18話
麦が、乾いた音で鳴るようになった。
穂は黄色い。手の甲に当たると、ざらざらしたものが残る。
朝から、村じゅうで鎌が鳴っていた。
しゃ、しゃ。しゃ、しゃ。
ノエは畦道に座って、束を縛っていた。
父が刈ったぶんが、次から次に足元へ積まれていく。藁を一掴み、手首を回して巻きつけて、膝で押さえて引く。皮膚が硬くないから、すぐに掌に赤い筋が三本ついた。人差し指の割れたところに芒が入ると、そこだけが痛い。
二十ほども縛ると、腕が上がらなくなった。
ノエは、そのまま座っていた。
顔を上げる。
刈られていない畑が、二枚あった。
一枚は、ゲルダの畑。丈が低い。穂は、まだ出ていない。風が来ても、あそこだけ鳴らない。
もう一枚は、村の東のはずれ。
麦ではなく、草が立っている。ノエの腰より高い。
ムシュ。
口の中で、その音を転がした。
五日前に代官が言った音は、ノエの頭の中からまだ消えていない。
◇
ボルドは、朝はセルグの畑にいた。
昼には、デュラの畑にいた。
鎌の振りが、誰よりも速い。刈った麦を自分では縛らず、そのまま先へずんずん進んでいく。
テッサが、追いかけるようにして縛っていた。
「ボルドさん、待ちなって。追いつかないよ」
「もう暗くなっちまうからな」
声が大きい。
テッサは束を放り出して、腰を伸ばした。
「そもそもあんた、うちの畑を刈ってどうすんだい。自分とこは放っておいてさ」
「もう終わってんだ」
「嘘おっしゃい。朝から一度も戻ってないだろ」
ボルドは、答えなかった。
鎌を持ち替えて、次の畝へ入っていった。
昼に、ゲルダが水を提げてきた。
小さい人が、大きな桶を提げている。柄杓が、桶の縁で鳴っていた。
「ゲルダさんとこは、いつ刈るんですか」
「あと十日はかかるよ」
ゲルダは、柄杓に水を汲んで、ノエの前に出した。
それから、桶を提げ直した。
畦道を、まっすぐ歩いていく。セルグの横を通った。テッサの横も通った。二人とも桶に手を伸ばしかけて、途中でやめた。
ゲルダは、畑の真ん中まで入っていった。
麦の穂が、ゲルダの肩のあたりまである。
ボルドは、鎌を止めなかった。
ゲルダは、そこに立っていた。
しばらくして、ボルドが鎌を下ろした。
柄杓を受け取って、二杯飲んだ。
返して、また刈りはじめた。
礼は、聞こえなかった。
ゲルダは、桶を提げて戻ってきた。井戸のほうへ歩いていく。
行きより、少し軽そうに見えた。
◇
その日の夕方、ノエは東のはずれまで歩いた。
草が、腰まである。根元は青く、上のほうは白っぽかった。
踏み跡が、一本ついていた。
まっすぐ奥へ続いている。草が倒れて地面が見えていた。
ノエは、その跡をたどった。
草が、片側にばかり倒れている。行きと帰りで、同じところを踏んでいるのだろうか。
ズボンの裾に、丸い実がいくつもひっ付いた。歩くたびに増えていく。
草の匂いが濃くて、それは刈った麦の匂いとはまるで違っていた。
三十歩ほどで、草が短くなった。
人が一人立つぶんだけ、丸く。
そこを中心に、少し離れたところに杭が見える。
四本。四つの隅に、一本ずつ。
頭が丸くすり減って、黒くなっている。長いあいだ、雨に当たっていたのだろう。
どれも、少し傾いていた。
ノエは、その杭を見た。
春に、テッサの畑で見たものと、同じ傾き方だった。あのとき、ボルドは靴の底で頭を押して直して、それでも傾いたままだった。
ノエは、しゃがんで地面を見た。
草を掻き分けると、土が出てきた。
黒い。指で押すと、爪の先が入る。
切り株が一つもない。石も落ちていない。
平らだった。
畝だけが、なかった。
村のほうを見ると、麦の向こうに屋根がいくつか見える。近い。
「そこは、測らんでいいとこだ」
後ろからだった。
ボルドが、鎌を提げて立っている。袖をまくった腕に、白い筋が肘まで走っていた。
「ボルドさん」
「そこは、いい」
「杭を、四本打ってますよね?」
ボルドは、答えなかった。
「来年には、年季が明けます」
「知っとる」
「耕していない畑は、届けが──」
「それも、知っとると言ってる」
声が大きくなった。
麦のほうで、鳥が二羽、低く飛んだ。
ボルドは、鎌を持ち替えた。
持ち替えただけだった。
それから、来た道を戻っていった。
背中が、丸かった。春に見たときより、丸い気がした。
◇
次の日、村長が畑へ出てきた。
刈るわけでもない。畦道を歩いて、積んだ束の数を指で数えていた。
「トバさん」
「なんだ」
「東のはずれの一枚は、誰の畑ですか」
トバは、顎を撫でた。
