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22/52

22話

 朝、戸の隙間から風が入るようになった。


 紙の端が鳴る。押さえておかないと、めくれて重なってしまう。


 ノエは、卓の上の束を三つに分けた。


 書いてほしいもの。読んでほしいもの。言伝だけのもの。


 分けても、高さはあまり変わらなかった。


 いちばん上の一通は、表に字があった。


 丸みのない、角ばった字だった。宿の主人が書いたものらしい、と、ハンナが言っていた。


 ノーラの村の、代筆屋へ。


 ノエは、そこを二度読んだ。


 名前は、書いていない。


 中は、四行だけだった。畑のことで書いてほしいものがある、去年から言われている、村に字を書く者がいない。


 最後の一行だけ、墨が濃かった。


 ──来られるか?


 ノエは、紙を畳んだ。


 畳んでから、束のいちばん下に入れた。


 いちばん下には、何も書いていない紙が一枚あった。


 線が四本、引いてある。四角になっている。


 霜の朝に引いた紙だった。


 ノエは、それを上に置き直した。


 置いてから、手を離した。


 あの人たちの村の名前を、ノエは聞いていなかった。


◇


 村長の家の卓は、朝のうちに拭いてあった。


 トバは、布を畳んでいるところだった。畳んでから、端をそろえて、もう一度畳んだ。


「十五枚は、まだあの箱の中ですか?」


「動かしとらんからな。上に何も載せとらんよ」


 トバは、布を棚に置いた。


「巡回は、穂が出るころじゃ。まだ先だぞ」


「はい」


「テッサが言うとった。村の外で代筆屋と呼ばれとるそうじゃな」


「……そうみたいです」


「ふむ」


 トバは、卓をひと撫でした。


 ノエは、板を膝に載せた。


 載せてから、下ろした。


「トバさん」


「なんじゃ」


「隣の村の名前を、知っていますか?」


 トバの手が、棚の前で止まった。


「リックじゃよ」


「リック」


「聞かんかったのか?」


「はい」


 トバは、こちらを見た。それから、顎を撫でた。


「あそこの畑を、測りたいんです」


「ほう」


「帳面に、お母さんの名前がありません。お父さんの名前だけで、そのお父さん三年帰ってきてないそうです」


「ゲルダと同じか」


「はい。だから、紙に書いて、畑を決めておきたいんです」


 トバは、卓のところへ来た。来て、椅子を引いた。引いてから、座らなかった。


「……でも、僕は行けません」


 トバは、咳をした。


「行くなら、今しかあるまいがな」


「今、ですか」


「歩いて半日じゃろう。行って、測って、また半日じゃ」


 トバは、指を二本立てた。


「どう急いでも、二日じゃ」


「……はい」


「それに、ノエは一人では行けん。誰かが付く。まぁ、ヨナスとマイラじゃろう」


 トバは、指をもう一本足した。それから、三本とも卓に置いた。


「春は起こしじゃ。夏は水を回す。秋は刈る。ヨナスとマイラを、二日どかせる季節が、どこにあると思う?」


 ノエは、卓の木目を見ていた。


「うちの村の十五枚は、すぐそこじゃった」


 トバは、こめかみを押さえた。


「鍬を置いて、畦を歩いて、また鍬を取った。それで済んだ。二日、村を空けるのとはわけが違う」


「はい」


「向こうの者も同じことじゃ。よその子どもに半日つき合うのは、手の空いとるあいだだけじゃろうな」


 ──今しかない。


 ──でも、二日だ。


◇


 その晩、粥の鍋が卓の真ん中に置いてあった。


 湯気が、真上に上がっている。


 粥を取り分けるマイラに、ノエは声をかけた。


「リックへ行きたいんです」


 母の手が、止まった。


 匙が、鍋の縁に当たって、かん、と鳴った。


「駄目だよ」


 声が、低かった。


「半日の距離です」


「それでも駄目だよ」


 母は、匙をノエの椀に入れた。粥が、縁のすぐ下まで来た。


 父は、何も言わなかった。


 言わずに、自分の椀を出した。


 母が、よそった。


 父は、それを食べた。


 食べ終えて、また椀を出した。


 母は、それにもよそった。


 父は、それも食べた。


 三度目に椀が出たとき、母が父の顔を見た。


「……あんた」


 父は、椀を出したままだった。


 母は、鍋を持ち上げて、竈へ戻した。


 置いた音が、大きかった。


◇


 次の朝、納屋のほうから音がしていた。


 しゅる、しゅる。


 戸の隙間から覗くと、父が藁を膝で押さえていた。手が、縄を撚っている。


