第5話 あ、そうだ
次の日の昼前、俺と辻は公園の裏手から山に入った。
じいさんの言った通りにしたわけじゃない。……いや、正直に言うと、言われた通りにした。昼間にしとけって言われて、夜に行くほど、俺は勇ましくないからね。
山っていっても、地図で見れば丘に毛が生えたくらいのもんなんだけどさ。
ただ、道がない。
昔は石段だったらしいものが、木の根に押し上げられて、ところどころ斜めに突き出してる。その上に枯れ葉が積もって、踏むたびに足首まで沈む。
途中に、鳥居が倒れてた。朱色なんてとっくに剥げて、黒く湿った木が二本、道を塞ぐみたいに転がってる。俺たちはそれをまたいだ。
またいだあたりから、音がなくなった。
鳥の声がしない。風もない。聞こえるのは、俺と辻が枯れ葉を踏む音と、自分の息だけ。
最初の一匹はさ、倒れた鳥居から少し登ったところにいた。
石段の脇の岩の上に、白っぽい猫が座ってて、こっちを見てた。
次の一匹は、その少し上の木の根元。
その次は、二匹並んで。
登るにつれて、増えていった。道の両側の藪の中に、岩の上に、倒木の上に。気がついたらさ、前を見ても後ろを振り返っても、どこかに必ず猫の目がある。
一匹も、鳴かなかった。
俺たちが通り過ぎると、すぐ後ろで枯れ葉が鳴る。振り返ると、さっきまで岩の上にいたやつが、道の真ん中に座ってる。
ついてきてた。全部。
匂いがした。
獣の匂いと、アンモニアと、その奥に、甘ったるく腐ったような何か。
道端にはさ、空のキャットフードの缶。ひとつ、ふたつ。上に行くほど増えていって、最後のあたりは、缶が枯れ葉の間に散らばって、地面みたいになってた。
元宮は、山のてっぺんの少し手前にあった。
木が切れて、そこだけぽっかり開けた平らな場所。苔に覆われた石の土台と、その上に崩れた屋根の残骸。お社だったものの形は、もうほとんど残ってない。
そこにさ、猫が詰まってた。
土台の上に、まわりの草の上に、崩れた屋根の隙間に。何十匹って数じゃなかったかもしれないね。体を寄せ合って、重なり合って、地面が見えないくらいに。
その全部が、こっちを向いてた。
そして、やっぱり、一匹も鳴かなかった。
土台の真ん中だけ、猫がいない。
ぽっかり空いたその場所に、藁人形が一体、立てかけてあった。
子供の肘から先くらいの大きさの、古びた藁人形。藁は湿って黒ずんで、ところどころ崩れかけてる。
それが、服を着てた。
小さな、黄色いTシャツ。胸に、ひよこの絵。
Tシャツだけは、乾いてて、きれいだった。昨日着せたばかりみたいにさ。
あの写真の、三輪車の。
見間違えようがない。
冷たかった。
触ってもいないのに、人形の方から、冷たさが流れてくるのがわかった。あの写真と同じ冷たさ。指の先から、手首へ。手首から、肘へ。
「……あいつや」
辻が言った。今度は「気がする」とは言わなかった。
「寺のと同じシャボン玉や。それに、ここはもう神さんのおらん跡地やからな。神さんは下に移ってはる。空き家や、ここは」
空き家に、勝手に上がり込んだやつがいるってわけ。
「何よりな、こんな脈絡のないことするやつ、あいつしかおらん」
辻は背負ってたリュックを下ろして、中身を出した。
小さな瓶に入った、透明な液体。乾いた草の束。塩の袋。
「留めとく。ここに留まっとる間やったら、話ができる」
辻は人形のまわりに、塩で輪を描いた。瓶の中身を少しずつ垂らして、草の束に火をつける。白い煙が細く立ち上って、人形の頭のあたりで、ゆらゆらと揺れた。
猫たちは、動かなかった。
辻が何か、口の中で唱え始めた。
煙が、揺れるのをやめた。風もないのに、人形の頭の上で、すうっと横に流れた。俺の方へ。
冷たさが、肘を越えた。肩へ。首筋へ。
耳の中が、急に詰まったみたいになった。プールの底に沈んだ時みたいに、辻の声が、遠く、くぐもって聞こえる。
何十匹もの猫の目が、一斉に、辻から俺に移った。
辻の声が、途中で止まった。
「……あ?」
辻が、俺を見た。
俺の記憶は、ここまで。
ここから先は、辻から聞いた話になる。
辻が言うには、あいつは——いったい何を考えたのか、人形から、俺に入ってきたらしい。
辻にはそれが、例の直感でわかったんだって。
「シャボン玉がな、お前にぶつかって、止まったんや」
止まったってことは、話ができるってことでしょ。辻はすぐに、俺に——俺の中のそれに、問いかけたわけ。
「お前は、誰や」
答えなし。俺は、突っ立ったまま、首を少しだけ傾けてたそうだ。
「どこから来た」
答えなし。
「あの子を、どこへやった」
俺の口が、動き始めたらしい。
何を言ってるのかは、わからなかったって。辻に言わせると、何十人分の独り言を、早回しで、いっぺんに聞かされてるような音だったらしい。言葉みたいなのに、一個も言葉になってない。それが、途切れずに、ずっと続く。
「何が望みや。言うてみい。聞いたる」
ぶつぶつが、止まった。
俺の顔から、表情がすとんと抜けたらしい。
それから、俺の声で、はっきりと、こう言ったんだって。
「あ、そうだ」
そして俺は空を見上げて、目玉がひっくり返って白目だけになるまで上を見て、そのまま、後ろにぶっ倒れた。
辻はその時、ちょうど例の説明を始めようとしてたところだったらしい。
「ええか、お前が今おるその体はな——」
ってところで、もういなかった。
「話しかけたら、どっか行ってもうたわ」
だそうだ。
倒れた俺を辻が抱え起こしたのと、ほとんど同時だったらしい。
土台のそばにいた、ひときわ大きな茶トラが、とんでもない声を上げた。
それまで一匹も鳴かなかった猫の、最初の声だった。悲鳴とも怒鳴り声ともつかない、山じゅうに響く声。
茶トラは、土台の脇の地面を、狂ったように掘り始めた。
ほかの猫たちも、一斉に掘り始めた。何十匹もが、同じ一か所に頭を突っ込んで、枯れ葉と土を後ろへ跳ね飛ばす。
それから、ぴたりと止んで。
全部が、山を駆け下りていった。
藪の中から、木の上から、どこにいたのかもわからないくらいの猫が湧いて出てきて、その後を追った。茶色と白と黒の川みたいになって、斜面を流れ落ちていった。
あとには、俺と辻と、藁人形だけが残ったってわけ。
俺が目を覚ましたのは、辻に何発か頬を叩かれてからだった。
頭が割れるように痛くて、口の中が土の味がしたよ。
「……どうなった」
「あいつと、しゃべったで」
で、今の話を聞かされたわけ。
それが、俺とあいつの、最初の会話だ。
……いや、会話か、これ?