撫でて、そのまま止まった。
指が顎の下で、二度、動いた。
それから、咳をした。
「……ボルドが言わんなら、わしが言えることは何もないんじゃよ」
村長は、束を数え直しはじめた。
さっきと同じところで、指が止まっていた。
◇
夜、父が戸口で鎌を研いでいた。
しゃり、しゃり。
ノエは、膝に板を載せていた。
紙が三枚、下に敷いてある。どれも一行で止まっていた。
ドランへ、と書いたところで、その先が出てこない。
三度書いて、三度とも、そこで終わっている。
筆の先が、乾いていた。
ノエは、板を膝から下ろした。
「父さん」
「うん?」
「東のはずれの一枚、あれは誰のものなの?」
しゃり、しゃり。
父は、鎌を裏返した。
砥石の上を、また往復させる。
ずいぶん経ってから、こちらを見ないまま言った。
「誰のかは知らないな。一年目に、父さんとボルドとで株や石は除けたんだが……」
「ボルドさんは、なんで、二枚も?」
「来る者がおると、言ってたかな」
母が、鍋を火から下ろした。
音が、大きかった。
「それ以上は言うんじゃないよ」
低い声だった。
父は、鎌をもう一回裏返した。
しゃり、しゃり。
それきり、何も言わなかった。
◇
次の日の夕方、戸口の前にボルドが立っていた。
椅子の横だった。難しい顔で、斜め下を向いて立っている。
「ボルドさん」
「……」
「どうぞ、座ってください」
ボルドは、座った。
椅子が、ぎ、と鳴った。短いほうの脚が、土にめり込んだ。
ノエは、その前に膝をついた。土の冷たさが、膝から上がってくる。
しばらく、どちらも喋らなかった。
井戸のほうで、桶が石に当たる音がした。
「……字を書くのは、いくらだ」
「いりません」
「いくらだと聞いている」
「もらえません。書くのは、僕が皆さんに返せる唯一のことなので」
ボルドは、膝に手を置いた。
置いてから、擦った。爪の内側に、土が黒く入っている。
「運ぶのに、麦が二升かかります。それはハンナさんのぶんです」
「二升な」
「はい」
「なら、刈ってやる」
「え」
「おまえんとこの畑だ。あと二日ぶんあるだろう?」
「それは──」
「二升よりは高い。黙って受け取れ」
ボルドは、こちらを見なかった。
ノエは、板を取った。
「一通、頼む」
「どなたに書きますか」
「ミルダ」
すぐに出た。
「どこの村ですか」
「ベルン」
「家は、どのあたりですか」
「井戸から、日の出るほうへ三軒目だ」
ノエは、東へ三軒目、と書いた。
「目印はありますか」
「屋根が板だ。藁じゃない。あの村で板は二軒しかない。もう一軒は水車の脇だから、間違えんだろう」
「ま、待ってください」
「戸が傾いとる。開けるとき、下を持ち上げんと開かんのだ」
「待ってください。書くのが、間に合いません」
「前に石が一つ据えてある。腰かけるのに、ちょうどいい高さの石がな」
筆が、追いつかなかった。
ノエは、書きながら顔を上げた。
ボルドは、井戸のほうを見ている。
一度も、詰まらなかった。
紙が、一枚では足りなくなった。
ノエは、板の上で紙を差し替えた。差し替えるあいだ、ボルドは待っていた。急かさなかった。
「まだ、ありますか」
「……もう、ええ」
中指の関節が、こわばっていた。曲げると、皮の下で何かが引っかかる。
ノエは、書いた二枚を並べて置いた。
風はなかった。紙は、動かなかった。
家の裏から、霧草の匂いが漂って来ている。母が、もう火にかけているのだろう。
井戸のほうで、また桶が鳴った。
ボルドは、そちらを見たままだった。
◇
「なんて書きますか。はじめには?」
ボルドが、口を開いた。
「三年、なんも言わんかったのは──」
止まった。
もう一度、口を開く。
「肩をやって、それで、しばらく──」
また、止まった。
膝を擦る手が、速くなっている。
ノエは、筆を置いた。
置いた音が、思ったより大きかった。
「ボルドさん」
「……なんだ」
「──ミルダさんに、来てほしいですか?」
ボルドは、答えなかった。
日が、井戸の向こうに落ちていくところだった。
ずいぶん経ってから、言った。
「……畑がある」
ノエは、筆を取った。
「それ、書きますね」
「……ああ」
◇
書き終えて、ノエは膝の上で読み返した。
それから、立って、もう一度読んだ。
「ベルンの村、井戸から東へ三軒目、屋根が板の家。戸が傾いていて、下を持ち上げないと開かない家の、ミルダさんへ」
ボルドは、動かない。
「畑がある。ノーラという村にある。街道の北だ。歩くと遠いから、荷馬車を待つといい」
