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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第二章 密室の譜面台

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第2話 低いラ

 ぽん。


 低いラの音が鳴った。

 夜の館の奥で、たった一つの音が、深く沈んだ。


 僕は動けなかった。

 音楽室の扉の前で、息を止めたまま立ち尽くしていた。


 夕方、白瀬さんがグランドピアノで鳴らした音と同じだった。

 あの時も、低いラが鳴った。

 そして、その後に――


 ちん。


 金属音。

 今度は聞き間違いではなかった。

 扉の向こうで、何か硬いものが触れ合ったような、短い音がした。


 鍵。

 鎖。

 あるいは、金属の小片。


 僕には分からない。

 けれど、低いラの後に金属音が続いたことだけは、はっきり分かった。


「誰か、いるんですか」


 自分でも驚くほど、声が掠れていた。

 返事はない。

 扉の向こうは静まり返っている。


 僕は扉に手を伸ばした。

 その時だった。


 短い悲鳴が聞こえた。


 いや、悲鳴だと思った。

 人の声のようにも聞こえた。

 けれど、あまりに短かった。

 喉から押し出された声というより、空気が裂けるような音。

 高いのか低いのか。

 男なのか女なのか。

 判断する暇もない。


 ただ、その瞬間、背中が冷たくなった。


 僕は反射的に扉の取っ手を掴んだ。

 回す。

 開かない。

 もう一度、強く回す。

 扉はびくともしなかった。


「開けてください!」


 僕は扉を叩いた。


「誰かいるんでしょう! 開けてください!」


 内側から返事はない。

 僕は肩で扉を押した。

 重い樫材の扉は、まるで壁の一部のように動かなかった。


 心臓がうるさい。

 雨音も、館の軋みも、何も聞こえなくなっていた。

 扉の向こうで何が起きたのか。

 考えたくなかった。

 考えないために、僕は扉を叩き続けた。


「誰か!」


 僕の声が廊下に響いた。


「誰か来てください!」


「真柴さん」


 最初に聞こえたのは、白瀬さんの声だった。

 振り向くと、彼女が廊下をこちらへ歩いてくるところだった。

 寝間着の上に薄いコートを羽織っている。

 髪は少しも乱れていない。

 その落ち着いた様子が、かえって現実味をなくしていた。


「中から悲鳴が」


「落ち着いてください」


「でも」


「聞こえた順番を教えてください」


 こんな時に何を言っているのかと思った。

 けれど、白瀬さんの目は真剣だった。


「順番、ですか」


「はい。覚えているところだけでいいです」


 僕は息を整えようとした。

 うまくいかなかった。


「低いラです。たぶん、夕方と同じ音で」


「はい」


「それから、金属音がしました。短くて……ちん、みたいな音です」


「その後は?」


「悲鳴、だと思います。でも、短すぎて。人の声だったのかも、分かりません」


「その後に、扉を開けようとした?」


「はい。でも開かなくて」


「分かりました」


「本当に、悲鳴だったのかは」


「今は、そのままでいいです」


「いいんですか」


「分からないものを、分かったことにしない方がいいです」


 夕方と似たことを、彼女は言った。

 その冷静さが、逆に怖かった。


 白瀬さんは扉に耳を近づけた。

 僕も息を殺す。

 音楽室の中は静かだった。


 いや、完全な無音ではない。

 微かに、何かが動いているような気がした。

 機械の回る音。

 古い歯車が、ゆっくりと空回りしているような音。


「中で何か動いています」


 僕が言うと、白瀬さんは頷いた。


「自動演奏ピアノかもしれません」


「でも、夕方は紙ロールが入っていませんでした」


「今も入っていないとは限りません」


 その言葉の意味を考える前に、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。


「何の騒ぎですか」


 玲司さんだった。

 上着を羽織っただけの姿で、顔色が悪い。

 すぐ後ろに紗英さんがいて、彼の腕を掴んでいる。

 さらにその後ろから、久世さんがガウン姿で顔を出した。


「夜中にずいぶん賑やかですね」


「玲司さん、待って」


 紗英さんの声が震えていた。


「音楽室です」


 僕は言った。


「中で悲鳴みたいな音が聞こえました。でも、扉が開きません」


 玲司さんの表情が変わった。


「鍵は?」


「分かりません。取っ手が回らないんです」


 玲司さんは僕を押しのけるように扉へ近づき、取っ手を掴んだ。

 強く回す。

 扉は開かない。


「そんなはずはない」


「この部屋、夜は施錠するの?」


 紗英さんが言った。


「今日は開けておくように言った」


「でも、開かない」


「分かっている」


