第6話 無料サービス
助手席ってのは、どうにも落ち着かない。
辻の車はいつ買ったのかもわからない古いセダンでさ。エアコンをつけると、どこかでカタカタ音がする。それでも本人は気に入ってるらしくて、俺が運転を代わろうかって言っても、絶対にハンドルを譲らない。
その日は郊外の古本屋に行く途中でさ。俺は仕事で昔の住宅地図が要って、辻は辻で、何か探してる本があるらしい。行き先が同じなら一台で行けばいい、ってことでこうなったわけ。
考えてみれば、妙な話だ。
辻とは付き合い自体は長いけど、もともとそんなに親しかったわけじゃない。年に一回、どこかの飲み会で顔を合わせればいい方。それがあの寺の件があってから、どういうわけか会う回数が増えた。
増えたっていうか、気がついたら週に一回は顔を見てるんだよね。
うるさいやつだし、人の話は聞かないし、勝手に人を「霊探偵」なんて呼ぶし。腹の立つことの方が多い。
まあ、そんなに悪いやつでもないけどさ。
片側一車線の、山あいの県道だった。
夕方で、対向車がぽつぽつ来る。
前から白い軽が近づいてきた時だった。辻が何の前触れもなく、ハイビームに切り替えた。
ぱっ、ぱっ、じゃない。ぱああっ、と、しつこいくらい長く。
軽は何事もなかったみたいに通り過ぎていった。
「……何?」
俺は思わず辻の横顔を見た。
「何、今の。知り合い? それとも喧嘩売ってんの? 俺はごめんだよ、そういうの」
辻は前を見たまま、軽く言った。
「霊や」
「は?」
「後ろの席に乗っとった。今のは無料サービス」
一瞬、意味がわからなかったね。
霊が乗ってたから、ハイビームを浴びせてやった?
「霊はな、強い光が嫌いやねん。ちょっとの間だけやけど、大人しなる」
辻はハンドルを握ったまま、ちらっとバックミラーを見た。
「運転しとる人がな。後ろでごちゃごちゃされて事故ったら、かわいそうやろ」
つまり、サービスの相手は霊じゃなくて、運転手の方ってわけ。当の本人は何をサービスされたのかも知らないまま、走っていっちゃったけど。
なんで光が効くのかまでは、教えてくれなかった。聞いても、たぶん「さあな」で終わるでしょ。
「……それ、ほかの除霊師もやってんの?」
「どうやろな。知らん。うちは爺さんの代からやっとるらしいけど」
爺さんの代から。
辻の家が代々こういうことをやってるってのは、その時はじめて聞いたよ。
対向車線を、また一台、車が通り過ぎていく。今度は、辻は何もしなかった。
俺はさっきの白い軽の後ろ姿を思い出そうとした。もちろん何も見えなかったし、何も思い出せないけど。
ただ、ハイビームの話でちょっと前の浮気調査のことを思い出した。
ほら、前に言ったでしょ。賽銭箱のチラシの、「答えらしきもの」。
あれに出くわしたのが、その浮気調査なんだよね。
依頼人は四十代半ばの男性だった。
奥さんが最近、何も言わずに出かけることが増えた。それも、決まって昼間。どこに行ってたのか聞いても、「買い物」とか「友達とお茶」とか、適当にはぐらかされる。
それから、と言って、依頼人はハンカチに包んだものを机に置いた。
「妻の服に、ついてたんです」
短い毛だった。茶色っぽいのと、白いのと、黒いのが、何本か。
「男の、だと思うんです。たぶん」
俺はその毛をしばらく眺めた。
男の毛、ねえ。
まあ、それは調べればわかる話。
依頼人の見た目についてちょっとだけ言わせてほしい。
ハンサムってわけじゃない。でも、奥さんに浮気されるほどひどくも見えない。中肉中背で、髪は少し薄くなりかけてて、ネクタイの柄だけがやけに若い。
……もちろん、見た目で判断してるだけだし、俺の独断と偏見なんだけど。
浮気調査の依頼人ってのはさ、だいたい二種類に分かれる。
本当のことが知りたい人と、安心したい人。
前者は少ない。ほとんどが後者で、しかも本人は自分が前者だと思ってるわけ。
ラ・ロシュフコーって、昔のフランスの貴族が言ってたらしいんだけど、「嫉妬の中には、愛よりも自己愛の方が多く含まれている」んだって。
身も蓋もない話だけど、この仕事を長くやってると、まあ、そうだろうなと思う。疑ってる時の人間ってのは、相手のことより自分がどう扱われてるかの方が気になってるもんだから。
それが悪いって話じゃない。人間なんて、そんなもんでしょ。
で、調査に取りかかった。
最初に気になったのは、車だった。依頼人の家の駐車場には奥さんがいつも乗ってた赤いコンパクトカーが停まってる。なのに、奥さんはそれに乗らないんだって。
