第4話 音楽室
音楽室は、館の他の部屋とは空気が違っていた。
応接室や食堂には、人の気配があった。
古い家具や火の入った暖炉、食器の音、誰かの声。
そういうものが、まだ部屋の中に残っていた。
けれど、この音楽室には、生活の名残がほとんどない。
あるのは、古い紙の匂い。
磨かれた木の匂い。
金属と、微かな黴の匂い。
そして、音が鳴る前の沈黙だった。
部屋の中央には、黒いグランドピアノが一台置かれていた。
蓋は閉じられている。
古いものだが、手入れはされているらしい。表面にはランプの光が鈍く映り、黒い水面のように揺れて見えた。
奥の壁際には、自動演奏ピアノがあった。
こちらは、グランドピアノよりも古びている。
黒い木枠には細かな傷があり、黄ばんだ鍵盤の上には薄く埃が積もっていた。
上部には、紙ロールを差し込むための機構がついている。
壁際には譜面棚。
その横には、懐中時計のコレクションが収められたガラスケース。
部屋の片隅には古い振り子時計もあったが、針は動いていなかった。
僕は思わず声を潜めた。
「ここで、さっきの音が?」
「たぶん」
白瀬さんは入口の近くで足を止めたまま、部屋全体を見ていた。
その目は、物を見ているというより、部屋の中に残った音の跡を探しているようだった。
そう思ってから、音の跡なんて何だ、と自分で少しおかしくなる。
でも、白瀬さんを見ていると、そうとしか言えなかった。
「自動演奏ピアノって、本当に勝手に鳴るんでしょうか」
「勝手に鳴るなら、調律師は苦労します」
白瀬さんはそう言って、奥の自動演奏ピアノに近づいた。
僕も後に続く。
正直、僕にはピアノの違いがよく分からない。
黒くて大きい方がグランドピアノ。
古くて仕掛けがありそうな方が自動演奏ピアノ。
その程度だ。
だから、白瀬さんがどこを見ているのか、半分も分かっていないと思う。
紙ロールを差し込む部分は、開いたままになっていた。
中を覗いてみる。
「何も入っていませんね」
「はい。空です」
白瀬さんは内部を確認しながら頷いた。
「紙ロール式なら、ここに穴の空いた紙をセットして演奏します。でも、今は入っていない」
「でも、さっき鳴っていました」
「そうですね」
「じゃあ、このピアノじゃない?」
「そう決めるのは、まだ早いと思います」
白瀬さんは少しだけ考えるように、自動演奏ピアノの奥を覗いた。
「聞こえた方向は、あまり信用しすぎない方がいいです。特に、こういう古い館では」
「音が反響するからですか」
「それもあります。壁や廊下を伝うこともあります」
僕は廊下の方を振り返った。
さっき確かに、この部屋の方から聞こえた気がした。
けれど、気がした、というだけだ。
それを事実みたいに思っていた自分に、少しだけ不安になる。
僕は自動演奏ピアノの鍵盤を見た。
黄ばんだ白鍵。
角の欠けた黒鍵。
長い時間、人の指に触れられずにいたような鍵盤だった。
「触ってもいいんでしょうか」
「弾くのはやめておきましょう」
白瀬さんは言った。
「古い機構です。壊れても困りますし、何かが動いても困ります」
「何かが?」
「……音、とか」
白瀬さんはそう言ったあと、自分でも少し曖昧だと思ったのか、小さく息を吐いた。
「すみません。今のは言い方が悪かったですね」
「いえ、何となく分かるような、分からないような」
「私も、まだそんな感じです」
その一言で、少しだけ安心した。
白瀬さんでも分からないことがあるのだと思うと、僕だけが置いていかれている感じが少し薄くなる。
彼女は自動演奏ピアノから離れ、今度はグランドピアノへ向かった。
グランドピアノの前に立つと、白瀬さんは少しだけ表情を変えた。
懐かしむような。
あるいは、警戒するような。
鍵盤蓋に指をかけ、ゆっくり開ける。
