21話
朝、水桶の縁に薄く氷が張るようになった。
指で押すと、かん、と鳴って割れる。割れた下から、水が黒く見えた。
刈ったあとの畑は、株の切り口が灰色に変わっている。白かったのは、刈った日のうちだけだった。
坂の下から、人が上がってきた。
歩幅が大きい。肩に、何かを担いでいる。
「ノエさん」
ガロンだった。
肩の上に、丸めた筵が一つ載っている。それだけを担いで、四日歩いてきたらしい。
「届出、ちゃんと通ったよ。ありがとう」
ガロンは、筵を地面に下ろした。
下ろすときに、一度、肩を回した。
「筵があるとないとじゃ、ずいぶん違った」
「……はい」
「この前は、持たずに出ちまったんだ」
ガロンは、そこで少し笑った。
「そこまで、頭が回らんかった」
それから、懐に手を入れた。出てきたのは、四つに畳んだ紙だった。折り目のところが、白く毛羽立っている。
「読んでもらえるか?」
ノエは、受け取った。
紙が、少し湿っている。懐に入れて歩いてきたからだろう。
「ラント村、ガロンの一枚」
「ああ」
「北は、村道。南は、沢の曲がり。西は、メッカの畑」
ガロンが、うなずいた。うなずくだけで、口は開かない。
「東は、石の壁。高さ、腹まで。入植一年目に積んだもの」
ノエは、そこで一度、指を止めた。
その下に、もう一行あった。
「──動かんもの」
ガロンの喉が、動いた。
「そう書いてあるのか?」
「はい」
「そいつは、俺が言ったやつだ」
ガロンは、紙を覗きこんだ。
字は読めない。それでも、いちばん下のところをじっと見ていた。
判が捺してある。赤い。
「立ち会いは、ラントさん、メッカさん、ゴサさんです」
「ああ」
ガロンは、紙を受け取った。
受け取って、また四つに畳んだ。折り目のとおりに畳んだので、音がしなかった。
「あの壁は、親父と二人で積んだんだ」
「はい」
「石を見つけるのが、うまい人でな。どうやるのか、一度だけ聞いたことがある」
ガロンは、筵のほうを見た。
「そのうちわかる、としか言わんかった」
風が、刈ったあとの畑を渡っていく。
鳴らない。
「──まだ、わからんままなんだ」
ガロンは、それと礼だけもう一度言って、筵を担ぎ直した。
肩に載せるのに、二度かかった。
◇
その三日あと、坂の下から車の音が上がってきた。
がらがら、がらがら。
赤い頭巾が、灰色の畑の上を動いてくる。
ノエは、小屋の戸を開けたまま、それを見ていた。
カルスは、門の柱の手前で馬を止めた。御者台から下りて、腰を伸ばす。
「貼ってきましたで」
「ありがとうございます」
「四隅に、釘を刺してきました」
カルスは、手で四角を作った。
「ああいう板は、紙がずいぶん重なっとります。役所が整理しとるんですがね、古いのの上に、新しいのを貼るしかない。板が厚くなっとりました」
「はい」
「わしも、上に重ねましたで。ほかにやりようがなかったですから」
ノエは、うなずいた。
うなずいて、それから気づいた。
カルスが、まだ帰り支度をしていない。
「……何かあったんですか?」
カルスは、頭巾を脱いだ。
髪をかき回して、かぶり直した。
「十日ばかりして、都を出る前に、もう一度見に行きましたで」
「はい」
「上に、何も貼られとらんかったです」
「……」
「あの板は、空にしても三日で埋まります。釘も限りがある。空いとるところがなければ、誰かが上から貼るもんで」
カルスは、板の四隅を指でつつく仕草をした。
「そういえば、釘が四本増えとりましたな」
「増えてた、ですか?」
「板の釘は、ずっと使われとるもんでしょうな。どれも錆が浮いとります」
カルスの指が、止まった。
「四本だけ、錆びとらん釘があったと思います」
ノエは、何も言わなかった。
カルスも、それ以上は言わなかった。
「──まあ、貼ってはあります。それだけは、確かですで」
カルスは、馬のほうへ戻っていった。
戻る途中で、一度だけ坂の下を見た。
◇
霜が降りた朝だった。
畦道の草が、白く立っている。踏むと、しゃりしゃりと鳴った。
門のところに、人が二人立っていた。
中年の女性が一人と、その半分くらいの年の若い女が一人。
中年のほうは、外套の前を両手で合わせている。裾に、泥が跳ねていた。
若いほうが、こちらを見た。
「──代筆屋さんは、いますか?」
ノエは、足を止めた。
門の柱に、手をついた。
「代筆屋さん、ですか?」
「はい。ノーラの村に、代筆屋がいると聞いてきました」
