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18/52

18話


 麦が、乾いた音で鳴るようになった。

 穂は黄色い。手の甲に当たると、ざらざらしたものが残る。

 朝から、村じゅうで鎌が鳴っていた。

 しゃ、しゃ。しゃ、しゃ。

 ノエは畦道に座って、束を縛っていた。

 父が刈ったぶんが、次から次に足元へ積まれていく。藁を一掴み、手首を回して巻きつけて、膝で押さえて引く。皮膚が硬くないから、すぐに掌に赤い筋が三本ついた。人差し指の割れたところに芒が入ると、そこだけが痛い。

 二十ほども縛ると、腕が上がらなくなった。

 ノエは、そのまま座っていた。

 顔を上げる。

 刈られていない畑が、二枚あった。

 一枚は、ゲルダの畑。丈が低い。穂は、まだ出ていない。風が来ても、あそこだけ鳴らない。

 もう一枚は、村の東のはずれ。

 麦ではなく、草が立っている。ノエの腰より高い。

 ムシュ。

 口の中で、その音を転がした。

 五日前に代官が言った音は、ノエの頭の中からまだ消えていない。


◇


 ボルドは、朝はセルグの畑にいた。

 昼には、デュラの畑にいた。

 鎌の振りが、誰よりも速い。刈った麦を自分では縛らず、そのまま先へずんずん進んでいく。

 テッサが、追いかけるようにして縛っていた。

「ボルドさん、待ちなって。追いつかないよ」

「もう暗くなっちまうからな」

 声が大きい。

 テッサは束を放り出して、腰を伸ばした。

「そもそもあんた、うちの畑を刈ってどうすんだい。自分とこは放っておいてさ」

「もう終わってんだ」

「嘘おっしゃい。朝から一度も戻ってないだろ」

 ボルドは、答えなかった。

 鎌を持ち替えて、次の畝へ入っていった。


 昼に、ゲルダが水を提げてきた。

 小さい人が、大きな桶を提げている。柄杓が、桶の縁で鳴っていた。

「ゲルダさんとこは、いつ刈るんですか」

「あと十日はかかるよ」

 ゲルダは、柄杓に水を汲んで、ノエの前に出した。

 それから、桶を提げ直した。

 畦道を、まっすぐ歩いていく。セルグの横を通った。テッサの横も通った。二人とも桶に手を伸ばしかけて、途中でやめた。

 ゲルダは、畑の真ん中まで入っていった。

 麦の穂が、ゲルダの肩のあたりまである。

 ボルドは、鎌を止めなかった。

 ゲルダは、そこに立っていた。

 しばらくして、ボルドが鎌を下ろした。

 柄杓を受け取って、二杯飲んだ。

 返して、また刈りはじめた。

 礼は、聞こえなかった。

 ゲルダは、桶を提げて戻ってきた。井戸のほうへ歩いていく。

 行きより、少し軽そうに見えた。


◇


 その日の夕方、ノエは東のはずれまで歩いた。

 草が、腰まである。根元は青く、上のほうは白っぽかった。

 踏み跡が、一本ついていた。

 まっすぐ奥へ続いている。草が倒れて地面が見えていた。

 ノエは、その跡をたどった。

 草が、片側にばかり倒れている。行きと帰りで、同じところを踏んでいるのだろうか。

 ズボンの裾に、丸い実がいくつもひっ付いた。歩くたびに増えていく。

 草の匂いが濃くて、それは刈った麦の匂いとはまるで違っていた。

 三十歩ほどで、草が短くなった。

 人が一人立つぶんだけ、丸く。

 そこを中心に、少し離れたところに杭が見える。

 四本。四つの隅に、一本ずつ。

 頭が丸くすり減って、黒くなっている。長いあいだ、雨に当たっていたのだろう。

 どれも、少し傾いていた。

 ノエは、その杭を見た。

 春に、テッサの畑で見たものと、同じ傾き方だった。あのとき、ボルドは靴の底で頭を押して直して、それでも傾いたままだった。

 ノエは、しゃがんで地面を見た。

 草を掻き分けると、土が出てきた。

 黒い。指で押すと、爪の先が入る。

 切り株が一つもない。石も落ちていない。

 平らだった。

 畝だけが、なかった。

 村のほうを見ると、麦の向こうに屋根がいくつか見える。近い。

「そこは、測らんでいいとこだ」

 後ろからだった。

 ボルドが、鎌を提げて立っている。袖をまくった腕に、白い筋が肘まで走っていた。

「ボルドさん」

「そこは、いい」

「杭を、四本打ってますよね?」

 ボルドは、答えなかった。

「来年には、年季が明けます」

「知っとる」

「耕していない畑は、届けが──」

「それも、知っとると言ってる」

 声が大きくなった。

 麦のほうで、鳥が二羽、低く飛んだ。

 ボルドは、鎌を持ち替えた。

 持ち替えただけだった。

 それから、来た道を戻っていった。

 背中が、丸かった。春に見たときより、丸い気がした。


◇


 次の日、村長が畑へ出てきた。

 刈るわけでもない。畦道を歩いて、積んだ束の数を指で数えていた。

「トバさん」

「なんだ」

「東のはずれの一枚は、誰の畑ですか」

