22話
朝、戸の隙間から風が入るようになった。
紙の端が鳴る。押さえておかないと、めくれて重なってしまう。
ノエは、卓の上の束を三つに分けた。
書いてほしいもの。読んでほしいもの。言伝だけのもの。
分けても、高さはあまり変わらなかった。
いちばん上の一通は、表に字があった。
丸みのない、角ばった字だった。宿の主人が書いたものらしい、と、ハンナが言っていた。
ノーラの村の、代筆屋へ。
ノエは、そこを二度読んだ。
名前は、書いていない。
中は、四行だけだった。畑のことで書いてほしいものがある、去年から言われている、村に字を書く者がいない。
最後の一行だけ、墨が濃かった。
──来られるか?
ノエは、紙を畳んだ。
畳んでから、束のいちばん下に入れた。
いちばん下には、何も書いていない紙が一枚あった。
線が四本、引いてある。四角になっている。
霜の朝に引いた紙だった。
ノエは、それを上に置き直した。
置いてから、手を離した。
あの人たちの村の名前を、ノエは聞いていなかった。
◇
村長の家の卓は、朝のうちに拭いてあった。
トバは、布を畳んでいるところだった。畳んでから、端をそろえて、もう一度畳んだ。
「十五枚は、まだあの箱の中ですか?」
「動かしとらんからな。上に何も載せとらんよ」
トバは、布を棚に置いた。
「巡回は、穂が出るころじゃ。まだ先だぞ」
「はい」
「テッサが言うとった。村の外で代筆屋と呼ばれとるそうじゃな」
「……そうみたいです」
「ふむ」
トバは、卓をひと撫でした。
ノエは、板を膝に載せた。
載せてから、下ろした。
「トバさん」
「なんじゃ」
「隣の村の名前を、知っていますか?」
トバの手が、棚の前で止まった。
「リックじゃよ」
「リック」
「聞かんかったのか?」
「はい」
トバは、こちらを見た。それから、顎を撫でた。
「あそこの畑を、測りたいんです」
「ほう」
「帳面に、お母さんの名前がありません。お父さんの名前だけで、そのお父さん三年帰ってきてないそうです」
「ゲルダと同じか」
「はい。だから、紙に書いて、畑を決めておきたいんです」
トバは、卓のところへ来た。来て、椅子を引いた。引いてから、座らなかった。
「……でも、僕は行けません」
トバは、咳をした。
「行くなら、今しかあるまいがな」
「今、ですか」
「歩いて半日じゃろう。行って、測って、また半日じゃ」
トバは、指を二本立てた。
「どう急いでも、二日じゃ」
「……はい」
「それに、ノエは一人では行けん。誰かが付く。まぁ、ヨナスとマイラじゃろう」
トバは、指をもう一本足した。それから、三本とも卓に置いた。
「春は起こしじゃ。夏は水を回す。秋は刈る。ヨナスとマイラを、二日どかせる季節が、どこにあると思う?」
ノエは、卓の木目を見ていた。
「うちの村の十五枚は、すぐそこじゃった」
トバは、こめかみを押さえた。
「鍬を置いて、畦を歩いて、また鍬を取った。それで済んだ。二日、村を空けるのとはわけが違う」
「はい」
「向こうの者も同じことじゃ。よその子どもに半日つき合うのは、手の空いとるあいだだけじゃろうな」
──今しかない。
──でも、二日だ。
◇
その晩、粥の鍋が卓の真ん中に置いてあった。
湯気が、真上に上がっている。
粥を取り分けるマイラに、ノエは声をかけた。
「リックへ行きたいんです」
母の手が、止まった。
匙が、鍋の縁に当たって、かん、と鳴った。
「駄目だよ」
声が、低かった。
「半日の距離です」
「それでも駄目だよ」
母は、匙をノエの椀に入れた。粥が、縁のすぐ下まで来た。
父は、何も言わなかった。
言わずに、自分の椀を出した。
母が、よそった。
父は、それを食べた。
食べ終えて、また椀を出した。
母は、それにもよそった。
父は、それも食べた。
三度目に椀が出たとき、母が父の顔を見た。
「……あんた」
父は、椀を出したままだった。
母は、鍋を持ち上げて、竈へ戻した。
置いた音が、大きかった。
◇
次の朝、納屋のほうから音がしていた。
しゅる、しゅる。
戸の隙間から覗くと、父が藁を膝で押さえていた。手が、縄を撚っている。