若い女は、母親のほうを一度見た。
見てから、もう一度言った。
「文字を書く人です」
◇
小屋の中で、二人は立ったままだった。
「かけてください」
ノエは、椅子を示した。
父が作った椅子だった。座るところの板が広い。背もたれの上のところだけ、手垢で色が濃くなっている。
年かさのほうが、腰を下ろした。
浅く座って、膝の上で手を組んだ。外套の前は、合わせたままだった。
若いほうは、その横に立った。
「隣の村から来ました。ヤナといいます。こちらは、母のオーサです」
オーサが、頭を下げた。
深かった。戻すのに、少し時間がかかった。
「ここにはいませんが、父は、ロイクといいます」
ヤナは、そこで一度、言葉を切った。
目をすっと伏せる。
「三年前に、稼ぎに出たきり戻ってきません」
ノエは、板の上の紙に手を置いた。
置いただけで、まだ書かなかった。
「うちの畑について、帳面には、父の名前で載っています。母の名前は、どこにも載っていませんでした」
「……はい」
「去年の秋に、代官所の人に言われていました。名前の人がいないなら、畑は領主さまに還すほかないと」
ヤナの声が、そこで少し速くなった。
「でも、今年の秋に、その人が来て言ったんです。ノーラの村に、同じ例があり、決まりが変わったって」
「……」
「失せ人の所在がわかるまでは、還すことにはしない。それが管内の決まりになった、と」
オーサの手が、膝の上で動いた。
組んでいた指が、一度ほどけて、また組み直された。
「うちの畑は、うちの畑のままです」
ヤナは、まっすぐこちらを見ていた。
「誰が決まりを変えたのかを、代官所の人に聞きました。ノーラの代筆屋がよこした手紙がきっかけだと言われました」
ノエは、筆を持っていなかった。
持っていなかったことに、そこで気づいた。
「──顔をみて、お礼を言いに来ました」
「僕は」
声が、思ったより小さかった。
「あなたたちのことを、一行も書いていません」
「はい、知っています」
ヤナは、うなずいた。
ノエの目をまっすぐ見据えて、柔らかく微笑んだ。
「知っていますけど、あなたのおかげでうちの畑は残りました。ありがとうございます」
◇
オーサが、外套の前から手を離した。
中に、布が挟んであった。
たたんだ布の端を掴んで、卓の上に置く。置くときに、両手を使った。
音がしなかった。
ノエは、それを見た。
小さい包みだった。握り拳が二つ入るくらいのものだった。
「母さん」
ヤナが、そう言った。
言っただけで、止めなかった。
オーサが、包みの端を開いた。
中は、豆だった。
「……今年の麦は、うちらが食べるだけで精一杯で、お持ちできませんでした」
ヤナの声が、低くなった。
「持ってこられるものが、これしかありませんでした」
オーサが、また頭を下げた。
さっきより、深かった。
そのまま、しばらく上げなかった。
「僕は、手紙を書いても対価をもらっていません」
ノエは、そう言った。
「村の人からも、もらっていませんから」
オーサが、顔を上げた。
上げて、包みのほうへ手を伸ばした。伸ばして、途中で止めた。
指が、布の端にかかったまま動かない。
引っこめるのでもなく、押すのでもなかった。
ノエは、その手を見ていた。
爪が、短い。土が入っている。指の節が、母のものより太い。
出すものがないんだよ。
そう言った人が、この村にいた。
ノエは、両手を出した。
包みを、両手で受け取った。
軽かった。両手で持つほどの重さではなかった。
オーサが、息を吐いた。
長かった。
◇
「一つだけ、聞かせてください」
ノエは、板を膝に載せた。
「お宅の畑の、四至は測ってありますか」
「しいし、ですか?」
ヤナが、聞き返した。
「畑の四つの辺が、どんな長さで、何に接しているかです。北は何、南は何、と書いておくんです」
ノエは、紙に線を四本引いた。
四角になった。
「動かないものを、辺ごとに書きます。道とか、沢とか、石とか。それを紙にして、村の人に三人、立ち会ってもらいます」
「それで、どうなるんですか?」
「帳面に名前がなくても、その畑が誰の畑かを、紙のほうが言ってくれます」
ヤナが、母親のほうを見た。
オーサは、卓を見ていた。
「……うちの村には、書ける人がいません」
「はい」
「あなたに頼んだら、書いてもらえますか」
ノエは、答えなかった。
答えるかわりに、筆を取った。
