24話
雪は夜のうちにやんでいた。
戸を開けると、息を吸った鼻の奥が痛んだ。
空が高い。雲が一枚もない。昨日まで灰色で低かったものが、今朝は青くて、ずっと遠くにある。
日は森の端から出たばかりだった。光が横から来ている。屋根の雪の、こちらを向いた面だけが白く光って、向こう側は青い影のままだった。
煙が四筋、まっすぐ上がっている。
風がない。
戸の外の高さが変わっている。昨日まで膝の上あたりだった雪が、すねのところで止まっていた。
道に、足跡が一つだけついている。
井戸のところからゲルダの家の戸口まで、まっすぐ行って、そこで終わっていた。歩幅がこの村の誰よりも広い。
雪の面が、朝の光でこまかく光っている。
ノエが踏むと、しゃり、と鳴った。
◇
小屋の戸は、蝶番が固くなっていた。
一度引っかかって、それから開いた。
内側の霜が、前より厚くなっている。指で押しても、形が残らなかった。
窓の板の隙間から、光が三本入っていた。埃が、その三本の中だけで動いている。
卓の上の束は、置いたときの形のままだった。
光の一本が、いちばん上の紙の端にかかっている。紙の端の繊維が、そこだけ細く立って見えた。
ノエは、椅子に座った。
座ると、板が冷たい。外套の裾を敷いてから、座り直した。
◇
戸が外から叩かれた。
「起きてるかい?」
ハンナだった。
戸が開いたぶんだけ、冷たい空気が床を走った。足首のところを、水のように過ぎていく。
外套の肩に、雪が乗っている。屋根から落ちたぶんらしい。気にする様子はない。払いもせずに、そのまま入ってきた。
「ゲルダさんとこ、暑くてさ」
「冬なのに暑いんですか?」
「あの人、夜中に起きて薪を足すんだよ。二回目でこっちが暑くて起きたんだ」
ハンナは、椅子に座った。
座ってから、袋を膝に載せた。
肩の雪が、光の中を落ちていった。床に当たる音はしなかった。
「昨日、締めたきりだったろ。開けるよ」
ハンナは、袋の縄をほどいた。
中からは紙が三枚出てきた。一枚は、ほかの二枚よりだいぶ厚い。
「薄いほうの二つは、読んでくれって話だ。別に急がないってさ」
ノエは、薄いほうを手に取った。
紙が、外の匂いをしていた。麻と、革と、馬の匂いだった。
端のところに、小さく地の名が入っている。
「……ドーゼ」
「そうだよ」
「ドーゼってどこですか?」
ハンナが、顔を上げた。
「知らないのかい?」
「聞いたことありません」
「渡しのあるとこだよ」
ノエは、筆の尻で頬をかいた。
そもそも渡しというものを見たことがなかったのだ。
◇
「ノエ、起きとるかね?」
戸口から声がした。トバだった。
外套の肩に雪を載せている。ハンナより分厚く積もっているように見える。
「干し魚の話を聞きに来たんだが、先客か?」
「トバさん、ドーゼって知っていますか?」
「ドーゼ?」
トバは、敷居のところで足踏みをした。
長靴の底から、雪の塊が二つ落ちた。
「聞いたことがないな」
「渡しのある村だよ」
ハンナが、椅子から言った。
「渡し? そりゃ、川向こうのことかね?」
「川向こうって、どっちから見て言ってるんだい?」
「こっちからに決まっとる」
「あたしは、向こうから来るんだよ」
トバが、口を開けた。
開けて、そのまま閉じた。
白い息が、口の前でしばらく消えなかった。
「……わしらは、ずっと川向こうと言っとる」
「うちは荷札に書くからね。書いてなきゃ、どこへ下ろすかわからないだろ?」
ノエは、紙の端の字をもう一度見た。
「手紙を書いた人は、ドーゼと書いています」
「じゃあ、そいつがそう呼んどるだけだ」
「荷札を扱うみんながそう呼んでるんだよ」
トバとハンナが、同時にこちらを見た。
ノエは、二人の顔ではなく、卓の上を見ていた。
光の三本が、少しだけ動いている。さっきより、紙の内側に寄っていた。
「……返事には、どっちを書けばいいんですか?」
「知らんよ」
