17話
麦の穂が、少しずつ下を向きはじめていた。
青が抜けて、白っぽい黄が混じっている。畦道を歩くと、穂の先が手の甲に当たった。
門の柱に、ガロンが立っていた。
荷はない。腹に巻いていた縄も、もうない。
「歩いて帰る」
「六日後には、返事が来ますよ?」
「麦があるからな」
ガロンは、坂の下を見た。
朝の光が、道の土を白く浮かせている。
ノエは、その足元を見た。
履き物の底が、両方とも地面についている。
「ノエ」
「はい」
「トバさんに、言うといてくれ」
「なんて言いますか」
ガロンが、口を開けた。
しばらく、そのままだった。
「……なんも思いつかん」
「じゃあ、そう書いておきます」
「そう、とは」
「なんも思いつかん、と」
ガロンが、笑った。
笑い方は、やっぱりうまくなかった。
坂を下りていく。土埃は、立たなかった。
◇
紙が、十二枚になった。
畑を一枚測るのに、半日かかる。村の八戸のうち、残りは二軒だった。
ノエは井戸の縁に腰かけて、束を数えた。
人差し指の腹が、乾いて縦に割れている。紙の端が、そこに引っかかった。右手の中指の関節は、押しても痛くなくなっていた。硬いところが、少し広がっている。
井戸の水面が、遠かった。夏になると下がるのだと、去年も誰かが言っていた。
「次は、ゲルダさんとこだな」
デュラだった。歩幅が小さい。
「ゲルダさんの畑って、誰が起こしてるんですか?」
「回しとる」
「回すって?」
「一人じゃ起こせんだろう? あの体じゃあ」
デュラは、指を折りはじめた。
「春の起こしは、ボルド。蒔きは、うち。草はセルグんとこと、テッサんとこで半分ずつだ。夏の水は、また、うち」
「決めたの、誰ですか」
「わしだ」
デュラは、指を折ったまま止まった。
「旦那が死んだ年に、寄合で決めた。順番を決めんと、誰かに負担が行くからな」
ノエは、板を膝に載せた。
「書いておきます」
「そんなもん、書くのか」
「書いておきます」
デュラは、途中で二度、順番を言い直した。
◇
ゲルダの畑は、村でいちばん小さい家の裏から、なだらかに下っていた。
畝の幅が、途中で変わっている。
道に近いほうが広い。奥へ行くほど、狭くなっていた。
草は、一本も立っていない。ただ、麦の丈が村のどこよりも低かった。みんな自分の畑を先にやるから、ここの起こしはいつも最後になる。蒔くのも、そのぶん遅れる。
鍬が二本、小屋の壁に立てかけてある。
一本は柄が短く切ってあって、先が丸くすり減っていた。
もう一本は、ずっと大きい。刃の付け根から柄にかけて、蜘蛛の巣がかかっていた。
ボルドが、棒を倒した。
かたん。
土がやわらかくて、音が鈍い。ノエは、小石を一つ右手へ移した。
「北は道ですね。南は──」
「沢のこっち側までだよ」
ゲルダが、戸口から言った。前掛けで手を拭いている。
「東は?」
「セルグさんとこ。西は、うちの井戸のほうまで」
「井戸は、動きませんね」
「動かんだろ、井戸は」
ボルドの声が、いちばん大きかった。
ノエは、四至を書いた。棒の数を入れて、下に立ち会いの名前を並べる。
セルグ。テッサ。デュラ。ボルド。トバ。
いちばん上に、ゲルダ、と書いた。
書いてから、顔を上げる。
「ゲルダさんの畑、でいいですか」
「あたしの畑だよ」
ゲルダは、そう言って笑った。
目尻の皺が、深いところで一度、折れた。
それから、湯の桶を提げてきた。
「足を出しな」
「まだ、汚れてませんから」
「いいから、さっさと出すんだよ」
◇
六日目の昼、坂の下から土埃が上がった。
がらがら、がらがら。
ハンナが飛び降りるより先に、テッサが門を出ていった。
「どうだったんだい?」
「通ったよ」
