52話
ばしん、と音がして、納屋の前に広げた穂が跳ねた。
父のからさおだった。二本の棒を革ひもでつないだ道具で、長いほうを握って振り下ろすと、先の短いほうがくるりと回って穂を打つ。
ばしん。ばしん。
向かいでは、母が同じからさおを振っている。父が打つと、母が打つ。二つの音が、かわるがわるに鳴る。
刈りあとの畑には、もう束は一つも立っていない。白い株の切り口が、畝に沿って並んでいるだけだった。
打ちおえた藁を集めるのは、ノエの役目だった。穂の落ちた藁を両腕でかき寄せて、ひと抱えずつ縄で結ぶ。紙の束をくくるときの、あの結び方だ。結んだ束は、納屋の壁に立てかけていく。
壁ぎわの束が一つ増えるたびに、ノエは坂のほうへ目をやった。
坂の下の道には、誰もいない。
「ハンナさんなら、そんなに見てたって早くは来ないよ」
母が、からさおを止めてこちらを見ていた。口の端が上がっている。
ノエの手が止まった。藁に回しかけた縄が、輪のまま指に引っかかっている。
「……そんなに見てません」
「見てたよ。束を一つ結ぶたびに、一回ずつ」
ノエは、輪になった縄を見下ろした。
「……ハンナさんに、話したいことがあるんです。僕の名前が館へ回ったことと、それから、届いた紙束の結び目のことです」
「結び目の話ってなんのことだい?」
「代官所から帰ってきた束が、ハンナさんに教わったのと同じ結び方だったんです。トバさんの指じゃほどけなくて、でも、上の輪を起こしたら──」
言いながら、声がどんどん早くなっていく。
母は、からさおの柄に顎をのせた。
「館のほうが、ずっと大ごとだろうに」
「ハンナさんは、結び目のほうを喜ぶと思います」
母が、父のほうを見た。父は穂を打つ手を止めずに、口の端だけを上げていた。
「……そうかい。そりゃ、早く話さなきゃね」
母はまた、からさおを振り上げた。ばしん。打たれた穂から、麦の粒がぱらぱらとこぼれ落ちる。
しばらくして、父がからさおを下ろした。足もとの粒をひとつまみ拾って、両手のひらでもむ。ふっと息を吹くと、殻が風に乗って散った。
父は、手のひらに残った粒をノエの手のひらに移した。
粒は、どれも丸くふくらんでいた。指で押しても、つぶれない。
「……ええ麦だ」
「去年は、粒が小さいなって、三回言ってましたよね」
「……そんなに言ったか?」
「刈ってるときと、打ってるときと、蔵に入れるときです」
母が、ぶっと吹き出した。
「言ってた、言ってた。蔵の前で、袋を叩きながらね」
父は鼻の頭をかいた。それから、もうひとつまみ粒を拾って、ノエの手のひらに足した。
「なら、今年は、ええ麦だと三回言っとくか」
ノエは、粒の増えた手のひらをそっと握った。
◇
藁を片づけおえると、ノエは井戸へ手を洗いに行った。
門の前を通りかかると、柱の根もとに、トバがしゃがんでいた。
足もとに、水を張った桶がある。トバは濡らした布を絞っては、柱を下から上へこすっていた。
木で組んだだけの門だった。皮をはいだ丸太を二本立てて、上にもう一本渡してある。手をつけば、土埃の手形が残る柱だ。
トバがこすったところだけが、水を吸って黒くなっていく。
「トバさん。何してんだい?」
麦の粒を入れた籠を腰に抱えて、テッサが通りかかった。
「……門が、汚れとったでな」
「門ってのは、汚れるもんだろ」
テッサは柱とトバを見比べた。それから、ノエを見た。
「……もしかして、巡回の日にノエが門のとこで書記さまに何か言われてたのと、関係あるのかい?」
トバが、ごほん、と咳をした。布を握った手は、柱に当てたまま止まっている。
ノエも、何も言わなかった。
テッサはしばらく二人の顔を見ていた。それから、籠を揺すり上げた。