「お母さんの名前を、もう一度教えてください」
オーサが、顔を上げた。
こちらを見た。目のふちが、赤くなっている。
「……オーサ」
「オーサさん」
ノエは、書いた。
書いてから、その一行を見せた。
読めないはずだった。それでも、オーサはそこを見ていた。
長いあいだ見ていた。
◇
二人が坂を下りていったあと、井戸のところにデュラが立っていた。
桶を引き上げる手を、止めている。
「……隣の村の者か」
「はい」
「何しに来た?」
「畑が残ったお礼だそうです」
デュラは、桶を縁に置いた。
置いてから、指を折った。折ってから、折り直した。
「うちの村の手紙で、か」
「そうみたいです」
デュラは、それ以上聞かなかった。
聞かずに、水を汲んで帰っていった。
◇
その日の夕方、門のところで柱を叩く音がした。
ぱん、ぱん。
平手だった。
「ノエ」
ハンナが立っていた。
そのうしろに、馬が一頭いる。荷馬車がない。鞍のうしろに、麻袋が一つ括りつけてあるだけだった。
「ちょっと先になる、って言ったろ?」
「言いましたね」
「──手紙が溜まったから、思ったより早いけど来たよ」
ハンナは、手綱を門の柱に巻いた。二度巻いて、端を挟んだ。
「荷は親父が回してる。あたしは今回手紙だけだからね。急ぐもんは、荷車がないほうが早いよ」
ハンナは、袋の縄をほどいた。
指が、一度も迷わない。
中から、布に巻いた紙の束が出てきた。厚い。
「これ、全部うちにですか?」
「言伝も入ってる。街道の宿で三つ。ドーゼで二つ。あんたに書かせたいって話だ」
「……僕は、村を出られません」
「知ってるよ」
ハンナは、束を卓に置いた。
「だから、あたしが持ってきたんだ」
ノエは、束に手を伸ばした。
伸ばした手を、ハンナが掴んだ。
「え?」
「手、見せてみな」
ハンナは、ノエの右手を裏返した。
自分の顔の高さまで持ち上げて、しばらく見ていた。
「たこだね」
「たこ、ですか?」
「あたしのは、ここだよ」
ハンナは、自分の掌を見せた。指の付け根のところが、まっ平らに硬くなっている。
「あんたのは、ここ」
中指の外側をハンナの指が柔らかく撫でた。第一関節のあたりが、押しても凹まない。
いつからあったのか、わからなかった。
「──仕事をする人間の手だよ」
ハンナは、ニッと笑って手を離した。
離してから、卓の束を顎で指した。
「で、どれからやる?」
◇
「一通、先に出したいのがあります」
ノエは、棚の上から紙を一つ取ってきた。
夏のあいだ、そこに置いたままだった紙だった。埃が、上の縁に薄く積もっている。
ノエは、それを袖で払った。
「ベルンの村です」
「ベルンなら、通り道だね」
ハンナは、それを受け取った。
受け取ってから、宛名のところを見た。
「……字が多いね」
「屋根と、戸のことが書いてあります」
「家の場所か」
「はい。板屋根で、戸が傾いていて、下を持ち上げないと開かない家です」
ハンナは、紙を袋に入れた。
縄を巻いて、二度結んだ。
「明日の朝に出るよ」
◇
坂を下りる前に、ノエはゲルダの家の前を通った。
壁に、鍬が二本立てかけてある。
柄の短いほうは、いつもどおりだった。先が丸くすり減っていて、土がついている。
もう一本は、外に出してあった。
刃の付け根から柄にかけて、蜘蛛の巣がかかっていたはずだった。
無くなっている。
濡れていた。洗ったばかりらしい。日が当たっているところだけ、白く乾きかけていた。
戸は、閉まっていた。
ノエは、声をかけなかった。
かけずに、道を下りた。
◇
次の朝、門のところにハンナがいた。
鞍のうしろの袋を、縄で締め直している。締めてから、一度、掌で叩いた。
「じゃあね」
「はい、また」
ハンナは、鐙に足をかけた。
馬が、坂を下りていく。
蹄の音が、だんだん小さくなった。土が硬いので、思ったより長く聞こえている。
ノエは、門の柱に手をついた。
ついてから、外へ出た。
一歩。二歩。
そこで止まった。
坂の下まで、道が続いている。
もう、何も動いていない。
村の名前を知らない人が、この道を上がってきた。
ノエの名前も知らないまま、帰っていった。
書いてもいないものが、どこかで誰かの役に立って、それを自分はあとから聞いた。
──こわかった。
ノエは、門の内側へ戻った。
柱に、土埃の手形が残っていた。
前に残したもののすぐ下に、もう一つついている。
少しだけ、上のほうだった。




