第3話 はずれくじ
ネットに転がってる体験談とか、ちょっとした怖い話とかを読んでるとさ、決まって付いてるコメントがあるじゃん。
「嘘くさいほど実話で、実話っぽいほど嘘」
「偶然も重なれば必然」
まあ、これ自体がもう手垢のついた決まり文句なのかもしれないけどね。でも実際に生きてて身の回りで起きることなんて、ほとんどが陳腐で、ありきたりなことばっかりなんだよね。偶然のふりをした必然。嘘のふりをした事実。
こうやって書くと大げさに聞こえるでしょ。でも現実なんてのは、ちっぽけな偶然の積み重ねと、数えきれないほどのくだらない嘘と、その隙間に埋もれた本当のことでできてる。
あいつと“会話”することになったのも、そんな感じだった。
偶然が重なってできあがった必然。……あるいは、誰かが仕組んだ何か。
寺の件のあと、しばらくは静かだった。
くだらない嘘で塗り固められた浮気。とても本当とは思えないような、どん底人生からの夜逃げ。それから、毎日どこかへ消えていくペットたち。
いつも通りの、俺の飯の種ってわけ。
あの依頼人が来るまではね。
依頼人が差し出した写真を見た瞬間、俺は心の中でつぶやいた。
あ、久しぶりのはずれくじだな、って。
探偵なんかやってるとさ、そういう依頼がたまに来る。
警察に届けたけど、捜査はなかなか進まない。自分の足で探し回っても、毎日空振りで帰ってくるだけ。で、最後の最後に、俺みたいな私立探偵のところへ流れ着く。
ただね、警察に届けても結果が出ない案件ってのは、だいたい二つに分かれる。
ひとつは、優先順位が低くて後回しにされてるから、時間がかかってるだけの案件。
もうひとつは、優先順位は高いのに、それでも時間がかかっちまってる案件。
俺の飯の種になってくれるのは、ほとんどが前者。後者はっていうと、警察っていう訓練されたプロの組織が総出でかかっても解決できないもんを、しがない個人の探偵がどうにかできるわけないじゃん。
だからそういう時は、丁寧にお断りして帰ってもらう。どれだけ報酬を積まれても、守らなきゃいけない一線とリスクってもんがあるでしょ。それが俺の個人的な信条ってやつでもある。……まあ、ただの保身と、ほどほどに食えてほどほどに生きられりゃいいっていう根性にすぎないんだけどさ。
ところが、この依頼はそのどっちでもなかった。
「はずれ」ってやつ。
飯の種になりそうにもないし、かといって解決が無理そうにも見えない。そういう類のね。
写真が何だったかっていうとさ——二度見する必要もない、「心霊写真」だった。
心霊写真って言われたら、みんな思い浮かべる絵があるでしょ。窓ガラスに映るぼんやりした顔とか、少し開いたクローゼットの隙間から伸びる指とか、集合写真の誰かの肩に乗っかってる腕とか。
そんな写真なら数えきれないほど見てきたし、そもそも「本物」なんて、UFOが来た証拠と同じくらいの確率でしか存在しない。
ここからは俺の持論なんだけど。
本物の心霊写真を一発で見分ける手がかりってのは、写真そのものじゃなくて、その写真を持ってる人間の方にあるんだよ。
よく考えてみてよ。道端に落ちてるチラシに心霊現象が起きたって、誰が気に留める? ある写真を心霊写真に変えて、そこに意味を持たせたいと思う存在なんて、二つしかない。心霊写真を「作りたい人間」と、「霊そのもの」。
で、そこらへんに適当に出回ってる写真に霊がわざわざ入り込んだって、不特定多数の手で笑いものにされるだけじゃん。そんなことを霊がやるとは、俺は思わないね。あくまで持論だけど。
とにかく。
依頼人は五十代の女性で、娘を探してほしいって話だった。
少し暗くて物静かなところはあったけど、どこからどう見てもまともな人だった。だいたいさ、いなくなった娘を探しに来た母親が、明るく朗らかなわけないし。少なくとも、心霊写真を「作りたい人間」には見えなかったね。
それでも俺が写真を受け取った瞬間に「あ、心霊写真だ」って感じたのは、その写真が冷たすぎたから。
本当に、冷たすぎた。
たぶん、あの時依頼人の手に触れてたら、同じくらい冷たかったんだと思う。
