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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第二章 密室の譜面台

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第5話 鍵盤が覚えている

 証言の整理が終わった時、応接室の空気はすっかり冷えきっていた。

 暖炉の火はまだ燃えている。

 けれど、その火は誰も温めていなかった。


 僕のメモ帳には、いくつもの矛盾が並んでいる。


 低いラを一度聞いた人。

 二度聞いた人。

 三度聞いた人。

 悲鳴を聞いたのは、ほとんど僕だけ。

 女性らしい人影。

 男の足音。

 夕方にはなかった紙ロール。

 午後九時半にはあった紙ロール。

 現場に置かれた第五楽章。

 十一時二十分で止まった割れた懐中時計。


 書けば書くほど、事件が分かるどころか、霧が濃くなるようだった。


「全員、今夜は一人にならない方がいい」


 玲司さんが言った。

 声は疲れていたが、それでも館の主人としての響きがあった。


「警察が来るまで、応接室か食堂に集まっていた方が安全です」


「私は自室へ戻ります」


 篠原さんが言った。


「資料を確認しなければなりません」


「今ですか」


 僕は思わず聞き返した。


「今だからです」


 篠原さんは静かに答えた。


「先生の遺言に関わる資料です。勝手に持ち出されたものがないか、確認する必要があります」


「先生の遺言より、蓮司さんが殺されたことの方が重大でしょう」


 奏太さんが言った。

 声に怒りが混じっていた。


 篠原さんは、奏太さんを見た。


「重大だからこそです」


「どういう意味ですか」


「この事件が、先生の遺言と第五楽章に関係しているなら、資料を確認しないわけにはいきません」


「また先生ですか」


 奏太さんの声が震えた。


「蓮司さんが死んだんですよ。なのに、あなたはまだ宗一郎先生の名誉を守ることばかり考えている」


 篠原さんの表情は変わらなかった。

 けれど、左手が手帳の端を強く押さえていた。


「雨宮宗一郎先生の名誉は、雨宮家だけのものではありません」


「じゃあ、誰のものなんですか」


「作品に関わったすべての者のものです」


 その言葉に、白瀬さんがわずかに目を細めた。


「作品に関わったすべての者」


 彼女は繰り返した。


「篠原さん。その中に、あなたも含まれますか」


 篠原さんは一瞬だけ黙った。


「私は、先生の秘書でした」


「清書も少し手伝った」


「ええ」


「第五楽章にも?」


 応接室の空気が、また一段冷えた。

 篠原さんは答えなかった。

 答えないことが、答えのようにも見えた。


「失礼します」


 彼女はそれだけ言うと、応接室を出ていった。

 扉が閉まる。

 その音が、妙に大きく響いた。


「追わなくていいんですか」


 僕は白瀬さんに小声で尋ねた。


「今は」


「でも、一人にしない方がいいって」


「一人でいたい理由がある人を、無理に止めると別の嘘をつきます」


「嘘をつかせないために、行かせるんですか」


「嘘は、つかせた方が形になります」


 白瀬さんは、そう言って応接室の扉を見つめていた。


 その時、鷺沼が部屋に入ってきた。

 いつもより、わずかに呼吸が乱れている。


「白瀬様」


「何か」


「書斎を確認しておりましたところ、宗一郎様の日記が一冊、机の上に出されておりました」


 玲司さんが顔を上げた。


「日記?」


「はい」


「伯父の日記は、書斎の棚に保管していたはずだ」


「その通りでございます」


「誰が出した」


「分かりません」


 鷺沼は頭を下げた。


「夕方、私が確認した時には、机の上にはございませんでした」


 夕方にはなかったもの。

 今はあるもの。

 僕は思わず、自動演奏ピアノの紙ロールを思い出した。


「行きましょう」


 白瀬さんが言った。


「真柴さん、メモを」


「はい」


 僕は立ち上がった。

 玲司さんも続こうとしたが、紗英さんがその袖を掴んだ。


「玲司さん」


「行く」


「でも」


「伯父の日記だ。僕が確認しないわけにはいかない」


 紗英さんは何か言いたそうだったが、結局手を離した。


 応接室から出ると、廊下はさらに暗く感じられた。

 音楽室の扉の前を通る時、僕は無意識に足を速めた。


