20話
小屋の柱が、影を落としていた。
影が、まっすぐではない。まっすぐでない柱を、ボルドが立てたからだ。
戸は開いていた。中で、麻袋を引きずる音がしている。
「カルスさん」
「おや。早いですな」
カルスは、袋を壁際へ寄せているところだった。頭巾をかぶっていない。髪が、片側だけ潰れたままになっている。
「昨日の話ですけど。領主様には出さないことになりました」
カルスの手は、袋から離れなかった。
「ほう」
「ゲルダさんが、いらないと言ったので」
「そうですか」
それだけだった。カルスは袋をもう一つ寄せて、それから腰を伸ばした。
「で、なんの用ですかな? 手ぶらで来る顔じゃないですで」
ノエは、板を持ち直した。
「ドランさんを探してくれてたんですよね」
カルスの手が、止まった。
頭巾に手をやりかけて、かぶっていないことに気づいたらしい。かわりに、髪をかき回した。
「……半年の間、聞いて回る時をつくりました」
「はい」
「ヴェルダで三度。その手前の町で二度。木を切る者の泊まる宿を、片っ端から当たりましたで」
数を言うのに、指を折らなかった。
「駄目でした」
「……どうしてですか?」
「木を切る者ってのは、いい木のあるとこにしかおらんのですよ」
カルスは、戸の外を指した。森のほうだった。
「高い値の木ってのは決まっとります。いい木を切ったら、次の山へ移ることもある。宿にも二月といませんで。名前を言うても、去年おった、で終わることが多いです」
ノエは、うなずいた。
うなずいてから、言った。
「それでも、手紙を書きたいんです」
「宛先がないですのに?」
「はい」
カルスは、麻袋の口の紐をいじっていた。
いじりながら、途中で手を止めた。
「……ノエさん。都には、板があります」
「板ですか?」
「ええ。館の前に、大きな板が立っとります。人を探す、物を探す、逃げた者を告げる。そういう紙を貼る板です」
「都に貼って、ドランさんに届くんでしょうか?」
「町じゃ見つけるのは難しいです。木を切る者は、町にゃおらんので」
カルスは、紐から手を離した。
「ですが、木は来ますで」
「木が来る、ですか」
「切った木は、どこへ行くと思いなさる? 家になる。橋になる。船になる。高く木が売れるのは都です。都に、材木の市が立ちますで」
指が一本、立った。
「たとえ本人が来んでも、同じ山で切っとった者は来るかもしれんです。もしくは、運んだ者かもしれん。板の立っとる広場が、その市の広場ですで」
ノエは、板の上の紙を見た。
白いままだった。
「──目印が、いるんですね?」
「そういうことです」
カルスは、歯を見せて笑った。
「名前だけじゃ、誰も足を止めませんでね」
ノエは、立ち上がった。立ち上がるときに、膝に手をついた。
「──カルスさん、いつ出ますか?」
「刈り入れが済むまでは、おりますで。半年ぶんの用が溜まっとりますから」
◇
「運び賃が、多くなり過ぎましたな」
「え」
「わしは、どのみち都へ行きます。ドルフさんに顔を出す用がありますで。貼るだけで、これだけ頂いてしまっては、お館様に怒られますで」
昼、井戸のところに人が集まった。
麦の束が、井戸のまわりに積み上げてある。刈ったぶんを、蔵へ入れる前にここへ寄せていた。
その束の横に、毛皮が三枚、重ねて置いてあった。
紐で縛ってある。縛り目が、きつい。
ボルドが、いちばんに前へ出た。
「──領主様には出さんのか?」
「はい。ゲルダさんが、いらないと言ったと聞いとります」
「……毛皮は、もう置場から出しとる」
「なら、戻してください」
「戻さん」
ボルドは、縛り目を一度直した。もう解けそうにない結び方だった。
「見つけたら、知らせに戻ってくるんだろう」
ボルドは、カルスのほうを見た。
「なら、足代だ」
「わしには見つけられんですよ」
「見つからんかったら、返せ」
カルスが、桶のふちに肘をついた。
「商人に、そういうことを言いなさんな」
トバが、咳をした。
「……板に貼るなら、糊が要ろう」
「釘ですで」
「釘も、ただではあるまい」
「釘は、板のほうについとります」
トバは、顎を撫でた。
撫でて、そのまま止まった。
「……蔵には、もう言うてある」
