↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
23/52

23話

 天井の板を、何度も数えた。


 四枚あった。左から二枚目に節がある。そこだけ、色が濃い。


 母が、朝と晩に霧草を持ってきた。


 朝のぶんは、湯気が立っていた。晩のぶんは、立っていないこともあった。


 土間の薪が、減っていく。


 ボルドが置いていった袋のぶんは、三日でなくなった。


 四日目から、父が薪を割る音がした。


 五日目に、その音を、起き上がって聞いた。


 六日目の朝、床から出ても母は何も言わなかった。


 ノエは、外套を着た。


◇


 小屋の戸に、内側から霜が下りていた。


 指で押すと、そこだけ溶けて、指の形が残った。


 卓の上の束は、置いたままの形で三つに分かれていた。


 いちばん上の紙が、めくれて、また戻っている。


 ノエは、椅子に座った。


 座って、しばらく何もしなかった。


 外で、足音がした。


 井戸のほうから来る。歩幅が大きくて、片方の足音が重い。


「おい」


 ボルドだった。


 肩に棒を担いでいる。大人が両手を広げた長さの棒だった。もう一方の手に、縄を提げている。


「ボルドさん」


「あの、隣の村の畑な」


 ボルドは、戸の外に立ったままだった。


「四つの辺を測って、紙にするんだろう?」


「……はい」


「ガロンがやったみてえにやりゃいいんだろ」


 ノエは、板を膝に載せた。


 載せてから、また下ろした。


「縄は、四本に切って、端と端をつなぎます。つないだこぶが、辺と辺の仕切りです」


「ああ」


「輪のあるほうが、はじめです。輪から、東──」


「日の出るほうからだろうが」


 ボルドは、縄を肩に掛けた。


「棒を十倒したら、大きいこぶ。あまりは、小さいの。結ぶのは、おれじゃねえ。見とった奴に結ばせる」


 ノエは、口を開いた。


 開いたまま、何も言えなかった。


「二日で戻る」


「──待ってください」


「なんだ」


「どうして、ボルドさんが行ってくれるんですか?」


 ボルドは、井戸のほうを向いた。


 こちらを見なかった。


「刈るもんが、もうねえからな」


「……はい?」


「あれは、書いてもらったぶんだ」


 ボルドは、棒を持ち替えた。


「今度は、出してもらったぶんだよ」


 それだけ言って、坂のほうへ歩いていった。


◇


 次の朝、ボルドが坂を下りていった。


 棒の先が、朝の光に一度だけ光った。


 ノエは、門のところに立っていた。


 ゲルダも、いた。


 自分の家の戸口ではなく、道のそばまで出てきている。


 二人とも、坂の下を見ていた。


 道は、途中で曲がって、そこから先が見えない。


「突っ立ってても寒いだけだよ」


 ゲルダが言った。


「はい」


「入りな」


 ゲルダは、そう言って、自分は動かなかった。


◇


 一日目。


 井戸の水が、桶の中で薄く凍った。デュラが、それを指で割っていた。


 二日目。


 朝から曇った。


 ノエは、卓の束を開いた。


 いちばん上の一通を、もう一度読んだ。宿の主人の字で来たものだった。


 ──来られるか?


