第12話 雨
ここからはあとで辻と小林さんから聞いた話になるわけ。
ふたりの話はところどころ食い違ってたけどね。それをつなぎ合わせると、だいたいこういうことだったらしい。
林道の終点に車を停めて、ふたりは山に入った。
道はないに等しかったんだってさ。昔は人が通ってたらしい踏み跡が落ち葉の下に、あるような、ないような。それも途中で、藪にのまれて消えてる。
あの場面の山の、どこなのか。それを示すものは、何もないんだよね。
頼りは、辻の直感だけ。
「こっちや」
「……こっち、ですか?」
「たぶんな」
「たぶん」
“たぶん”で山に入るやつがあるかって話。
しばらく歩くと、辻が立ち止まって、首をかしげる。
「……ちゃうな。こっちや」
小林さんは後ろをついて歩きながら、正直思ってたんだってさ。
この人、大丈夫なのかな、って。
あとで本人が俺にこっそりそう言った。
……わかるよ。すごくわかる。
それでも、辻の直感はたまに当たるんだよね。
一時間ほど歩いたところで、木々の間に、それがあった。
祠だった。
神社なんて呼べるもんじゃないよね。苔むした石の土台の上に、小さな木の社が乗ってるだけ。屋根は半分落ちて、柱は黒く腐りかけてる。
社の中には、枯れ葉がぎっしり詰まってた。何年分か、何十年分か。風で吹き込んだものがそのまま積もり積もって。
辻は祠の前で、深く頭を下げた。手を合わせて、しばらくそうしてた。
それから、そっと枯れ葉をかき出した。
中には、木の像があった。
……いや、像だったもの、と言うべきかな。ほとんど腐り落ちて、残ってるのは足元の台座のあたりだけ。それが何の姿をしてたのかは、もう、わからないわけ。
その台座の上に、ラジオが乗ってた。
小さな、電池式のラジオ。銀色のプラスチック。どこの電器屋でも売ってるような、ありふれたやつでさ。
古くはなかった、と辻は言った。せいぜいここ何年かのものだって。
ザー、と小さな音がしてた。
電源が、入ってたんだってさ。
辻はラジオには触らなかった。まあ、触らないよね、普通。
本当はここに来る前から、薄々わかってたらしいんだよね。
これは、ただの霊なんかじゃない。あのお稲荷さんの時と同じ。自分の手の届かない、わかりようのないもの。
神さんだ。
ただ、手がかりが少なすぎる。いい神さんなのか、悪い神さんなのか、それすらわからない。
ひとつだけ確かなことがある。
もしこれが本当に神さんなら、いい神さんだろうと悪い神さんだろうと、自分の家をこんなふうに打ち捨てられて誰からも忘れられて、気分のいいはずがないでしょ。
そのうえ自分の座るべき場所に、こんなものを置かれて。
ラジオは誰かが置いたものだ。外から来た誰かが、わざわざ。何のために。
辻はそこで、ふと我に返った。
どれくらい考え込んでたのか。
振り返ると、小林さんが、いなかった。
「小林さん」
返事はない。
「小林さん!」
自分の声が木々の間に吸い込まれていく。
ついさっきまで、すぐ後ろにいたはずだった。足音も、息づかいも、聞こえてた。……聞こえてた、はずだった。
いつから、いなかったのか。
辻は祠のまわりを探し始めた。
気がつくと、あたりが暗くなりかけてた。
まだ、そんな時間じゃないはずなのに。
音が、消えてた。
さっきまで鳥の声がしてた。風が枝を鳴らしてた。どこか遠くで沢の水の音もしてた。
それが、何も聞こえない。
聞こえるのは自分の足音だけ。
かさっ。ぱきっ。
枯れ葉を踏む音が、小枝の折れる音が、耳に突き刺さるみたいに響く。それくらいの、静けさ。
スマホを出した。圏外。
当たり前か、と辻は思ったそうだ。
どれくらい探し回ったか。
辻はそこで、やっと思い出した。
小林さんには憑いてるものがいる。
