第7話 異世界へ行く方法
大阪の真ん中から北東へ、車で一、二時間くらい走ったあたりにさ、ちょっと名の知れたマンションがあるんだよね。
名の知れた、ってのはもちろん悪い意味で。
その手の話が好きな連中の間じゃ、わりと有名らしい。エレベーターである階に行くと、必ずおかしな目に遭う。何かに見られる。何かに連れていかれる。まあ、だいたいそんな噂だよ。
エレベーターの怪談っていえば、昔2ちゃんねるで流行った「エレベーターで異世界に行く方法」ってのがあるの、知ってる?
ざっと説明すると、こう。
十階建て以上の建物で、エレベーターにひとりで乗る。途中で誰かが乗ってきたら、その時点で失敗。
乗ったまま、四階、二階、六階、二階、十階の順に移動する。
十階に着いたら降りずに、五階を押す。
五階で、若い女が乗ってくる。この女には、絶対に話しかけちゃいけない。人間じゃないから。
女が乗ってきたら、一階を押す。うまくいってれば、エレベーターは一階には向かわずに、十階へ上がっていく。やめるなら、上がってる最中が最後のチャンス。九階を過ぎたら、まず成功。
十階でドアが開くと、そこは元の世界とそっくりで、なのに誰もいない世界——なんだってさ。
帰り方? 同じエレベーターで同じことをやれば戻れるとか、一階を押せばいいとか。そのへんは書いてあるところによってまちまちなわけ。
で、この手の話にはだいたい尾ひれがつく。
五階で乗ってくる女が、こっちを見て笑ったら、もう手遅れ。
向こうの世界は空気がしょっぱい。潮の匂いがする。
帰ってこなかったやつの家族は行方不明扱いのまま、保険金も下りない。
どれも、書き込みを読んでるぶんには、それっぽいんだよね。
でもさ、ひとつずつ考えてみてよ。
まず、五階の女。話しかけちゃいけないって言うけど、夜中のエレベーターで、知らない女にわざわざ話しかけるやつなんている? 異世界に行く前に、普通に通報されるでしょ。
潮の匂いってのも、よくわからない。向こうに海があるのか。だったら異世界っていうより、ただの海沿いの町じゃん。
保険金の話は、もっと怪しい。家族がいなくなって何年も見つからなければ、失踪宣告ってのを申し立てられる。普通は七年。それが通れば、法律の上では死んだのと同じ扱いになって、生命保険だってちゃんと下りるはず。家出人探しなんて仕事をしてると、こういうことには妙に詳しくなるわけ。
七年ってのも、待つ方からしたら長いんだけどね。七年あれば、小学一年生が中学生になる。……いや、そういう話じゃなかった。
それに、そもそもさ。四階、二階、六階、二階、十階って、夜中にエレベーターを独り占めして行ったり来たりされるんだよ。住んでる人からしたら、たまったもんじゃない。異世界の心配より先に、管理人に怒られる心配をした方がいい。
当然、作り話だよ。
考えてもみてよ。この話を真に受けてボタンを押した連中が、本当にみんな異世界に行っちまってたらさ、この国のバカはもうちょっと減ってるはずでしょ。
しかも、そういう連中が向こうで帰り方なんか覚えてるわけがないじゃん。慌ててボタンを押し間違えて、それっきり。
……減ってないってことは、誰も行けてないってこと。はい、証明終わりってわけ。
いや、待てよ。減ってないどころか、年々増えてる気がするんだよね。
だとしたら、話は逆かもしれない。異世界なのは、実はこっちの方でさ。向こうの世界から、バカが定期便でせっせと送りつけられてきてる。……そう考えた方が、よっぽど理にかなってるでしょ。
話を戻すよ。
異世界はともかく、そのマンション。
ネットで探せば、体験談だの検証動画だのがいくらでも出てくる。ちょっと覗いてみただけでも、こんな調子。
