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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第二章 密室の譜面台

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第1話 夜の足音

 音楽室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。

 いや、正確には、音楽室の空気が重すぎたのだと思う。


 古い紙。

 磨かれた木。

 金属。

 黴。

 止まった時計。

 空の自動演奏ピアノ。

 低いラの後に聞こえた、小さな金属音。

 篠原さんの言葉。


 第五楽章を探すのは、おやめになった方がいい。

 終わったはずの音が、戻ってしまう。


 僕はその言葉を頭の中で繰り返しながら、二階の客室へ戻った。

 白瀬さんは隣室の前で足を止めた。


「今日は休みましょう」


「眠れる気がしません」


「眠れない時は、眠れないなりに目を閉じるだけでも違います」


「白瀬さんは眠れそうですか」


「必要なら」


 彼女はそう言った。

 まるで、眠ることも起きることも、自分で選べると言っているようだった。


「真柴さん」


「はい」


「夜中に何か聞こえても、すぐに決めつけないでください」


「何かって」


「音です」


 白瀬さんは淡々と言った。


「古い館では、音はよく嘘をつきます」


「音が嘘を?」


「人が、音に嘘をつかせることもあります」


 僕は返事に困った。

 白瀬さんはそれ以上説明せず、自室の扉を開けた。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 扉が閉まる。

 廊下に一人残されると、急に館の静けさが近づいてきた。

 壁のランプが小さく揺れている。

 遠くで雨が降っている。

 どこかで木が軋む。

 そのたびに、僕は音楽室の低いラを思い出した。


 自室に戻ると、机の上のメモ帳が開いたままになっていた。


 霧雨館には、止まった時計が多い。


 そう書いた一行の下に、僕は続けて書き足した。


 自動演奏ピアノに紙ロールなし。

 グランドピアノの低いラ。

 遅れて金属音。

 懐中時計は十一時二十分。

 篠原千鶴は、第五楽章を探すなと言った。


 書いてみると、それらはまだ断片にすぎなかった。

 けれど、断片にしては互いに近すぎる。

 まるで見えない糸で結ばれているように、同じ場所へ引っ張られている。


 第五楽章。

 雨宮宗一郎。

 十一時二十分。


 僕はペンを置き、椅子にもたれた。

 窓の外は真っ白だった。

 夜なのに、闇ではなく霧がある。

 黒いはずの庭も、崖も、空も、すべて白い膜の向こうに隠されている。

 霧雨館は、完全に外界から切り離されていた。


 紗英さんの言葉が蘇る。


 霧が出ると、ここは外界から切り離されたみたいになるんです。


 あれは、館の雰囲気を説明しただけだったのだろうか。

 それとも彼女は、この館で過去に何かを見たのだろうか。


 僕はベッドに横になった。

 明かりを消す。

 部屋はすぐに暗くなった。

 窓から入る白い霧の光だけが、家具の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。


 雨の音が聞こえる。

 細かい雨が、窓硝子を絶えず叩いている。

 その奥で、館が鳴っている。


 みしり。

 こつん。


 かすかに軋む音。

 壁の中で木が動く音。

 古い建物なら珍しくもないのだろう。

 それでも僕には、その一つ一つが何かの合図のように聞こえた。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。

 眠りに落ちたのか、落ちなかったのかも曖昧だった。

 浅い水の底にいるような意識の中で、僕はまた音を聞いた。


 最初は雨だと思った。

 次に、風だと思った。

 けれど違った。


 廊下だ。

 廊下の方で、床板が小さく鳴った。


 ぎし。


 僕は目を開けた。

 部屋は暗い。

 枕元の時計を見る。

 針は午前零時を少し回ったあたりを指していた。

 いや、正確かどうかは分からない。

 この館では、時計というものを簡単に信用していい気がしなかった。


 また、音がした。


 ぎし。


 今度ははっきり聞こえた。

 誰かが廊下を歩いている。


「……誰かいる?」


 自分でも驚くほど小さな声だった。

 返事はない。


 僕はベッドから起き上がった。

 上着を羽織り、扉の前へ行く。

 すぐに開ける気にはなれなかった。

 耳を当てる。


 廊下の向こうで、また床板が鳴った。

 足音はゆっくりだった。

 急いでいるわけではない。

 けれど、迷っているわけでもない。

 どこへ行くかを知っている歩き方だった。


 僕は扉を少しだけ開けた。

 廊下は暗い。

 壁のランプが消えかけたような弱い光を落としている。


 その奥で、誰かの影が動いた。

 二階の階段へ向かっている。

 細い肩。

 長い髪のようなもの。

 あるいは、肩にかかった布かもしれない。

 女性らしい人影だった。

 ただ、暗くて顔は見えない。


 その人影は、階段の手すりに一度だけ手を置いた。

 そして、ゆっくり一階へ降りていく。


 僕は息を殺した。

 紗英さんだろうか。

 篠原さんだろうか。

 それとも、美和さんか。

 いや、静乃さんは足が悪いと言っていた。

 白瀬さんの可能性もある。

 でも、隣の部屋から出てきた気配はなかった。


 僕は迷った。

 部屋に戻るべきか。

 白瀬さんを起こすべきか。

 それとも、後を追うべきか。


 その時、白瀬さんの言葉が頭をよぎった。


 夜中に何か聞こえても、すぐに決めつけないでください。


 決めつけないためには、見なければならない。

 そう思った。


 僕は扉を開け、廊下へ出た。

 足元の絨毯が音を吸う。

 けれど、古い床板は完全には黙ってくれない。


 できるだけ静かに歩き、階段の上から一階を見下ろす。

 玄関ホールは暗かった。

 暖炉の火は落ち、肖像画の目だけが、闇の中で白く浮いている。

 雨宮宗一郎の肖像。

 昼間に見た時よりも、その老人の顔は厳しく見えた。


 人影はホールを横切っていた。

 やはり、音楽室の方へ向かっている。


 僕は階段を降りた。

 一段。

 また一段。

 手すりが冷たい。


 ホールに降り立つと、雨音が少し遠くなったように感じた。

 代わりに、館の奥の静けさが近づいてくる。


 音楽室へ続く廊下。

 その奥は、薄い闇に沈んでいた。


 人影はもう見えない。

 けれど、確かにそちらへ向かった。


 僕は廊下へ足を踏み入れた。

 空気が変わる。

 古い紙と、木と、金属の匂い。

 音楽室の匂いだった。


 扉は閉まっている。

 重い樫材の扉。

 内側に防音用の革が張られた、あの扉。


 僕は数歩手前で立ち止まった。

 中から音はしない。

 それなのに、扉の向こうに誰かがいる気配がした。


 人の気配というより、何かが始まる前の気配。

 息を吸ったまま、吐くのを忘れているような沈黙。


 僕は扉に近づこうとした。

 その瞬間だった。


 ぽん。


 低いラの音が鳴った。

 夜の館の奥で、たった一つの音が、深く沈んだ。

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