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19話


 夜のうちに、露が降りていた。


 畦道の草が、足首から下を濡らしてくる。裾が重い。日はまだ森の端の下にあって、空だけが白い。麦を刈ったあとの畑は、株の切り口がいちめん白く光っていて、そこだけが夜の色を残していなかった。


 ノエは、道の途中で足を止めた。


 テッサの畑に、人がいる。


 小さい人だった。


 昨日のうちに立てて干した束が、風で何本か倒れている。ゲルダは、それを一つずつ起こしていた。しゃがんで、根元を揃えて、穂のほうを上にして、三つを寄りかからせる。手が止まらない。


 もう十ほども直したところだった。


「ゲルダさん」


「おや」


 ゲルダが、腰を伸ばした。伸ばしきるのに、少し時間がかかった。


「倒れてたんだよ、今日は風が強いね」


「テッサさんに言っておきますね」


「言わなくていいよ」


 ゲルダは、次の束のほうへ体を向けている。


「起こしただけさ」


 前掛けが、腹のところまで濡れていた。露を含んだ束を、何度も抱えたのだろう。


 東の空が、麦の色に変わりはじめていた。


◇


 東のはずれは、草が一面に寝ていた。


 刈り倒されたばかりで、まだ濡れている。踏むと、靴の下でぐしゃりと鳴った。青い匂いが濃い。


 杭が四本、全部見えている。


 ボルドは、鎌ではなく斧を提げていた。


「北は、道の突き当りだ」


「はい」


 棒が倒れる。


 かたん。


 土が硬い。音が高い。ノエは、小石を一つ、左手から右手へ移した。


 かたん。かたん。


 ボルドの背中が、先へ行く。棒を拾って、倒して、また拾う。


「東は、何になりますか?」


 ノエは、畑の端を見た。


 石と切り株で、四角く囲ってある。腰より低い。中に丸太が三本、割った薪が積んであった。木の枠が一つ、立てかけてある。地面の一か所だけが、黒い。


「置場だ」


「置場ですか?」


「ああ。入った年に、みんなで作った」


 ボルドが、斧の柄で石の枠を叩いた。


 ごつ。


「森から出したもんを、いっぺんここへ寄せたんだ。家も蔵も、まだ無かったからな」


「今も、使いますか?」


「たまにな」


 ボルドは、黒くなった地面のほうを顎で指した。


「獣は、ここで分ける。血は、家の前で流したくないからな」


「これは動かないものですか?」


「石と株だぞ」


 ノエは書いた。


 北は、道の突き当り。南は、沢。東は、村の置場。西は、セルグの畑。


 棒の数を入れて、下に立ち会いの名前を並べる。


 セルグ。トバ。それから、父の名前を書いた。一年目に、ここの株を抜いた人だからだ。


 いちばん上に、ボルド、と書いた。


 ボルドは、その紙を見ていた。


 字は読めない。それでも、長いあいだ見ていた。


 鼻から息を出した。


◇


 デュラは、束を積んでいた。歩幅が小さい。


「順番なら、この前書いただろう?」


「それを、いつ決めたかを書きたいんです」


「……旦那が死んで、しばらく経ってからだ。冬に入る前だな」


「蒔きは、デュラさんですね」


「三日かかったわ。うちのを蒔いてからだからな、そのぶん遅れる」


 デュラは、指を折った。折ってから、折り直した。


「種は、ゲルダさんが出した。ちゃんと出したんだぞ」


 そこだけ、二度言った。


「あの人は、こっちが出すと言うと、次の日に卵を置いていくんだ。うちは卵が欲しくて蒔いとるんじゃないのにな」


 セルグは、畦道で腰を伸ばしていた。伸ばしてから、すぐ手を離した。


「草は、うちとテッサんとこで半分ずつだ。うちが西で、東がテッサんとこ」


 それだけ言って、畑へ戻っていった。


 入れ替わりに、テッサが鎌を提げて出てきた。刃に草の汁がついて、緑が黒く乾いている。


「うちが東だよ。沢のほうから上がってくるやつがね、しつこいんだ」


「テッサさんは、いつからゲルダさんの畑を見てたんですか?」


「いつからって、あんた──」


 テッサは、鎌を下ろした。


「入った年からだよ。うちの畑の向こうにあるんだから、そりゃあ見るだろう?」


「なら、四年ですか」


「四年だね。ゲルダさんとこは、朝いちばんに畑へ出てる。うちより先だ。ずっとだよ」


 喋りながら、手がよく動く。


 その手が、止まった。


「……あんた、その書いてるの、何に使うんだい?」


「領主様に、出そうと思うんです」


 テッサの口が、あんぐりと開いた。


 それから、閉じなかった。


 ノエが井戸のところまで戻る頃に、テッサの声が畑の向こうから届いてきた。


◇


 日が、森の端にかかっていた。


 村長の家の前に、人が立っていた。


 一人ではない。


 ノエが道を上がっていくと、その数が増えた。デュラがいる。セルグがいる。ボルドは斧を提げたままだった。道の先から、まだ歩いてくる者がいる。鎌を提げたままの者が三人。前掛けをつけたままの者が二人。誰も自分の家に寄らずに、畑から真っすぐ歩いて来ている。


