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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第一章 霧雨の招待状

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第3話 霧雨館の晩餐

 夕食までの間、僕らは二階の客室へ案内された。


 霧雨館の二階廊下は、思っていたよりも長かった。

 古い木の床には、赤みを抑えた絨毯が敷かれている。

 壁には等間隔にランプが並び、窓の外は霧雨で白く濁っていた。硝子には細かな水滴が張りついていて、外の景色を少しずつ削っていくように見えた。


 廊下の両側には客室の扉が並んでいる。

 どの扉も同じ濃い木目で、真鍮の取っ手だけが鈍く光っていた。


「真柴様のお部屋はこちらです」


 鷺沼が扉の前で足を止めた。

 僕の部屋は廊下の突き当たりに近い場所だった。


「隣が白瀬様のお部屋です」


「ありがとうございます」


 白瀬さんが短く礼を言う。

 鷺沼は無表情のまま頭を下げた。


「夕食は午後七時より食堂にて。お時間になりましたら、こちらからお声がけいたします」


 彼はそれだけ言うと、廊下を戻っていった。

 足音は規則正しかった。

 絨毯の上なのに、不思議とはっきり聞こえる。


 白瀬さんは、その背中を見送っていた。


「どうかしましたか」


「黒い手袋」


「え?」


「少し目立ちますね。あの服装だと、なおさら」


 僕は鷺沼の手元を思い出した。

 確かに、彼は車を運転している時からずっと黒い手袋をしていた。


「傷でもあるんでしょうか」


「かもしれません」


 白瀬さんはそう言った。

 でも、納得した顔ではなかった。


 僕の客室は、古い洋館らしく簡素で上品だった。

 ベッド、サイドテーブル、小さな机、椅子。

 壁には風景画が一枚掛かっている。

 描かれているのは、おそらく霧雨館の庭だろう。

 今の庭とは違って、画面の中には淡い陽が差している。薔薇も、ちゃんと薔薇らしい色で咲いていた。


 窓から外を見た。

 霧はさらに濃くなっている。

 庭の向こうは白く溶けて、崖も、温室も、離れも見えない。

 まるで、この館だけが世界から切り取られて、どこか別の場所に置かれてしまったようだった。


 僕は鞄を置き、上着を脱いだ。

 机の上にメモ帳を広げる。

 出版社の仕事として来た以上、記録は必要だ。

 そう思ったのに、最初に何を書けばいいのか分からなかった。


 雨宮宗一郎の遺稿整理。

 失われた第五楽章。

 十一時二十分で止まった時計塔。

 勝手に鳴る自動演奏ピアノ。

 宗一郎の遺言めいた条件。


 どれも、仕事の記録としては妙に落ち着きが悪い。

 僕はしばらくペンを持ったまま迷った。

 それから、最初の一行を書いた。


 霧雨館には、止まった時計が多い。


 書いた瞬間、どこか遠くでピアノの音がした。


 ぽん。


 低い単音。

 僕は顔を上げた。

 耳を澄ませる。

 けれど、それ以上は聞こえなかった。

 雨音と、館の軋みだけだった。


 午後七時少し前、鷺沼が客室の扉を叩いた。


「お食事の用意が整いました」


 食堂は一階の右手にあった。

 長い部屋だった。

 中央には重厚なテーブルが置かれ、十脚の椅子が並んでいる。

 窓は厚いカーテンで閉ざされ、燭台の炎が銀器に映って揺れていた。


 席順はすでに決められていた。

 玲司さんが上座。

 右隣に紗英さん。

 左隣に静乃さん。

 そこから篠原さん、久世さん、奏太さん、白瀬さん、僕という順だった。


 僕の席は端に近い。

 正直、少し安心した。

 真ん中に座らされたら、きっとスープの味も分からなくなる。


 鷺沼と、もう一人の使用人である若い女性が給仕をしていた。

 彼女は二十代前半ほどで、黒いワンピースに白いエプロンをつけている。

 目立たないように動こうとしているのは分かった。

 けれど、緊張しているのか、皿を置く手がほんの少し震えていた。


「美和です」


 玲司さんが紹介した。


「館の手伝いをしてもらっています」


 美和さんは慌てて頭を下げた。


「よろしくお願いいたします」


 その声は小さかった。


 食事が始まってからしばらくは、意外なほど普通だった。

 スープは温かかったし、パンも柔らかかった。

 銀のナイフとフォークは少し重かったが、使い方に困るほどではない。


 ただ、僕はどうにも落ち着かなかった。

 誰かが黙るたび、カトラリーの音がやけに大きく聞こえる。