その後どうなったかって?
紗奈ちゃんは、その日の夕方に見つかったよ。
交番の若い警官が、公園の木立から何十匹もの猫がなだれ込むみたいに神社に入っていくのを見て、様子を見に行ったんだそうだ。
紗奈ちゃんは、お社の前の石段で、眠ってた。まわりを猫に囲まれて。
いなくなった日と同じ紺のパーカーを着て、怪我ひとつなく、健康状態にも何の問題もなかった。ひと月分の汚れすら、なかった。
本人は何も覚えてなかった。ひとつだけ、「猫がいっぱいいた」とは言ってたらしいけど。
家の写真も、全部元に戻ってたってさ。三輪車の写真には、ちゃんと三歳の女の子が、ぶかぶかの黄色いTシャツを着て、ちょこんと乗ってるわけ。胸のひよこも、もう横に伸びてない。
当然、警察の事情聴取は受けることになったよ。そりゃそうでしょ、ひと月も消えてた子供が、同じ服で、無傷で、神社の石段で寝てたんだから。でも何ひとつ手がかりは出てこないし、紗奈ちゃんの心と体の負担を考えて、聴取は早めに切り上げられた。
お母さんも話を聞かれた。こっちも、長くはかからなかったそうだ。
でもさ。
いったい誰のための取り調べだったんだよ、あれ。
あいつの仕業だってわかった今になって考えれば、紗奈ちゃんもお母さんも、何も悪くない。なのにひと月も心配させられて、疑われて、根掘り葉掘り聞かれて。気持ちの面でも、お金の面でも、どれだけすり減ったか。
そもそも、なんでなんの問題もない子を、わざわざ神社に引っ張り込んで、こんな騒ぎを起こしたんだ。意図がまるでわからない。
「あ、そうだ」じゃないんだよ。
まだあるよ。
あの日、山から町へなだれ込んだ猫たちは、ほとんどが耳先をカットされてたり、マイクロチップが入ってたりした。調べてみたら、近くで「保護猫シェルター」を名乗ってた業者に行き着いた。経営が苦しくなって、預かってた猫を何十匹も、あの山にまとめて捨ててたんだそうだ。
業者は動物愛護法違反で逮捕された。猫たちはまともな保護団体に引き取られて、今は里親探しの真っ最中だって。
そのうちの一匹が、紗奈ちゃんの家にもらわれていったらしい。あの、ひときわ大きな茶トラ。
知らないよ、そんなの。
それから、猫たちが掘ってた場所。
辻が、掘り返された土の中に白いものが見えてるのに気づいて、警察を呼んだ。
人の骨だった。
あの神社の、宮司さんだった。
何年も前から、ひとりで元宮に登っては、掃除をしたり、山に住み着いた猫に餌をやったりしてたらしい。たぶん、足を滑らせたんだろうって。その後の台風の土砂崩れで、埋まっちまったんだって。
近所の人は、施設に入ったんだと思ってた。外国にいる息子さんは、親父が電話に出ないのはいつものことだと思ってた。
三年だよ、三年。誰にも気づかれずに。
息子さんは急いで帰国して、ちゃんと葬式を出したよ。あの角打ちのじいさんたちは、立ち飲み台にワンカップを一本余分に置いて、献杯したそうだ。
で、宮司さんがいなくなったあの神社は、どうやらもともと市の公園の土地に建ってたらしくて、お稲荷さんは近くの大きな神社にお移りいただくことになった——って噂。
それをきっかけに、古くなった公園の遊具やらトイレやらを全部新しくして、敷地も広げる計画が発表された。あの薄暗い木立も、だいぶすっきり明るくなるんだってさ。
まったく。
ほんと、やっかいなんだよ。ADHDのあいつは。
ただ、ひとつだけ、引っかかってることがあってさ。
お稲荷さんの引っ越しの準備で、町内会の人が、あの賽銭箱を開けたんだそうだ。
例のチラシは、いちばん底にあったんだって。
一年分の小銭と枯れ葉の、さらに下に。
町内会の人が最後に賽銭箱を開けたのは、去年の暮れ。紗奈ちゃんがいなくなる、何か月も前の話。
紗奈ちゃんが消えたのは、あいつの仕業でしょ。そこは、まあ、わかる。納得はしてないけど、わかる。
じゃあ、あのチラシは。
いったい、いつから、あそこにあったんだ?
その答えらしきものに出くわしたのは、それからしばらくして——まるで関係のない、浮気調査の最中だった。




