第4話 真柴の現場メモ
音楽室の扉は、再び閉じられた。
中には、雨宮蓮司の遺体がある。
割れた懐中時計。
譜面台の第五楽章。
自動演奏ピアノに入っていた紙ロール。
グランドピアノの鍵盤に落ちた、黒い一滴の血。
それらを残したまま、僕らは廊下へ戻された。
白瀬さんの指示だった。
「現場を荒らすべきではありません」
誰も反論しなかった。
いや、反論するだけの言葉を持っていなかったのだと思う。
音楽室の前には、重い沈黙が残った。
その扉の向こうに死者がいると知った途端、廊下の景色まで変わって見えた。
壁のランプ。
赤みを抑えた絨毯。
濡れた窓硝子。
肖像画の影。
どれも、さっきまでと同じもののはずなのに、すべてが事件の一部になってしまったようだった。
「応接室へ移りましょう」
白瀬さんが言った。
「ここで話すには、寒すぎます」
「兄を、あのままにしておくんですか」
玲司さんが低い声で言った。
その声には、怒りと震えが混じっていた。
「警察が来るまで、できるだけ動かさない方がいい」
「警察は来られないんでしょう」
「今は、です」
「いつ来るか分からない」
「だからこそ、私たちが壊してはいけません」
玲司さんは白瀬さんを睨んだ。
「あなたは探偵のつもりですか」
「いいえ」
白瀬さんは即答した。
「私は、聞こえたものを確かめたいだけです」
「音、ですか」
篠原さんが低く言った。
白瀬さんはそちらを見た。
「はい。この事件には、音が多すぎます」
玲司さんは何か言いかけた。
けれど、紗英さんが彼の袖を掴んだ。
「玲司さん」
その声は、小さかった。
けれど、玲司さんはそれ以上言わなかった。
応接室へ向かう途中、僕は振り返った。
音楽室の扉は閉まっている。
重い樫材の扉。
内側には防音用の革。
その扉が、さっきまではどうしても開かなかった。
中から鍵がかかっていたのか。
外から鍵がかかっていたのか。
それとも、別の理由で開かなかったのか。
僕には分からない。
ただ一つ分かっているのは、扉が開いた時、そこに死体があったということだけだった。
応接室には、暖炉の火がまだ残っていた。
しかし、火の色はさっきよりも弱く、部屋全体を温めるには足りなかった。
全員が席についた。
いや、席についたというより、それぞれ勝手な場所に落ち着いた。
玲司さんは暖炉の前に立ったままだった。
紗英さんはその近くの椅子に座り、両手を握りしめている。
篠原さんは窓際に立ち、手帳を胸元に抱えていた。
久世さんはソファに腰を下ろしながらも、落ち着かなげに指輪を撫でている。
奏太さんは顔を伏せ、膝の上で両手を組んでいた。
静乃さんは部屋の隅の椅子に座り、杖に両手を重ねている。
鷺沼は扉のそばに控え、美和さんはその後ろで青ざめていた。
そして僕は、白瀬さんに促されて、机の上にメモ帳を広げた。
「最初に、真柴さんが聞いた音を確認させてください」
白瀬さんが言った。
全員の視線が僕へ向いた。
僕は喉が乾くのを感じた。
「僕は、二階の客室で目を覚ましました」
ペンを握る手に力が入る。
「廊下で足音を聞いたんです。扉を開けると、二階から階段を降りていく人影が見えました」
「誰ですか」
玲司さんがすぐに聞いた。
「分かりません」
「分からない?」
「暗かったんです。女性のように見えました。細い肩で、髪か布のようなものが見えた気がします。でも、顔は見ていません」
「女性……」
紗英さんが小さく呟いた。
その声に、玲司さんが振り返る。
「紗英?」
「違うの。私じゃないわ」
「まだ誰も、あなたとは言っていません」
白瀬さんが静かに言った。
紗英さんは口を閉じた。
篠原さんは動かなかった。
美和さんはさらに顔を青くしている。
僕は、自分の言葉で部屋の中に余計なものを落としてしまった気がした。
「その人影は、どこへ向かいましたか」
白瀬さんが尋ねた。
「一階へ降りて、音楽室の方へ」
