第3話 霧雨館の晩餐
夕食までの間、僕らは二階の客室へ案内された。
霧雨館の二階廊下は、思っていたよりも長かった。
古い木の床には、赤みを抑えた絨毯が敷かれている。
壁には等間隔にランプが並び、窓の外は霧雨で白く濁っていた。硝子には細かな水滴が張りついていて、外の景色を少しずつ削っていくように見えた。
廊下の両側には客室の扉が並んでいる。
どの扉も同じ濃い木目で、真鍮の取っ手だけが鈍く光っていた。
「真柴様のお部屋はこちらです」
鷺沼が扉の前で足を止めた。
僕の部屋は廊下の突き当たりに近い場所だった。
「隣が白瀬様のお部屋です」
「ありがとうございます」
白瀬さんが短く礼を言う。
鷺沼は無表情のまま頭を下げた。
「夕食は午後七時より食堂にて。お時間になりましたら、こちらからお声がけいたします」
彼はそれだけ言うと、廊下を戻っていった。
足音は規則正しかった。
絨毯の上なのに、不思議とはっきり聞こえる。
白瀬さんは、その背中を見送っていた。
「どうかしましたか」
「黒い手袋」
「え?」
「少し目立ちますね。あの服装だと、なおさら」
僕は鷺沼の手元を思い出した。
確かに、彼は車を運転している時からずっと黒い手袋をしていた。
「傷でもあるんでしょうか」
「かもしれません」
白瀬さんはそう言った。
でも、納得した顔ではなかった。
僕の客室は、古い洋館らしく簡素で上品だった。
ベッド、サイドテーブル、小さな机、椅子。
壁には風景画が一枚掛かっている。
描かれているのは、おそらく霧雨館の庭だろう。
今の庭とは違って、画面の中には淡い陽が差している。薔薇も、ちゃんと薔薇らしい色で咲いていた。
窓から外を見た。
霧はさらに濃くなっている。
庭の向こうは白く溶けて、崖も、温室も、離れも見えない。
まるで、この館だけが世界から切り取られて、どこか別の場所に置かれてしまったようだった。
僕は鞄を置き、上着を脱いだ。
机の上にメモ帳を広げる。
出版社の仕事として来た以上、記録は必要だ。
そう思ったのに、最初に何を書けばいいのか分からなかった。
雨宮宗一郎の遺稿整理。
失われた第五楽章。
十一時二十分で止まった時計塔。
勝手に鳴る自動演奏ピアノ。
宗一郎の遺言めいた条件。
どれも、仕事の記録としては妙に落ち着きが悪い。
僕はしばらくペンを持ったまま迷った。
それから、最初の一行を書いた。
霧雨館には、止まった時計が多い。
書いた瞬間、どこか遠くでピアノの音がした。
ぽん。
低い単音。
僕は顔を上げた。
耳を澄ませる。
けれど、それ以上は聞こえなかった。
雨音と、館の軋みだけだった。
午後七時少し前、鷺沼が客室の扉を叩いた。
「お食事の用意が整いました」
食堂は一階の右手にあった。
長い部屋だった。
中央には重厚なテーブルが置かれ、十脚の椅子が並んでいる。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、燭台の炎が銀器に映って揺れていた。
席順はすでに決められていた。
玲司さんが上座。
右隣に紗英さん。
左隣に静乃さん。
そこから篠原さん、久世さん、奏太さん、白瀬さん、僕という順だった。
僕の席は端に近い。
正直、少し安心した。
真ん中に座らされたら、きっとスープの味も分からなくなる。
鷺沼と、もう一人の使用人である若い女性が給仕をしていた。
彼女は二十代前半ほどで、黒いワンピースに白いエプロンをつけている。
目立たないように動こうとしているのは分かった。
けれど、緊張しているのか、皿を置く手がほんの少し震えていた。
「美和です」
玲司さんが紹介した。
「館の手伝いをしてもらっています」
美和さんは慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
その声は小さかった。
食事が始まってからしばらくは、意外なほど普通だった。
スープは温かかったし、パンも柔らかかった。
銀のナイフとフォークは少し重かったが、使い方に困るほどではない。
ただ、僕はどうにも落ち着かなかった。
誰かが黙るたび、カトラリーの音がやけに大きく聞こえる。
雨音だけが、窓の向こうで絶えず続いていた。
「このスープ、昔から同じ味なのかしら」
紗英さんが、場を和ませるように言った。
「伯父はあまり料理に興味がありませんでした」
玲司さんが答える。
「味より、時間にうるさい人でした。食事が一分遅れると不機嫌になる」
「宗一郎先生らしいですね」