 家の壁が赤かった。人の影が道を横切って、刈ったあとの畑まで長く伸びている。


 トバが、戸口で顎を撫でていた。


「ノエ」


「はい」


「手紙を領主様に出すそうじゃないか」


「まだ書いてませんよ」


 声が、いくつも重なった。


「テッサさんが、そう言うとったが」


「ゲルダさんとこの畑の話だろう?」


「領主様ってのは、あれか。税を決めとる」


「馬鹿! それは代官様だ」


 トバは、返事をしなかった。


 顎から手を離して、戸を大きく開けた。


「入れ。全部は入らんぞ」


 人が、卓のまわりに詰まった。


 村一番大きな一枚板。座れたのは六人だけで、あとは壁に沿って立った。戸口に三人、窓のところに二人。窓の二人は、外に立って肘だけを桟に載せていた。


 灯りが一つきり。誰かが自分の家から油皿を提げてきて、卓の真ん中に置いた。


 二つになった。


 部屋が、暑い。汗と土の匂いがする。刈ったばかりの麦の匂いが、それに混じっていた。


 トバが、卓の端を指した。


「そこに座りなさい」


 ノエは磨かれた一枚板の前に腰を下ろした。


 板が冷たい。表面が、光を跳ね返す。細かい傷が、うっすらと網目に見えた。


 ノエは、卓の上に紙を置いた。


「じゃあ、順番から書きます」


「一昨年の水は、わしが運んだ」


 デュラだった。


「去年もだ。一昨年は、沢が細くなってな。ゲルダさんとこは、いちばん奥まで水を入れるのに手間がかかるんだ」


「どうしてですか?」


「畝が細いんだよ、奥のほうがね」


 誰かが、後ろで言った。


「あそこの畝は、道のほうが広いんだよ」


「婆さんの歩幅だからな。奥へ行くほど、疲れて狭くなるってやつさ」


 笑いが起きた。


 ボルドが振り返って、怒鳴った。


「順に言え!」


 声が大きすぎて、灯りの火が揺れた。虫が一匹、火のまわりを回っている。


「冬もな。あそこの煙だけ、朝いちばんに上がっとるよな」


「冬に何を焼くんだ?」


「湯だよ。あの人は、湯だけは毎日沸かしよる」


「雨のあと、水が沢へ落ちるように溝を切ったのは、ドゥガさんだ」


「それはいつですか?」


「二年前。いや、三年か」


「二年だ。うちが井戸をさらった年だで」


 ノエの筆が、追いつかない。


 紙が、一枚では足りなかった。二枚目。三枚目。


 字が崩れていく。中指の関節が、押すと痛い。息が速くなっていた。


 卓に、手がいくつも置かれている。


 爪の内側が黒い手。指の節が太い手。皮が厚くて、光を返さない手。


 ノエは、自分の手を見た。


 白い。


 紙の上を動いているのは、その手だけだった。


 書いても書いても、終わらなかった。


 覚えていない者が、一人もいなかった。


 最後に、父が口を開いた。


 いちばん後ろで、壁に背中をつけて立っている。


「一年目だ。あの畑は、いちばん遅くまで灯りがついていた」


 卓が、静かになった。


「ドゥガさんとゲルダさんが、二人で株を掘ってた。日が暮れても、ずっとな。手伝おうかと言ったら、ドゥガさんが──」


 父は、そこで少しだけ笑った。


「『うちのだから、うちでやる』と、言ってたな」


 灯りの芯が、じ、と鳴った。


 誰も、何も言わなかった。


 窓の外で、桶が石に当たる音がした。


◇


