第9話 心像
モキュメンタリーってさ、知ってる?
ドキュメンタリーのふりをした作り物のこと。本物の記録映像みたいな顔をして、最初から最後まで全部嘘。ここ何年か、ホラーの世界じゃこれがやたらと流行ってるんだよね。
テレビの深夜枠でも、ネットの配信でも。素人が撮ったみたいな手ぶれの映像に、古いビデオテープの粗い画面。それっぽい証言者に、それっぽい黒塗りの資料。……うまくできてるのは認めるよ。俺みたいなおっさんでも、夜中にひとりで見てると、ちょっと背中が寒くなる。
少し前に、その手の番組の新作が始まった。
番組名は伏せとく。調べればすぐわかるだろうけど、俺の口から言うのはやめとくよ。
深夜の地上波で全何回かのシリーズ。今回も評判は上々だったらしい。本物みたいな空気。見ちゃいけないものを見てる感じ。何が起きてるのか最後まではっきりしない、あのもやもや。前作からのファンも、だいぶ盛り上がってたって。
ちょっとした騒ぎになったのは、第一回の放送のあとXに上がったひとつの投稿からだった。
番組の中に、本物の心霊現象が映ってる——。
まあ、よくあるやつでさ。作り物の中に本物が紛れ込んでるってのは、この手の話の定番中の定番。どうにかして作品に新しい意味を見つけて、怖さを一段上乗せしたいっていう、ファンの涙ぐましい努力ってわけ。
しかも番組の作りが作りだからね。そういう仕掛けは作る側がいくらでも仕込める。向こうはプロなんだし。考察好きの視聴者へのサービスとか、宣伝を兼ねたちょっとした遊び心とか。そう思えば別に目くじらを立てるような話でもない。
……それが、画面の中だけで済む仕掛けなら、の話だけど。
今回の騒ぎは、ちょっと種類が違った。
画面に何かが映ってるとか、変な声が入ってるとか、そういうのじゃないんだよね。
番組を最初から最後まで通して見た人には、何も起きない。
たまたまチャンネルを替えた拍子にある場面だけを見ちまった人。その一部分だけを切れ切れに見た人。そういう人にだけ、ある現象が起きる——って話だった。
凝った演出だな、と最初は感心したよ。
ただ、すぐに引っかかった。そもそもそんなことができるのか。できたとして、許されるのか。
というのも、その現象ってのが見た人の頭の中に残っちまう類のものだったからさ。見てる人が気づかないような細工で、何かを頭に刷り込む。そういうやり方はテレビの放送基準じゃとっくに禁止されてるはずなんだよ。昔そういうのが問題になったことがあって。
だったら確かめればいい、と思うでしょ。ところが、これがやっかいでね。
録画で見ても、何も起きない。見逃し配信で見ても起きない。誰かが勝手に切り抜いてネットに上げた動画——こっちの方がよっぽど違法なんだけど——それを見ても、やっぱり何も起きない。
起きたのは、放送のあった晩に電波に乗って流れたその番組を、その場面だけ見た人たちだけ。
つまり、もう誰にも確かめようがないわけ。
確かめようとするなら、あの晩あの時間にテレビの前にいた人間を、ひとりずつ探し出して話を聞くしかない。
気が遠くなりそうな泥仕事だ。俺の仕事じゃなくて、よかった。
……と、思ってたんだけどね。
前にも言ったけど、俺はごく普通の私立探偵でさ。霊だのオカルトだのとは本来、爪の先ほども縁がない。
それが、辻と関わるようになってからこっち、どういうわけかこの手の“労働”ばっかり増えていく。
まったく。
で、その現象の中身。
人によって言い方は少しずつ違うんだけど、共通するところをつなぎ合わせると、だいたいこうなる。
番組の第一回、始まって十三分くらいのところで、古いVHSの映像が流れる。
晩秋か、初冬か。葉の落ちた山を背にした一軒の古い民家。その前に女の人がひとり、カメラの方を向いて立ってる。それだけの場面。この手の番組じゃ、まあ、ベタなシーンだよね。
問題は、民家でも女でもない。
後ろの、山なんだって。
映像には何も映ってない。それは、みんな口を揃えて言う。
なのに、あの場面を見てから目を閉じると、ふっと浮かぶんだそうだ。
山の中。葉の落ちた木と木の間に、女がひとり、立ってる姿が。
もちろん、映像の中の山はただの背景でさ。民家からもずいぶん離れてて、木の一本一本なんか見分けられるわけがない。人が立ってたって、豆粒にもならない距離。
それなのに、みんなその景色を細かく話せるんだよ。
冬枯れの木の骨みたいに細い枝。ひび割れた樹皮のざらざらした手触りまで。足元に積もった枯れ葉の色。自分がどの角度から、どのくらいの距離でそれを見てるのか。女がどの木とどの木の間に立ってるのか。
着てるものも、覚えてる。くすんだ色の、裾の長い服。着物とも洋服ともつかない、見たことのない形。
細かいところは人によってばらばらだけどね。それでも、大筋はぴたりと揃ってる。
ただ、ひとつだけ。
誰ひとり、女の顔を思い出せないんだって。
女だってことはわかる。服も、立ってる場所もわかる。なのに、顔のところだけがどうしても浮かんでこない。
女は、何もしない。
カメラの方を向いてるのか? いや、違う。目を閉じて思い浮かべてるんだから、カメラなんかどこにもない。
女はそれを思い浮かべてる人間の方を向いて、ただ、立ってる。
それだけ。
何日たっても、何週間たっても、消えない。
それが、ある日突然ほとんどの人の頭から、ふっといなくなったんだそうだ。
ほとんどの人の、ね。
ちょっと、話がそれるけど。
赤いリンゴを、ひとつ思い浮かべてみてよ。目を閉じて。
形はなんでもいい。つやつやでも、ちょっと傷があっても。
浮かんだ?