「荷札のほうにしときな」
ハンナが、あっさり言った。
「届かなきゃ、話にならないよ」
ノエは、紙の隅に、ドーゼ、と書いた。
その下に、川向こう、と書いた。
並べて、しばらく見ていた。
二つとも、同じ場所のことだった。
トバが、覗きこんできた。
外套から、外の冷たさがまだ抜けていない。
「どっちがどっちだね?」
「上が、ドーゼです」
「下は?」
「川向こうです」
「ふむ。……魚の話は、またにしよう」
トバは、それだけ言って出ていった。
敷居のところに、雪が落ちていた。
戸が閉まると、また静かになった。
◇
厚いほうの紙は、字が大きかった。
線が太い。筆の先が割れているらしく、はらいのところで三本に分かれている。
紙も厚い。指で挟むと、しっかりした重さがあった。村で使っている紙とは違う。
ノエは、声に出して読んだ。
途中で、一度止まった。
「……どうした?」
「十三人、いるみたいです」
「十三?」
「近くの人が十三人、代官所に出す紙を書いてほしいと書いてあります」
ハンナが、身を乗り出した。
卓に肘をついて、紙を横から覗きこむ。読めないはずだった。それでも、覗きこんでいる。
「宿の主人は字が書けるんだろう?」
「書けるみたいです。この手紙も、自分で書いているみたいですし」
「じゃあ、自分で書きゃいいんじゃないか?」
「書ける字と、通る紙は、違うんだと思います」
言ってから、ノエは紙の下のほうを指でなぞった。
「北は何、南は何、と並べて、立ち会いを三人。順番を間違えると、窓口で返されます。名前の位置も決まっています。上から二行目です。三行目だと返されます」
「……あんた、それをどこで覚えたんだい?」
「本に書いてありました」
ハンナが、鼻から息を出した。
笑ったのだと、少し遅れてわかった。
「で、まだ先がある?」
「あります」
冬のあいだ、宿に部屋を一つ空けてある。食事も出す。春の巡回の前に、十三人ぶんを揃えたい。
読み終えて、ノエは紙を卓に戻した。
戻した紙が、少しめくれて、また平らになった。
光の三本は、もう卓の縁まで下りていた。
◇
「この宿までは、どのくらい遠いんですか?」
「リックより、ずっと先だよ」
ハンナは、外套の前を開けた。
小屋の中が暖かいわけではなかった。息が白い。それでも開けた。パタパタと胸元を煽いでいる。
「馬なら行けるさ。ただし、あんたを乗せるなら休み休みだ。それに、雪が積もったらその日は動けない。三日待たされることもあるよ」
「泊まりは、いくつになりますか?」
「行ってみないとわからないね」
ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。
二度なでて、止めた。
「やっぱり行けません」
「体が理由かい?」
「いえ、違います」
言い切ってから、少し言葉が足りていないと思った。
「体だけが理由なら、ハンナさんにお願いしてたと思います」
ハンナの眉が、上がった。じっとノエの表情を見ている。
見られていることが、わかった。
それでも、ノエは卓の木目のほうを見ていた。木目が、卓の端で二つに分かれている。そこをずっと見ていた。
「リックは、ここから半日の距離でした。行くのに、父と母を村の仕事から二日抜くことになりました。村から、大人が二人いなくなったんです。それでも、着きませんでした」
「らしいね」
「その宿に僕がひと冬いたら、そのあいだ、少なくとも母も村にいなくなります。それに、この村には冬のあいだ書く人が誰もいなくなります」
ノエは、卓の束を見た。
霧草が、向こうの村にあるかもわからない。その煎じ方も母しか知らない。
十三、と書いてあるところだけ、特に線が太い気がする。
「人手が空くのは、冬だけです。春は起こしで、夏は水で、秋は刈り入れで。行けるのが冬だけなんです。夏なら断れました。冬だから、断る理由を探さないといけません」
ハンナが、椅子の背に寄りかかった。