「ま、いいさ。しっかり磨いときなよ」
それだけ言って、テッサは歩いていった。一度だけ振り返って、門の柱を見ていた。
トバは、テッサの背中が畑の向こうへ見えなくなるまで、布を握ったまま動かなかった。
それから、柱をまたこすりはじめた。さっきより、ずっと強く。
「館の使いは、馬で来るだろうからな」
トバは柱を見たまま言った。
「馬の上からだと、まず上のほうが目に入るんだ」
トバは立ち上がって、上に渡した丸太へ布を伸ばした。背伸びをしても、指の先が丸太の下の面に少しかかるだけだった。
◇
坂の下に、荷馬車が見えた。
「ハンナさんだ」
ノエは、門の外へ一歩出た。
ぴしゃん、と水がはねた。トバが、布を桶に落としていた。
「館の使いか?」
二人は、顔を見合わせた。
「……荷馬車ですよ。館の人は、馬で来るって、さっき」
「荷馬車で来ることも、あるかもしれんだろう」
トバは膝の土を払って、シャツの襟を両手で引っぱった。
荷馬車は、坂を上ってくる。
ノエは、口の中で言うことを確かめた。
──書記さまも、ハンナさんと同じ結び方でした。
隣では、トバが小さく口を動かしていた。
「……ノーラの村長、トバでございます。遠いところを、ようこそ……ようこそ、おこしくださいました……」
荷馬車が、坂の半ばを過ぎた。
御者台の上に、赤いものが見えた。
頭巾だった。
トバの肩が、すとんと落ちた。
ノエは、口の中に用意していた言葉を、そのまま飲みこんだ。
荷馬車は門の前で止まった。御者台の男が頭巾を脱いで、髪をかき回す。
「やあ、戻りましたで」
カルスは、門の前に並んだ二人を見下ろした。引っぱって整えたトバの襟を見て、それから、ノエの顔を見る。
「……お二人とも、わしを待っとった顔では、ないようですな」
トバが、ごほん、と咳をした。
「いや、待っとったよ。……塩をな」
「……僕は、ハンナさんを」
カルスは、声を出して笑った。
「そりゃあ、すまんことで」
◇
カルスは、街道と井戸のあいだにある自分の小屋の前に荷馬車をつけた。
荷台には、塩の壺がいくつかと、巻いた布と、鍬の刃が積んである。そのすき間に、空の麻袋がたたんで重ねてあった。
「刈り入れのあとは、麦と替えるのがいちばん早いですでな」
カルスは、荷台の端に升を一つ置いた。
話を聞きつけた家から、順に人がやってきた。母も、麦の袋を胸に抱えてきた。
袋の口が開くと、カルスは升を麦の中へ差しこんだ。山盛りにすくい上げてから、短い棒で升の縁をすうっとなでる。盛り上がったぶんの麦が、さらさらと袋へ戻っていった。
カルスは升の麦を指でつまんで、しばらく眺めていた。
「塩なら、壺に八分目ですな」
母の手が、袋の口の上で止まった。
「……八分目って、あんた。去年は半分ちょっとだったじゃないか」
「去年と今年じゃ、粒が違いますで。これなら、街へ持っていってもええ値がつきます」
母は升の中の麦を見下ろした。手のひらですくって、指のあいだからさらさらとこぼす。もう一度すくって、またこぼす。
そこへ、父が麦の袋をもう一つ担いでやってきた。
「あんた、聞いとくれよ! 八分目だってさ! 去年は半分ちょっとだったのに!」
母が、父の腕をばしばしと叩いた。
父は袋を担いだまま、升とカルスの顔を見比べた。
「……去年の、倍近いじゃないか」
「粒がようそろうとりますで」
父は、しばらく何も言わなかった。袋を足もとに下ろして、鼻の頭をかく。
それから、ノエのほうを見た。
「……な。ええ麦だったろう?」
「二回目ですね」
母が、また吹き出した。父の耳の先が、赤くなっていく。
「……うちの麦だからね」