じゃあ、聞くけど。今、そのリンゴをあんたは目で見てる? それとも、見てない?
目は閉じてるんだから、見てるはずがない。でも、確かに見えてる。こういうのを心像っていうらしい。なんでも、目は使ってなくても、頭の中の「見る」ための場所はちゃんと働いてるんだって。
もうひとつ。
今度は、シロクマを一頭、思い浮かべてみて。
浮かんだら、そのシロクマのことを今すぐ頭から追い出してほしい。もう二度と、考えないで。
……どう?
消えないでしょ。消そうとすればするほど、かえってはっきりしてくる。昔、どこかの学者がそういう実験をやったらしいよ。人間の頭ってのはそういうふうにできてるわけ。
覚えといて。あとで、ちょっと関係あるから。
話を戻すよ。
こういう噂には、たいてい尾ひれがつく。
私も見た、俺も見た。見た人は一年以内に死ぬ。女の顔を思い出したら終わり。……そういうのが雪だるま式に転がって、膨らんでいく。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、もう誰にもわからない。
当然、テレビ局も制作会社も、噂は全面否定した。
しまいには番組のディレクターまであるネットの雑誌のインタビューに出てきてさ。そんな仕掛けは一切していない、スタッフにも同じ目に遭った人間はひとりもいない、ってきっぱり釘を刺した。
で、ここで終われば、ホラー界隈によくあるちょっとした騒ぎで済んだわけ。
はい、終わり。チャンチャン。お疲れさまでしたー。
……済まなかったんだよ、これが。
最近はさ、事務所のドアの向こうから聞こえてくる足音だけで、誰が来たのかわかるようになっちまった。
どすどすと、遠慮のかけらもない、無駄に元気な足音。
来るな。来るな。頼むから、今日だけは来ないでくれ。
切実な願いが毎回叶うようなら、世の中はもっとめちゃくちゃになってるんだろうけどね。少なくとも、俺の身の回りだけはもうちょっと平和になってたはずでしょ。
ドアが開いた。
辻は挨拶もなしに、いきなりスマホの画面を俺の鼻先に突きつけてきた。
「これ、知っとるか」
例の、Xの投稿だった。
「……さあ。何それ」
「嘘つけ。顔に書いてあるわ」
知ってるに決まってるじゃん。
あの騒ぎを眺めながら、俺はずっと祈ってたんだよ。どうか、辻の目にだけは留まりませんように、って。
「お前、ほんま顔に出るな。探偵やろ」
「お前相手に隠したって、どうせ無駄だからね。省エネってやつ」
「なんやそれ」
辻は勝手に客用のソファに腰を下ろした。
辻の依頼人が、この騒ぎの当事者のひとりだった。
三十過ぎの女性で、会社勤め。仕事も私生活も、手を抜くってことができない、とにかく真面目な人らしい。
放送のあった晩、残業から帰ってきて、なんとなくテレビをつけた。チャンネルを替えていく途中で古いビデオの映像が目に入った。山と、民家と、女の人。一分も見ないうちに、なんだか気味が悪くなってすぐに消したんだって。
その夜から、目を閉じると、山が見える。
ネットの噂は、ほとんど本当だった、と依頼人は言ったそうだ。
ほかに同じ目に遭った人と、会ったことも連絡を取ったこともない。ただ、書かれてることが自分の頭の中とそっくり同じだった。木の枝。枯れ葉の色。女の服。顔だけが、ない。
違ったのは、ひとつだけ。
噂では、ある日突然、消えたことになってる。
依頼人のは、消えなかった。
それどころか、と依頼人は言った。
動いてる気がする、って。
目を閉じて、じっと見てる間は、女は動かない。ぴたりと止まってる。
でも、目を開けて、しばらくして、また目を閉じると——何かが、さっきと違う。
ほんの少し、近い気がする。
首の角度が、少しだけ変わってる気がする。
気のせいだと言われれば、それまでの差。でも、毎日見てる本人には、わかるんだって。
シャンプーで目を閉じた時。目薬をさした時。夜、布団の中で、眠ろうとした時。まばたきの、ほんの一瞬。
そのたびに、少しずつ、何かが違う。
それが、つい先日のことだそうだ。
その夜も、布団の中で、依頼人は目を閉じた。
山があった。いつもの、葉の落ちた木々。灰色の空。積もった枯れ葉。
女が、立ってた。前より、また少し近い。
顔のところは、やっぱり、何もない。暗いわけでも、ぼやけてるわけでもない。ただ、そこを見ようとすると、目が滑る。
くすんだ色の、長い袖。
その袖が、動いた。
だらりと下がってた右腕が、ゆっくりと、持ち上がっていく。肘が伸びる。手首が返る。袖口から、細い指が出てくる。
人差し指が一本だけ、まっすぐに伸びた。
その指は、こっちを指してた。
目を閉じて、それを思い浮かべてる、自分を。