馬が首を振って、鼻を鳴らした。
テッサが両手を打った。デュラが村長の家のほうへ走った。走り方が、いつもより速かった。ボルドが何か叫んで、それは言葉になっていなかった。
ノエは、荷台の縁に手をついた。
うれしかった。
通った、と思うより先に、体のほうが軽くなっていた。膝から力が抜けて、そのまま地面に座り込みそうになる。
「窓口の男が、判を捺したよ」
ハンナが、額の布を外して絞った。
「四至が入っとる、立ち会いも三人おる、よし、と。それだけ言って、判を持ち上げてね」
ハンナは、手のひらを卓を打つ形にした。
「ごとん、って鳴った」
「ごとん」
「あんなにごつい判子は初めて見たね」
ノエは、門のほうを見た。
柱の下に、誰も立っていない。
麦が、風で一斉に鳴った。穂の重みで、鳴り方が春とは違っていた。
「ガロンさんは、六日前に帰りました」
「知らせは行くはずだよ。判が捺されたなら、次の巡回で村長に伝わるんだって」
ハンナは布を巻き直して、荷台の板を平手で一度叩いた。
「──それとね」
「はい」
「あんたんとこ、代官が来るってさ」
テッサの声が、途中で止まった。
「窓口で聞かれたんだよ。ノーラってのはどこだ、って。街道の北だと言ったら、奥から地図を出してきた」
ハンナは、指を二本立てた。
「トバさんの名前を、二度聞かれた。書き取ってたよ」
それから、御者台に上がった。
「あたしは北へ行くよ。十日も止めてたんだ。また来るのは、ちょっと先になるからね」
「代官さんは──」
「あたしに用があるんじゃ、ないからね」
がらがら、がらがら。
坂を下りる音が、麦の向こうで遠くなった。
◇
三日、村が落ち着かなかった。
テッサが家の壁の埃を落とし、デュラが井戸の縁を洗った。ボルドは新調した外套を出してきて、日に干した。
「それ、一着しかないんじゃないのかい?」
「洗ったら、着るもんがなくなるからな」
「干してるだけかい」
「悪いか?」
村長の家へ紙を届けに行くと、卓に埃が薄く乗っていた。
窓の光が、その上を斜めに横切っている。
トバは、卓の向こうで腕を組んでいた。顎に手をやって、そのまま動かない。
ノエが紙を置いても、こちらを見なかった。
◇
馬が二頭、坂を上ってきた。
外套は灰色ではなかった。黒に近い、濃い色をしている。裾に泥がない。
後ろの馬から、若い男が先に降りた。
「代官所より、マルテ・ヴェッセン様だ」
村の者が、道の両側に立った。誰も喋らなかった。
前の馬から降りた男は、背が高くなかった。顎に短い髭がある。目の下が、うすく黒い。
その人は、まず麦を見た。長いあいだ見ていた。それから、村を見た。
「村長は?」
トバが、前へ出た。
「わしです」
「貴殿がトバ殿か」
空気が、変わった。
テッサが、口を開けた。
開けて、閉じた。
デュラの、いつもの閉じ方に似ていた。
ボルドが下を向いた。ゲルダが前掛けの端を握った。
誰も、何も言わなかった。
「ラントの書付を、貴殿の名で受けた」
代官は、手袋を外していた。指が細い。爪が、きれいに切ってある。
「開拓の村から四至の入った書付が届いたのは、初めてだ。しかも、他村の男のものを、村長が銭を出して届けてきた。どういう了見だ?」
トバが、咳をした。
「……あれは、うちの下見です」
「下見か」
「はい」
トバは、いつもより掠れた声で、ゆっくり区切って答えている。
「うちも、来年、年季が明けますで。ラントの書付が通れば、このやり方でええということになります。そういう、腹づもりで」
代官がトバを見た。
しばらく、じっと見ていた。
「己の村が来年当たる壁を、先に他村で試したのか」
トバの手が、こめかみで止まった。