あの寺の一件のあとでどこかで拾ったらしいんだよ。あいつとは関係ない、ごく普通の霊。
辻は喫茶店で最初に会った時から、気づいてたんだって。でも、言わなかった。
言えば小林さんのことだから、祓ってくれだの、どんな霊なのかだのと目を輝かせて話が終わらなくなる。それに、すぐにどうこうなるような危ない霊でもない。そもそも小林さんから頼まれた仕事でもない。
だから、黙ってたってわけ。
どんな霊なのか、とあとで聞いてみた。
五十がらみの男。男やもめっぽい。……らしい、と辻は言った。
霊の姿ってのは、見る人間によって変わるもんなんだそうだ。霊を見る力のある人間はそれぞれが持ってる記憶や経験を、どうしても霊の姿に重ねちまう。だからほんとの姿なんてものは、誰にも描けないわけ。たとえば遠い国の除霊師が同じ霊を見たら、たぶんまるで違う姿に見えるんだろうって。
「けどな。キモさだけは、伝わってくんねん」
怪談番組だの心霊スポットの企画だのに出てるうちに、運悪く拾っちまったんだろう、と辻は言ってた。
で、その霊は小林さんの二、三メートル後ろをいつもついて歩いてるんだってさ。
近づきすぎず、離れすぎず。
推し活中のおっさんみたいに。……あんまり想像したくないけどさ。
あのおっさんを探せばいいんだ。
辻は目を閉じて、意識を向けた。
辻ってやつは霊がいつでも見えてるわけじゃないらしいんだよね。見ようとして見ないと、見えない。……そういうふうにしてるんだと思う。なんでなのかは、聞いてない。
あたりが静まり返ってたおかげでかえって集中しやすかったそうだ。
気配はすぐに見つかった。
ただ、そこまで辿り着くのに、まるまる一時間歩く羽目になったわけ。
小林さんがいなくなったのはほんの何分か前のはずなのに。
木々の間に、おっさんがいた。
こっちに背を向けて、立ってた。肩を落として、首を深く、うなだれて。
そのおっさんの、ちょうど三メートルくらい先に。
小林さんの背中があった。
様子が、おかしかった。
その場に立ったまま、体を、ゆらり、ゆらりと揺らしてる。前へ。後ろへ。風もないのに、枯れ草みたいに。
着てるものが、違った。
朝、車に乗った時の黒いパーカーじゃない。
くすんだ色の、裾の長い服。古い、ひどく古い布。ところどころが擦り切れて、裾がほつれてる。白装束じゃない。着物とも洋服ともつかない。辻ですら、見たことのない形だったそうだ。
ただ、何かの儀式に使うものなんだろうってことだけは、なんとなくわかったって。
辻はスマホのライトを、小林さんの背中に向けた。
強い光を当てれば、霊なら、ひるむ。
小林さんは、ひるまなかった。白い光の中で、ゆらり、ゆらりと揺れ続けてた。
霊じゃない。
「……小林さん?」
返事はなかった。
これは、まずい。
辻はその場で、深く頭を下げた。
「急にお邪魔して、えらいすんません」
声が静まり返った山の中に、やけに大きく響いた。
「俺らは、何も荒らしに来たわけやないんです。ご迷惑かけるつもりも、あらへんのです」
何に向かって言ってるのか、辻自身にもわかってなかったと思う。
「その人は、この件とは何の関係もあらへんのです。どうか、返してもらえませんか」
小林さんが、叫んだ。
人の声じゃなかった、と辻は言った。喉の奥を引き裂くような、長い、甲高い声。
それが、ぷつりと途切れて。
小林さんの体が崩れるように倒れた。口の端から白い泡があふれてた。手足が地面の上で、がくがくと跳ねてた。
駆け寄ろうとした。
足が、言うことを聞かなかった。
膝が折れて、辻はその場に両手をついた。
重かった。
背中に何か途方もなく重いものがのしかかってくる。押しつぶされる。首が、上がらない。顔を上げようとしても、見えるのは自分の手と、その下の枯れ葉だけ。
息がうまく吸えなかった。