テッサが、卵の籠を押しつけた。籠の底に、藁が敷いてある。割れないようにと、朝のうちに敷いたのだろう。
「これは腐るからね。今のうちに食べとくれ」
「まだしばらく、村におりますで」
「なら、しばらくで食べとくれ」
デュラは、何も言わなかった。麦の袋を一つ、カルスの足元に置いて、戻っていった。
置いたところが、卵の籠のすぐ横だった。
ノエは、その三つを見ていた。
毛皮も、卵も、麦も、昨日のうちに用意されたものだった。今日、集めたものではない。
嘆願は出さないと言いに来たのに、誰も持って帰らない。
可笑しかった。
ゲルダさんのために、と言った者が一人もいない。言わないまま、三つとも、そこに置いてある。
カルスは、頭巾を脱いだ。
髪をかき回して、かぶり直した。
「……なら、有難くいただきます」
テッサが、道の先を見た。
見ただけだった。今日は、走らなかった。
◇
次の朝、沢のほうから霧が上がっていた。
刈ったあとの畑は、株の切り口だけが白い。その白いところが、霧の下でぼんやり続いている。
一枚だけ、まだ立っている畑があった。
丈が低い。穂が、ようやく重くなりかけている。
その中に、人がいた。
しゃがんで、草を抜いている。
「ゲルダさん」
「おや」
「ドランさんへの手紙を、書かせてくれませんか?」
ゲルダは、抜いた草を畦へ放った。
「宛先が、わからないのにかい?」
「はい」
「あの子は、字も読めないんだよ」
「それでも、書きたいです」
ゲルダは、しゃがんだままだった。
膝に手をついて、二度に分けて立った。
「……ここにかけておくれ」
ノエは、畝のあいだに座って、板を膝に載せた。
「まず、ドランさんだとわかる目印を教えてほしいんです」
「目印、かい?」
「板に貼っても、名前だけだと、誰も足を止めないそうです。だから、見た人が、ああこの人だ、ってわかるものがいるんです。背とか、顔とか、癖とか」
ゲルダは、口を開いた。
開いて、閉じた。
「……背は、高くないよ」
「はい」
「あたしに似たからね」
それきりだった。
霧が、畑の上を流れていく。麦の丈が低いので、穂の先だけが霧から出ていた。
「四年だよ」
「はい」
「四年、顔を見てないんだ。それから、山の中でずっと暮らしてたんなら──」
ゲルダは、鍬の柄に手を置いた。
置いたまま、動かさなかった。
「顔なんぞ、変わっちまってるだろうさ」
ノエは、待った。
筆の先が、乾きはじめていた。
ふと、ゲルダが笑った。
「けいあいする」
「え?」
「あの子は、けいあいする、って言うんだったね」
ゲルダは、両手を胸の前で広げた。
皺だらけの手が、霧の中でぱぁっと開いた。
手が、下りた。
「三十にもなって、まだ言うんだろうよ。手紙のはじめにも、書いてあったんだろう?」
「……書いてありました」
ノエは、書いた。
けいあいする、と言う癖がある。
書いてから、その一行を見た。
変な一行だった。それでも、これしかない気がした。
◇
「あと、畑のことを書きたいんです」
「畑かい?」
「はい。ドランさんが村に着いたときに、どれがゲルダさんの畑か、わかるようにしておきたいんです。村に八戸ありますから、聞かなくてもわかるほうがいいと思うんです」
ゲルダの手が、鍬の柄から離れた。
「……なら、こっちだよ」
ゲルダは、道のそばの畝へ入った。
かかとの前に、つま先を出す。一歩。二歩。三歩。
「ここは、三つ」
それから、奥へ歩いていった。膝までの麦を掻き分けて、いちばん奥まで行く。
同じことをした。
「ここは、二つ」
「二つですか」
「疲れるんだよ、奥まで来るとね」
ゲルダは、腰を伸ばした。
「道のほうが広くて、奥が狭い。そんな畑は、村じゅうでうちくらいさね」
ノエは、書いた。
「冬は、朝いちばんに煙が上がるよ。起きたら湯を沸かすからね」
「はい」
「雨のあとに、水が沢へ落ちる溝があるよ」
「ドゥガさんが切った溝ですよね?」
「線を引いたのは、あの人だよ」
ゲルダは、沢のほうを見た。
「掘ったのは、あたしだ」
ノエは、書き直した。
「麦は、村でいちばん低い。みんな自分とこを先にやったあとに、うちの畑までやってくれてるからね」
ゲルダは、そこで言葉を切った。
「……いや、それは書かなくていいよ」