足元に、丸めた筵が一つ転がっていた。
母は、その横で藁束をほどいていた。
「──おれが、連れて行く」
父は、手を止めなかった。母のほうも見なかった。
「マイラも来てくれ」
「行かせないよ」
「半日のことだよ」
「半日も、歩ける子かい?」
母の声が、また低くなった。
「向こうで一晩だよ。いったい、誰の家に上がるってんだい?」
父は、撚った縄を筵に回した。
回して、一度締めた。
「筵がある」
母が、黙った。
父は、縄をもう一巻き足した。
「駄目なら、背負って帰るさ」
母が、藁を置いた。
置いて、それを揃えはじめた。揃えなくてもいい藁だった。
しばらく、しゅる、しゅる、という音だけがしていた。
「……朝は、冷えるよ」
母は、そう言った。
それから、藁束を抱えて納屋を出ていった。
ノエのいるほうとは、反対の戸から出ていった。
その晩、霧草の匂いが濃かった。
いつもは、椀に一杯ぶんで火を落とす。
母は、落とさなかった。鍋の底から茶色が上がってきても、匙を回しつづけていた。
◇
風のない朝を待った。
三日待って、四日目の朝、霜が薄かった。
父が、棒を担いだ。大人が両手を広げた長さの棒だった。肩に載せると、先が門の柱に当たった。
もう一方の肩に、縄で縛った筵があった。
母も荷を背負っていた。中身のことは、何も言わなかった。
ノエは、板と紙と筆を布に巻いて、胸に抱えた。
出るというときになって、母がノエの前に来た。
来て、荷の口を開けた。
中に、白っぽい包みが一つ入っていた。
霧草だった。
母は、それを下のほうへ押しこんだ。押しこんでから、口の紐を締めた。
締めるのに、少し手間取っていた。
その間、母は何も言わなかった。
◇
坂を下りる前に、ゲルダの家の前を通った。
壁に、鍬が二本立てかけてある。
短いほうの横に、大きいほうが並べてあった。柄の向きが、そろえてある。
ゲルダは、戸口の前に立っていた。
道の先を見ている。
三人が通ると、こちらを向いた。
「どこへ行くんだい?」
「隣の村です。一晩、向こうに泊まります」
「隣ねえ」
ゲルダは、父を見た。それから、母を見た。
母は、荷の紐を握り直した。
「……火は、見とくよ」
「いいよ。落としていくから」
「落としたら、帰ったときに冷えとるだろう?」
母が、何か言いかけた。
ゲルダは、もう道の先を向いていた。
門の柱に、土埃の手形が二つ残っていた。
ノエは、そこに手をつかなかった。
一歩。二歩。
三歩目で、坂が下りはじめた。
◇
街道は、硬かった。
霜が溶けきっていない。踏むと、しゃりと鳴って、その下で土が鳴らない。
両側に、刈ったあとの畑が続いていた。
風が渡っていく。
鳴らない。
父が、先を歩いた。棒が、肩の上でゆっくり上下している。
母は、ノエのうしろにいた。
ノエは、歩けた。
思ったより、歩けた。
沢に、丸太の橋がかかっていた。
父が先に渡って、向こうで足を止めた。止めて、棒の先をこちらへ差し出した。
ノエは、それを掴んで渡った。
丸太は思ったほど揺れなかった。
「持とうか?」
母が、父の棒に手を伸ばした。
「いいよ」
父は、それだけ言って、棒を反対の肩に移した。
向こうから、人が来た。
男が一人。背中に、麻袋を負っている。袋の口から、藁が出ていた。
見たことのない顔だった。
男は、父に一度うなずいた。父も、うなずいた。
それだけで、すれ違った。
ノエは、うしろを振り返った。
男の背中が、だんだん小さくなっていく。
どこの村の人なのか、わからなかった。
道が、一度上がった。
上りきったところで、足が止まった。
膝に、手をついた。
「休むかい」
母の声だった。
「……いえ」
ノエはまた歩いた。
歩きながら、うしろの足音を聞いていた。
母の足音は、ノエより遅い。
村では、いつもノエのほうが置いていかれるのに。
母はそのことを言わなかった。
父が、前を向いたまま言った。
「ノエ」
「はい」
「紙は、濡れてないか?」
「濡れていません」
「そうか」
父は、それきり黙った。