その時、視界の端に、足が入ってきた。
男の足だった。
おっさんだ。
うなだれてたおっさんの足が一歩、また一歩と、枯れ葉の上を進んでいく。
小林さんの方へ。
音は、しなかった。枯れ葉を踏んでるのに。
何をする気だ。何が起きてる。
辻には何もわからなかった。顔を上げることさえ、できなかった。
うなじに、冷たいものが当たった。
ひとつ。それから、またひとつ。頭に。耳の後ろに。首筋に。
雨だった。
ぽつ、ぽつ、と来たかと思うと、あっという間にざあっと降り出した。
雨の音が山を埋め尽くした。
あれだけ何も聞こえなかった山に、音が戻ってきた。枝を打つ音。葉を叩く音。地面にしみ込んでいく音。
背中の重さが少しずつ、抜けていった。
首が、上がった。
スマホのライトを向けると、枯れ葉の上に小林さんが倒れてた。もう、跳ねてはいなかった。胸がゆっくり上下してた。
おっさんの姿は、どこにもなかった。
辻は小林さんを背負って、山を下り始めた。
スマホの明かりだけが頼りだった。道なんか、わからない。とにかく下へ、下へ。濡れた落ち葉に足を取られて、何度も転びかけながら、ほとんど逃げるみたいに。
いつの間にか、雨はやんでた。
木々の向こうが白んできた。
……夜明け?
辻は自分の目を疑ったってさ。
そんなはずないじゃん。山に入ったのは昼過ぎで、暗くなりかけたのはついさっきのことで。
なのに、空が、明るくなっていく。
もうすぐ麓、ってところまで来て、辻は小林さんを下ろした。少しだけ、休むつもりで。
その時、遠くから声が聞こえた。
「辻ー! 小林さーん!」
俺の声だ。
「……ここや」
辻は声を張り上げた。かすれて、ろくに出なかったらしいけど。
「ここや! おい!」
何度か叫んでるうちに木々の間から、人影がよろよろと現れた。
それが、俺ってわけ。
自分で言うのもなんだけど、ひどい格好だったと思う。服はあちこち破れて、ズボンは膝まで泥だらけ。どこかで派手に転がったらしくて、髪にまで枯れ葉が絡まってた。
辻は俺を上から下まで眺めて、言った。
「……なんで、えらい目に遭うた俺より、お前の方がボロボロやねん」
「少なくとも今日は、俺の方が大変だったと思うけどね」
言い返してから、俺は地面に寝かされた小林さんを見た。
「……で、その人、どうしたの。その服、何」
俺の方の話は、こうだ。
あの日、民家で俺は神棚の像を下ろした。
なんでそうしたのかは、自分でもわからない。ただ、これは持っていかなきゃいけない、と思った。辻に会ったら、これが何なのか聞きたかった、ってのもある。
像を抱えて山に入った。辻たちが車を停めた林道の終点までは行けた。そこから先は、さっぱりでさ。
迷ったよ。思いっきり。
日が暮れて、真っ暗な山の中を像を抱えて、懐中電灯ひとつで歩き回った。何度も転んで、斜面を滑り落ちて。……服がボロボロなのは、そのせいってわけ。
そのうち、急に雨が降り出した。
土砂降りの中で目の前に、小さな祠が現れた。
屋根が半分落ちた、ぼろぼろの祠。中に腐り落ちた台座だけが残ってた。
俺は抱えてた像を見た。それから、台座を見た。
大きさが、ぴったりだった。
どう見ても、そこに収まるために彫られた大きさだった。
だから、乗せた。
乗せた途端に、雨がやんだ。
「……そこに、ラジオ、なかったか」
辻が聞いた。
「ラジオ?」
俺は首をかしげた。
「そんなもん、あるわけないじゃん。台座だけだったよ」
辻はそれきり黙った。
俺はもう一度、小林さんの服を見た。
くすんだ色の、古い布。裾の長い、見たことのない形。
あの長持の底に残ってた、畳んだ布の跡を俺は思い出してた。
大きさもたぶん、ちょうどあのくらいなんだよね。
……とにかく、帰ろう。
こんな山、もうこりごりだよ。