奏太さんが小さく笑った。
その笑いには、懐かしさと緊張が半分ずつ混じっていた。
久世さんはワインを一口飲み、グラスを少し持ち上げた。
「ワインは悪くないですね。保存もいい」
「そちらも鑑定対象ですか」
僕がつい言うと、久世さんは楽しそうに目を細めた。
「癖です。私は何でも値段にしたがる人間だと思われがちですが、値段のつかないものほど怖いと思っています」
「値段がつかないもの、ですか」
「ええ。持ち主が手放さない理由が、値段以外にあるということですから」
久世さんは、そこで古い銀器へ視線を落とした。
「古い物には、たいてい人の都合が染みついています。いい都合も、悪い都合も」
ただの軽薄な美術商、というわけでもないらしい。
僕は少しだけ意外に思った。
「物は嘘をつきませんからね」
久世さんは言った。
「嘘をつくのは、いつも人間です」
白瀬さんが水のグラスを置いた。
「物も、嘘を背負わされることはあります」
「おや」
「持ち主がそう扱えば」
久世さんは一瞬だけ黙った。
それから、愉快そうに笑った。
「面白い方だ」
「面白いかどうかは分かりません」
白瀬さんは淡々と答えた。
「古書店では、そういう本をよく見ます」
「本も嘘をつきますか」
「本というより、そこに書いた人間が」
前より少しだけ、白瀬さんの言葉は柔らかかった。
けれど、久世さんはそれ以上踏み込まなかった。
食事の途中から、僕は空腹なのか緊張なのか分からなくなっていた。
スープの味は覚えている。
でも、そのあとに出た魚料理の味は、正直あまり覚えていない。
気づけば、奏太さんがテーブルの縁を指先で叩いていた。
小さく、規則的に。
たん、たん、たん、たん、たん。
四拍子ではない。
五つで一つのまとまりになっているように聞こえた。
白瀬さんがそちらを見る。
奏太さんは、はっとして手を止めた。
「すみません。癖で」
「作曲をされるんですか」
「少しだけです」
奏太さんは気まずそうに笑った。
「宗一郎先生には、才能がないと言われましたけど」
その場の空気が、ほんの少し硬くなった。
玲司さんがナイフを置いた。
「奏太」
「すみません。余計なことを言いました」
「伯父は厳しい人だった」
玲司さんは言った。
ただ、その声に弁護の響きはあまりなかった。
「厳しいだけならよかったんです」
奏太さんは小さく呟いた。
その言葉を拾ったのは、静乃さんだった。
老婦人はスープにほとんど手をつけず、銀のスプーンを見つめていた。
「そうね」
静乃さんは言った。
「あの人は、厳しいのではなく、奪う人だった」
「叔母様」
玲司さんの声が少し低くなった。
「何を今さら隠すの」
静乃さんは顔を上げなかった。
「ここにいる人間の中に、宗一郎さんから何も奪われなかった人がいるのなら、むしろ教えてほしいくらいだわ」
篠原さんの手が止まった。
紗英さんは玲司さんの顔を見た。
久世さんは黙ってワイングラスを置いた。
さっきまでの軽さが、少しだけ消えている。
「静乃さん」
篠原さんが低い声で言った。
「先生の名誉に関わる発言は、お控えください」
「名誉」
静乃さんは、その言葉をゆっくり繰り返した。
「死んだ人間には便利な布ね。何でも隠せる」
篠原さんは表情を変えなかった。
だが、手元のナプキンを押さえる左手に、力が入っていた。
白瀬さんは、その手元を見ていた。
僕もつられて見てしまい、すぐに皿へ視線を戻した。
他人の手元ばかり気にしている自分が、だんだん嫌になってくる。
宗一郎の名誉。
奪われたもの。
第五楽章。
どれも関係がありそうで、でもまだ繋がらない。
僕はメモ帳を部屋に置いてきたことを少し後悔した。
たぶん、書いたところで余計に混乱するだけだろうけれど。
紗英さんが、場を変えるように玲司さんへ話しかけた。
「明日の遺言書の確認が終わったら、私たちは東京へ戻れるのよね」
「そのつもりだ」
「そのつもり、じゃなくて」
紗英さんはそこで言葉を切った。
食堂の中で、その続きだけが宙に残ったように感じた。
「約束して」
玲司さんはすぐには答えなかった。
その沈黙が、食堂全体に広がる。
「玲司さん」
「分かっている」
「本当に?」
「紗英」
玲司さんの声には、わずかな苛立ちがあった。
紗英さんはそれ以上言わなかった。
けれど、彼女の表情には安心ではなく、もっと深い不安が残っていた。
静乃さんがそれを見て、薄く笑った。
「帰れない理由でもあるのかしら」
「ありません」
玲司さんは即答した。
「なら約束してあげればいいじゃない」