背もたれが、かん、と鳴った。
「あんた、トバさんみたいなこと言うね」
「トバさんに教えてもらったことですから」
「なるほどね。前は、言われるまで気づかなかったってことだろう?」
「はい。言われてから、それでも行きました」
「……」
「行って、倒れました」
ハンナは、何も言わなかった。
袋の口を、開けたままにした。
小屋の外で、屋根の雪が落ちる音がした。
どすん、と一度だけ鳴って、それきりだった。
◇
ノエは、手に息を吹きかけた。
二度吹いて、筆を持った。
最初の一字が太くなった。指がまだ動いていない。
中指の外側のたこが、筆の軸に当たる。冷えているせいか、いつもより硬く感じた。
書いたのは、三つだった。
そちらへは行けません、と書いた。理由は体のことではなく、村の人手のことだと書いた。冬に村を空けると、村の者が書けなくなること。
次に、十三人ぶんを一度には書けないと書いた。
最後に、こう書いた。
一人ずつなら、書けます。名前を一つと、その人が何を出したいのかを一行、書いて送ってください。届いた順に書きます。
書いてから、読み直した。
届いた順に、のところで、目が止まった。
会ったことのない十三人が、紙の上で一列に並ぶ。並べるのは自分だった。
ノエは、親指の腹で人差し指の側面をなでた。
なでてから、紙を伏せた。
墨が、まだ乾いていなかったかもしれない。伏せてから、そう思った。
◇
「これも、一緒にお願いします」
ノエは、棚から二枚出した。
一枚は、昨日渡しそびれた返事。もう一枚は、その写しだった。
並べて、卓に置いた。
置いてから、手が止まった。
同じ字だった。同じ順番で、同じ行に並んでいる。
それなのに、二枚目のほうが薄い。
墨の乗りが違う。線の終わりのところが、かすれて切れている。
急いで書いたからだろうか、とノエは思った。
「同じのが二枚あるね」
「四至のやり方です。動かないものを選ぶこと、棒を十倒したら結び目を一つ作ること、見た者の名前を三つ並べること」
「それを、教えちまうのかい?」
ハンナが、紙の端をつまんだ。
「教えたら、あんたに頼まなくなるんじゃないのかい?」
「そのほうが、いいんです」
「ふうん」
「僕は、行けませんから」
ハンナは、しばらくその紙を持っていた。
光に透かすように、少し持ち上げた。
それから、袋に入れた。
「運び賃は、向こうから取るからね」
「はい」
「宿の主人なら払えるさ。麦じゃなくて、銭でね」
◇
「ハンナさん」
「なんだい?」
「昨日の、ボルドさんの字ですけど」
ハンナの手が、止まった。
袋の紐から、指が離れた。
「持ってるよ」
外套の内側から、紙の端が出てきた。四つに畳んである。畳み目のところが、少し毛羽立っていた。
何度か開いたらしい。
ノエは、紙を一枚出して、卓に置いた。
「ノーラ、って読めますよね」
「読めるよ。荷札にいつも書いてあるからね」
ノエは、ノーラ、と書いた。
その下に、ノエ、と書いた。
「これが僕の名前です。見てください。はじめの字が、どっちも同じなんです」
ハンナが、紙に顔を近づけた。
近づけてから、離した。それから、また近づけた。
まつげの先が、光っている。溶けた雪が、まだ残っていた。
「……たしかに同じだね」
「はい。音が同じなら、字も同じなんです」
「これが、ノの音ってことかい?」
「はい。荷札の村の名前も、みんなそうです。ラントのラと、ラの音は同じです。だから、一つ覚えると、ほかの村でも使えます」
ノエは、そこで言葉が速くなった。
「ボルドさんの字も、ボとルとドで、ドはドーゼのドと」
「待ちな」
ハンナが、手のひらをこちらへ向けた。
「一日に一つだよ」
ノエは、口を閉じた。
筆を置いて、また持った。
「……はい」
「楽しそうだね、あんた」
「楽しいです」
言ってしまってから、ノエは板の縁を見た。
ハンナは、笑わなかった。