しばらく歩いて、また言った。
「おまえが歩けなくなったら、おれが歩くよ」
父は、振り返らなかった。
「それだけのことだからな」
◇
日が、いちばん高いところに来た。
道の両側に、まだ畑がある。誰の畑かはわからない。
刈ったあとの株が、どこまでも同じ灰色で続いていた。
背中が、濡れていた。
外套の内側が冷たい。風が来ると、そこだけが冷える。
うしろで、母が何か言った。
言葉の形にならなかった。
ノエは、布に巻いた紙を持ち替えようとして、落とした。
布が、道の上でほどけた。
母が、拾った。
拾って、ノエの顔を見た。
見ただけだった。
父が、立ち止まった。
前を見た。
それから、うしろを見た。
道は、前にも後ろにも同じだけ続いている。
どちらにも、屋根はなかった。
「──ちょうど真ん中ぐらいだな」
父は、そう言った。
「戻るよ」
母が言った。
ノエは、口を開いた。
開いて、声が出なかった。
かわりに、前へ足を出した。
出したところで、膝が折れた。
道の土が、頬に当たった。
冷たくなかった。
変だと思った。
父が、道にしゃがんだ。
膝が、すぐ目の前にあった。膝の横に、石が一つ落ちている。
母の手が、ノエの肩を掴んだ。
顔がこわかった。力も強かった。
◇
父の背中は、厚かった。
揺れるたびに、外套の匂いがする。土と、汗と、藁の匂いだった。
道が、うしろへ流れていく。
自分で歩いていたときより、遥かに速かった。
棒は、母が持っていた。
荷も、筵も、母が負っていた。
小さい人が、全部を持って、先を歩いている。
丸太の橋を渡るとき、母は棒を先に向こうへ投げた。
投げてから、自分が渡った。
一度だけ、母が振り返った。
振り返って、手をノエの額に当てた。
その手が、冷たくて気持ちよかった。
母は、何も言わずに前を向いた。
前を向いてから、歩く速さを上げた。
──くやしかった。
歩けなかったことが、ではなかった。
紙を、自分で持てなかった。
板も、筆も、今は母の荷の中にある。
書きに行くところだったのに、書くものを、一つも持っていない。
ヤナとオーサは、この道を歩いてきた。
歩いてきて、豆を置いて、その日のうちに帰っていった。
オーサは、二度、頭を下げた。二度目のほうが深かった。
あの人たちの畑を、測りに行くところだった。
ノエは、父の外套を掴んだ。
掴んだ指が、思ったほど曲がらなかった。
村が近くなって、薪を割る音がした。
◇
いつ着いたのか、わからなかった。
天井の板が見えた。家の天井だった。
鍋の音がしていた。
ことこと、ことこと。
霧草の匂いがした。飲む前から、口の中が苦くなる匂いだった。
母が、竈の前にいた。匙で、何かを潰している。
背中しか見えなかった。
「……ごめんなさい」
母は、振り向かなかった。
「飲んだら、寝るんだよ」
匙の音が、少しのあいだ止まった。
止まって、また動きはじめた。
◇
ノエは、天井を見ていた。
ヤナへの手紙を、頭の中で組み立てた。
はじめの一行は、すぐに決まった。四至のことを書けばいい。
二行目も決まった。北は何、南は何、と書くこと。動かないものを選ぶこと。
三行目で止まった。
測るのは誰か、というところで止まった。
行けません、と書けばよかった。
書けばよかったのに、その一行のあとが、出てこない。
戸が、開いた。
寒い風が、床の上を走った。
ボルドだった。
手に、麻袋を提げている。
「起きんでええ」
ボルドは、袋を土間に置いた。ごとん、と鳴った。
「薪だ」
母が、立ち上がった。
「そんな、うちは──」
「割ったら、余ったんだ」
ボルドは、それだけ言って、戸のほうへ戻った。
戻って、敷居のところで止まった。
こちらを見なかった。
「……ノエ」
「はい」
「あの手紙は」
声が、いつもより小さかった。
「いつ、着く?」
ノエは、答えられなかった。
ハンナがベルンを通るのは、行きの道だったはずだった。
それがいつだったのか、指で数えようとして、途中でわからなくなった。
ボルドは、返事を待たずに戸を閉めた。
閉まる音が、いつもより静かだった。