 ノエは、紙を新しく一枚出した。


 はじめの一行は、すぐに書けた。そちらへは行けません、と書いた。


 そこで、筆が止まった。


 二日かかること。付き添う人が二ついること。書いても、その先が続かない。


 灯りの芯が、少し短くなった。


 ノエは、筆を置いた。


 置いてから、また持った。


 線を四本、引いた。


 四角になった。


 ノエは、その下に書いた。


 北は何、南は何、と書くこと。動かないものを選ぶこと。動かないものというのは、道と、沢と、石と、柵のこと。木は、切られることがあるので使わないほうがいいこと。


 棒を用意すること。大人が両手を広げた長さのもの。


 倒して、十で結び目を一つ作ること。


 見た者を三人立てて、名前を並べること。


 書いているうちに、紙が足りなくなった。


 もう一枚、出した。


 書き終えて、ノエは二枚を並べた。


 字のほうが、ずっと多い。行けません、の一行が、いちばん上にある。


 ノエは、その一行を見ていた。


 それから、同じものをもう一度、はじめから書いた。


 二枚目のほうは、棚に置いた。


 次に同じことを聞かれたときに、写せばいい。


 灯りをつけ直したとき、日が落ちていた。


 芯が短くなっていくのに、油は足さなかった。


◇


 戸を叩く音がした。


「ノエさん」


 戸の外に、二つ影があった。


 一つは大きくて、一つは小さい。


 小さいほうが、外套の前を片手で押さえていた。


「ヤナさん」


「また、来ました」


 ヤナの息が、白い。


 肩が上下している。半日の道を、日の暮れるまでに歩ききったらしい。


 ボルドは、棒を壁に立てかけた。


 立てかけてから、縄を卓の上に置いた。


 ごとん、とは鳴らなかった。縄なので、音がしなかった。


「結んであんぞ」


 ボルドは、それだけ言って、戸の外へ出ていった。


◇


 ノエは、縄を手に取った。


 輪のあるほうを、左手に持つ。


 太いこぶが、すぐに指に当たった。そこから先が、東の辺だった。


 大きい結び目を、数えた。


 三つ。そのあとに、小さいのが四つ。


「東は、棒で四十四です」


「そう言ってました」


 ヤナが、椅子に座っていた。


 父が作った椅子だった。


「東は、ムルグさんの畑です」


「ムルグさん」


「口が悪い人です。でも、母のことは悪く言わないんですよ」


 ノエは、書いた。


 次のこぶまで、指を送った。


「南は、三十二」


「柵です。古い柵で、もう誰も直していません。倒れてもいないです」


「──動かないもの、ですね」


「はい」


 ヤナは、そこで少し笑った。


「あの人が、そう言いました。倒れんもんだけ書けって」


「……ボルドさんが、ですか」


「村長のベックさんが、途中で座ったんです。もう年だから」


 ヤナは、両手を膝の上に置いた。


「そうしたら、あの人、座っとってもええから目は開けとけって」


 ノエは、筆を止めた。


「ベックさん、怒りませんでしたか?」


「笑ってました」


 ヤナは、そう言って、自分も少し笑った。


「終わるまで、ずっと開けてましたよ」


 ノエは、次のこぶへ行った。


 北が三十五で、村の道。西が四十四で、井戸へ下りる道。


 四辺とも、数が食い違っていた。四角ではないのだろう。


「立ち会いは、三人です」


 ヤナは、指を三本立てた。


「村長のベックさん。ムルグさん。西隣のダグさん」


「三人とも、見ていましたか」


「見てくれてました」


 ヤナは、指を折った。


 折ってから、もう一度、名前を言った。


 順番が、さっきと同じだった。


◇


 ノエは、最後の一行に来た。


 筆を、持ち直した。


「お母さんの名前を、もう一度教えてくれますか?」


 ヤナの手が、膝の上で止まった。


「……オーサ、です」


「オーサさん」


 ノエは、書いた。


 書いてから、紙を卓の上で回した。


 ヤナのほうへ向けた。


 ヤナは、それを見た。


 見て、動かなかった。


「わたし、読めないんです」


「はい」


「母も、読めません」


 ヤナは、紙の上のほうを、指でなぞった。


 なぞって、途中で止めた。


「でも、ここにあるんですね」


「はい」


 ヤナは、顔を上げた。


 目のふちが、赤くなっていた。


「持って帰って、いいですか?」


「そのために書いたものです」


 ヤナは、紙を両手で持ち上げた。


 持ち上げてから、置いた。


 置いて、四つに畳もうとして、途中でやめた。


 畳まずに、外套の内側へ入れた。


◇


 外に出ると、ゲルダが戸口に立っていた。


「あんた、今日は帰らんのだろう?」


「……はい」


「うちに泊まりな」


「そんな、野宿で大丈夫です」


「一人ぶんの湯なら、もう沸いとるよ」


 ゲルダは、それだけ言って、家の中へ入っていった。


 ヤナが、ノエのほうを見た。


 ノエは、うなずいた。


◇


 次の朝、ヤナが坂を下りていった。


 その日の午後から、雪になった。


 降りはじめると、早かった。


 畑の株の切り口が、白くなって、それから見えなくなった。