畳んだ紙を開いて、卓の上に並べただけだった。
「じゃあ、これの一つ目は」
「ボです。点が二つ付いています。それで一つです」
「……点で変わるのかい?」
「変わります」
ハンナは、点のところを指で押さえた。
押さえたまま、動かなかった。
指の腹が、紙より大きい。点が、その下に隠れていた。
「面倒くさいねえ」
「はい」
ハンナは、紙を手早く畳み直した。
さっきと同じところで折れていた。
◇
門のところで、馬が雪を踏んでいる。
ぼす、ぼす、と鳴った。
門は木を組んだだけのもので、横木の上に雪が細く乗っていた。馬が踏むたびに、その一部が崩れて落ちる。
日はもう高い。
朝に横から来ていた光が、今は上から落ちている。影が短くなっていた。
「次も、雪しだいだね」
「はい」
「十三人ぶん、もし一度に来たらどうするんだい?」
ノエは、すぐには答えなかった。
「……わからないです」
「順番は、あんたが決めるんだよ」
ノエは、何も言わなかった。
「基本は、先に出したもんが先だ。荷と同じだよ」
「……荷は、後に回しても腐りません」
ハンナの手が、手綱の上で止まった。
止まってから、また動いた。
「腐るものだってあるさ。腐るもんはね、後に積むんだよ。先に下ろせるようにね」
「どれが腐るか、紙だけではわからないんです」
ハンナは、袋を掌で一度叩いた。
「じゃ、聞くしかないね」
「……はい」
「あんたはそれをやるんだろ?」
ハンナは、鐙に足をかけた。
馬が、坂を下りていく。
雪の上に、行きと帰りの跡が二本並んだ。
坂の下のほうで、馬の背が一度だけ光った。それから、木の影に入って見えなくなった。
蹄の音は、しばらく聞こえていた。
音がなくなってからも、ノエは門のところに立っていた。
外套の裾が冷たくなってきて、それでやっと歩きだした。
◇
家に戻ると、土間で母が鍋を火にかけていた。
霧草の匂いがする。
朝と晩に飲まされていたころより、匂いが薄い。
湯気が、天井の梁のあたりまで上がっていた。梁の下側だけ、黒く濡れている。
「東のはずれまで、行ってきます」
母は、鍋から目を上げなかった。
「……坂は?」
「下りません。村の中です」
母は、木の匙で鍋をひと回しした。
回してから、縁に置いた。
それから、壁の釘に掛かっていた外套を取って、ノエのほうへ出した。
朝に着ていたものではなかった。父のものだった。
「大きいです」
「重ねな」
「暑いです」
「途中で脱いじゃだめだよ」
母は、それだけ言って、また鍋のほうを向いた。
背中が、こちらを向いたままだった。
ノエは、袖を二度折ってから、腕を通した。
外套は、土と汗の匂いがした。
洗ってあるはずだった。それでも、匂いは残っていた。
◇
その日の昼、ノエは東のはずれへ歩いた。
坂ではない。村の中の道だった。
それでも、二度止まった。
一度目は井戸のところで、二度目は柵のところだった。柵に手をついたら、折った袖の中へ雪が入った。
外套が重い。父は、あの日もこれを着ていた気がする。ノエを背負って、半日分の道を戻ったときだ。
家並みが、途中で終わる。
そこから先は畑だった。
刈り跡は雪の下で、どこからが誰の畑なのか、線が消えている。柵の横木の上にだけ、雪が細長く乗っていた。
遠くで、木が鳴った。
乾いた音だった。雪の重みで、枝が折れたのだろう。
風はなかった。
それでも、耳が痛かった。
畑の草は、雪の下に埋もれている。
腰まであったはずのものが、何も見えない。白いだけの一枚になっている。
その白いところに、足跡が一本あった。
行きと帰りで、同じところを踏んであった。
◇
ボルドがいた。
白いだけの一枚に、黒いものが四つ立っている。その一つの横にいた。
影が、長く西へ伸びている。人の影と、杭の影が、途中で重なっていた。
ボルドは杭の頭に手を当てて、雪を払っていた。払ってから、次の杭へ歩いている。
「ボルドさん」
「おう」
