第11話 隠し部屋
その日は朝から薄曇りだった。
辻の車で高速を降りて、一般道をしばらく走ると、だんだん家がまばらになっていく。田んぼ。ビニールハウス。シャッターの閉まった商店。最後のコンビニを過ぎてからは、信号もなくなったわけ。
山が、近づいてくる。
葉はもうほとんど落ちてた。灰色の空の下で、山全体がくすんだ茶色に沈んでる。
民家の前で、俺だけ降ろしてもらった。
「暗なる前には戻る」
辻はそう言って小林さんを乗せたまま、山の方の林道へ入っていった。助手席の小林さんが窓から大きく手を振ってた。遠足かよ。
古い二階建ての家でさ。
トタン屋根は錆びて、ところどころ赤茶けてる。庭は枯れた雑草が腰の高さまで伸び放題。縁側の雨戸は全部閉まってる。
俺は庭の真ん中あたりに立ってみた。
たぶん、ここだ。あの映像の女が立ってた場所。
振り返ると、家の屋根の向こうに、山が見えた。
遠いんだよ。木の一本一本なんて、とても見分けられない。冬枯れの斜面が灰色にけぶって広がってるだけ。
目を閉じてみた。
何も見えなかった。まぶたの裏の、ただの暗がり。
……当たり前か。俺はあの番組を見てないんだからさ。
鍵は本当に植木鉢の下にあったんだよね。
玄関の引き戸は、ガタガタ鳴りながら、半分まで開いて止まった。体を横にして、すり抜ける。
中は思ったより暗かった。
雨戸が閉まってるせいで、昼間なのに夕方みたいな明るさでさ。持ってきた懐中電灯をつけた。
まず、匂い。湿った畳と、黴と、古い埃。それから、どこかで小さな生き物が暮らしてた跡の、つんとくる匂い。
上がり框に、ネズミの糞が点々と落ちてた。
靴のまま上がった。……これは、許してほしい。
一階はよくある田舎の家の間取りでさ。
玄関を上がって、右手に台所と風呂。左手に続きの和室がふたつ。いちばん奥の和室が居間で、八畳に床の間がついてる。仏壇を置いてたらしい空っぽの床の間と、壁の高いところに、神棚がひとつ。
家具はほとんど残ってないんだよね。色の褪せたカレンダーが一枚、柱に掛かったまま、昭和の年号で止まってた。
神棚には木の像が一体、乗ってた。
ちょっと、目を引いた。神棚に像を祀るってのも、あんまり聞かないでしょ。それに、大きさがおかしい。棚の奥行きより像の方が大きくて、台座の後ろ半分が宙に浮いたみたいにはみ出してる。
まあ、田舎の古い家には、いろんなものがあるからね。その時は、それくらいに思って通り過ぎた。
階段は台所の脇にあった。
急な段を一段ずつ、ぎしぎし鳴らしながら上がる。
二階には部屋がふたつ。階段を上がって手前に、六畳の和室。廊下の奥に、もうひとつ和室。
奥の部屋に入った時だった。
なんとなく、狭い、と思った。
理由は、すぐにはわからなかった。
部屋は手前と同じ六畳。畳が六枚、ちゃんと敷いてある。押し入れもある。窓もある。おかしなところなんて、何もないじゃん。
なのに、何か落ち着かない。
俺はさっき見てきた一階を、頭の中に描いてみた。
玄関。台所と風呂。続きの和室がふたつ。いちばん奥の居間。
この部屋は方角からして、その居間の真上にある。
居間は八畳に、床の間までついてた。でも、この家は二階だけ一回り小さく引っ込んだ造りじゃない。外から見た時、壁はまっすぐ屋根まで立ち上がってた。だとしたら、二階のこの部屋も真下の居間と同じ広さがなきゃおかしい。なのに、ここは六畳しかない。畳二枚分——いや、床の間を合わせたらそれ以上、どこかが足りないんだよ。
浮気調査なんかやってると、こういうのには妙に鼻が利くようになるわけ。
隠し事をする人間ってのはだいたい、どこかの寸法が合わなくなる。財布の中身とか、帰りの時間とか、車の走行距離とか。
家だって同じでしょ。
足りないのは押し入れの横の壁だった。
何もない、ただの壁。そこだけ、壁紙が少し新しい。ほかの壁が煮しめたみたいに黄ばんでるのに、そこだけ色が浅いわけ。
拳で軽く叩いてみた。
こん、こん。
ほかの壁を叩く。ごつ、ごつ。