「最近、乗ってないみたいなんですよ。ガソリン代がもったいないとか言って」
依頼人はそう言ったけど、浮気相手に会いに行くのに、車があるのにわざわざ電車を使う人間ってのはあんまりいないじゃん。
平日の昼前、奥さんは家を出た。
四十代前半。髪を後ろでひとつに縛って、動きやすそうなパンツに、スニーカー。浮気相手に会いに行く格好には、どう見ても見えない。
駅まで歩いて、電車に乗った。俺も同じ車両の端に乗った。
いくつか駅を過ぎて、奥さんが降りた駅で、俺はちょっと首をかしげた。
知ってる駅だったからさ。
駅から住宅街を抜けて、十分くらい。
奥さんが入っていったのは、見覚えのある公園だった。
遊具があって、ベンチがあって、奥の方がこんもりした木立になってる。
木立の手前には工事のお知らせの看板が立ってた。公園の改修工事。あの時の噂は、本当だったらしいね。
奥さんは迷いのない足取りで、その木立の中へ入っていった。
俺は少し間を置いてから、後を追った。
朱色の剥げかけた鳥居。苔むした石の狐。物置くらいの大きさのお社。
その前に、ほうきやバケツを持った年寄りが何人か集まってて、奥さんはその輪の中に当たり前みたいに加わった。
輪の中のひとりがこっちを振り返った。
煙草をくわえた、見覚えのあるじいさんだった。
「あれ。あんた、こないだの探偵さんやないか」
駅前の酒屋で、角打ちの台を囲んでた三人のうちのひとりだ。
じいさんはほうきを杖みたいについて、俺と奥さんを見比べた。
「なんや。知り合いか」
奥さんは俺の顔を見て、ぽかんとしてた。そりゃそうだよね。知らないおっさんに尾けられてたんだから。
隠しても仕方ないし、俺は正直に話した。旦那さんに頼まれて調べてたこと。最近昼間に黙って出かけることが多くて、心配してたこと。
奥さんはみるみる顔を赤くして、それから両手で顔を覆った。
「……浮気って、そんな……」
横で、じいさんが腹を抱えて笑い出した。
話はこうでさ。
ひと月半くらい前、奥さんは車でこのじいさんの軽バンに追突した。
ただの追突じゃない。その前に、かなりしつこく後ろから煽ってたんだって。車間を詰めて、ハイビームを浴びせて。
警察沙汰になって、奥さんは免停。車に乗らなくなったのは、ガソリン代のせいじゃなかったってわけ。
車の修理は保険でどうにかなった。で、示談の話になった時、じいさんはお金はいらないと言ったんだそうだ。
「そのかわりな。お稲荷さんの引っ越しが済むまで、掃除、手伝うてくれや。人手が足らんのや」
それで奥さんは週に何回か、電車に乗ってここに通ってた。
旦那さんには、言えなかった。そりゃ言えないよね、煽り運転で事故を起こして免停になりました、なんて。
それにしても、なんでそんなに煽ったのか。
奥さんに聞くと、少し黙ってからぽつぽつ話し始めた。
話してる途中、何度か目つきがすっと据わる瞬間があってさ。ああ、この人、たぶん普段から血の気が多いタイプなんだろうなって、聞きながら思ったよ。
ただ、その日のことを話す時だけは、声が小さかった。
夕方の、片側一車線の国道。
日は山の向こうに沈んだばかりで、空だけがまだ明るくて、道の方はもう暗い。ライトを点けても、点けなくてもたいして変わらないような時間。
対向車は来なかった。見えるのは、前を走る白い軽バンのテールランプだけ。それ自体は、別にどうってことない。
気になったのは、後ろの窓だった。
後部座席に、女がいた。
髪の長い女がシートの上に膝立ちになって、リアガラスに両手をぺたりとつけて、こっちを見てた。指を、目いっぱいに広げて。
顔は、垂れた髪にかかって、よく見えなかったって。
ただ、口が開いてるのはわかった。大きく開いて、閉じて、また開いて。笑ってるんだ、と思った。こっちを見て、笑ってる。
声は聞こえない。窓が閉まってるから、聞こえるわけがない。それなのに、甲高い笑い声が頭の中で鳴ってるような気がしたって。
女は、跳ねてた。
シートの上で膝を使って、ぴょん、ぴょん、と。
子供がはしゃぐみたいに。でも、子供の体じゃなかった。リアガラスにつけた手のひらが、跳ねるたびに上下にずれて、ガラスに白い跡を残していく。
奥さんはからかわれてると思ったって。
頭に血がのぼって、車間を詰めた。ハイビームにした。
白い光が、軽バンのリアガラスいっぱいに広がった。