「追いましたか」
「はい」
「音楽室に入るところを見ましたか」
「いいえ。廊下に降りた時には、もう見えませんでした。ただ、向かった先は音楽室の方だったと思います」
「思います、ですね」
「はい」
僕は頷いた。
断定したくなかった。
いや、断定してしまうのが怖かった。
「その後に聞いた音は?」
「低いラです」
僕は言った。
「夕方、白瀬さんがグランドピアノで鳴らしたのと同じ音でした」
「続きは」
「金属音。小さく、短い音でした。鍵か鎖が触れたような音です」
「その後」
「短い悲鳴」
言葉にした瞬間、背中に冷たいものが走った。
あれは本当に悲鳴だったのだろうか。
人間の声だったのだろうか。
僕はまだ分からない。
「悲鳴は、男性の声でしたか。女性の声でしたか」
白瀬さんが尋ねた。
「分かりません」
「長さは?」
「一瞬です。叫び続けるようなものではなくて、本当に短く」
「人の声だと断定できますか」
部屋の空気が少し変わった。
全員が僕の答えを待っている。
僕はしばらく黙った。
そして、首を横に振った。
「断定は、できません」
白瀬さんは小さく頷いた。
「それでいいです」
「よくないでしょう」
玲司さんが言った。
「真柴さんは悲鳴を聞いた。兄は死んでいた。なら、それは兄の声だったと考えるのが自然です」
「悲鳴に聞こえました」
僕は答えた。
「でも、白瀬さんに言われて考えると、短すぎたんです。男か女かも、分からない」
「兄が死んでいたんですよ」
玲司さんの声が震える。
「なら、それは兄の声だったんじゃないんですか」
「玲司さん」
白瀬さんが静かに言った。
「そう決めるのは、まだ早いです」
「なぜ」
「悲鳴が聞こえたことと、その時に人が死んだことは、同じではありません」
「言葉遊びに聞こえます」
「そう聞こえると思います」
白瀬さんは否定しなかった。
「でも、ここを間違えると、この後の全部を間違えます」
玲司さんは何か言い返そうとして、結局黙った。
紗英さんが彼の手に触れたからだった。
「次に、扉です」
白瀬さんは続けた。
「真柴さんが扉を開けようとした時、開かなかった」
「はい」
「取っ手は回りましたか」
「回らなかったと思います。少なくとも、扉は動きませんでした」
「鍵がかかっているように?」
「そう感じました」
「感じた、ですね」
「はい。実際に鍵がかかっていたかまでは分かりません」
白瀬さんは僕のメモ帳を指差した。
「そこは、そう書いてください。開かなかった。鍵がかかっていたとは、まだ書かない」
僕は頷き、書き直した。
音楽室の扉は、外から開かなかった。
鍵? 引っかかり? 未確認。
「鍵は、どこから持ってきましたか」
白瀬さんは鷺沼を見た。
「書斎です」
鷺沼は姿勢を正した。
「音楽室の鍵は、旦那様の書斎に保管されております」
「書斎の鍵は?」
「私が持っております」
「鍵束は、常にあなたが?」
「はい」
「事件前、音楽室は施錠されていましたか」
鷺沼は一瞬だけ考えた。
「夕食後、館内の戸締まりを確認した際、音楽室の扉は閉まっておりました。ただし、施錠はしておりません」
「なぜです」
「玲司様から、今夜は音楽室を開けておくように言われておりました」
全員の視線が玲司さんへ向いた。
玲司さんは疲れたように目を伏せた。
「言いました。第五楽章を探すなら、音楽室に入る必要があるかもしれないと思ったからです」
「つまり、事件前の音楽室には、誰でも入れた可能性がある」
白瀬さんが言った。
「扉が開いていれば、ですが」
篠原さんが口を開いた。
「夜中に音楽室へ入るような方が、この中にいるとは思えません」
「本当にそうでしょうか」
久世さんが言った。
その声には、いつもの軽さが戻りかけていた。
「第五楽章を見つけた者に、霧雨館の真の相続権。ずいぶん強い誘い文句です」
「久世さん」
玲司さんが睨む。