白鍵と黒鍵が、ランプの光の中に現れた。
「弾くんですか」
「一音だけ」
白瀬さんは鍵盤を見下ろした。
それから、低音側の一つの鍵盤に指を置いた。
「低いラです」
そう言って、彼女はその鍵盤を押した。
ぽん。
低い音が鳴った。
暗い水の底で、小さな石が沈むような音だった。
その瞬間、僕は妙な違和感を覚えた。
音そのものではない。
低いラが消えた後、部屋のどこかで、遅れて何かが鳴ったような気がした。
ちん。
かすかな金属音。
鍵が触れたような。
鎖が揺れたような。
あまりに小さくて、聞き間違いかと思うほどの音だった。
「今、何か」
僕は思わず言った。
白瀬さんは鍵盤から指を離した。
「聞こえました?」
「はい。金属が触れたような音が」
「どこからでしたか」
「……分かりません」
情けない答えだと思った。
けれど、白瀬さんは首を横に振った。
「今は、それでいいと思います」
「いいんですか」
「分からないまま置いておいた方がいいこともあります。無理に決めると、あとで間違えますから」
白瀬さんはそう言って、部屋の隅へ目を向けた。
その先には、懐中時計のガラスケースがあった。
十数個の懐中時計が、古い布の上に並べられている。
銀色。
金色。
蓋に紋章のような彫刻があるもの。
鎖がついたままのもの。
その中で一つだけ、鎖がケースの外へ少し垂れていた。
「鍵がかかっていないみたいですね」
白瀬さんはケースの取っ手に触れた。
扉は、抵抗なく開いた。
「いいんですか、開けて」
「本当は、あまりよくないです」
白瀬さんは淡々と言った。
「でも、さっきの音がここなら、閉めておく方が気になります」
「理屈としては分かりますけど」
「玲司さんには、あとで謝ります」
白瀬さんは、鎖の垂れていた懐中時計を慎重に取り上げた。
銀色の古い時計だった。
蓋には、雨宮家のものらしい図案が彫られている。
蔦のようにも、五線譜のようにも見える模様だった。
白瀬さんが蓋を開ける。
文字盤が現れた。
針は止まっていた。
十一時二十分。
僕は息を呑んだ。
「時計塔と同じ時刻ですね」
「はい」
「偶然でしょうか」
そう言ってから、さっきも同じようなことを言った気がした。
自分でも少し嫌になる。
白瀬さんは、時計を見つめたまま答えた。
「偶然かもしれません」
「かもしれない、ですか」
「でも、二つ並ぶと少し気になります」
時計塔の十一時二十分。
音楽室の懐中時計の十一時二十分。
どちらも止まっている。
どちらも、同じ時刻を指している。
僕は背中に薄い寒気を覚えた。
「宗一郎さんが、わざと止めたんでしょうか」
「分かりません」
「何のために?」
「それも、まだ分かりません」
白瀬さんはあっさりそう言った。
以前なら、彼女はもう何か分かっているのではないかと思ったかもしれない。
けれど今は、その分からなさが妙に正直に見えた。
白瀬さんは懐中時計を元の場所へ戻した。
その時、廊下から足音が聞こえた。
僕は振り向いた。
音楽室の扉の前に、篠原千鶴さんが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
背筋を伸ばし、手帳を胸元に抱えている。
ランプの光を受けた眼鏡の奥で、彼女の目だけが静かにこちらを見ていた。
「音楽室は、宗一郎先生が生前もっとも大切にしていた部屋です」
篠原さんの声には、明らかな警戒があった。
「無断で触れるのは控えていただけますか」
「失礼しました」
白瀬さんは素直に頭を下げた。
「玲司さんから、音楽室は見てもよいと伺いました」
「見ることと、触れることは違います」
「はい。その通りです」
白瀬さんは反論しなかった。
篠原さんは部屋に入ってきた。