ボルドは、振り返らなかった。
三本目の杭の雪を払っている。
「何を、しているんですか?」
「埋まると、どこだかわからんくなるからな」
「雪が解けたら、出てきますよ」
「解けるまでが長いんだよ」
ボルドは、四本目へ行った。
手袋をしていない。指が赤くなっていた。
払われた雪が、外套の裾にかかる。ボルドは、それも払わなかった。
杭の頭を掌で押して、動かないのを確かめている。
──杭は三年、抜いていない。
自分が書いた一行が、そのまま浮かんだ。
紙の、下から二行目だった。書いたときに、途中で筆が引っかかったことまで覚えている。
◇
「ボルドさん」
「なんだ」
「もう一度、書きませんか?」
ボルドの手が、杭の上で止まった。
止まってから、また動いた。雪が、二回に分けて落ちた。
「……なんて書くんだ?」
ノエは口を開いた。
開いたまま、何も言えなかった。
「一度は、届いてるんだろ」
ボルドは、こちらを見なかった。
「届いたのに、開けなかっただけだろうが。中身は、まだあの人のとこにある」
「まだ読んでいません」
「読まんでも、そこに置いてある」
ボルドは、杭から手を離した。
外套の腹で、掌を拭った。二度拭って、それでもまた拭った。
「同じもんを二度出しゃ、催促だろ?」
「……それは、そうかもしれません」
「催促できる筋じゃねえんだよ、おれは」
ノエは、雪の上を見ていた。
足跡が、二人ぶんになっている。
自分のほうが、浅い。
──奥で、咳がしていました。
言葉が、喉のところまで来た。
来て、そこで止まった。
ハンナは中を見ていない。自分も見ていない。見ていないものを、この人に渡していいのか、わからなかった。
それに、渡してしまえば、この人は行くだろう。
雪の道を、ひと冬かけてでも行く気がした。
ノエは、親指の腹で、人差し指の側面をなでた。
「おい」
「……はい」
「なんか言いたそうだな」
「……いえ」
ノエは、そう言った。
言ってから、手を外套の内側に入れた。
内側は、外より暖かかった。それが、なんだか居心地が悪かった。
◇
ボルドは、四本目の雪を払い終えた。
払ってから、畑のまん中のほうを見た。
「春になったら、ここを起こす」
「──麦を、蒔くんですか?」
「知らん」
ボルドは、鼻の頭をこすった。
「三年、置いといたからな。土が硬い。起こすだけで、ひと夏はかかる」
「ひと夏……一人でやるんですか?」
「ああ」
「手伝える人は──」
「いらん」
即答だった。
「春は、みんな自分の畑で手一杯だ」
ボルドは、そこで足を止めた。
こちらを向いた。
「それに、ここはおれのだ」
怒っている声だった。
顔は、そうではなかった。
ノエは、目をそらさなかった。そらさずに、ボルドの手のほうを見た。
指が、まだ赤い。無骨でゴツゴツとした手だった。
◇
ボルドが村のほうへ戻っていく。
ノエは、杭の一本に手を置いた。
頭がすり減って丸くなっている。
冷たかった。手のひらに、雪の解けたのがついた。
日が、来たときより低い。
影が、行きよりも長くなっていた。
それから、ボルドの足跡の横を歩いた。
歩幅が違うので、二歩に一度しか重ならなかった。
◇
小屋に戻って、灯りをつける。
火が入ると、戸の内側の霜が光った。
紙を一枚出した。
宛名は、書かなかった。
書いたのは、三行だけ。
戸は、半分しか開かなかったこと。奥で、咳の音がしていたこと。ミルダが、一度うしろを見てから戸を閉めたこと。
書いて、乾くのを待った。
待っているあいだ、灯りの向こうの壁を見ていた。
自分の影が、そこに映っている。書く形のまま、まだ動いていなかった。
待ってから、四つに畳んだ。
外套の内側に入れて、上から一度、押さえた。
しばらく、そうしていた。
それから取り出して、棚のいちばん奥に入れた。
写しの束の、うしろだった。
灯りの芯が、短くなっている。
ノエは、油を足した。