写真を手に取って、写ってるものを目で認識するより先に、体の方が反応するわけ。触っちゃいけないもの。うっかり落としたっていいから、拾うな。何があっても、目に映すな。——たぶん体は、そう言ってたんだと思うんだよね。
だったら熱い方がよっぽど効果的じゃないか、って気もするけどさ。まあ、人間の体なんてもんが、まともで論理的だったためしがあるかって話だよ。
写ってるもの自体は、別に大したことなかった。
小学校の高学年か、中学の一、二年くらいの、普通の女の子。どこかの古い団地の外廊下で撮られた写真でさ、いわゆる心霊っぽい要素なんて、どこにも見当たらない。
しばらく眺めてるうちに、ひとつだけ妙なところに気づいた。
この子、三輪車に乗ってるんだよ。
発達がどうとか、自転車の練習が遅れたとか、そういう事情を想像する余地もなかった。そもそもサイズが合ってないんだから。大人が子供の三輪車にふざけて無理やりまたがったような格好で、膝が胸につきそうなくらい窮屈そうに体を折りたたんで、それでもカメラに向かって笑ってる。
ハンドルを握ってる指が、長い。子供用の小さなグリップに、十二歳の指が余って巻きついてる。
着てる黄色いTシャツも、やけに小さかった。胸のところが引っぱられて、プリントのひよこの絵が、横に伸びてた。
「これは……何の写真ですか」
俺が聞くと、依頼人は言った。
「これ、娘じゃないんです」
これ。
人のことを「これ」だの「あれ」だの呼ぶ人間って、たまにいるでしょ。でも電話を受けて、事務所で少し言葉を交わしただけでも、この人に教養があることは簡単に察しがつく。こういう種類の人はさ、人間のことを「これ」なんて絶対に呼ばない。例外なく。
「……これ、というのは」
依頼人はもう一度、写真の女の子を指でさして、同じ言葉を繰り返した。一字一句違わずに。
「これ、娘じゃないんです」
「じゃあ、この子は誰なんですか」
「わかりません。娘がいなくなってから、娘の写真が全部、これに変わってるんです。三歳の時のも、十歳の時のも、この写真も」
「全部この顔……つまり、今くらいの年の顔になってる、ということですか。お嬢さんとは顔が違う?」
それがまた違うんだって。顔は娘の顔で間違いない。でも、これは娘じゃない別の何かだと、自分にはわかる、と。
依頼人は鞄から写真の束を取り出して、机の上に一枚ずつ並べていった。
ぱさ、ぱさ、と写真が机に置かれる音だけが、事務所に響いた。依頼人の指は、一度も震えてなかった。
見ればわかる、ってことだったんだろうね。
実際、見ればわかった。
お宮参りの写真。白いおくるみに包まれた赤ん坊の、顔のところにさ、十二歳の女の子の顔がある。
縮めてあるんじゃない。大きさはそのままで、赤ん坊の顔の輪郭の中に、無理やり押し込んである。本物と見分けがつかない粘土を、型の中に指でぎゅうぎゅうに詰め込んだみたいに。頬の肉が、おくるみの縁から少しはみ出しかけてた。おくるみから覗いてる小さな手だけが、ちゃんと赤ん坊の手のままでさ。
七五三の写真も。幼稚園の運動会の写真も。全部そう。
どの写真の“それ”も、カメラに向かって、同じ角度で、同じように笑ってる。
並べ終わる頃には、机の上から、十何枚分の同じ笑顔が、こっちを見上げてたわけ。
机のまわりだけ、空気がひんやりしてた。腕の産毛が、袖の中で立ってるのがわかった。
俺はもう一度、最初の一枚に目を戻した。
古い団地の外廊下。小さすぎる三輪車。小さすぎる黄色いTシャツ。
それから、さっきは気にも留めなかったもの。
外廊下のコンクリートに、午後の日が斜めに差してて、三輪車の影が落ちてた。
その上に乗ってる影が、小さい。
膝を折りたたんだ十二歳の影じゃない。三輪車に、ちょこんと収まった、小さな子供の影。
「……この写真、本当は何歳の時のですか」
依頼人は、少しだけ間を置いてから答えた。
「三歳です。誕生日に、祖母に買ってもらった三輪車で」
三歳の娘が乗ってたはずの三輪車に、十二歳の顔をした何かが、体を折りたたんで乗ってるわけ。
三歳の娘が着てたはずのTシャツを着てさ。
影だけを、三歳のまま足元に残して。
で、笑ってる。
——ほんと、はずれくじだよ。