その足取りは、初めて訪れた場所のものではなかった。
彼女は迷わず譜面棚の前へ進む。
並んだ楽譜の背を、指先でそっとなぞった。
その手つきは、ただ探している人のものではない。
一冊一冊の厚みや、紙の質まで覚えている人間の動きだった。
「ずいぶん丁寧に管理されているのですね」
白瀬さんが言った。
「先生の楽譜は、私が整理していました」
「清書も、ですか」
僕が尋ねると、篠原さんは一瞬だけ沈黙した。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。
そう思った時には、もう遅かった。
「少しだけです」
「少し、ですか」
白瀬さんが繰り返す。
責めるような言い方ではなかった。
それでも篠原さんの肩が、ほんのわずかに強張ったように見えた。
「先生は、音に触れられることを嫌う方でしたから」
篠原さんはそう言って、グランドピアノを一瞬だけ見た。
本当に一瞬だった。
けれど、その視線には、ただの秘書とは違うものがあった。
懐かしさ。
恐れ。
あるいは、もっと別の感情。
僕には判別できなかった。
また勝手に見すぎているのかもしれない。
でも、そう見えた。
「第五楽章を探しているのですか」
篠原さんが尋ねた。
「まだ探してはいません」
白瀬さんは答えた。
「ただ、気になるところを確認していました」
「なら、忠告しておきます」
篠原さんは譜面棚の前で立ち止まった。
「第五楽章を探すのは、おやめになった方がいい」
「なぜですか」
僕は思わず聞き返した。
「遺言には、それを見つけた者に相続権を認めると……」
「先生は」
篠原さんは僕の言葉を遮った。
けれど、その先をすぐには続けなかった。
「先生は、時々、ご自分の言葉で人を縛る方でした」
低い声だった。
「見つけると、誰かが困るのですか」
白瀬さんが尋ねた。
篠原さんは、すぐには答えなかった。
ランプの光が眼鏡に反射し、その目元を隠す。
「困る、というより」
そこで言葉が止まった。
篠原さんは手帳を抱える指に、少しだけ力を込めた。
「戻ってしまうんです」
「何がですか」
「……終わったはずの音が」
音楽室の空気が、さらに静かになったような気がした。
僕は、さっきの低いラを思い出した。
そして、遅れて聞こえた小さな金属音も。
「終わったはずの音、ですか」
白瀬さんが言った。
篠原さんは答えず、譜面棚から一冊の古いファイルを抜き出した。
表紙には、『霧雨館組曲 第一楽章』と書かれている。
「音符は嘘をつきません」
彼女は言った。
それから、少しだけ視線を落とした。
「……先生は、そうおっしゃっていました」
まるで、自分の言葉ではないと確かめるような言い方だった。
篠原さんはそのファイルをしばらく見つめていた。
表紙の奥にある何かを見ているようだった。
それから、静かに棚へ戻した。
「篠原さんは、第五楽章について何か知っているんですか」
僕は尋ねた。
「知っている、というほどではありません」
「では、なぜ探さない方がいいと?」
「戻らないものを、無理に戻そうとすると……」
篠原さんはそこで言葉を切った。
少しの間、音楽室の中に雨音だけが残った。
いや、ここまで来ると雨音もほとんど聞こえない。
聞こえる気がしているだけだったのかもしれない。
「いえ」
篠原さんは手帳を閉じた。
「失礼しました。忘れてください」
忘れてください、と言われて忘れられるなら、たぶん誰も苦労しない。
そう思ったが、口には出さなかった。
その時、僕は彼女の手元に目がいった。
左手で紙の端を押さえ、右手でペンを揃えている。
白い指先に、薄くインクの跡が残っていた。
白瀬さんも、それを見ていた。
けれど、何も言わなかった。
「今夜は、もうお休みになった方がよろしいかと」