 足元に、丸めた筵が一つ転がっていた。


 母は、その横で藁束をほどいていた。


「──おれが、連れて行く」


 父は、手を止めなかった。母のほうも見なかった。


「マイラも来てくれ」


「行かせないよ」


「半日のことだよ」


「半日も、歩ける子かい?」


 母の声が、また低くなった。


「向こうで一晩だよ。いったい、誰の家に上がるってんだい?」


 父は、撚った縄を筵に回した。


 回して、一度締めた。


「筵がある」


 母が、黙った。


 父は、縄をもう一巻き足した。


「駄目なら、背負って帰るさ」


 母が、藁を置いた。


 置いて、それを揃えはじめた。揃えなくてもいい藁だった。


 しばらく、しゅる、しゅる、という音だけがしていた。


「……朝は、冷えるよ」


 母は、そう言った。


 それから、藁束を抱えて納屋を出ていった。


 ノエのいるほうとは、反対の戸から出ていった。


 その晩、霧草の匂いが濃かった。


 いつもは、椀に一杯ぶんで火を落とす。


 母は、落とさなかった。鍋の底から茶色が上がってきても、匙を回しつづけていた。


◇


 風のない朝を待った。


 三日待って、四日目の朝、霜が薄かった。


 父が、棒を担いだ。大人が両手を広げた長さの棒だった。肩に載せると、先が門の柱に当たった。


 もう一方の肩に、縄で縛った筵があった。


 母も荷を背負っていた。中身のことは、何も言わなかった。


 ノエは、板と紙と筆を布に巻いて、胸に抱えた。


 出るというときになって、母がノエの前に来た。


 来て、荷の口を開けた。


 中に、白っぽい包みが一つ入っていた。


 霧草だった。


 母は、それを下のほうへ押しこんだ。押しこんでから、口の紐を締めた。


 締めるのに、少し手間取っていた。


 その間、母は何も言わなかった。


◇


 坂を下りる前に、ゲルダの家の前を通った。


 壁に、鍬が二本立てかけてある。


 短いほうの横に、大きいほうが並べてあった。柄の向きが、そろえてある。


 ゲルダは、戸口の前に立っていた。


 道の先を見ている。


 三人が通ると、こちらを向いた。


「どこへ行くんだい?」


「隣の村です。一晩、向こうに泊まります」


「隣ねえ」


 ゲルダは、父を見た。それから、母を見た。


 母は、荷の紐を握り直した。


「……火は、見とくよ」


「いいよ。落としていくから」


「落としたら、帰ったときに冷えとるだろう?」


 母が、何か言いかけた。


 ゲルダは、もう道の先を向いていた。


 門の柱に、土埃の手形が二つ残っていた。


 ノエは、そこに手をつかなかった。


 一歩。二歩。


 三歩目で、坂が下りはじめた。


◇


 街道は、硬かった。


 霜が溶けきっていない。踏むと、しゃりと鳴って、その下で土が鳴らない。


 両側に、刈ったあとの畑が続いていた。


 風が渡っていく。


 鳴らない。


 父が、先を歩いた。棒が、肩の上でゆっくり上下している。


 母は、ノエのうしろにいた。


 ノエは、歩けた。


 思ったより、歩けた。


 沢に、丸太の橋がかかっていた。


 父が先に渡って、向こうで足を止めた。止めて、棒の先をこちらへ差し出した。


 ノエは、それを掴んで渡った。


 丸太は思ったほど揺れなかった。


「持とうか?」


 母が、父の棒に手を伸ばした。


「いいよ」


 父は、それだけ言って、棒を反対の肩に移した。


 向こうから、人が来た。


 男が一人。背中に、麻袋を負っている。袋の口から、藁が出ていた。


 見たことのない顔だった。


 男は、父に一度うなずいた。父も、うなずいた。


 それだけで、すれ違った。


 ノエは、うしろを振り返った。


 男の背中が、だんだん小さくなっていく。


 どこの村の人なのか、わからなかった。


 道が、一度上がった。


 上りきったところで、足が止まった。


 膝に、手をついた。


「休むかい」


 母の声だった。


「……いえ」


 ノエはまた歩いた。


 歩きながら、うしろの足音を聞いていた。


 母の足音は、ノエより遅い。


 村では、いつもノエのほうが置いていかれるのに。


 母はそのことを言わなかった。


 父が、前を向いたまま言った。


「ノエ」


「はい」


「紙は、濡れてないか?」


「濡れていません」


「そうか」


 父は、それきり黙った。


 しばらく歩いて、また言った。


「おまえが歩けなくなったら、おれが歩くよ」


