第8話 ありがとうございます
「ありがとうございます」
そう繰り返したおばさんはにこにこ笑ったまま、すっと手を伸ばしてボタンを押し始めた。
二階。三階。四階。五階。下から上まで、全部。ひとつずつ、丁寧に。
「何してるんですか!」
「ありがとうございます」
「ちょっと、やめてください!」
「ありがとうございます」
何を言っても、それしか返ってこない。笑ったまま。
ドアが閉まって、エレベーターが動いた。
二階で止まった。ドアが開いた。
依頼人は転がるように飛び出した。
廊下を非常階段に向かって走った。
背中で、エレベーターのドアが閉まる音がした。それなのに、声は聞こえ続けた。
「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」
それに混じって、どすん、どすん、と重たい音。
エレベーターの中で誰かが跳んでる。
どすん。どすん。どすん。
声と音はだんだん上の方へ遠ざかっていったって。
依頼人はそのまま階段を駆け下りて外に出て、朝まで近くのファミレスで過ごしたんだってさ。
自分には何か憑いてる、間違いない。そう思って、辻のところに駆け込んだってわけ。
辻の話だと、依頼人には確かに憑いてたそうだ。
裸足の女。
例のマンションの九階からずっとついてきてたらしい。
で、辻はいつもの通りにやったわけ。依頼人の右肩のあたりに向かって、地平座標系の話を懇々と。図まで描いて。
依頼人からすれば、初対面のおっさんが自分の肩に向かって地球の自転の話をしてるわけでさ。どんな顔して聞いてたのか、ちょっと見てみたかったね。
女はあっけなく納得したらしい。
依頼人は首をかしげながらも、何度も頭を下げて帰っていった。確かに体が軽くなった気がする、って言って。
話がそこで終わってれば、よくある除霊の話で済んだんだけどね。
その何日か後、辻から電話があった。
「付き合うてくれへんか。その坊主のマンション」
「なんで。もう祓ったんでしょ」
俺はざっと聞かされてた話を思い出しながら言った。
「お前の“名講義”で、アンドロメダだかどこだかまで、すっ飛ばしたんじゃなかったの」
「せや。女は飛ばした」
辻はちょっと間を置いた。
「けどな。坊主が言うとった、エレベーターのおばはん。あれは、どうも別もんな気がすんねん」
「また“気がする”かよ」
「気がするもんは、しゃあないやろ」
……まあ、こいつの“気がする”は外れることも多いけど、当たる時は当たるからね。
依頼人が見たのと同じ、夜中の一時に合わせて行くことになったわけ。
霊ってのは時間に縛られることもあるらしいからさ。夜中の二時になると出る、みたいに。
一時、少し前。
俺たちはマンションの前の植え込みの陰に立ってた。
夜中の住宅街で、おっさんがふたり植え込みに隠れてマンションの入口を見張ってるわけ。どう見たって不審者でしょ。職質されたら何て言うか、来る途中の車でちょっと考えたんだけどさ、まともな言い訳はひとつも思いつかなかった。
霊探偵です、って言うか? 言えるわけないじゃん。
辻の方はそんなことはまるで気にしてない顔で、黙ってエントランスを見てた。
エントランスのガラス越しに、正面のエレベーターが見える。依頼人の言ってた通りの造り。
一時を、少し回った頃だった。
エレベーターのドアが、開いた。
中に、おばさんがいた。
六十過ぎくらいの太った女の人。部屋着みたいな花柄のワンピースに、サンダル。両手をだらんと下げて、こっちを向いて立ってる。
俺には、霊なんか見えない。
見えないはずなのに、遠目に見ただけで、わかったんだよ。
あれは、だめだ。
何がどうだめなのか、うまく言えないんだけどさ。ただ、首の角度が少しおかしかった。笑ってる口の形が少しおかしかった。背中がすっと冷たくなった。
足が、前に出なかった。
俺がそうやって固まってる間に、隣の辻はもう走り出してた。
「ババア、待てや!」
夜中の住宅街に、とんでもない声が響いた。
ドアが、閉まった。
辻がエントランスに飛び込んだ時には、もう遅かった。階数表示の明かりがひとつ、ふたつと上がっていく。
三で、止まった。
そのまま、動かない。
「階段!」
辻が怒鳴って、俺たちはエントランス脇の扉から、非常階段に飛び出した。
マンションの外壁に張りついた、鉄の階段。踏むたびに足の下で、ガン、ガン、と鉄が鳴る。
三階の踊り場まで駆け上がった時だった。
上から、音がした。
どん、どん、どん、どん。
誰かが階段を駆け上がっていく。重たい体で、一段飛ばしに、とんでもない速さで。手すりがその足音に合わせて、びりびり震えてた。
俺は手すりから身を乗り出して、上を見上げた。
折り返す階段と階段の、細い隙間。そこを何かが、ひらっと横切った。
花柄の、ワンピースの裾だった。
ひとつ上の階。ふたつ上の階。瞬きするたびに、裾が一階分ずつ上にずれていく。
手すりをつかむ手は、見えない。足も、見えない。裾だけが、非常灯の下をひらっと横切って、消えて、また上の階でひらっと横切る。
どん、どん、どん、どん。
六十過ぎの、太った女の足音じゃなかった。
あれ、本当に人間か?
