23話
天井の板を、何度も数えた。
四枚あった。左から二枚目に節がある。そこだけ、色が濃い。
母が、朝と晩に霧草を持ってきた。
朝のぶんは、湯気が立っていた。晩のぶんは、立っていないこともあった。
土間の薪が、減っていく。
ボルドが置いていった袋のぶんは、三日でなくなった。
四日目から、父が薪を割る音がした。
五日目に、その音を、起き上がって聞いた。
六日目の朝、床から出ても母は何も言わなかった。
ノエは、外套を着た。
◇
小屋の戸に、内側から霜が下りていた。
指で押すと、そこだけ溶けて、指の形が残った。
卓の上の束は、置いたままの形で三つに分かれていた。
いちばん上の紙が、めくれて、また戻っている。
ノエは、椅子に座った。
座って、しばらく何もしなかった。
外で、足音がした。
井戸のほうから来る。歩幅が大きくて、片方の足音が重い。
「おい」
ボルドだった。
肩に棒を担いでいる。大人が両手を広げた長さの棒だった。もう一方の手に、縄を提げている。
「ボルドさん」
「あの、隣の村の畑な」
ボルドは、戸の外に立ったままだった。
「四つの辺を測って、紙にするんだろう?」
「……はい」
「ガロンがやったみてえにやりゃいいんだろ」
ノエは、板を膝に載せた。
載せてから、また下ろした。
「縄は、四本に切って、端と端をつなぎます。つないだこぶが、辺と辺の仕切りです」
「ああ」
「輪のあるほうが、はじめです。輪から、東──」
「日の出るほうからだろうが」
ボルドは、縄を肩に掛けた。
「棒を十倒したら、大きいこぶ。あまりは、小さいの。結ぶのは、おれじゃねえ。見とった奴に結ばせる」
ノエは、口を開いた。
開いたまま、何も言えなかった。
「二日で戻る」
「──待ってください」
「なんだ」
「どうして、ボルドさんが行ってくれるんですか?」
ボルドは、井戸のほうを向いた。
こちらを見なかった。
「刈るもんが、もうねえからな」
「……はい?」
「あれは、書いてもらったぶんだ」
ボルドは、棒を持ち替えた。
「今度は、出してもらったぶんだよ」
それだけ言って、坂のほうへ歩いていった。
◇
次の朝、ボルドが坂を下りていった。
棒の先が、朝の光に一度だけ光った。
ノエは、門のところに立っていた。
ゲルダも、いた。
自分の家の戸口ではなく、道のそばまで出てきている。
二人とも、坂の下を見ていた。
道は、途中で曲がって、そこから先が見えない。
「突っ立ってても寒いだけだよ」
ゲルダが言った。
「はい」
「入りな」
ゲルダは、そう言って、自分は動かなかった。
◇
一日目。
井戸の水が、桶の中で薄く凍った。デュラが、それを指で割っていた。
二日目。
朝から曇った。
ノエは、卓の束を開いた。
いちばん上の一通を、もう一度読んだ。宿の主人の字で来たものだった。
──来られるか?
ノエは、紙を新しく一枚出した。
はじめの一行は、すぐに書けた。そちらへは行けません、と書いた。
そこで、筆が止まった。
二日かかること。付き添う人が二ついること。書いても、その先が続かない。
灯りの芯が、少し短くなった。
ノエは、筆を置いた。
置いてから、また持った。
線を四本、引いた。
四角になった。
ノエは、その下に書いた。
北は何、南は何、と書くこと。動かないものを選ぶこと。動かないものというのは、道と、沢と、石と、柵のこと。木は、切られることがあるので使わないほうがいいこと。
棒を用意すること。大人が両手を広げた長さのもの。
倒して、十で結び目を一つ作ること。
見た者を三人立てて、名前を並べること。
書いているうちに、紙が足りなくなった。
もう一枚、出した。
書き終えて、ノエは二枚を並べた。
字のほうが、ずっと多い。行けません、の一行が、いちばん上にある。
ノエは、その一行を見ていた。
それから、同じものをもう一度、はじめから書いた。
二枚目のほうは、棚に置いた。
次に同じことを聞かれたときに、写せばいい。
灯りをつけ直したとき、日が落ちていた。
芯が短くなっていくのに、油は足さなかった。
◇
戸を叩く音がした。