 父は、振り返らなかった。


「それだけのことだからな」


◇


 日が、いちばん高いところに来た。


 道の両側に、まだ畑がある。誰の畑かはわからない。


 刈ったあとの株が、どこまでも同じ灰色で続いていた。


 背中が、濡れていた。


 外套の内側が冷たい。風が来ると、そこだけが冷える。


 うしろで、母が何か言った。


 言葉の形にならなかった。


 ノエは、布に巻いた紙を持ち替えようとして、落とした。


 布が、道の上でほどけた。


 母が、拾った。


 拾って、ノエの顔を見た。


 見ただけだった。


 父が、立ち止まった。


 前を見た。


 それから、うしろを見た。


 道は、前にも後ろにも同じだけ続いている。


 どちらにも、屋根はなかった。


「──ちょうど真ん中ぐらいだな」


 父は、そう言った。


「戻るよ」


 母が言った。


 ノエは、口を開いた。


 開いて、声が出なかった。


 かわりに、前へ足を出した。


 出したところで、膝が折れた。


 道の土が、頬に当たった。


 冷たくなかった。


 変だと思った。


 父が、道にしゃがんだ。


 膝が、すぐ目の前にあった。膝の横に、石が一つ落ちている。


 母の手が、ノエの肩を掴んだ。


 顔がこわかった。力も強かった。


◇


 父の背中は、厚かった。


 揺れるたびに、外套の匂いがする。土と、汗と、藁の匂いだった。


 道が、うしろへ流れていく。


 自分で歩いていたときより、遥かに速かった。


 棒は、母が持っていた。


 荷も、筵も、母が負っていた。


 小さい人が、全部を持って、先を歩いている。


 丸太の橋を渡るとき、母は棒を先に向こうへ投げた。


 投げてから、自分が渡った。


 一度だけ、母が振り返った。


 振り返って、手をノエの額に当てた。


 その手が、冷たくて気持ちよかった。


 母は、何も言わずに前を向いた。


 前を向いてから、歩く速さを上げた。


 ──くやしかった。


 歩けなかったことが、ではなかった。


 紙を、自分で持てなかった。


 板も、筆も、今は母の荷の中にある。


 書きに行くところだったのに、書くものを、一つも持っていない。


 ヤナとオーサは、この道を歩いてきた。


 歩いてきて、豆を置いて、その日のうちに帰っていった。


 オーサは、二度、頭を下げた。二度目のほうが深かった。


 あの人たちの畑を、測りに行くところだった。


 ノエは、父の外套を掴んだ。


 掴んだ指が、思ったほど曲がらなかった。


 村が近くなって、薪を割る音がした。


◇


 いつ着いたのか、わからなかった。


 天井の板が見えた。家の天井だった。


 鍋の音がしていた。


 ことこと、ことこと。


 霧草の匂いがした。飲む前から、口の中が苦くなる匂いだった。


 母が、竈の前にいた。匙で、何かを潰している。


 背中しか見えなかった。


「……ごめんなさい」


 母は、振り向かなかった。


「飲んだら、寝るんだよ」


 匙の音が、少しのあいだ止まった。


 止まって、また動きはじめた。


◇


 ノエは、天井を見ていた。


 ヤナへの手紙を、頭の中で組み立てた。


 はじめの一行は、すぐに決まった。四至のことを書けばいい。


 二行目も決まった。北は何、南は何、と書くこと。動かないものを選ぶこと。


 三行目で止まった。


 測るのは誰か、というところで止まった。


 行けません、と書けばよかった。


 書けばよかったのに、その一行のあとが、出てこない。


 戸が、開いた。


 寒い風が、床の上を走った。


 ボルドだった。


 手に、麻袋を提げている。


「起きんでええ」


 ボルドは、袋を土間に置いた。ごとん、と鳴った。


「薪だ」


 母が、立ち上がった。


「そんな、うちは──」


「割ったら、余ったんだ」


 ボルドは、それだけ言って、戸のほうへ戻った。


 戻って、敷居のところで止まった。


 こちらを見なかった。


「……ノエ」


「はい」


「あの手紙は」


 声が、いつもより小さかった。


「いつ、着く?」


 ノエは、答えられなかった。


 ハンナがベルンを通るのは、行きの道だったはずだった。


 それがいつだったのか、指で数えようとして、途中でわからなくなった。


 ボルドは、返事を待たずに戸を閉めた。


 閉まる音が、いつもより静かだった。


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