女が、止まった。
光の中で、髪の一本一本までが白く浮き上がって、その下でぎゅっと縮こまったように見えたって。両腕で頭を抱えるみたいに。骨と皮ばかりの、細い腕だった。
「ざまあみろ、って思いました」
奥さんは小さい声でそう言った。
ライトを戻すと、女はゆっくり顔を上げた。
垂れた髪の隙間から、こっちを見てた。
もう、笑ってなかった。口だけが、大きく開いたままだった。
点けて。消して。点けて。
点けるたびに、女は光の中で縮こまる。消すたびに、さっきより少しだけ、ガラスの近くにいる。
ガラスについた手の跡が、白く曇っては、消えないまま増えていく。
最後にライトを戻した時、女の顔は、ガラスのすぐ向こうにあったって。垂れた髪がガラスに押しつけられて、平たく広がってた。その奥で、開いたままの口が、ゆっくり動いてた。
何か、言ってるみたいに。
気がついたら、前の車のブレーキランプが目の前にあった。
どん、と鈍い音がして、それで終わり。
ブレーキを踏んだ覚えは、ないそうだ。
車を降りて、前の車に駆け寄った。
運転席には、じいさんがひとり。
後部座席には、誰もいなかった。段ボール箱と、ほうきやバケツが天井近くまで詰め込まれてた。人が膝立ちになれる隙間なんて、どこにもない。
リアガラスの内側には、手の跡なんかひとつもなかった。
駆けつけた警察にも、奥さんはそれを話した。後ろに女が乗ってた、こっちを見て笑ってた、って。
当然、相手にされなかったってさ。じいさんはずっとひとりで運転してたって言う。急ブレーキを踏んだのは、目の前を猫が横切ったから。
「ほんまにひとりやで。うちの軽、後ろの席、荷物で埋まっとるもん」
じいさんはほうきで地面をはきながらそう言った。
——で、ここからが、例の「答えらしきもの」。
話のついでに奥さんが言ったんだよね。
「そういえば、あの賽銭箱。引っ越しの前に掃除しようと思って中を拭いてたら、底の板が奥の方で割れてたんですよ。隙間が開いてて、小銭がちょっと下に落ちてて」
じいさんもうなずいた。
「せや。中にもう一段、隙間ができとったんや。古いもんやからな」
つまり、だ。
チラシが「一年分の小銭の下」にあったのは、一年前からそこにあったからじゃないのかもしれない。最近入れられたチラシが、割れた底板の隙間から小銭の下に滑り込んだだけなのかもしれない。
答えらしきもの、ってのは、そういう意味。
それが本当の答えなのかどうかは、知らないけどね。少なくとも、そう思っておけば夜はよく眠れるでしょ。
依頼人には全部そのまま報告した。
奥さんも一緒に事務所に来て、頭を下げて、免停のことも示談のことも全部打ち明けた。
ついでに、例のハンカチに包まれた毛は、お稲荷さんに住み着いてる野良猫の毛だった。掃除の合間に、膝に乗ってくるんだそうだ。
「猫の毛やったんか……」
依頼人は心の底からほっとした顔で言った。
それから、二人は俺の事務所のソファで手を握り合った。
「ごめんな」
「ううん、私こそ」
「これからは、何でも言うてな」
「うん」
……人の事務所で。
見ていて、なんというか、気持ちが複雑でさ。めでたしめでたしなんだろうけど、こっちとしては、ちょっと胸焼けがするっていうか。
帰り際、依頼人は「探偵さんのおかげです」って何度も言ってたけど、俺は尾行して、じいさんに見つかっただけなんだよね。
まあ、いいよ。浮気じゃなかったんだから。
ただ、ひとつだけ、まだ引っかかってる。
あの日、じいさんの軽バンの後ろの席にいたのは、何だったのか。
あいつだったのか。それとも、まったく別の霊だったのか。
奥さんに憑いてたのか。じいさんの車に憑いてたのか。
ハイビームを浴びるたびに縮こまって、そのたびに近づいてきたっていう、その女。
辻に言わせりゃ、ハイビームは「無料サービス」らしい。霊をちょっとの間だけ大人しくさせて、運転してる人間を守る、おまけみたいなもん。
だとしたら奥さんは、知らないうちにじいさんに無料サービスしてたことになる。
……サービスした相手に、そのまま追突したんだけどさ。
で、その結果が、免停と、示談と、お稲荷さんの掃除と、夫婦の仲直り。
——ほんと、やっかいなんだよ。
対向車線を、また一台、車が近づいてくる。
辻は今度もハイビームにしなかった。
「さっきのはさ」
俺は聞いた。
「あいつだった?」
辻は前を見たまま、少しだけ笑った。
「さあな」