ノエは、顔を上げた。
「村に着いたら、門のところで、誰でもいいから村の者に聞いてくれ」
「──違う」
ボルドが、椅子の上で少し前に出た。
「門じゃねえ。東のはずれだ。日の出るほうの、はずれ」
指で、土を差した。
「そこに、杭が四本打ってある、と」
ノエは、書き足した。
「あと、『ある』、でもない」
「はい?」
「麦が生えとらん。ありゃ、無いのと同じだ」
ボルドは、こちらを向いた。
「作る、にしてくれ」
ノエは、書き直した。
日が落ちた。空の下のほうだけが、まだ赤い。刈って積んだ束の影が、道の上に長く伸びている。
「読みます。畑を作る。ノーラという村にある──」
ボルドは、ただじっと聞いている。
膝に置いた手を、動かさない。
戸口の灯りが、風もないのに一度だけ傾いた。
「村の東のはずれに、日の出る方のはずれに、杭が四本打ってある」
「……それだけか?」
「それだけです」
「足りん」
「どこがですか」
「作る、なんぞは、いつでも言える言葉だ」
ボルドは、東のほうを見た。
草に覆われた一枚が、薄暗く沈みかけている。杭は、もう見えない。
「三年前も、言うた。だが、あのザマだ」
ノエは、筆を持ったままだった。
持ったまま、次の言葉を待った。
村のほうで、誰かが戸を閉めた。
ずいぶん経ってから、ボルドが言った。
「杭は、抜いとらんが」
「はい」
「三年、あのままだ。雨に当たっとる。頭が減っとる」
声は、大きくなかった。
「それを書け。作る、の後ろに」
「……杭のことを、ですか」
「そうだ」
ボルドは、立ち上がった。
椅子が、ぎ、と鳴った。
「作る、だけなら、きっとあいつは信じん。信じる理由がない」
ノエは、書いた。
書きながら、筆の先が紙に強く当たっているのに気づいた。
少しだけ、手を浮かせた。
書いた字を、上から押さえた。
押さえてから、もう一度読んだ。
「──畑を作る。杭は、三年、抜いていない」
ボルドは、何も言わなかった。
顎を一度、下げた。
「いつ出すんだ?」
「荷馬車が、しばらく来ません」
「なら、それでええ」
ボルドは、椅子を元の向きに直した。
自分が座って傾けたぶんを、両手で持って戻した。
◇
ボルドは、家のほうへは行かなかった。
小屋に寄って、鎌を取って、東のはずれに歩いていった。
草に沈む。
しゃ、しゃ。
麦のときより、音が重い。草は水を含んでいて、倒れても跳ねたりしなかった。
ノエは、畦道に座って見ていた。
座ってから、しばらく立てなかった。
空の赤いところが、少しずつ細くなっていく。
草の丈も、少しずつ下がっていく。
杭の頭が、一本、出た。
二本目が出た。
四本、全部出るまでに、暗くなった。
ノエは、そこまで歩いた。
「ボルドさん」
「なんだ」
「この一枚、帳面には、誰の名前で書いてありますか」
ボルドは、鎌の刃を草の束で拭いた。
「なんも書いとらん」
拭いてから、村のほうを見た。
家の灯りが、二つ、三つ点いている。
「けどな。村の者は、みんな知っとる。ここは、俺のだ」
「じゃあ、明日、測ります」
「……好きにしろ」
「ボルドさんの名前で、書きます」
ボルドは、しばらく黙っていた。
「そうしろ」
ノエは、四本の杭のほうを見た。
帳面に、名前がない。
それでも、誰も、この一枚に鍬を入れなかった。
三年、入れなかった。
村じゅうが、知っているから。
ノエは、体の向きを変えた。
ゲルダの畑のほうだった。
暗い。丈の低い麦は、見えない。
見えなくても、どこにあるかはわかる。
この村の全員が、わかる。
──書けるじゃないか。
掌が、熱くなった。
板を持ち直した。持ち直したところで、指が滑った。
「ボルドさん。もう一つだけ、いいですか」
「まだあるのか」
「ゲルダさんの畑、春に起こしたのは、誰ですか」
「俺だ」
「その前は」
「ドゥガさんだ。去年の秋に死ぬまで、あの人が起こしとった」
「あの畑の株を抜いたのは」
ボルドは、鎌を肩に載せた。
「ドゥガさんだ。俺も手伝った。おまえの親父もおったし、トバもおった」
ノエは、書かなかった。
暗くて、書けない。
口の中で、三度繰り返した。
三度で、入った。
「ありがとうございます」
「なんの話だ」
「まだ、わかりません」
ボルドは、鼻から息を出した。
それから、また草を刈りはじめた。
しゃ、しゃ。
ノエは、村のほうへ歩き出した。
家の灯りが、二つ、三つ。その向こうに、もう一つ。
八戸。大人が、二十人あまり。
──明日から、一軒ずつ回る。