 トバは、顎を撫でた。

 撫でて、そのまま止まった。

 指が顎の下で、二度、動いた。

 それから、咳をした。

「……ボルドが言わんなら、わしが言えることは何もないんじゃよ」

 村長は、束を数え直しはじめた。

 さっきと同じところで、指が止まっていた。


◇


 夜、父が戸口で鎌を研いでいた。

 しゃり、しゃり。

 ノエは、膝に板を載せていた。

 紙が三枚、下に敷いてある。どれも一行で止まっていた。

 ドランへ、と書いたところで、その先が出てこない。

 三度書いて、三度とも、そこで終わっている。

 筆の先が、乾いていた。

 ノエは、板を膝から下ろした。

「父さん」

「うん?」

「東のはずれの一枚、あれは誰のものなの?」

 しゃり、しゃり。

 父は、鎌を裏返した。

 砥石の上を、また往復させる。

 ずいぶん経ってから、こちらを見ないまま言った。

「誰のかは知らないな。一年目に、父さんとボルドとで株や石は除けたんだが……」

「ボルドさんは、なんで、二枚も?」

「来る者がおると、言ってたかな」

 母が、鍋を火から下ろした。

 音が、大きかった。

「それ以上は言うんじゃないよ」

 低い声だった。

 父は、鎌をもう一回裏返した。

 しゃり、しゃり。

 それきり、何も言わなかった。


◇


 次の日の夕方、戸口の前にボルドが立っていた。

 椅子の横だった。難しい顔で、斜め下を向いて立っている。

「ボルドさん」

「……」

「どうぞ、座ってください」

 ボルドは、座った。

 椅子が、ぎ、と鳴った。短いほうの脚が、土にめり込んだ。

 ノエは、その前に膝をついた。土の冷たさが、膝から上がってくる。

 しばらく、どちらも喋らなかった。

 井戸のほうで、桶が石に当たる音がした。

「……字を書くのは、いくらだ」

「いりません」

「いくらだと聞いている」

「もらえません。書くのは、僕が皆さんに返せる唯一のことなので」

 ボルドは、膝に手を置いた。

 置いてから、擦った。爪の内側に、土が黒く入っている。

「運ぶのに、麦が二升かかります。それはハンナさんのぶんです」

「二升な」

「はい」

「なら、刈ってやる」

「え」

「おまえんとこの畑だ。あと二日ぶんあるだろう?」

「それは──」

「二升よりは高い。黙って受け取れ」

 ボルドは、こちらを見なかった。

 ノエは、板を取った。


「一通、頼む」

「どなたに書きますか」

「ミルダ」

 すぐに出た。

「どこの村ですか」

「ベルン」

「家は、どのあたりですか」

「井戸から、日の出るほうへ三軒目だ」

 ノエは、東へ三軒目、と書いた。

「目印はありますか」

「屋根が板だ。藁じゃない。あの村で板は二軒しかない。もう一軒は水車の脇だから、間違えんだろう」

「ま、待ってください」

「戸が傾いとる。開けるとき、下を持ち上げんと開かんのだ」

「待ってください。書くのが、間に合いません」

「前に石が一つ据えてある。腰かけるのに、ちょうどいい高さの石がな」

 筆が、追いつかなかった。

 ノエは、書きながら顔を上げた。

 ボルドは、井戸のほうを見ている。

 一度も、詰まらなかった。

 紙が、一枚では足りなくなった。

 ノエは、板の上で紙を差し替えた。差し替えるあいだ、ボルドは待っていた。急かさなかった。

「まだ、ありますか」

「……もう、ええ」

 中指の関節が、こわばっていた。曲げると、皮の下で何かが引っかかる。

 ノエは、書いた二枚を並べて置いた。

 風はなかった。紙は、動かなかった。

 家の裏から、霧草の匂いが漂って来ている。母が、もう火にかけているのだろう。

 井戸のほうで、また桶が鳴った。

 ボルドは、そちらを見たままだった。


◇


「なんて書きますか。はじめには?」

 ボルドが、口を開いた。

「三年、なんも言わんかったのは──」

 止まった。

 もう一度、口を開く。

「肩をやって、それで、しばらく──」

 また、止まった。

 膝を擦る手が、速くなっている。

 ノエは、筆を置いた。

 置いた音が、思ったより大きかった。

「ボルドさん」

「……なんだ」

「──ミルダさんに、来てほしいですか?」

 ボルドは、答えなかった。

 日が、井戸の向こうに落ちていくところだった。

 ずいぶん経ってから、言った。

「……畑がある」

 ノエは、筆を取った。

「それ、書きますね」

「……ああ」


◇


 書き終えて、ノエは膝の上で読み返した。

 それから、立って、もう一度読んだ。

「ベルンの村、井戸から東へ三軒目、屋根が板の家。戸が傾いていて、下を持ち上げないと開かない家の、ミルダさんへ」

 ボルドは、動かない。

「畑がある。ノーラという村にある。街道の北だ。歩くと遠いから、荷馬車を待つといい」

 ノエは、顔を上げた。

