第3話 密室の譜面台
音楽室の扉が、ゆっくりと開いた。
最初に流れ出してきたのは、音ではなかった。
匂いだった。
古い紙。
磨かれた木。
金属。
黴。
そして、その奥に混じる、鉄のような匂い。
僕は思わず息を止めた。
「全員、入らないでください」
白瀬さんの声がした。
大きな声ではなかった。
けれど、その一言で、誰も動けなくなった。
扉の向こうは、夕方に見た時と同じ音楽室だった。
中央にはグランドピアノ。
奥には自動演奏ピアノ。
壁際には譜面棚。
懐中時計のガラスケース。
止まった振り子時計。
配置は何も変わっていないように見えた。
ただ一つだけ、夕方にはなかったものがあった。
人が倒れていた。
グランドピアノの脚にもたれるように、男が床に倒れている。
黒っぽい服。
細い体。
胸元に広がる暗い染み。
右手には、何か銀色のものを握っていた。
僕は一瞬、それが誰なのか理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
その顔は、玲司さんに似ていた。
あまりにも似ていた。
だから、最初に頭に浮かんだのは、あり得ない考えだった。
玲司さんが、鍵を開けた。
玲司さんは、僕の目の前にいる。
なのに、床にも玲司さんが倒れている。
「……兄さん」
玲司さんが、凍りついた声で言った。
兄さん。
その一言で、部屋の空気が変わった。
紗英さんが口元を押さえた。
「蓮司さん……?」
奏太さんが後ずさる。
久世さんの笑みが消えた。
篠原さんは、眼鏡の奥で目を見開いたまま、声を出さなかった。
静乃さんだけが、杖に両手を重ね、細く息を吐いた。
「帰ってきたのね」
その言い方は、死者を見た人間のものではなかった。
まるで、ずっと前からこの時を待っていたようだった。
「雨宮蓮司さん、ですか」
白瀬さんが尋ねた。
玲司さんは答えなかった。
代わりに、紗英さんが震える声で言った。
「七年前に、失踪したはずの……」
七年前に失踪した男。
雨宮玲司の兄。
雨宮蓮司。
その人物が、霧雨館の音楽室で倒れている。
閉ざされていたはずの部屋の中で。
「警察を」
僕はようやく声を出した。
「警察を呼びましょう」
鷺沼が静かに首を振った。
「電話が、先ほどから通じません」
「携帯は?」
奏太さんが慌ててスマートフォンを取り出した。
画面を見て、さらに顔を青くする。
「圏外です」
「そんな」
「この辺りは、元から電波が弱いんです」
玲司さんがようやく口を開いた。
「車で麓まで下りれば」
その時、遠くで低い音がした。
雷ではない。
もっと重く、地面の奥から崩れるような音。
全員が玄関の方を見た。
鷺沼がすぐに動いた。
「確認してまいります」
彼は雨具も取らずに玄関へ向かった。
廊下には、音楽室の匂いと沈黙だけが残った。
誰も部屋へ入ろうとしない。
誰も蓮司さんに近づこうとしない。
白瀬さんだけが、扉の敷居の内側で足を止め、床を見ていた。
「白瀬さん」
僕は小声で呼んだ。
「中に入らないんですか」
「入ります。ただ、足跡を増やしたくありません」
彼女はそう言って、床の上を慎重に見た。
雨の夜だ。
廊下から誰かが入っていれば、濡れた靴跡が残っているかもしれない。
そう思ったのに、僕の目には何も分からなかった。
床が濡れているのか、ただ光っているだけなのか。
埃が乱れているのか、最初からそうだったのか。
そういうことすら、僕には判断できない。
鷺沼が戻ってきたのは、数分後だった。
肩と髪が雨で濡れている。
それでも黒い手袋だけは外していなかった。
「裏の山道で土砂崩れが起きております」
彼は言った。
「車は出せません」
誰もすぐには言葉を発しなかった。
霧雨館は、完全に閉ざされた。
外へ出る道は断たれ、電話は通じず、携帯は圏外。
そして、音楽室には死者がいる。
「警察が来るまで、できるだけこの部屋を荒らさないでください」
白瀬さんが言った。
「警察が来るまで?」