「私は一般論を言ったまでです」
「その一般論の中に、ご自分も入っていますか」
白瀬さんが尋ねた。
久世さんは少し笑った。
「入りますね」
部屋の空気が止まった。
玲司さんが一歩踏み出す。
「どういう意味です」
「午後九時半頃、音楽室へ入りました」
「なぜ黙っていた」
「今、話す流れになったからです」
久世さんは悪びれなかった。
「第五楽章に興味がありましてね。美術商として、未発表曲の来歴には関心がある」
「興味で人の家を勝手に歩き回ったんですか」
「館内は見てよいと聞いていました」
「遺品には触れるなとも言ったはずです」
「触れてはいません」
久世さんはそこで少し肩をすくめた。
「少なくとも、価値が分からないうちは」
「ふざけないでください」
奏太さんが低く言った。
その声が思ったより硬くて、僕は少し驚いた。
「先生の曲を、そんなふうに言わないでください」
「失礼。言い方が悪かった」
久世さんはあっさり引いた。
けれど、本当に悪いと思っているようには見えなかった。
「見つけたんですか」
奏太さんが言った。
「いいえ」
久世さんは首を振った。
「ただ、自動演奏ピアノに紙ロールが入っているのは見ました」
僕は思わず顔を上げた。
「紙ロールが?」
「ええ。端に『第五楽章』と書かれていた」
「午後九時半に?」
「私の時計では、その頃でした」
白瀬さんは僕を見た。
「真柴さん、夕方は?」
「入っていませんでした」
「では、夕方の確認後から午後九時半までの間に、誰かが紙ロールを入れた可能性があります」
僕はメモした。
夕方:紙ロールなし。
九時半頃:久世証言では紙ロールあり。
事件発見時:紙ロールあり。
紙ロールを入れた時間――夕方から九時半?
最後に疑問符をつけた。
そうしないと、確定したことのように見えて怖かった。
「久世さん」
白瀬さんが続ける。
「その時、音楽室に誰かいましたか」
「いいえ」
「紙ロールには触れましたか」
「触れていません。使い方が分かりませんでしたから」
「楽譜は?」
「譜面台にはありませんでした」
「本当に?」
「ええ。少なくとも、私が見た時には」
現場にあった第五楽章の楽譜。
午後九時半にはなかった。
少なくとも、久世さんの証言が正しければ。
つまり、紙ロールと楽譜は同時に置かれたとは限らない。
僕はますます混乱した。
「音を聞いた方から確認します」
白瀬さんは部屋を見渡した。
「まず、低いラです」
最初に手を上げたのは、僕だった。
次に、奏太さん。
篠原さん。
久世さん。
玲司さん。
紗英さんは少し迷ってから、小さく頷いた。
静乃さんも、杖の上で指を動かした。
「聞いたわ」
「悲鳴は?」
僕は手を上げた。
他に、誰も手を上げなかった。
部屋の空気が変わった。
「誰も、聞いていないんですか」
僕は思わず言った。
「私は聞いていません」
玲司さんが言った。
「ピアノの音は聞きました。でも、悲鳴は聞いていない」
「私もです」
紗英さんは震える声で言った。
「何か音がした気はします。でも、悲鳴かどうかは……」
「私は低い音だけです」
篠原さんが言った。
「廊下が騒がしくなるまで、悲鳴は聞こえませんでした」
「私も」
久世さんが肩をすくめる。
「真柴さんの叫び声は聞きましたが、その前の悲鳴は聞いていません」
「僕も、悲鳴は聞いていません」
奏太さんが言った。
「ピアノの音は聞きました。でも……」
「でも?」
白瀬さんが促す。
奏太さんは唇を噛んだ。
「低いラは、二度聞きました」
「二度?」
僕は聞き返した。
「はい。一度目は、十一時半より少し前。二度目は、今の騒ぎの直前です」
「それは確かですか」
白瀬さんの声が少しだけ鋭くなった。
「たぶん。僕の腕時計では、そのくらいでした」
「腕時計を見せてください」
奏太さんは左手を差し出した。
デジタル式の腕時計だった。
白瀬さんは時刻を確認する。