『九階で降りたら、廊下の奥に誰か立ってた』
『友達が九階で降りてから、様子がおかしい』
『屋上を入れたら十階になるから、例の異世界のやつも試せるらしい』
最後のはちょっと笑ったね。ボタンは九までしかないのに、どうやって十階を押すつもりなんだか。
で、今日するのは、そのマンションに行った大学生の話。
先に言っとくと、これは俺の依頼人の話じゃない。辻の依頼人の話でさ。俺は後から辻に聞かされて、最後の方でちょっと巻き込まれただけ。
依頼人は、二十一歳の大学生。
免許を取ったばかりで、とにかく車でどこかへ行きたかったんだって。で、ネットでそのマンションの話を見つけて友達をふたり誘って、ドライブがてら肝試しに出かけた。
着いたのは、夜の十一時過ぎだったそうだ。
ところが、着いてみたら想像してたのと全然違った。
現実ってのは、だいたいそういうもんだけどね。
外壁はきれいに塗り直されてて、エントランスは明るくて、どこにでもある普通のマンション。リニューアルでもしたのか、拍子抜けするくらい小ぎれいだったって。
強いて言えば、人の出入りする気配がなかった。時間が時間だから、管理人の姿もない。
それから、エレベーターの横に手書きの貼り紙が何枚も貼ってあった。
『部外者立入禁止』
『いたずら禁止 住民の迷惑になることはやめてください』
『住民・関係者以外のエレベーター使用を禁じます』
チラシお断りの紙に混じって、どれもマジックの太い字で。
依頼人はそれを見てちょっと嫌な気分になったそうだ。自分たちみたいなのが、これまでどれだけ押しかけてきたのか。ここの住人が、どれだけ迷惑してきたのか。貼り紙の数を見れば、だいたいわかるじゃん。
正直、もう帰ろうかと思ったって。
でも、友達の手前、言い出せなかった。誘ったのは自分だしね。二十一歳の男なんて、そういうもんでしょ。
で、見栄を張って、エレベーターに乗った。
中にももう一枚貼り紙があった。
『関係者以外の屋上への立ち入りを禁止します』
このマンション、住居は九階まで。その上の屋上には、九階から階段で上がるようになってる。噂で言う「十階」ってのは、つまりそこのことなんだってさ。
依頼人は噂の通りに九のボタンを押した。
ドアが閉まる。
エレベーターが上がっていく。
古いモーターの唸りと、どこかで何かがきしむ音。誰も、何もしゃべらなかったって。階数表示の数字だけが、ひとつずつ増えていく。
五。六。七。
エントランスはあんなに明るかったのに、箱の中の蛍光灯は少し黄ばんでた。
九階で止まった。
チン、と間の抜けた音がして、ドアが開いた。
最初に来たのは、空気だったって。
ドアが開いた途端、廊下の空気が、箱の中にぬるりと入ってきた。夜の外気とは違う。湿ってて、重たくて、肌にまとわりつく。何日も締め切ったままの部屋を、開けた時みたいな。
それから、音。
ジー、と細く鳴ってる。天井の蛍光灯だった。廊下に並んだ明かりはどれも点いてるのに、ひとつひとつが、ほんのわずかに震えて見えた。
エントランスと違って、九階の廊下は古いままだった。床のシートは色が抜けて、ところどころめくれかけてる。並んだ玄関のドアはどれも閉まってて、表札の出てる部屋がひとつもない。
廊下はまっすぐ奥へ延びて、突き当たりのあたりだけ、明かりが届いてなかった。そこだけ、墨を流したように暗い。
静かだった。
自分たちの息の音が、やけに大きく聞こえるくらい。
ドアが開いたその瞬間から、依頼人は出ちゃいけないと感じてたそうだ。
理由はない。何かが見えたわけでもない。それなのに、足が床に張りついたまま動かなかったんだってさ。