「そこまで先を見て動く村長は、この管内では貴殿くらいだろう」
テッサが、後ろで音を立てた。
ノエが振り返ると、テッサは急に麦のほうを向いていた。肩が、細かく動いている。
トバは、口を開けたままだった。
頬から耳の先まで赤くなっている。
それから、咳をした。三度した。
◇
代官は、畑を歩いた。
畝に沿って歩き、途中で止まって、土をつまんで指で潰す。それを二度やった。
若い男が、後ろから帳面を差し出す。代官は受け取らなかった。
ノエが両手で抱えた紙束を見ている。
「その紙は?」
静かな声で、そう言った。
ノエは、いちばん上の一枚を差し出した。
代官が受け取って、目を落とす。
しばらく、動かなかった。
「これは、誰が書いた?」
「僕です」
「誰に言われて?」
「村長さんです。秋までに、村じゅうの畑をやれと」
代官が、顔を上げた。
一つ頷いて、トバに目をやる。
トバは、顎を撫でていた。
「……そのように、言いました」
「十四枚か?」
「はい、十四枚です」
代官は、紙を一枚ずつめくった。指も舐めずに素早くめくって目を通している。
風が来た。紙の端が反って、代官が親指で押さえる。
「棒を倒して測ったのか?」
「はい」
「街の縄張り屋と同じやり方だな」
代官は、紙の束を若い男に渡した。
それから、はじめてノエのほうへ体を向けた。
「一つ聞く。あの男は、なぜ巡回の書記に託さなかった?」
「……託せるんですか?」
「当然だ」
代官の眉が、わずかに寄った。
「書付は書記が集め、代官所へ持ち帰る。それが書記の仕事だ」
「知りませんでした」
「窓口の者が覚えておったのだ。春に、履き物の壊れた男が、書付も持たずにきたので帰ってもらったと」
若い男が、帳面を開いた。開いただけで、何も読まなかった。
「ラントの村なら、四日歩いて、追い返されて、また四日歩いたことになるな」
代官は、道の先を見た。
坂の下まで、道が続いている。
「税が免除の間は、書記は生き死にしか聞かん。他に何かを聞かれたり、書記が言ったりしたというのも聞かん。言わんものは、伝わらんよな」
それきり、その話はしなかった。
◇
ゲルダの畑の前で、代官が止まった。
若い男が、帳面をめくる。厚い帳面だった。紐で綴じてある。
紐のところが、黒く光っていた。
「この畑は?」
「ゲルダさんのです」
若い男の指が、止まった。
「……ドゥガのものとなっております。去年の秋に、死んでおりますな」
代官が、畑を見た。
畝が、道の側から沢の側へ、まっすぐに伸びている。丈の低い麦は、風が吹いても鳴らなかった。
「耕しておるな」
「みんなで、やってます」
ノエは、紙を出した。
「順番が決まってます。春の起こしはボルドさん、蒔きはデュラさん、草刈りはセルグさんとテッサさんで半分ずつ。夏の水は、またデュラさんです。書いてあります」
代官は、その紙を見なかった。
「みんなでは、誰のものにもならんな」
ゲルダが、前へ出た。
小さい人だった。代官の肩までしかない。
「ここはあたしの畑だよ」
代官は、帳面のほうを向いていた。
答えたのは、若い男だった。
「帳面にございませんので」
「四年、耕してるよ。旦那と、あたしとで」
「畑は、帳面の名で見るものです」
若い男は、紙面から目を上げなかった。
「この村は、来年、年季が明けますな。畑ごとに、名の記された者が届けを出す。出た畑は、その者のものになります。名の出ぬ畑は──」
「無主の地だ」
代官だった。
ノエは、その音を口の中で受けた。
ムシュ。
風が、麦の上を渡っていった。
「期を過ぎれば、領主様に還る」
ゲルダが、前掛けの端を握った。
ノエは、口を開いた。
「あの、ガロンさんのときみたいに、届けを書けばいいんじゃないですか?」