 次の日の昼、坂の下から車の音が上がってきた。


 がらがら、がらがら。


 赤い頭巾が、刈ったあとの畑の上を動いていく。麻袋の角が、幌の下から出ている。


 馬は門の柱の手前で止まった。


「カルスさん」


「半年ぶりですな。背は、伸びとらんですね」


 カルスは、御者台から下りて、頭巾を脱いだ。


 髪をかき回す。


「ドランさんのことは──」


 手が、止まった。


 カルスは、頭巾を両手で持ったまま、坂の下を見た。


 道が、麦を刈ったあとの畑のあいだを下っている。誰も歩いていない。


 それから、頭巾をかぶり直した。


 上着の上を、二度叩く。


「──荷はまだ積んだままですで、下ろしてしまいましょうかね」


 ノエは、紙の束を持ち直した。


 持ち直してから、それ以上聞かなかった。


「カルスさん。これを、領主様に届けたいんです」


「領主様、ですか」


「代官様の言うようには、できないんです」


 カルスの手が、麻袋にかかったところで止まった。


「……ザイル商会は、領都に店を持っとります。ドルフさんの名で口を利いてもらえれば、館の書役までは行けるでしょうな」


「ほんとですか?」


「ええ、行けると思います。ただ──」


 カルスは、指を一本立てた。


 歯を見せて笑う。


「──わしは商人ですで。ただでは運ばんですよ」


 誰も、すぐには喋らなかった。


 遠くで、束を積む音がしている。


 先に前へ出たのは、ボルドだった。


「俺が出す」


「あんた、金なんか持ってないだろ?」


「置場に、毛皮が三枚ある」


「毛皮なら、値はつきますな」


 ボルドは、こちらを見なかった。斧の柄を、握り直している。


「東はずれの一枚は、帳面に名前がない。帳面にないもんが消えるなら、次は俺だ」


 トバが、咳をした。


「……干し肉のぶんから出そう。足りんかったら、わしのぶんを足す」


「村長さん」


「これも、来年うちが当たる壁じゃよ」


 トバは、刈ったあとの畑を見ていた。


「帳面と、村の者が知っとることが食い違うたとき、どっちが通るのか。先に見ておきたい」


 テッサが、両手を打った。


「なら、決まりだね。うちも出すよ。麦でも、卵でも」


 その日のうちに、話がついた。八戸のぜんぶが、何かしら出すことになった。


 ノエは、出した者の名前も書いておいた。


 テッサが、前掛けで手を拭いて走っていく。


「ゲルダさんに言ってくるよ!」


 止めるかどうかを考える前に、テッサはもう道の先だった。


◇


 夜。


 膝の板に、紙が七枚。誰から聞いたかで分けてある。


 デュラの紙。セルグとテッサの紙。ボルドの紙。父の紙。


 ノエは、上から順に写していった。


 誰が、いつ、何をしたか。


 外で、風が出ていた。戸の隙間から入って、灯りが一度ずつ傾く。そのたびに、紙の上の影が動いた。


 灯りの芯が短くなって、母が油を足しに来た。何も言わずに足して、戻っていった。


◇


 次の日の夕方、ノエはゲルダの家へ行った。


 村でいちばん小さい家だった。壁に鍬が二本、立てかけてある。一本は柄が短く切ってあって、先が丸くすり減っている。もう一本は、ずっと大きい。刃の付け根から柄にかけて蜘蛛の巣がかかっていて、その糸が夕日を受けて一本だけ光っていた。