「書きます」
「みっともないだろう?」
「ドランさんが探すとき、一番わかりやすいと思います」
ゲルダは、何か言いかけた。
言わずに、また草を抜きはじめた。
ノエは、紙を見た。
ボルドの名前が出てこない。デュラも、セルグも、テッサも、出てこない。
一つも出てこなかった。
──どこにあるか、を書いている。
──誰がやったか、じゃなくて。
筆を持つ指が、止まった。
中指の関節が、押すと痛い。それでも、下ろしたくなかった。
◇
日が高くなって、霧が消えた。
穂の先に残っていた露が、光っては落ちていく。
「じゃあ、読みますね」
ゲルダは、畝のあいだに立っていた。
「ノーラという村の、ゲルダの息子、ドランへ」
「うん」
「背は高くない。三十を過ぎている。木を切る仕事をしている」
「そうだよ」
「けいあいする、という言葉を、よく使う」
ゲルダは、動かなかった。
「この人を知っている方がいたら、教えてやってください」
ノエは、紙を替えた。
「ドランへ。畑がある。ノーラという村にある。街道の北だ」
風が来た。
刈ったあとの畑は、鳴らない。この畑だけが、低いところで一度だけ鳴った。
「村に着いたら、井戸から沢のほうへ下りるといい」
「畝の幅が、途中で変わる畑がある。道のほうが広くて、奥が狭い。村じゅうで、そこだけだ」
「冬は、朝いちばんに煙が上がる」
「雨のあと、水が沢へ落ちる溝がある。父さんが線を引いて、母さんが掘った」
「麦の丈は、村でいちばん低い」
ノエは、顔を上げた。
「そこだ」
ゲルダは、前掛けの端をつまんだ。
つまんだだけだった。握らなかった。
「……ノエや」
「はい」
「終わりに、一つ入れとくれ」
「はい」
ゲルダは、麦のほうを見ていた。
「けいあいする、かあさんより」
ノエは、筆に力を入れて持ち直した。
その言葉の書き方は、知っていた。
この人に、教わったからだ。
書き終えて、顔を上げた。
ゲルダは、もう畝のほうを向いていた。しゃがんで、また草を抜いている。
「ゲルダさん」
「なんだい」
「──出すもの、できましたね」
ゲルダの手が、止まった。
止まって、また動きはじめた。
◇
三日して、ゲルダの畑の穂が重くなった。
朝、霧の中で鎌の音がした。
一人ぶんだった。
しゃ。……しゃ。
間が、あいている。
ノエが畦道に着いたときには、ゲルダは畝を二つ分ほど進んでいた。小さい人が、麦の中に沈んでいる。腕の上がるのが、だんだん遅くなる。
ボルドが、畦道を歩いてきた。
鎌を提げていない。
ゲルダの前まで来て、手を出した。
「よこせ」
「ここは、あたしの畑だよ」
「知っとる」
ボルドは、鎌を取った。
取ってから、言った。
「知っとるから、刈っとるんだ」
ゲルダは、何も言わなかった。
ボルドは、もう畝に入っていた。
しゃ、しゃ。しゃ、しゃ。
麦を刈る音だった。草のときより、軽い。
ノエは、畦道に座って束を縛った。藁を一掴み、手首を回して巻きつけて、膝で押さえて引く。
二十ほど縛ると、腕が上がらなくなった。
ゲルダは、ボルドに刈らせたまま、畝のあいだにただ立っていた。
立って、見ていた。
その日のうちに、終わった。
村じゅうの畑が、白くなった。株の切り口が、いちめんに光っている。
村のどことも、同じ色だった。
◇
次の朝、門のところで車の音がした。
がらがら、がらがら。
荷台に、毛皮が三枚。麦の袋が二つ。卵の籠が一つ。
カルスは、紙を懐に入れた。
上着の上を、二度叩く。
「──行ってきますで」
赤い頭巾が、刈ったあとの畑の上を動いていく。だんだん低くなって、坂の途中で見えなくなった。
ノエは、門の柱に手をついたままだった。
離すと、土埃の手形が残っていた。
◇
麦が蔵に入った。
朝の霧が、日が高くなっても消えなくなった。井戸のまわりの束の山が、少しずつ低くなっていく。
馬の音が、坂の下から上がってきたのは、その頃だった。
一頭だけだった。車の音がしない。
黒に近い外套。裾に、泥がついている。
若い男だった。春に代官と来て、厚い帳面を持っていた男だ。今日は帳面を持っていない。
「村長トバ殿」
トバが、戸口から出てきた。顎を撫でかけて、途中でやめた。
男は、紙を渡した。
