんですか?」


「知らん」


 ボルドは、鼻の頭をこすった。


「三年、置いといたからな。土が硬い。起こすだけで、ひと夏はかかる」


「ひと夏……一人でやるんですか?」


「ああ」


「手伝える人は──」


「いらん」


 即答だった。


「春は、みんな自分の畑で手一杯だ」


 ボルドは、そこで足を止めた。


 こちらを向いた。


「それに、ここはおれのだ」


 怒っている声だった。


 顔は、そうではなかった。


 ノエは、目をそらさなかった。そらさずに、ボルドの手のほうを見た。


 指が、まだ赤い。無骨でゴツゴツとした手だった。


◇


 ボルドが村のほうへ戻っていく。


 ノエは、杭の一本に手を置いた。


 頭がすり減って丸くなっている。


 冷たかった。手のひらに、雪の解けたのがついた。


 日が、来たときより低い。


 影が、行きよりも長くなっていた。


 それから、ボルドの足跡の横を歩いた。


 歩幅が違うので、二歩に一度しか重ならなかった。


◇


 小屋に戻って、灯りをつける。


 火が入ると、戸の内側の霜が光った。


 紙を一枚出した。


 宛名は、書かなかった。


 書いたのは、三行だけ。


 戸は、半分しか開かなかったこと。奥で、咳の音がしていたこと。ミルダが、一度うしろを見てから戸を閉めたこと。


 書いて、乾くのを待った。


 待っているあいだ、灯りの向こうの壁を見ていた。


 自分の影が、そこに映っている。書く形のまま、まだ動いていなかった。


 待ってから、四つに畳んだ。


 外套の内側に入れて、上から一度、押さえた。


 しばらく、そうしていた。


 それから取り出して、棚のいちばん奥に入れた。


 写しの束の、うしろだった。


 灯りの芯が、短くなっている。


 ノエは、油を足した。


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