「村に着いたら、門のところで、誰でもいいから村の者に聞いてくれ」

「──違う」

 ボルドが、椅子の上で少し前に出た。

「門じゃねえ。東のはずれだ。日の出るほうの、はずれ」

 指で、土を差した。

「そこに、杭が四本打ってある、と」

 ノエは、書き足した。

「あと、『ある』、でもない」

「はい?」

「麦が生えとらん。ありゃ、無いのと同じだ」

 ボルドは、こちらを向いた。

「作る、にしてくれ」

 ノエは、書き直した。

 日が落ちた。空の下のほうだけが、まだ赤い。刈って積んだ束の影が、道の上に長く伸びている。

「読みます。畑を作る。ノーラという村にある──」

 ボルドは、ただじっと聞いている。

 膝に置いた手を、動かさない。

 戸口の灯りが、風もないのに一度だけ傾いた。

「村の東のはずれに、日の出る方のはずれに、杭が四本打ってある」

「……それだけか?」

「それだけです」

「足りん」

「どこがですか」

「作る、なんぞは、いつでも言える言葉だ」

 ボルドは、東のほうを見た。

 草に覆われた一枚が、薄暗く沈みかけている。杭は、もう見えない。

「三年前も、言うた。だが、あのザマだ」

 ノエは、筆を持ったままだった。

 持ったまま、次の言葉を待った。

 村のほうで、誰かが戸を閉めた。

 ずいぶん経ってから、ボルドが言った。

「杭は、抜いとらんが」

「はい」

「三年、あのままだ。雨に当たっとる。頭が減っとる」

 声は、大きくなかった。

「それを書け。作る、の後ろに」

「……杭のことを、ですか」

「そうだ」

 ボルドは、立ち上がった。

 椅子が、ぎ、と鳴った。

「作る、だけなら、きっとあいつは信じん。信じる理由がない」

 ノエは、書いた。

 書きながら、筆の先が紙に強く当たっているのに気づいた。

 少しだけ、手を浮かせた。

 書いた字を、上から押さえた。

 押さえてから、もう一度読んだ。

「──畑を作る。杭は、三年、抜いていない」

 ボルドは、何も言わなかった。

 顎を一度、下げた。

「いつ出すんだ?」

「荷馬車が、しばらく来ません」

「なら、それでええ」

 ボルドは、椅子を元の向きに直した。

 自分が座って傾けたぶんを、両手で持って戻した。


◇


 ボルドは、家のほうへは行かなかった。

 小屋に寄って、鎌を取って、東のはずれに歩いていった。

 草に沈む。

 しゃ、しゃ。

 麦のときより、音が重い。草は水を含んでいて、倒れても跳ねたりしなかった。

 ノエは、畦道に座って見ていた。

 座ってから、しばらく立てなかった。

 空の赤いところが、少しずつ細くなっていく。

 草の丈も、少しずつ下がっていく。

 杭の頭が、一本、出た。

 二本目が出た。

 四本、全部出るまでに、暗くなった。


 ノエは、そこまで歩いた。

「ボルドさん」

「なんだ」

「この一枚、帳面には、誰の名前で書いてありますか」

 ボルドは、鎌の刃を草の束で拭いた。

「なんも書いとらん」

 拭いてから、村のほうを見た。

 家の灯りが、二つ、三つ点いている。

「けどな。村の者は、みんな知っとる。ここは、俺のだ」

「じゃあ、明日、測ります」

「……好きにしろ」

「ボルドさんの名前で、書きます」

 ボルドは、しばらく黙っていた。

「そうしろ」

 ノエは、四本の杭のほうを見た。

 帳面に、名前がない。

 それでも、誰も、この一枚に鍬を入れなかった。

 三年、入れなかった。

 村じゅうが、知っているから。

 ノエは、体の向きを変えた。

 ゲルダの畑のほうだった。

 暗い。丈の低い麦は、見えない。

 見えなくても、どこにあるかはわかる。

 この村の全員が、わかる。

 ──書けるじゃないか。

 掌が、熱くなった。

 板を持ち直した。持ち直したところで、指が滑った。

「ボルドさん。もう一つだけ、いいですか」

「まだあるのか」

「ゲルダさんの畑、春に起こしたのは、誰ですか」

「俺だ」

「その前は」

「ドゥガさんだ。去年の秋に死ぬまで、あの人が起こしとった」

「あの畑の株を抜いたのは」

 ボルドは、鎌を肩に載せた。

「ドゥガさんだ。俺も手伝った。おまえの親父もおったし、トバもおった」

 ノエは、書かなかった。

 暗くて、書けない。

 口の中で、三度繰り返した。

 三度で、入った。

「ありがとうございます」

「なんの話だ」

「まだ、わかりません」

 ボルドは、鼻から息を出した。

 それから、また草を刈りはじめた。

 しゃ、しゃ。

 ノエは、村のほうへ歩き出した。

 家の灯りが、二つ、三つ。その向こうに、もう一つ。

 八戸。大人が、二十人あまり。

 ──明日から、一軒ずつ回る。


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