その横を、友達のひとりがすっと抜けて、廊下に出た。
きゅっ、とスニーカーの底が床のシートを鳴らした。
一歩。
きゅっ。
二歩。
三歩目で、友達の膝が、かくんと折れた。
糸が切れたように、その場にへたり込んだ。
依頼人ともうひとりの友達は、慌てて飛び出して、両脇から友達の腕をつかんだ。
冷たかった。
腕も、首筋も、氷水から上がったばかりみたいに冷え切ってたって。ついさっきまで、車の中でばかみたいにはしゃいでたやつが。
抱え起こしながら顔を上げた依頼人の目の端に、廊下の突き当たりが映った。
暗がりの、床すれすれのところ。
足があった。
女の足、だと思ったって。くるぶしから下だけが、暗がりから浮き出すように、床の上に揃ってた。
裸足だった。
爪先は、向こうを向いてた。こっちに踵を見せて、奥の壁の方を向いたまま、じっと動かない。
見間違いだ。そう思うことにした。
三人でエレベーターに転がり込んで、一階のボタンを何度も押した。
ドアが、ゆっくり閉まり始める。
狭くなっていく隙間の向こうで、
足が、動いた。
踵を軸にして、すうっと。
爪先が、こっちを向いた。
ドアが閉まった。
一階に着くまで、誰も、ひとことも口をきかなかったって。
エントランスを走り抜けて、前に停めてあった車に飛び乗った。
車が走り出してしばらくして、へたり込んだ友達がぶはっと吹き出した。
ドッキリでしたー、ってさ。
ふたりを怖がらせようと思って、腰を抜かしたふりをしたんだって。
なんだよそれ、ってみんなで笑って、それでおしまい。何事もなく家に帰ったわけ。
依頼人も一緒になって笑ったそうだ。笑いながら、ひとつだけ、聞けなかったことがあったって。
じゃあ、あの冷たさは何だったのか。
裸足の足のことも、誰にも言わなかった。見間違いだと思いたかったし、口に出したら、本当に怖くなりそうだったから。
ところが、それからだった。
体がだるい。頭が重い。夜中に何度も目が覚める。肩に、ずっと何かが乗っかってる気がする。
それだけなら、まあ、気のせいで済ませたかもしれない。
決定的だったのは、自分の住んでるマンションで起きたことでさ。
依頼人はひとり暮らしをしてるんだよね。
古い十二階建ての分譲マンションで、持ち主が貸しに出してる部屋を借りてるんだって。昔から住んでる年寄りの世帯と、依頼人みたいな若い賃貸の住人が混ざってる、よくあるタイプ。部屋は十一階。
エントランスを入ると、正面にエレベーターが見える造りになってる。
バイト帰りの、ある晩のこと。
夜中の一時を回ってたそうだ。
マンションに向かって歩いてると、ガラス越しにエレベーターが見えた。ドアが開いてて、中におばさんがひとり立ってた。
ドアは、開いたまま閉まらない。
ああ、待っててくれてるんだ、と思ったって。それで、小走りでエントランスに入った。
あと数メートルってところで、ドアが閉まった。
まあ、そんなもんか。そう思いながら、ボタンを押した。
ドアが開いた。
おばさんはさっきと同じところに、同じ格好で立ってた。
エレベーターは一ミリも動いてなかったわけ。
階数のボタンには、もう明かりがついてた。どの階だったかは、覚えてないって。
気味が悪かった。でも、夜中にエレベーターの中でぼうっとしてる人くらい、いないこともないじゃん。そう思うことにして乗り込んで、十一階のボタンを押した。
その時、後ろで声がした。
「ありがとうございます」
え、と振り返った。
おばさんは、にこにこ笑ってた。
蛍光灯の下で、顔が紙のように白い。口の両端だけが、耳の方へ引っぱられたように持ち上がってる。
その目は、依頼人の顔じゃなく、右の肩のあたりを見てた。