「ノエさん」
戸の外に、二つ影があった。
一つは大きくて、一つは小さい。
小さいほうが、外套の前を片手で押さえていた。
「ヤナさん」
「また、来ました」
ヤナの息が、白い。
肩が上下している。半日の道を、日の暮れるまでに歩ききったらしい。
ボルドは、棒を壁に立てかけた。
立てかけてから、縄を卓の上に置いた。
ごとん、とは鳴らなかった。縄なので、音がしなかった。
「結んであんぞ」
ボルドは、それだけ言って、戸の外へ出ていった。
◇
ノエは、縄を手に取った。
輪のあるほうを、左手に持つ。
太いこぶが、すぐに指に当たった。そこから先が、東の辺だった。
大きい結び目を、数えた。
三つ。そのあとに、小さいのが四つ。
「東は、棒で四十四です」
「そう言ってました」
ヤナが、椅子に座っていた。
父が作った椅子だった。
「東は、ムルグさんの畑です」
「ムルグさん」
「口が悪い人です。でも、母のことは悪く言わないんですよ」
ノエは、書いた。
次のこぶまで、指を送った。
「南は、三十二」
「柵です。古い柵で、もう誰も直していません。倒れてもいないです」
「──動かないもの、ですね」
「はい」
ヤナは、そこで少し笑った。
「あの人が、そう言いました。倒れんもんだけ書けって」
「……ボルドさんが、ですか」
「村長のベックさんが、途中で座ったんです。もう年だから」
ヤナは、両手を膝の上に置いた。
「そうしたら、あの人、座っとってもええから目は開けとけって」
ノエは、筆を止めた。
「ベックさん、怒りませんでしたか?」
「笑ってました」
ヤナは、そう言って、自分も少し笑った。
「終わるまで、ずっと開けてましたよ」
ノエは、次のこぶへ行った。
北が三十五で、村の道。西が四十四で、井戸へ下りる道。
四辺とも、数が食い違っていた。四角ではないのだろう。
「立ち会いは、三人です」
ヤナは、指を三本立てた。
「村長のベックさん。ムルグさん。西隣のダグさん」
「三人とも、見ていましたか」
「見てくれてました」
ヤナは、指を折った。
折ってから、もう一度、名前を言った。
順番が、さっきと同じだった。
◇
ノエは、最後の一行に来た。
筆を、持ち直した。
「お母さんの名前を、もう一度教えてくれますか?」
ヤナの手が、膝の上で止まった。
「……オーサ、です」
「オーサさん」
ノエは、書いた。
書いてから、紙を卓の上で回した。
ヤナのほうへ向けた。
ヤナは、それを見た。
見て、動かなかった。
「わたし、読めないんです」
「はい」
「母も、読めません」
ヤナは、紙の上のほうを、指でなぞった。
なぞって、途中で止めた。
「でも、ここにあるんですね」
「はい」
ヤナは、顔を上げた。
目のふちが、赤くなっていた。
「持って帰って、いいですか?」
「そのために書いたものです」
ヤナは、紙を両手で持ち上げた。
持ち上げてから、置いた。
置いて、四つに畳もうとして、途中でやめた。
畳まずに、外套の内側へ入れた。
◇
外に出ると、ゲルダが戸口に立っていた。
「あんた、今日は帰らんのだろう?」
「……はい」
「うちに泊まりな」
「そんな、野宿で大丈夫です」
「一人ぶんの湯なら、もう沸いとるよ」
ゲルダは、それだけ言って、家の中へ入っていった。
ヤナが、ノエのほうを見た。
ノエは、うなずいた。
◇
次の朝、ヤナが坂を下りていった。
その日の午後から、雪になった。
降りはじめると、早かった。
畑の株の切り口が、白くなって、それから見えなくなった。
道が、消えた。
村の中も外も、同じ白さになった。
三日、誰も坂を上がってこなかった。
◇
四日目、雪の上に馬の音がした。
ぼす、ぼす、という音だった。蹄が土を叩かない。
ハンナだった。
馬から下りて、鐙に載せていた足を二度振った。雪が落ちた。
「遅くなったね」
「雪でしたか?」
「宿から三日出られなかったよ。手紙だけなら軽いんだけどね、馬が進まないんじゃ話にならないね」
ハンナは、鞍のうしろの袋をほどいた。
「荷車なら、こんな日は端から出さないさ」
ノエは、井戸のほうを見た。
ボルドが、いた。