 玲司さんは苛立ったように答えた。

 その時、廊下の奥から静かな足音がした。


 鷺沼だった。

 黒い手袋をしたまま、乱れのない歩調で近づいてくる。

 隣には美和さんがいた。

 彼女は青ざめた顔で、鷺沼の半歩後ろをついてきている。


「玲司様」


 鷺沼は扉の前で足を止めた。


「音楽室の鍵は」


「書斎だろう。持ってこい」


「かしこまりました」


 鷺沼は即座に踵を返しかけた。


「待ってください」


 白瀬さんが言った。

 鷺沼が振り向く。


「鍵は、いつも書斎にあるんですか」


「はい。音楽室の鍵は、旦那様の書斎に保管されております」


「書斎の鍵は?」


「私が管理しております」


「今も?」


「はい」


 白瀬さんは一瞬だけ、鷺沼の黒い手袋を見た。


「お願いします」


 鷺沼は頭を下げ、足早に去っていった。


 久世さんが音楽室の扉を眺める。

 その目は眠っていた人間のものには見えなかった。


「悲鳴ですか」


「悲鳴かどうかは、まだ分かりません」


 白瀬さんが答えた。


「真柴さんには、そう聞こえたそうです」


「それは穏やかではありませんね」


「久世さん」


 玲司さんが低い声で言った。


「今は冗談を言っている場合ではありません」


「失礼。職業柄、妙な出来事には反応してしまう」


「職業柄で済ませないでください」


 階段の方から、別の足音が聞こえた。

 奏太さんが走ってくる。

 髪が乱れ、手には腕時計を握っていた。

 その少し後ろに、篠原さんも姿を見せた。

 眼鏡をかけ、きちんと上着を羽織っている。

 寝ていたようには見えなかった。


「今の音、聞きました」


 奏太さんが息を切らしながら言った。


「音?」


 白瀬さんが振り向いた。


「ピアノです。低い音が」


「悲鳴は聞きましたか」


 奏太さんは首を振った。


「悲鳴は……聞いていません。真柴さんの声は聞こえました」


「低い音は一度だけ?」


「たぶん」


 彼は不安そうに答えた。


「部屋にいたので、はっきりは」


 篠原さんは音楽室の扉を見るなり、足を止めていた。


「開かないのですか」


「はい」


 白瀬さんが答えた。


「真柴さんは、低いラ、金属音、短い悲鳴のような音を聞いています」


 篠原さんの顔が、ほんのわずかにこわばった。


「低いラ……」


「何か心当たりが?」


「ありません」


 答えは早かった。

 早すぎるほどだった。


 最後に、静乃さんが杖をつきながらホールの方から現れた。

 美和さんが慌てて支えようとしたが、静乃さんはそれを手で制した。


「騒がしい夜ね」


「叔母様、部屋に戻っていてください」


 玲司さんが言った。


「嫌よ」


 静乃さんは薄く笑った。


「宗一郎さんの部屋で何か起きたなら、私にも見る権利があるわ」


「まだ何か起きたと決まったわけではありません」


「なら、なぜそんな顔をしているの」


 玲司さんは答えなかった。


 廊下に集まった人々は、誰も音楽室へ入れないまま、扉の前で立ち尽くしていた。


 閉じた扉。

 防音用の革。

 重い樫材。


 その向こうで、何が起きたのか。

 誰がいるのか。

 分からない。


 僕はもう一度、扉に耳を近づけた。

 機械音は、もう聞こえなかった。

 音楽室の中は完全に沈黙していた。

 その沈黙が、かえって恐ろしかった。


 やがて、廊下の奥から足音が戻ってきた。

 鷺沼だった。

 右手に古い鍵を持っている。

 黒い手袋の指の間で、鍵だけが鈍く光っていた。


「お待たせいたしました」


 玲司さんは鍵を奪うように受け取った。

 その手が震えている。

 紗英さんが小さく言った。


「玲司さん」


「大丈夫だ」


 玲司さんはそう言った。

 けれど、その声は大丈夫な人間のものではなかった。


 白瀬さんが扉の前に立った。


「開ける前に、少しだけ確認させてください」


「今そんなことをしている場合ですか」


「今だからです」


 白瀬さんの声は低かった。


「扉は外から開かなかった。鍵は今、書斎から来た。中から返事はない。真柴さんが聞いた順番は、低いラ、金属音、短い悲鳴のような音。ここまでは、間違いありませんね」


 僕は頷いた。


「たぶん」


「たぶんで構いません」


 白瀬さんは全員を見た。


「開けた後、すぐに中へ入らないでください」


「なぜです」


 久世さんが尋ねた。


「中のものを動かしたくありません」


「それは……」


 久世さんの声が少しだけ低くなった。


「事件だとお考えで?」


 白瀬さんは答えなかった。

 その沈黙で、廊下の空気が一段冷えた。


 玲司さんは鍵穴に鍵を差し込んだ。

 金属が擦れる音がする。


 かちゃり。


 錠が外れた。

 玲司さんは一瞬だけ目を閉じた。

 それから、扉の取っ手に手をかけた。


 音楽室の扉が、ゆっくりと開いた。

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