本気で、そう思ったよ。
俺たちは後を追った。
四階。五階。六階。
息が上がる。喉の奥が錆びた鉄みたいな味になる。心臓が耳のすぐ横で鳴ってる。膝が笑って、手すりをつかむ手のひらが、汗でずるりと滑る。
前を行く辻の喉も、ひゅう、ひゅう、と笛のように鳴ってた。それでも辻は一度も止まらなかった。
七階。八階。
上の足音も、一度も止まらない。かといって、遠ざかりもしない。見上げるたびに、きっちり二階分だけ上にいる。
まるで、待ってるみたいにさ。
九階。十階。
十一階を過ぎたあたりで、上の方の音が、ふっと消えた。
鉄の震えだけが、しばらく手すりに残ってた。
階段の行き止まり。屋上に出る鉄の扉の前に、おばさんが倒れてた。
仰向けで、目を閉じて、口を少し開けて。
辻がしゃがみこんで、首に指を当てた。それから肩で息をしながら、扉の上の非常灯を見上げた。
「……また、逃げられてもうた」
それからが、大変だったんだよ。
救急車を呼んだのは、もちろん俺たち。
ところがほとんど同じタイミングで、パトカーも来た。呼んだのは、マンションの住人。
夜中の一時に、外で「ババア、待てや」って怒鳴り声がして、階段をどたばた駆け上がる音がして、最上階でぱったり静かになる。
……うん。俺が住人でも、通報するね。
しかも、駆けつけた警官が見たのは、屋上の扉の前でぐったりしてるおばさんと、その横で汗だくになってぜえぜえ言ってる、おっさんがふたり。
どう見ても、殺人事件の現場でしょ。
マンション中の窓に明かりがついて、住人がぞろぞろ廊下に出てきて、大騒ぎ。
おかげで俺と辻は、警察署で朝まで話を聞かれる羽目になった。
職業を聞かれて、私立探偵と除霊師です、って答えた時の、あの警官の顔。たぶん一生忘れないよ。
外に出たら、すっかり明るくなってた。
おばさんは病院で目を覚ましたけど、何も覚えてなかったそうだ。夜中に部屋を出た覚えもないって。
で、ここからは、後から聞いた話。
騒ぎのあと、依頼人と辻、それからあの晩より前にエレベーターでおばさんを見かけてたっていう住人が何人か、管理会社に話をした。夜中のエレベーターで、おばさんが全部の階のボタンを押してた。中で、どすんどすん跳ねてた。
さすがに放っておけなかったらしくてさ、エレベーターの点検が入った。
そしたら、ワイヤーロープがとんでもないことになってたわけ。
前の検査で交換を勧められてたのに、修繕積立金が足りないとかで、何年も先延ばしにされてたんだって。いつ切れてもおかしくない状態で、大きな事故の一歩手前だったそうだ。
エレベーターはロープの交換が済むまで使用停止。
住人はみんな階段を使うしかなくなったってわけ。
例のおばさんは年のせいと、ちょっと太めなのとで、前から膝を悪くしてたんだって。それが、毎日の階段の上り下りで、かえって良くなったらしい。病院の先生も驚いてたとか。
取り憑かれて、膝が治る。……医者の立場がないでしょ。
それに、みんなが階段を使うようになると、どうしたって顔を合わせるじゃん。踊り場で息を整えながら「しんどいですねえ」「ほんまに」なんて言い合ってるうちに、挨拶するようになって、立ち話するようになって。今じゃ、住人同士でちょっとした集まりまでできてるらしい。
で、依頼人はその階段で知り合った同じマンションの女の子と、付き合い始めた。
……そうですか。おめでとうございます。
なれそめは、夜中に全部の階のボタンを押して回るおばさん。結婚式のスピーチで、どう話すつもりなんだか。
ついでに、例の有名なマンション。
今でも、ユーチューバーだの暇なやつらだのが、ちょこちょこ行ってはいるらしい。でも、辻があの女を飛ばしてからは、これといって何も起きないみたいでさ。訪ねてくる人間は目に見えて減った。
こないだ見た動画じゃ、ユーチューバーがマンションに近づいた途端、管理人に止められてた。ちらっと映ったロビーには、あの貼り紙が一枚もなかったよ。
あそこが静かになるのも、時間の問題だろうね。
依頼人が最初に言ってた体調不良の方は、辻が女を飛ばしたあとも、しばらく続いてたらしい。
よくよく聞いてみたら、毎晩明け方までゲーム、週に何回か飲み会、おまけにレポートの締め切りが三つ重なってた。
……二十一歳の大学生の体調不良なんて、だいたいそんなもんでしょ。
で、こないだ、その依頼人から写真が一枚送られてきた。
エレベーターホールの掲示板に、管理会社のお知らせが貼ってあってさ。
『定期点検の結果、ワイヤーロープの不具合を早期に発見いたしました。住民の皆様には大変ご不便を——』
……早期、ね。
何年も先延ばしにしといて。しかも、本当に見つけたのは、夜中にエレベーターで跳ね回ってたおばさんなのに。
まあ、そんなこと、お知らせには書けないか。
ただ、わからないことは残ってる。
あのおばさんの中にいたやつは、なんで「ありがとうございます」なんて言ったのか。
何に礼を言ってたのか。ボタンを押してもらったことにか。それとも、もっと別の何かにか。
言葉が通じる状態だった、ってことなのか。だったら、なんで辻の顔を見た途端に逃げたのか。
……まあ、夜中にあんな声で怒鳴られたら、俺だって逃げるけど。
それに、跳ねるってのも、どっかで聞いた話でさ。
——ほんと、やっかいなんだよ。