「たしかに、渡しましたぞ」
それだけ言って、馬に乗った。井戸で水も飲まずに、坂を下りていった。
紙は、二枚あった。
トバが、一枚目を広げる。
顔を近づけた。指で、いちばん上の行をなぞる。
丸い文字だった。輪をつなげたような、途切れない形をしている。
「……わしの名前の字は、こんな形じゃないが……?」
トバは、もう一度なぞった。
指が、同じところで二度止まった。
「ノエ」
「はい」
トバは、紙をこちらへ回した。
回してから、目を合わせて、ひとつ頷いた。
「頼む」
ノエは、懐から片眼鏡を出した。
目に当てる。
丸い形が、するりとほどけた。
「ノーラ開拓村、ゲルダの件」
人が、寄ってきた。
「当該地の名義は、ドゥガ。継ぐべき者の所在、いまだ定まらず」
「……領主さまに、還るのか」
誰かが、後ろで言った。
ノエは、次の行を追った。
「所在の定まるまで、当該地を還さぬこととする」
静かになった。
「所在の知れたときは、生きておれば本人に、死しておれば妻に移す。いずれとも定まらぬあいだは、動かさぬ」
ノエは、顔を上げた。
「まだ、還りません」
「本当なのか」
「はい。ドランさんが見つかるまで、そのままです」
テッサが、両手を打った。
音が、思ったより大きかった。
トバは、卓のほうへ戻っていた。
戻って、こめかみを押さえている。
「……次の巡回で、書記に申し出よ、とあるんじゃな」
「はい」
「なら、あの十五枚も、そのときに出そう」
トバは、卓を撫でた。
一度だけだった。
◇
二枚目には、宛名がなかった。
文字が違う。角ばった文字で、手で書いてある。線の太さが、ところどころ変わっていた。
ノエは、片眼鏡を外した。
外しても、読めた。
「なんと書いてある?」
ノエは、二枚目を畳んだ。
「……これは、ゲルダさんに読んできます」
◇
日が、森の端にかかっていた。
ゲルダの家の前に、刈ったあとの畑が広がっている。株の切り口が、赤く光っていた。
ゲルダは、戸口の前に腰かけていた。壁に、鍬が二本。
ノエは、その前に膝をついた。土が、冷たくなっていた。
「畑は、まだ還らないそうです」
「そうかい」
「ドランさんが見つかるまで、そのままにしておくと、領主様が」
「そうかい」
ゲルダは、膝の上で手を組んでいた。
組んだまま、動かさなかった。
風が、刈ったあとの畑を渡っていく。
鳴らない。刈ったあとは、どこも鳴らない。
「ノエ」
「はい」
「あの紙は、まだ貼ってあるのかい?」
ノエは、すぐに答えられなかった。
カルスは、まだ戻っていない。
ノエは、懐から二枚目を出した。
「……たぶん、これに書いてあります」
広げる。
角ばった文字が、下のほうまで続いていた。
「板の紙は、写して綴じる。その写しは、館に残る」
「……」
「もとの紙は、貼ったままにさせておく」
ゲルダが、前掛けの端をつまんだ。
つまんで、そのままにした。
会ったことのない人だった。顔も、名前も知らない。
その人が、あの紙を貼ったままにしておけと書いている。
「まだ、あるのかい」
「あります」
ノエは、指で行を追った。
「木を切る者は、春に山を下りる」
「春に……」
「市の立つころに、もう一度貼らせよ。──と、書いてあります」
ゲルダは、道の先を見た。
坂の下まで、道が続いている。
誰も、歩いていない。
「あと一行あります」
「読んでおくれ」
「この文を書いた者の名を、次の巡回で、書記に申し出よ」
「文って」
「板に貼った紙のことだと思います」
ゲルダが、こちらを見た。
「あんたのことだろう?」
「僕は、代わりに書いただけです」
ゲルダは、笑わなかった。
しばらくして、鍬のほうを見た。柄の短いほうだった。
「……そうかい」
立ち上がる。膝に手をついて、二度に分けて立った。
「春に、かい」
「春に、です」
ゲルダは、それだけ言って、戸に手をかけた。
閉まる音が、この前より大きかった。
◇
ノエは、膝をついたままだった。
板の上に、二枚目の紙が載っている。
いちばん下の一行だけが、まだ明るいところにあった。
巡回は、穂が出るころに来る。
春より、あとだ。
ノエは、紙を四つに畳んで、懐に入れた。
入れてから、上着の上を、二度叩いた。