もう一度、さっきの壁。こん。
軽い。中が、空っぽの音。
懐中電灯で壁をなぞった。壁紙の継ぎ目が一本、縦に走ってる。その継ぎ目のいちばん下、畳との境目に、指一本分くらいの隙間が開いてた。
しゃがんで手をかざしてみた。
冷たい空気が、細く、流れ出してた。
雨戸まで閉め切った家の中で、風なんか吹くはずがないのにさ。
俺は少しの間、そこにしゃがんだまま考えた。
中は好きに見ていい、とは言われた。でも、壁を剥がしていいとは、言われてない。
……修理代は、払う。
鞄からマイナスドライバーを出して、継ぎ目に差し込んだ。
壁紙は思ったより簡単に裂けた。
その下は、薄いベニヤ板だった。何枚かを継いで、柱と柱の間に打ちつけてある。素人仕事でさ。釘も途中で曲がったまま叩き込んであった。
板の端にドライバーをこじ入れて、体重をかけた。
みしっ、と嫌な音がして、一枚目が外れた。
ひやりとした空気が、顔に当たった。
奥行きは、一メートルもなかったと思う。
壁と壁の間の、細長い隙間。懐中電灯の光を差し入れると、埃が、光の中でゆっくりと渦を巻いた。
何かが、並んでた。
いちばん奥に、白木の台。神棚とも、仏壇とも違う。腰くらいの高さの、ただの四角い台で、表面に渦を巻くような模様が一面に彫り込んである。
その上に、素焼きの皿が三枚。どれも底に黒い焦げのようなものがこびりついてる。
台の脚には、縄が巻きついてた。藁を綯った縄なんだけど、結び方が見たことのない形でさ。ひとつ結んでは輪を作って、その輪にまた縄をくぐらせて。それが台の脚をぐるぐると、何重にも締め上げてた。
壁には、細長い木の札が何枚も打ちつけてあった。墨で何か書いてある。字なのは、わかる。でも、漢字でも、ひらがなでもない。線と点の組み合わせが札の上から下まで、びっしりと。
足元に、古い木の箱がひとつ。長持っていうんだっけ。昔の嫁入り道具なんかを入れる、あの大きな箱。
蓋が、開いてた。
中は、空っぽだった。
ただ、底に積もった埃に、跡が残ってた。四角く、平たく。何か布のようなものをきちんと畳んで収めてあった形。その形のところだけ、埃が薄い。
最近まで、何かが、そこに入ってたみたいに。
神道じゃない。仏教でもない。
この仕事を長くやってれば、寺や神社や、拝み屋のところにも出入りする。それなりにいろんなものを見てきたつもりだよ。
でも、こんなのは知らない。
かといって、西洋のものにも見えない。じゃあアジアのどこかの国のものかっていうと、そう言い切れるだけの手がかりもない。
どこのものでもない、としか言いようがなかったわけ。
冷たかった。
隙間から流れてくる空気じゃない。それとは別に、あの写真と同じ冷たさが、指先から這い上がってくる。
紗奈ちゃんの写真を手に取った時の、あれだ。触っちゃいけないもの。うっかり落としたっていいから、拾うな。何があっても、目に映すな。
体がまたそう言ってた。
俺は隙間から後ずさって、スマホを出した。
辻にかけた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため——』
小林さんにかけた。
同じだった。
山に入ったんだ。あの山の中じゃ、電波なんか届かないんでしょ。
窓の雨戸を少しだけ開けた。
いつの間にか、空の色が変わり始めてた。山の稜線が、黒く沈みかけてる。
暗くなる前には戻る、と辻は言った。
その「前」が、もう、すぐそこまで来てた。
階段を、ほとんど転がるように駆け下りた。
玄関へ向かおうとして——居間の前で、足が止まった。
神棚。
さっき、通り過ぎたやつ。棚からはみ出した、大きすぎる木の像。
懐中電灯の光が、それを照らしてた。
今度は、ちゃんと見えた。
像は、棚に祀られてるんじゃなかった。
押し込まれてたんだ。よそから持ってきたものを、もともとあった小さな棚の上に、無理やり。
なんでそうしたのかは、今でもうまく説明できない。
俺は神棚に手を伸ばしてた。