 そこには、まだ死者がいる。

 扉は閉まっている。

 鍵もかかっている。

 それなのに、低いラの音は鳴った。


 音は扉を越える。

 壁を越える。

 記憶に入り込む。


 白瀬さんの言葉が頭に残っていた。


 書斎は一階の東側にあった。

 重い扉を開けると、古い紙と煙草の匂いがした。

 壁一面が本棚で埋まっている。

 中央には大きな机。

 机の上には、緑色のシェードのランプが灯っていた。


 その光の下に、一冊の黒い日記帳が置かれている。

 表紙には、金文字で年号が刻まれていた。


 七年前。


 玲司さんが小さく息を呑んだ。


「兄が失踪した年です」


 白瀬さんは日記に直接触れず、鷺沼を見た。


「手袋をお借りできますか」


「こちらを」


 鷺沼は引き出しから白い手袋を取り出した。

 自分は黒い手袋のまま、それを白瀬さんへ差し出す。


 白瀬さんは手袋をつけた。

 そこで、すぐには日記を開かなかった。


「これが本当に宗一郎さんの日記かどうか、確認できますか」


 玲司さんは表紙を見つめた。


「伯父の日記です。年ごとに、同じ装丁で残っています」


「筆跡は?」


「見れば分かると思います。伯父の字は、かなり癖がありましたから」


「誰かが、このページを見せようとして机に出した可能性があります」


 白瀬さんは言った。


「中身が本物でも、置かれ方まで信用していいとは限りません」


 僕はその言葉をメモしようとして、途中でペンを止めた。


 日記が本物かどうか。

 置かれ方が信用できるかどうか。

 そんなことまで考えなければならないのか。


 事件というものは、もっと分かりやすく証拠が出てくるのだと思っていた。

 もちろん、それは僕が小説の中でしか事件を知らなかったからだ。

 目の前のものは、証拠というより、誰かが落としていった言葉の欠片に近かった。


 白瀬さんは日記を開いた。

 ページの間に、細い栞が挟まれている。

 まるで、誰かが読ませるために開いておいたようだった。


「ここです」


 白瀬さんが言った。

 僕はメモ帳を構えた。


 ランプの光の下、震えた筆跡が見えた。

 そこには、短い文章が書かれていた。


 十一時二十分。蓮司は第五楽章を盗んだ。

 だが、あの子は知らない。

 第五楽章は楽譜ではない。

 鍵盤が覚えている。


 僕は最後の一文を、声に出さずに読み返した。


 第五楽章は楽譜ではない。

 鍵盤が覚えている。


 楽譜ではない。

 そう書かれているのに、僕の頭には、音楽室の譜面台が浮かんでいた。

 あそこに置かれていたものは、どう見ても楽譜だった。

 表紙にも、はっきりと『霧雨館組曲 第五楽章』と書かれていた。


 楽譜ではないと言われても、僕には楽譜にしか見えない。

 専門外の人間には、こういう時、何が分からないのかさえ分からない。


「どういう意味ですか」


 僕は言った。


「第五楽章は、譜面台にありましたよね」


「ありました」


 白瀬さんは答えた。


「けれど、宗一郎の日記には、楽譜ではないとある」


「じゃあ、現場の第五楽章は偽物ということですか」


「その可能性はあります」


「でも、本物かもしれない?」


「本物かもしれません」


「楽譜ではないのに?」


「曲が楽譜だけに残るとは限りません」


 白瀬さんは、日記のページから目を離さなかった。


「今分かるのは、宗一郎さんが七年前の時点で、第五楽章を紙の楽譜だけとは考えていなかった、ということです」


 鍵盤が覚えている。

 その言葉を聞いて、奏太さんが応接室で口にした言葉を思い出した。


 音符は嘘をつかない。

 鍵盤は忘れない。


 宗一郎の口癖。


「鍵盤って、音楽室のピアノですか」


「かもしれません」


 白瀬さんは日記を閉じずに、ページを見つめていた。


「ただし、鍵盤という言葉が、グランドピアノを指すのか、自動演奏ピアノを指すのか。それとも別の意味なのかは、まだ分かりません」


「別の意味?」


「鍵盤そのものが、押された音を覚えているわけではありません」


「普通は、そうですよね」


「でも、人は覚えます」


 白瀬さんは言った。


「指も、癖も、機械も、紙ロールも」


 僕は自動演奏ピアノを思い出した。

 夕方には空だったロール挿入口。

 事件時には入っていた紙ロール。

 そして低いラ。


 もし鍵盤が何かを覚えているのだとしたら。

 それは、誰がどの音を鳴らしたか。