 道が、消えた。


 村の中も外も、同じ白さになった。


 三日、誰も坂を上がってこなかった。


◇


 四日目、雪の上に馬の音がした。


 ぼす、ぼす、という音だった。蹄が土を叩かない。


 ハンナだった。


 馬から下りて、鐙に載せていた足を二度振った。雪が落ちた。


「遅くなったね」


「雪でしたか?」


「宿から三日出られなかったよ。手紙だけなら軽いんだけどね、馬が進まないんじゃ話にならないね」


 ハンナは、鞍のうしろの袋をほどいた。


「荷車なら、こんな日は端から出さないさ」


 ノエは、井戸のほうを見た。


 ボルドが、いた。


 桶を提げて立っている。水を汲みに来たのだろうが、桶は空のままだった。


 ハンナも、それを見た。


 見て、袋の口を締め直した。


「……ボルドさん」


 ハンナは、大きい声を出さなかった。


 ボルドが、歩いてきた。


 雪を踏む音が、いつもより短い。


◇


「家は、あったよ」


 ハンナは、そう言った。


「板屋根で、戸が傾いてた。下を持ち上げないと開かない」


 ボルドは、桶を提げたままだった。


「ミルダさんは、いたよ」


 ボルドの喉が、動いた。


「生きてる。あたしが、この目で見てきた」


「……そうか」


「手に渡したよ。ちゃんと、手にね」


 ハンナは、袋の紐を握り直した。


「言っとくけどね、あたしは読んでないよ」


「読めんのか?」


「荷札と、値と、村の名前。あたしが読めるのは、それぐらいさ」


 ハンナは、ノエのほうを一度見た。


 見て、すぐに戻した。


「あの人も、開けなかったよ」


「……開けない?」


「あたしが読めないって言ったら、膝の上に置いた。それきりだ」


 ハンナは、掌を上に向けて、少し広げた。


「ずっと、置いたままだった」


 ボルドが、桶を下ろした。


 雪の上に置いたので、音がしなかった。


「……なんて言ってた?」


「私には、返せませんって」


 ハンナは、それだけ言った。


「それだけだよ」


 風が、屋根の雪を落とした。


 どさ、と鳴って、それきり静かになった。


「でもね」


 ハンナは、袋の口を締めた。


「あんたのことは、聞かれた」


 ボルドの肩が、動いた。


「体を壊してないか、って。一人でやってるのか、って。あとは、忘れた」


「……」


「三つ聞かれて、あたしが答えられたのは一つだけだ」


 ハンナは、少し笑った。


「体は壊してない。見りゃわかるからね」


◇


 ボルドは、しばらく立っていた。


 それから、桶を拾い上げた。


「……なら、ええ」


 ノエは、その言葉を前に聞いたことがあった。


 秋に、同じ人が、同じ言い方で言った。


 あのときは、手紙を出さないという話だった。


 ボルドが、歩きだした。


 歩いて、三歩で止まった。


 こちらを見なかった。


「──三年、何もせんかったのは、おれのほうも同じだ」


 声が、大きかった。


 いつもの、あの大きな声だった。


「あの女に、聞ける義理じゃねえんだ」


 ボルドは、そのまま行った。


 雪の上に、足跡が残った。


 行きの足跡の、すぐ横だった。


◇


「ノエ」


 ハンナが、袋の口を開けたままにしていた。


「はい」


「一つ、書いてくれないかい?」


「何をですか?」


「ボルド、って」


 ノエは、紙の端を切って、そこに書いた。


 四つの字だった。


 ハンナは、それを近くで見た。それから遠ざけて、また近づけた。


「これで、ボルドか」


「はい」


「……ミルダさんの前で、あたしは、これがどこにあるのかも言えなかったんだ」


 ハンナは、紙の端を畳んだ。


 畳んで、袋の中へ入れた。


「次は、わかるようにしとくよ」


「いつでも、教えます」


「暇なときでいいよ」


 ハンナは、馬の手綱をほどいた。


 ほどいてから、一度こちらを見た。


「あんた、少し痩せたね」


「……そうですか?」


「食べな。食べないと、仕事なんてできないよ」


◇


 ハンナは、手綱を握ったまま動かなかった。


 雪が、鞍の上に薄く積もっている。


 ハンナは、それを掌で払った。


「ノエ」


「はい」


「一つ、言ってないことがある」


 ノエは、ハンナを見た。


 ハンナは、坂のほうを見ていた。


「戸は、半分しか開かなかった」


「……はい」


「奥で、咳がしてた。年寄りの咳だよ。長いやつだ」


 ハンナは、口の前で指を二本、上下させた。


「あたしは、中を見てない。見えるほど開いてなかったからね」


「……」


「あの人は、一度うしろを見た。それから、戸を閉めた」


 ノエは、井戸のほうを見た。


 ボルドの背中は、もう坂のほうへ曲がっていた。


「あの人に言うかどうかは、あんたが決めな」


「──どうして、僕がですか」


「あたしは、運ぶだけだからね」


 ハンナは、鐙に足をかけた。


 馬が、坂を下りていく。


 蹄の音が、土を叩かない。


 ノエは、そこに立っていた。


 ボルドの足跡は、もう半分ほど埋まっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。