「ほぼ合っています。一分ほど進んでいる程度です」
「一分……」
奏太さんは不安そうに呟いた。
「大きなずれではありません」
白瀬さんはそう言ったが、僕にはその一分さえ不気味に思えた。
この館では、時計が信用できない。
なのに、時計なしでは何も整理できない。
「静乃さん」
白瀬さんは老婦人へ向き直った。
「何を聞きましたか」
「ピアノの音を一つ」
静乃さんは答えた。
「それから、男の足音」
「男の足音?」
玲司さんが顔を上げた。
「いつですか」
「十一時半頃かしら。正確ではないわ」
「どこで」
「私の部屋の前を通った。音楽室とは反対の方へ」
「誰ですか」
「背中だけでは分からなかったわ」
静乃さんは薄く笑った。
「玲司か、蓮司か」
玲司さんの顔色が変わった。
「僕ではありません」
「そう。なら、蓮司だったのかもしれないわね」
「叔母様」
「だって、蓮司は帰ってきていたのでしょう」
その言葉は、部屋の空気をさらに冷たくした。
帰ってきていた。
七年前に失踪したはずの男が。
誰にも知られず、この館に。
そして殺された。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「ここまで、いったん書けますか」
「たぶん」
僕はメモ帳の新しいページを開いた。
手が震えていたが、書くしかなかった。
【真柴の現場メモ】
・夜中、二階から降りて音楽室へ向かう女性らしい人影を見た。暗くて誰かは不明。音楽室に入ったところは見ていない。
・その直後、低いラ、金属音、短い悲鳴のような音を聞いた。悲鳴が人の声かは断定できない。
・音楽室の扉は外から開かなかった。鍵? 引っかかり? 未確認。書斎の鍵で開いた。
・室内で、七年前に失踪した雨宮蓮司が遺体で発見された。
・蓮司さんの右手に、十一時二十分で止まった割れた懐中時計。
・自動演奏ピアノには、夕方にはなかった紙ロールが入っていた。
・久世さんの証言では、午後九時半頃には紙ロールが入っていた。
・譜面台には『霧雨館組曲 第五楽章』と書かれた楽譜。久世さんの証言では九時半頃にはなかった。
・窓は内側から施錠。音楽室は密室に見えるが、白瀬さんはまだ断定していない。
・蓮司さんの胸には刺されたような傷。凶器は見当たらない。
・僕が聞いた悲鳴のような音を、他の人は聞いていない。
・奏太さんは、低いラを二度聞いたと言っている。
書き終えた時、僕は自分のメモを見て、ようやく事件の形を少しだけ理解した。
いや、理解したのではない。
分からないことの多さを、目に見える形で突きつけられただけだった。
メモに書いた言葉は、どれも事件らしい顔をしている。
けれど、並べれば並べるほど、何が本当に起きたのか分からなくなった。
白瀬さんの言う通り、音が多すぎる。
僕が聞いた音。
奏太さんが聞いたという音。
静乃さんの部屋の前を通った足音。
聞こえなかった悲鳴。
そして、誰かが置いたかもしれない音。
「白瀬さん」
僕は小声で尋ねた。
「これは、誰か一人が全部やったんでしょうか」
白瀬さんはすぐには答えなかった。
応接室の置時計だけが、かち、かち、と時を刻んでいる。
この部屋で、唯一動いている時計だった。
「まだ分かりません」
彼女は言った。
「ただ、一つだけ言えることがあります」
「何ですか」
「この事件は、死体が見つかった時点から始まったわけではないと思います」
白瀬さんは、閉ざされた音楽室の方を見た。
「もっと前から、誰かが音を置いていた」
その時、廊下の奥で、微かな音がした。
ぽん。
低いラ。
全員が凍りついた。
音楽室は、再び施錠されている。
鍵は、玲司さんが持っている。
扉の向こうには、死者がいる。
それなのに、またピアノが鳴った。
白瀬さんだけが、静かに立ち上がった。
「……まだ、終わっていませんね」
彼女はそう呟いた。