 ゲルダは、戸口の前に腰かけていた。


 膝の上で、手を組んでいる。


 ノエは、その前に膝をついた。土が、まだ昼の熱を持っていた。


「読みますね」


「おくれ」


「春の起こしは、ボルドさんです。ボルドさんが、鍬を入れました」


「そうだよ」


「蒔きは、デュラさんです。三日かかりました。種は、ゲルダさんが出しました」


「あの人は、律儀だからねえ」


「草刈りは、セルグさんとテッサさんで半分ずつ。西がセルグさん、東がテッサさんです。夏の水は、デュラさんです」


 ゲルダが、うなずいた。


 畑のほうから、風が来た。


 刈ったあとの畑は、もう鳴らない。ゲルダの畑だけが、丈の低いまま残っている。穂が、やっと出たところだった。風が渡っても、あの音にはならなかった。


「テッサさんは、四年、見ています。ゲルダさんが朝いちばんに畑へ出るのを、ずっと見ています」


「よく見てるねえ、あの人は」


 ゲルダが笑った。


 目尻の皺が、深いところで一度、折れた。


 ノエは、最後の一枚をめくった。


「一年目、ドゥガさんとゲルダさんが、日が暮れても株を掘っていました。父が、そう言っていました」


 ゲルダの手が、膝の上で動いた。


 組んでいた指がほどけて、前掛けの端をつまむ。


 つまんで、握った。


 それから、道の先を見た。


 坂の下まで、道が続いている。誰も歩いていない。日は森の端に半分入っていて、道の土が、赤いような、灰色のような色をしていた。


「ノエ」


「はい」


「毛皮が、三枚だってね」


「……はい」


「村長さんは干し肉で、テッサさんは卵で、デュラさんとこは麦だそうだ」


 ゲルダは、握った前掛けをそのままにしている。


 指の節が、白い。


「あたしは、何を出したらいいんだろうね」


「ゲルダさんは──」


「出すものがないんだよ」


 声は、大きくならなかった。


 ゲルダは、鍬のほうを見た。蜘蛛の巣のかかったほうだった。


「あの人が生きてりゃ、まだ返せたんだ。二人なら、刈るのも運ぶのも、人並みにやれたからね」


「……みんな、返せなんて言ってません」


「言わないよ。言わないから、困るんじゃないか」


 ゲルダが、立ち上がった。


 膝に手をついて、二度に分けて立った。


「あの子に残してやりたかったよ。帰ってくるところが無いのは、あんまりだと思ったからね」


 ノエは、板を持ったままだった。


「けどね。帰ってきたって、村じゅうに頭を下げて回るような土地なら」


 ゲルダは、そこで止まった。


 言い直さなかった。


「もう、いいよ」


「ゲルダさん」


「畑は、いいんだよ」


 ゲルダは、戸に手をかけた。


 傾いてはいない戸だった。押すだけで、すぐに開いた。


 閉まる音が、思ったより小さかった。


◇


 ノエは、膝をついたままだった。


 板の上の紙を、見た。


 ボルド。デュラ。セルグ。テッサ。トバ。父。


 名前が、いくつも並んでいる。


 ゲルダの名前は、いちばん上に一度きりだった。あとは全部、ほかの誰かの名前だ。


 みんなで、やってます。


 自分が代官に言った言葉だった。


 代官は、こう答えた。


 ──みんなでは、誰のものにもならんな。


 情けなかった。


 紙を握った指のところが、皺になっていた。伸ばそうとして、余計に折れた。


 畑のほうで、風が鳴っている。


 ゲルダの畑では、鳴っていない。


 ──書き直す。


 でも、どこから?


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