篠原さんは言った。
「霧雨館は、夜になると音が多い」
「音が多い?」
「古い館ですから」
そう言って、彼女は音楽室を出ていった。
扉が閉まる。
革張りの扉は、重い音を立てた。
僕はしばらく黙っていた。
「……怒らせてしまいましたかね」
「怒った、というより」
白瀬さんは譜面棚を見た。
「怖がっていたように見えました」
「篠原さんが?」
「はい」
「何を?」
「第五楽章、でしょうね」
白瀬さんはそう言って、もう一度グランドピアノを見た。
低いラの鍵盤。
自動演奏ピアノの空のロール挿入口。
十一時二十分で止まった懐中時計。
どれも、見たはずなのに、うまく頭に収まらなかった。
この部屋に入ってから、僕はずっと何かを見落としている気がしていた。
けれど、それが何なのか分からない。
「真柴さん」
「はい」
「今夜見たことを、できるだけ正確に覚えておいてください」
「仕事の記録として、ですか」
「それもあります」
白瀬さんは少しだけ間を置いた。
「でも、たぶん別の意味でも必要になります」
僕はその時、まだ分かっていなかった。
何が必要になるのか。
何のために、この部屋の細部を覚えておかなければならないのか。
ただ、音楽室を出る前に、僕はもう一度だけ振り返った。
空のロール挿入口。
低いラの余韻。
ガラスケースの中へ戻された懐中時計。
篠原さんの「探さない方がいい」という声。
それらは、ばらばらのまま頭の中に残っていた。
まだ事件ではなかった。
少なくとも、この時の僕にはそう思えた。
けれど、音楽室の静けさだけが、扉を閉めたあとも耳の奥に残っていた。
【真柴のメモ】
・霧雨館は、山中の崖の縁に建つ古い洋館。
・館の中央には時計塔があり、針は十一時二十分で止まっている。
・雨宮宗一郎の遺言には、「第五楽章を見つけた者に、霧雨館の真の相続権を認める」とあった。
・第五楽章は、『霧雨館組曲』の失われた楽章。
・音楽室には、グランドピアノと古い自動演奏ピアノがある。
・最初に見た時点では、自動演奏ピアノに紙ロールは入っていなかった。
・白瀬さんがグランドピアノで低いラを鳴らすと、遅れて小さな金属音が聞こえた。
・音楽室のガラスケース内にあった銀色の懐中時計は、時計塔と同じ十一時二十分で止まっていた。
・篠原さんは「第五楽章を探すのはやめた方がいい」と忠告した。
・篠原さんは、宗一郎の楽譜管理や清書にも関わっていた。
・紗英さんは、玲司さんが過去に触れることを強く恐れているように見える。
・鷺沼は、館の鍵を管理している使用人。黒い手袋をしている。
【確認した手がかり】
◆ 止まった時計塔
霧雨館中央の時計塔。
針は十一時二十分で止まっている。
◆ 紙ロールなしの自動演奏ピアノ
音楽室の奥に置かれていた古い自動演奏ピアノ。
最初に見た時点では、演奏用の紙ロールは入っていなかった。
◆ 低いラと金属音
白瀬さんがグランドピアノで低いラを鳴らした直後、遅れて小さな金属音が聞こえた。
音がどこから聞こえたのかは、まだ分からない。
◆ 十一時二十分の懐中時計
音楽室のガラスケース内にあった銀色の懐中時計。
時計塔と同じく、十一時二十分で止まっている。
◆ 篠原さんの忠告
篠原さんは「第五楽章を探すのはやめた方がいい」と忠告した。
彼女は宗一郎の楽譜管理や清書にも関わっていた。
【まだ分からないこと】
・時計塔と懐中時計が、なぜ同じ十一時二十分で止まっているのか。
・紙ロールが入っていない自動演奏ピアノから、なぜ音が聞こえたのか。
・低いラの後に聞こえた金属音は、何の音だったのか。
・第五楽章は本当に館の中にあるのか。
・篠原さんは、なぜ第五楽章を探すことを恐れているのか。
・宗一郎が残した「第五楽章」とは、単なる楽譜なのか。