久世さんが乾いた声で笑った。
「いつ来られるか分からないのに?」
「だからこそです」
白瀬さんは久世さんを見なかった。
「ただ、最低限は確認します。まだ館の中に危険が残っている可能性がありますから」
「危険?」
美和さんが小さく呟いた。
白瀬さんは答えず、僕を見た。
「真柴さん、記録をお願いします」
「僕が?」
「編集者でしょう」
「事件現場の記録なんて」
「見たことだけでいいです。推測は後にしてください」
僕は震える手でメモ帳を取り出した。
ペン先が紙の上で小さく揺れる。
何から書けばいいのか分からない。
「まず扉です」
白瀬さんが言った。
「発見時、音楽室の扉は閉まっていた。外から取っ手を回しても開かなかった」
僕はその通りに書こうとした。
けれど、「音楽室」の「楽」の字が少し歪んだ。
手が震えていることに、その時ようやく気づいた。
「書斎に保管されていた鍵で、玲司さんが開けた。ここまで書けますか」
「はい」
書けます、と言いたかったのに、声はうまく出なかった。
僕は黙って頷き、文字を書いた。
「窓は?」
白瀬さんは室内を見渡した。
音楽室には窓が二つある。
どちらも内側からクレセント錠がかかっていた。
外は崖側だ。
雨と霧でほとんど見えないが、少なくとも窓の外に人が立てるような足場はなさそうだった。
「窓は二つ。どちらも内側から施錠」
僕は書いた。
「暖炉は?」
白瀬さんが言う。
玲司さんがかすれた声で答えた。
「人が通れる大きさではありません」
「天井の換気口は?」
白瀬さんは天井を見上げた。
小さな換気口には、格子がはめられている。
人間が出入りできるようなものではない。
「扉は一つ。窓は内側から施錠。暖炉と換気口は通行不可」
僕はメモを読み上げた。
読み上げた途端、急にその言葉が怖くなった。
「密室じゃないですか」
奏太さんが青ざめた顔で言った。
「犯人は、どこから出たんですか」
誰も答えなかった。
密室。
その言葉が、音楽室の中に落ちた。
けれど白瀬さんだけは、扉ではなく、部屋の奥を見ていた。
「密室と呼ぶのは、まだ早いと思います」
「早い?」
玲司さんが声を荒げた。
「兄が死んでいるんですよ」
「だからこそです」
白瀬さんは言った。
「そう呼んだ瞬間、他の可能性を見落とします」
玲司さんは唇を噛んだ。
白瀬さんは慎重に室内へ入った。
蓮司さんの遺体には直接触れない。
少し離れた位置から、床と周囲を観察する。
「胸に刺されたような傷が一つ」
彼女は言った。
その言葉を聞いて、僕はペンを止めそうになった。
けれど止めたら、見てしまう。
だから書いた。
胸に刺されたような傷。
字がまた少し歪んだ。
「凶器は?」
玲司さんが言った。
「すぐ見える場所にはありません」
「凶器がない?」
僕は思わず聞き返した。
「少なくとも、今この位置からは」
蓮司さんの右手には、銀色の懐中時計が握られていた。
文字盤のガラスは割れている。
蓋は開いたまま。
針は――
僕は、そこまで見て背筋が冷たくなった。
「十一時二十分」
白瀬さんが言った。
誰も息をしなかったような気がした。
「時計塔と同じ。夕方見た懐中時計とも同じです」
僕はメモ帳に書いた。
蓮司の右手に、割れた懐中時計。
針は十一時二十分。
蓮司、と呼び捨てで書いたことに気づいて、すぐに線を引きかけた。
でも、消す余裕がなかった。
この館では、何もかもがその時刻へ戻っていく。
「時計の鎖に、血は?」
白瀬さんは顔を近づけすぎないようにして確認した。
「ほとんど見えません」
「それは重要なんですか」
「今は分かりません」
彼女はそう言って、自動演奏ピアノへ向かった。
夕方、紙ロールは入っていなかった。
僕はそれを確かに見た。
空だった。
何も入っていなかった。
けれど今は違った。
自動演奏ピアノのロール挿入口には、古びた紙ロールがセットされていた。
端に黒いインクで文字が書かれている。
第五楽章。
「真柴さん」
白瀬さんが言った。