「叔母様、今は食事中です」
「そうね」
静乃さんはようやくスプーンを置いた。
「人が死ぬ話は、食後にしましょう」
食堂が静かになった。
冷たい沈黙、という言葉を頭の中で思い浮かべてから、僕は少し大げさだと思い直した。
実際に聞こえていたのは、雨音と、誰かが息を呑む気配と、銀器が皿に触れる小さな音だけだった。
美和さんが皿を取り替えようとして、手を滑らせかけた。
鷺沼がすぐに横から支える。
その動きは速かった。
黒い手袋をした指が、銀の皿を音もなく押さえる。
「失礼いたしました」
美和さんが青ざめた顔で頭を下げた。
「構わない」
玲司さんが言った。
しかし、美和さんはその後もずっと目を伏せていた。
食事の終わり頃、久世さんが思い出したように尋ねた。
「ところで、音楽室は今夜見てもよろしいんでしたね」
玲司さんは眉をひそめた。
「ええ。ただし、遺品には不用意に触れないでください」
「もちろんです。私は見るだけです」
「そういう方ほど、触ります」
白瀬さんが言った。
久世さんは笑った。
「これは手厳しい」
「仕事柄です」
「しかし、第五楽章が本当に館内にあるなら、誰かが今夜中に見つけてしまうかもしれませんよ」
「正式な遺言開封前に騒ぎを起こすのは避けるべきです」
篠原さんが言った。
「先生のご意思を、勝手な解釈で扱うべきではありません」
「でも、見つけた者に相続権を認めると書いたのは、その先生でしょう」
久世さんが言う。
「それとも、見つかると困る理由でも?」
篠原さんの視線が、久世さんへ向いた。
「困る、ではありません」
「では?」
篠原さんはすぐには答えなかった。
代わりに、ナプキンを畳む。
その動作は丁寧だった。
丁寧すぎて、かえって急いでいるようにも見えた。
「少し、気分が優れませんので。失礼します」
「篠原さん」
玲司さんが声をかけた。
「問題ありません」
篠原さんはそう言って、食堂を出ていった。
その背中はまっすぐだった。
逃げるようにも見えた。
いや、そう見たいだけなのかもしれない。
夕食後、僕らはそれぞれ自由に過ごすことになった。
久世さんは応接室へ戻り、酒を所望した。
奏太さんは楽譜を見たいと言ったが、玲司さんに「明日にしてくれ」と止められた。
静乃さんは鷺沼に付き添われ、一階の寝室へ向かった。
紗英さんは玲司さんの袖を軽く掴んでいた。
彼がどこかへ行ってしまわないように。
そう見えたけれど、今夜の僕は少し見すぎている気もした。
僕と白瀬さんは、玄関ホールに残った。
奥の廊下の先から、またあの音が聞こえた。
ぽん。
低い単音。
間を置いて、もう一度。
ぽん。
「やっぱり鳴っていますね」
僕は言った。
「自動演奏ピアノでしょうか」
「確かめましょう」
白瀬さんは、すぐに歩き出した。
「今からですか」
「今の音ですから」
彼女は振り返らずに言った。
「あとで聞き直すことはできません」
僕は慌てて後を追った。
玄関ホールの奥へ進む。
廊下は応接室や食堂よりも暗く、壁にかかったランプだけが足元を照らしていた。
奥へ進むほど、雨音が遠くなる。
代わりに、古い木と紙と金属の匂いが濃くなっていく。
廊下の突き当たりに、重い樫材の扉があった。
扉の内側には、防音用らしい革が張られている。
ここが音楽室。
宗一郎が、もっとも長い時間を過ごした部屋。
第五楽章に最も近いはずの場所。
白瀬さんは扉の前で立ち止まった。
耳を澄ませる。
僕も真似をした。
中は静かだった。
さっきまで聞こえていたピアノの音は、もうしない。
「止まりましたね」
僕が言うと、白瀬さんは小さく頷いた。
「ええ」
「偶然でしょうか」
「偶然だと楽ですね」
「楽?」
「考えなくて済みますから」
白瀬さんはそう言って、扉に手をかけた。
音楽室の扉は、重い音を立てて開いた。
中から、古い紙と、磨かれた木と、金属と、微かな黴の匂いが流れ出した。
部屋の中央には、グランドピアノがあった。
奥には、古い自動演奏ピアノ。
壁際には譜面棚。
その横には、懐中時計の並んだガラスケース。
僕はなぜか、足を踏み入れる前に息を止めていた。
白瀬さんは部屋の中を見渡した。
それから、少しだけ眉を寄せる。
「ここ、変ですね」
「何がですか」
「音が伸びません」
試すように、白瀬さんは小さく息を吐いた。
その音は、部屋の中で短く沈んだ。
音楽室は、静かだった。
ただの静けさではない。
誰かが、音の行き先を先に塞いでしまったような静けさだった。