 あるいは、誰かが何を鳴らさせたか、ということなのだろうか。


 考えようとすると、頭の中で音が絡まった。


 低いラ。

 金属音。

 悲鳴のような音。


 もう、どれが本当に鳴った音で、どれが僕の記憶の中で大きくなった音なのか、自信がなかった。


 玲司さんは日記から目を離せずにいた。


「七年前、兄は第五楽章を盗んだと伯父は書いている」


「それは事実ですか」


 白瀬さんが尋ねた。


「分かりません」


 玲司さんは苦しそうに答えた。


「伯父は、そう信じていました。兄が第五楽章を持って逃げたのだと」


「蓮司さんは、本当に逃げたのですか」


「そう聞かされてきました」


「見たのではなく?」


「……はい」


 まただ。

 見たこと。

 聞いたこと。

 思ったこと。

 隠していること。


 玲司さんも、七年前の真相を見たわけではない。

 誰かから聞かされ、それを事実として受け入れてきた。


「七年前の十一時二十分に、何が起きたのですか」


 白瀬さんが尋ねた。

 玲司さんはしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと口を開いた。


「嵐の夜でした」


 その声は、遠い記憶を探るようだった。


「時計塔が止まったのが、十一時二十分。原因は落雷だと言われました。その翌朝、兄はいなくなっていた」


「部屋には?」


「血のついた楽譜が残っていたそうです」


「第五楽章ですか」


「そう聞いています」


「その楽譜は今どこに?」


「伯父が保管していたはずです」


「見たことは?」


「ありません」


 白瀬さんは、日記のページへ視線を戻した。


「七年前、血のついた第五楽章があった。今夜、蓮司さんの遺体の前にも第五楽章があった」


「誰かが七年前を再現している、ということですか」


 僕が言うと、白瀬さんは少し考えた。


「再現、だけなら分かりやすいのですが」


「違うんですか」


「分かりません。ただ、七年前の出来事を、そのままなぞっているようには見えません」


「じゃあ」


「七年前に何があったのかを、今夜の事件で別の形に見せようとしている。そういう可能性もあります」


 僕は背筋が冷たくなった。


 今夜の殺人は、ただ蓮司さんを殺すためだけの事件ではない。

 七年前の何かを呼び戻すための事件。

 あるいは、七年前の罪を別の形で見せるための事件。


 そこまで考えて、僕は自分で怖くなった。

 僕は今、何を想像しているのだろう。

 人が一人死んでいるのに、それを物語みたいに並べようとしている。


「白瀬さん」


 僕は言った。


「だとしたら、十一時二十分は」


「死亡時刻とは限りません」


 白瀬さんは静かに言った。


「少なくとも、そう決めつけるのは早いと思います」


 十一時二十分。


 蓮司さんの手の中の割れた懐中時計。

 時計塔。

 音楽室の懐中時計。

 宗一郎の日記。

 七年前の失踪。


 すべてがその時刻を指している。

 だからこそ、その時刻は怪しい。

 僕にも、ようやくそう思えてきた。


「この日記を机に出した人物は、何をしたかったのでしょう」


 鷺沼が静かに言った。

 白瀬さんは顔を上げた。


「私たちに読ませたかったのだと思います」


「誰が?」


「それはまだ分かりません」


「犯人ですか」


 僕が聞く。


「犯人かもしれません」


 白瀬さんは言った。


「でも、そうでない可能性もあります」


「犯人じゃない誰かが、事件の手がかりを出した?」


「全部を一人でやった、と決めるのは早いと思います」


 その言葉は、書斎の中に重く落ちた。


 一人とは限らない。


 僕はその可能性を考えていなかった。

 密室殺人。

 犯人は一人。

 誰が出入りしたのか。

 どうやって逃げたのか。

 そういう形でしか事件を見ていなかった。


 けれど白瀬さんは、もっと別のものを見ている。


 殺した人物。

 音を鳴らした人物。

 紙ロールを入れた人物。

 楽譜を置いた人物。

 日記を出した人物。


 それらが、すべて同じとは限らない。

 そう考えた瞬間、事件はさらに分からなくなった。


「真柴さん」


「はい」


「メモに書いてください」


 僕はペンを構えた。


「第五楽章は楽譜ではない。鍵盤が覚えている」


 その一文を書いた時、背後の廊下で小さな音がした。

 誰かが、息を呑んだような音。


 僕は振り向いた。