「夕方、この自動演奏ピアノを見た時、紙ロールはありましたか」
「ありませんでした」
「今は?」
「入っています」
僕は自分の声が遠く聞こえた。
「『第五楽章』と書かれた紙ロールが」
「では、夕方から今までの間に、誰かがこの部屋へ入り、紙ロールをセットした可能性があります」
玲司さんが苛立ったように言った。
「そんなことより、密室をどうやって出たかの方が問題でしょう」
「それも問題です」
白瀬さんは静かに答えた。
「でも、まず変わったものを見たいんです」
「変わったもの?」
「夕方にはなかったものです」
夕方にはなかった紙ロール。
今はある紙ロール。
誰かが、この部屋に入っている。
少なくとも、僕らが音楽室を出た後、事件が起きるまでのどこかで。
僕はメモ帳を握りしめた。
白瀬さんは次に譜面台を見た。
グランドピアノのそばにある譜面台。
そこに、一冊の楽譜が置かれていた。
表紙には、はっきりと書かれている。
霧雨館組曲 第五楽章。
誰もが、その文字を見た。
奏太さんが小さく息を呑む。
篠原さんは、まるでその文字を見たくないかのように、ほんの少しだけ顔を背けた。
「これが、第五楽章……」
久世さんが呟いた。
その声には、恐怖よりも別の感情が混じっていた。
価値あるものを見つけた商人の声。
僕はそれに気づいて、ぞっとした。
人が死んでいる。
それなのに、この楽譜には、すでに値段がつき始めている。
白瀬さんは楽譜には触れなかった。
ただ、表紙と置かれた位置を確認しただけだった。
「真柴さん、現場に置かれた第五楽章、と書いてください」
「本物なんでしょうか」
「分かりません」
「分からない?」
「ここにあるから本物とは限りません。ここに置かれていること自体が、誰かの意図かもしれません」
その時、僕はグランドピアノの鍵盤に何かを見つけた。
白鍵の一つ。
夕方、白瀬さんが押した低いラの近くだろうか。
そこに、小さな黒い染みがあった。
血のようにも見えた。
「白瀬さん、鍵盤に」
「触らないでください」
彼女は鋭く言った。
僕は手を引っ込める。
白瀬さんは鍵盤を見た。
黒い一滴。
濡れたように光る、小さな血痕。
「この部屋は」
彼女は静かに言った。
言いかけて、少しだけ黙った。
「……いえ、今はやめておきます」
「何ですか」
「後で考えます」
その中途半端な言い方が、かえって怖かった。
演奏。
死者。
閉ざされた部屋。
割れた懐中時計。
第五楽章。
僕には、それらがどうつながるのか分からなかった。
ただ、この部屋に残されたものは、すべて誰かに見せるために置かれているような気がした。
そう思って、すぐに嫌になった。
見せるため、なんて。
まるで人の死まで、演出の一部みたいではないか。
白瀬さんは、最後に部屋全体を見渡した。
「これ以上は、必要最低限にします。遺体には触れません。楽譜にも、紙ロールにも、時計にも触れない」
「では、どうするんですか」
玲司さんが言った。
「話を聞きます」
「今?」
「今です」
白瀬さんは扉の方を向いた。
「誰が何を聞いたのか。誰が何を見たのか。見ていないのか。そこから確認します」
僕はメモ帳を閉じようとして、ふとページの最後に一行を書き足した。
低いラ。
金属音。
短い悲鳴。
そこまでは、まだ覚えている。
けれどその先は、うまく一つの出来事として頭に入ってこなかった。
閉ざされた部屋。
七年前に消えたという男。
十一時二十分で止まった時計。
失われたはずの第五楽章。
それらが、ばらばらのまま僕の中で鳴っていた。
その時、雨がいっそう強く窓を叩いた。
音楽室の窓は、内側から閉まっている。
外は崖。
扉は鍵で開けるまで開かなかった。
誰も出入りできないはずの部屋で、雨宮蓮司は死んでいた。
譜面台には、失われたはずの第五楽章。
右手には、十一時二十分で止まった割れた懐中時計。
そして僕は、ようやく理解した。
霧雨館の夜は、まだ始まったばかりなのだ。