母は塩の壺を受け取ると、蓋の上から一度、手のひらでぽんと叩いた。
ノエは、自分で打った麦でもないのに胸を張りたくなった。
カルスが母の袋の口を縛りおえたところで、ノエはそばへ寄った。
「あの、カルスさん。どこかで、ハンナさんに会いませんでしたか?」
「ハンナさんなら、宿の向こうで行き会いましたで」
カルスは、縛った袋を荷台の奥へ押しこんだ。
「荷台に、麦の袋を山ほど積んどりましたな。刈り入れのあとは、どこの村も麦を運び出しますで。運送屋にとっちゃ、一年でいちばん忙しいころでしょう」
「……そうですか」
ノエは坂のほうへ顔を向けかけて、やめた。
「言伝でも、ありましたかな?」
「いえ。……今度来たときに、自分で話します」
カルスは、ノエの顔を少しのあいだ見ていた。
「……ほう」
それだけ言って、次の家の袋に升を差しこんだ。
◇
日が傾くころには、荷台の塩の壺は半分に減っていた。
カルスは空いた壺を荷台の隅へ寄せている。トバも、まだそこにいた。用もないのに、小屋の柱にもたれている。
ボルドが立てた、少し傾いた柱だ。
「そういや、宿の井戸のまわりでノーラの話を聞きましたで」
カルスが、壺を寄せる手を止めた。
「縄張り屋を呼ばんで、判の捺された届けをもろうた村がある、と」
トバの顎が、少しだけ上がった。
「ところが、宿を出るころには、それがこうなっとりました」
カルスは、指を一本立てた。
「──ノーラの代筆屋に頼めば、縄張り屋は要らんくなる」
トバの顎が、もとの高さに戻った。
ノエは、目を丸くした。
「……測ったのは、父さんや村の皆さんです。棒を倒したのも、小石を数えたのも、僕じゃありません。僕は、書いただけです」
「でしょうな」
カルスはうなずいた。
「宿の衆も、そう言うとりましたで。ノーラの代筆屋に何を聞いても、書いただけです、としか言わんそうな」
ノエは、カルスの顔を見上げた。
「……じゃあ、何て言えばいいんですか?」
「さあ。何と言うても、同じことでしょうな」
カルスは笑って、頭巾をかぶり直した。
「それと、もう一つ」
カルスは荷台の縁に手をかけたまま、坂のほうへ目をやった。
「宿の先の分かれ道で、道を聞かれましてな。ノーラへは、こっちの道でええのか、と。それから、ノーラの代筆屋の家は、村のどのあたりか、と」
「どんな人でしたか?」
「わしより、いくつか年かさの男でしたな。肩に、長い棒を担いどりました。荷台に乗っていかれますか、と聞いたんですが、断られました」
トバが、柱から背中を離した。
「……今の話のあとで、それを言うのか」
「さあ。わしが聞いたのは、それだけですで」
カルスは鼻の頭をかくと、空いた壺を抱えて小屋の中へ入っていった。
戸が閉まると、小屋の前には、トバとノエだけが残った。
「縄張り屋は要らん、なんぞと言いふらされたあとに、棒を担いだ男が、代筆屋の家を探しとる……」
トバは、坂のほうを見ていた。
「……怒鳴りこみに来るんじゃあるまいな」
それから、ノエのほうへ向き直った。
「ノエ。その男が来たら、まっすぐお前のとこへ行かせるんじゃないぞ。まず、わしを呼べ。怒鳴られるなら、村長が先だ」
ノエは、自分の手を見下ろした。中指の横に、墨の染みがある。
「……でも、届けを書いたのは、僕です」
「怒鳴られてもか?」
「怒鳴られるのは、こわいです」
ノエは、トバの顔を見た。
「でも、書いたのは、僕です」
トバは、しばらくノエの顔を見ていた。それから、長い息を吐いて、肩を揺らして笑った。
「なら、二人で怒鳴られるとするか」
トバは、門のほうへ歩きだした。二、三歩行ったところで、振り返る。
「……その前に、門をもうひと拭きしとくか」