代官が、こちらを向いた。
「息子がおるのだろう?」
誰も、答えなかった。
若い男が、帳面の頁を戻した。
「亡くなった者の畑は、まず子に移ります。子がおらぬときに、妻へ」
「息子はどこにおるのだ?」
「……わかりません」
ノエが答えた。
「三年前に、一度だけ手紙が来ました。それきりです」
「生きておるのか?」
「……それも、わかりません」
代官は、しばらく黙っていた。
鳥が、沢のほうへ低く飛んでいった。
それから、若い男に帳面を閉じさせた。
「生きておるか、死んでおるか」
馬のほうへ歩き出す。
「どちらかを、書いて出せ」
◇
馬の音が、坂の下へ消えた。
村の者は、道に立ったままだった。
日が傾いて、麦の影が畦道を横切っている。誰かの影と重なって、どちらのものかわからなくなっていた。
「……死んだことに、すりゃいいじゃないか」
テッサだった。
影を見たまま、いつもより早口で喋っている。
誰も、ゲルダのほうを見なかった。
「三年だよ。三年、なんにも来ないんだ」
テッサは、ゲルダの腕に手をかけた。
「そう書けば、畑は残るんだろ。一言だよ。一言、書くだけだ」
「テッサ」
ボルドだった。
畑のほうを向いたままだった。
「うるさいね。あんた、じゃあ──」
「テッサ」
もう一度、言った。
声は、小さかった。
ボルドがそんな声を出すのを、ノエは聞いたことがなかった。
テッサの手が、ゲルダの腕から離れた。
ゲルダは、道の先を見ていた。
坂の下まで、道が続いている。
ゆっくりと、首を振った。
一度だけだった。
◇
その日の夕方、ゲルダが家に来た。
戸口の前の椅子に座る。
かたん、と鳴った。
ノエは、その前に膝をついた。土が、膝から冷たく上がってくる。
家の裏から、霧草の匂いが漂って来ていた。母が、もう火にかけている。
「ノエ」
「はい」
「手紙を、書いておくれ」
ノエは、板を取った。
「どなたに書きますか」
「ドランに」
筆を持つ手が、止まった。
「……宛先が、わからないと──」
「わかってるよ」
ゲルダは、膝の上で手を組んでいた。指の節が、白い。
「届いたって、あの子が読めないことも、知ってるよ」
風が、家の裏から来た。
畑のほうで、麦が鳴っている。ゲルダの畑では、あの音が鳴らない。
「でもね」
ゲルダが、顔を上げた。
「あたしが死んだあとに、あの子が帰ってきたら……何も置いてなかったら、あんまりじゃないか」
ノエは、紙を膝に置いた。
置いてから、しばらく、何も書けなかった。
◇
次の日、ノエは東の森へ入った。
沢を二つ越える。倒木の上で、一度足を止めた。息が上がっていた。
本の家の中は、いつもどおりだった。
外の音が、何ひとつ届かない。高窓から、光が斜めに落ちている。
棚から『官語辞典』を下ろす。両手でないと運べない。
代官の言った音を、口の中で繰り返した。
ムシュ。
片眼鏡を、目に当てた。
薄い琥珀色ごしに、紙の上の文字を見る。
丸い文字が、丸いまま並んでいた。
……並んだままだった。
ノエは、まばたきをした。
息を、二つした。
三つ目のところで、文字が動いた。
巻を三つ引いて、見つけた。
──無主。所有の主が定まらぬものをいう。田畑にあっては、届けを出す者の名が帳に無きものをこれに当てる。無主の地は、期を過ぎれば領主に還る。
ノエは、その行を指でなぞった。
なぞっても、字は動かなかった。
紙の上には、名前しか要らない。
畝の幅も、鍬が二本あることも、順番も、要らない。書いてある紙を、あの人はさっき見なかった。
こわかった。
高窓の光が、床の上で、少しずつ細くなっていった。
ノエは、片眼鏡を外した。
外してから、また掛けた。