桶を提げて立っている。水を汲みに来たのだろうが、桶は空のままだった。
ハンナも、それを見た。
見て、袋の口を締め直した。
「……ボルドさん」
ハンナは、大きい声を出さなかった。
ボルドが、歩いてきた。
雪を踏む音が、いつもより短い。
◇
「家は、あったよ」
ハンナは、そう言った。
「板屋根で、戸が傾いてた。下を持ち上げないと開かない」
ボルドは、桶を提げたままだった。
「ミルダさんは、いたよ」
ボルドの喉が、動いた。
「生きてる。あたしが、この目で見てきた」
「……そうか」
「手に渡したよ。ちゃんと、手にね」
ハンナは、袋の紐を握り直した。
「言っとくけどね、あたしは読んでないよ」
「読めんのか?」
「荷札と、値と、村の名前。あたしが読めるのは、それぐらいさ」
ハンナは、ノエのほうを一度見た。
見て、すぐに戻した。
「あの人も、開けなかったよ」
「……開けない?」
「あたしが読めないって言ったら、膝の上に置いた。それきりだ」
ハンナは、掌を上に向けて、少し広げた。
「ずっと、置いたままだった」
ボルドが、桶を下ろした。
雪の上に置いたので、音がしなかった。
「……なんて言ってた?」
「私には、返せませんって」
ハンナは、それだけ言った。
「それだけだよ」
風が、屋根の雪を落とした。
どさ、と鳴って、それきり静かになった。
「でもね」
ハンナは、袋の口を締めた。
「あんたのことは、聞かれた」
ボルドの肩が、動いた。
「体を壊してないか、って。一人でやってるのか、って。あとは、忘れた」
「……」
「三つ聞かれて、あたしが答えられたのは一つだけだ」
ハンナは、少し笑った。
「体は壊してない。見りゃわかるからね」
◇
ボルドは、しばらく立っていた。
それから、桶を拾い上げた。
「……なら、ええ」
ノエは、その言葉を前に聞いたことがあった。
秋に、同じ人が、同じ言い方で言った。
あのときは、手紙を出さないという話だった。
ボルドが、歩きだした。
歩いて、三歩で止まった。
こちらを見なかった。
「──三年、何もせんかったのは、おれのほうも同じだ」
声が、大きかった。
いつもの、あの大きな声だった。
「あの女に、聞ける義理じゃねえんだ」
ボルドは、そのまま行った。
雪の上に、足跡が残った。
行きの足跡の、すぐ横だった。
◇
「ノエ」
ハンナが、袋の口を開けたままにしていた。
「はい」
「一つ、書いてくれないかい?」
「何をですか?」
「ボルド、って」
ノエは、紙の端を切って、そこに書いた。
四つの字だった。
ハンナは、それを近くで見た。それから遠ざけて、また近づけた。
「これで、ボルドか」
「はい」
「……ミルダさんの前で、あたしは、これがどこにあるのかも言えなかったんだ」
ハンナは、紙の端を畳んだ。
畳んで、袋の中へ入れた。
「次は、わかるようにしとくよ」
「いつでも、教えます」
「暇なときでいいよ」
ハンナは、馬の手綱をほどいた。
ほどいてから、一度こちらを見た。
「あんた、少し痩せたね」
「……そうですか?」
「食べな。食べないと、仕事なんてできないよ」
◇
ハンナは、手綱を握ったまま動かなかった。
雪が、鞍の上に薄く積もっている。
ハンナは、それを掌で払った。
「ノエ」
「はい」
「一つ、言ってないことがある」
ノエは、ハンナを見た。
ハンナは、坂のほうを見ていた。
「戸は、半分しか開かなかった」
「……はい」
「奥で、咳がしてた。年寄りの咳だよ。長いやつだ」
ハンナは、口の前で指を二本、上下させた。
「あたしは、中を見てない。見えるほど開いてなかったからね」
「……」
「あの人は、一度うしろを見た。それから、戸を閉めた」
ノエは、井戸のほうを見た。
ボルドの背中は、もう坂のほうへ曲がっていた。
「あの人に言うかどうかは、あんたが決めな」
「──どうして、僕がですか」
「あたしは、運ぶだけだからね」
ハンナは、鐙に足をかけた。
馬が、坂を下りていく。
蹄の音が、土を叩かない。
ノエは、そこに立っていた。
ボルドの足跡は、もう半分ほど埋まっていた。