 書斎の扉が、少しだけ開いている。

 そこに、紗英さんが立っていた。

 顔色が悪い。


 玲司さんが驚いたように言った。


「紗英、応接室にいたんじゃ」


「ごめんなさい」


 紗英さんは小さく言った。


「心配で」


「何を聞いた」


 玲司さんの声が硬くなる。

 紗英さんは答えなかった。


 ただ、日記を見ていた。

 いや、日記ではない。

 そのページに書かれた、十一時二十分という文字を見ていた。


「紗英さん」


 白瀬さんが静かに尋ねた。


「七年前のことを、何か知っていますか」


 紗英さんの唇が震えた。


「私は」


 そこで言葉が止まった。

 廊下の奥から、篠原さんの声がした。


「白瀬さん」


 振り返ると、篠原さんが立っていた。

 いつからそこにいたのか分からない。

 彼女の手には、数枚の書類が握られている。


「先生の日記を、勝手に読むのはおやめください」


 その声は静かだった。

 けれど、怒りがあった。

 いや、怒りだけではない。

 恐れもあった。


「机の上に出されていました」


 白瀬さんが言った。


「誰かが、私たちに読ませようとしたのでしょう」


「先生の言葉を、事件の道具にしないでください」


「もう使われています」


 篠原さんの表情が固まった。


「音楽室に第五楽章が置かれていました」


 白瀬さんは続けた。


「蓮司さんの手には、十一時二十分で止まった懐中時計。自動演奏ピアノには紙ロール。そして、この日記には七年前の十一時二十分と第五楽章」


「偶然です」


「本当に?」


「先生は、そういう演出を好む方でした」


「演出」


 白瀬さんはその言葉を拾った。


「今、演出と言いましたね」


 篠原さんは沈黙した。

 自分が何を言ったのか、気づいたようだった。


「私は」


 彼女は言葉を選ぶように息を吸った。


「先生の作品性について述べただけです」


「作品と事件の境目が、曖昧になっています」


「それは、あなたがそう見ているだけです」


「そうかもしれません」


 白瀬さんは否定しなかった。

 だからこそ、篠原さんは一瞬だけ言葉に詰まった。


「でも、誰かがそう見えるように置いているのは確かです」


 白瀬さんは日記を閉じた。


「日記も、楽譜も、時計も」


 廊下の空気が張り詰める。

 紗英さんは玲司さんの腕を掴んでいる。

 篠原さんは書類を握りしめている。

 鷺沼は黒い手袋をした手を前で揃え、何も言わない。

 そして白瀬さんは、静かに日記を見下ろしていた。


 第五楽章は楽譜ではない。

 鍵盤が覚えている。


 その言葉は、もうただの日記の一文ではなかった。

 事件の中心に向かって開いた、小さな扉のように見えた。


 僕はメモ帳を閉じた。

 その時、応接室の方から美和さんの声が聞こえた。


「きゃっ」


 短い悲鳴。

 今度は、はっきりと人間の声だった。


 全員が顔を上げた。

 白瀬さんが最初に動いた。


「応接室です」


 僕らは廊下を走った。


 応接室に戻ると、美和さんが暖炉の前で立ち尽くしていた。

 手には、銀の盆。

 床には、封筒が一通落ちている。

 暖炉のそばに置かれていた小さな屑入れが倒れていた。

 中に入っていた古い封筒や紙片が、絨毯の上に散らばっている。


「申し訳ありません。片づけようとしたら、屑入れの底にこれが引っかかっていて……」


 美和さんの声は震えていた。


「拾おうとして、名前が見えてしまって」


 封筒には、古い万年筆の字でこう書かれていた。


 蓮司へ。


 玲司さんが、その文字を見て凍りついた。


「兄さん宛て……?」


 白瀬さんは封筒に触れず、目だけで確認した。

 それから、小さく息を吐いた。


「次から次へと、紙が出てきますね」


「誰かが置いたんですか」


 僕は言った。


「日記も、紙ロールも、この封筒も」


「そうかもしれません」


「でも、全部同じ人が?」


 白瀬さんは答えなかった。

 僕は、床に落ちた封筒を見つめた。


 日記。

 紙ロール。

 第五楽章。

 割れた懐中時計。

 そして、蓮司宛ての封筒。


 まるで、読み終えた頃を見計らって、次の紙が出てくるみたいだった。


 霧雨館の夜は、まだ一つも真相を明かしていない。

 ただ、次に何を見せるかだけを、少しずつ決めているように見えた。

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