 雨音だけが、窓の向こうで絶えず続いていた。


「このスープ、昔から同じ味なのかしら」


 紗英さんが、場を和ませるように言った。


「伯父はあまり料理に興味がありませんでした」


 玲司さんが答える。


「味より、時間にうるさい人でした。食事が一分遅れると不機嫌になる」


「宗一郎先生らしいですね」


 奏太さんが小さく笑った。

 その笑いには、懐かしさと緊張が半分ずつ混じっていた。


 久世さんはワインを一口飲み、グラスを少し持ち上げた。


「ワインは悪くないですね。保存もいい」


「そちらも鑑定対象ですか」


 僕がつい言うと、久世さんは楽しそうに目を細めた。


「癖です。私は何でも値段にしたがる人間だと思われがちですが、値段のつかないものほど怖いと思っています」


「値段がつかないもの、ですか」


「ええ。持ち主が手放さない理由が、値段以外にあるということですから」


 久世さんは、そこで古い銀器へ視線を落とした。


「古い物には、たいてい人の都合が染みついています。いい都合も、悪い都合も」


 ただの軽薄な美術商、というわけでもないらしい。

 僕は少しだけ意外に思った。


「物は嘘をつきませんからね」


 久世さんは言った。


「嘘をつくのは、いつも人間です」


 白瀬さんが水のグラスを置いた。


「物も、嘘を背負わされることはあります」


「おや」


「持ち主がそう扱えば」


 久世さんは一瞬だけ黙った。

 それから、愉快そうに笑った。


「面白い方だ」


「面白いかどうかは分かりません」


 白瀬さんは淡々と答えた。


「古書店では、そういう本をよく見ます」


「本も嘘をつきますか」


「本というより、そこに書いた人間が」


 前より少しだけ、白瀬さんの言葉は柔らかかった。

 けれど、久世さんはそれ以上踏み込まなかった。


 食事の途中から、僕は空腹なのか緊張なのか分からなくなっていた。

 スープの味は覚えている。

 でも、そのあとに出た魚料理の味は、正直あまり覚えていない。


 気づけば、奏太さんがテーブルの縁を指先で叩いていた。

 小さく、規則的に。


 たん、たん、たん、たん、たん。


 四拍子ではない。

 五つで一つのまとまりになっているように聞こえた。


 白瀬さんがそちらを見る。

 奏太さんは、はっとして手を止めた。


「すみません。癖で」


「作曲をされるんですか」


「少しだけです」


 奏太さんは気まずそうに笑った。


「宗一郎先生には、才能がないと言われましたけど」


 その場の空気が、ほんの少し硬くなった。

 玲司さんがナイフを置いた。


「奏太」


「すみません。余計なことを言いました」


「伯父は厳しい人だった」


 玲司さんは言った。

 ただ、その声に弁護の響きはあまりなかった。


「厳しいだけならよかったんです」


 奏太さんは小さく呟いた。

 その言葉を拾ったのは、静乃さんだった。

 老婦人はスープにほとんど手をつけず、銀のスプーンを見つめていた。


「そうね」


 静乃さんは言った。


「あの人は、厳しいのではなく、奪う人だった」


「叔母様」


 玲司さんの声が少し低くなった。


「何を今さら隠すの」


 静乃さんは顔を上げなかった。


「ここにいる人間の中に、宗一郎さんから何も奪われなかった人がいるのなら、むしろ教えてほしいくらいだわ」


 篠原さんの手が止まった。

 紗英さんは玲司さんの顔を見た。

 久世さんは黙ってワイングラスを置いた。

 さっきまでの軽さが、少しだけ消えている。


「静乃さん」


 篠原さんが低い声で言った。


「先生の名誉に関わる発言は、お控えください」


「名誉」


 静乃さんは、その言葉をゆっくり繰り返した。


「死んだ人間には便利な布ね。何でも隠せる」


 篠原さんは表情を変えなかった。

 だが、手元のナプキンを押さえる左手に、力が入っていた。

 白瀬さんは、その手元を見ていた。

 僕もつられて見てしまい、すぐに皿へ視線を戻した。

 他人の手元ばかり気にしている自分が、だんだん嫌になってくる。


 宗一郎の名誉。

 奪われたもの。

 第五楽章。

 どれも関係がありそうで、でもまだ繋がらない。

 僕はメモ帳を部屋に置いてきたことを少し後悔した。

 たぶん、書いたところで余計に混乱するだけだろうけれど。


 紗英さんが、場を変えるように玲司さんへ話しかけた。


「明日の遺言書の確認が終わったら、私たちは東京へ戻れるのよね」


「そのつもりだ」


「そのつもり、じゃなくて」


 紗英さんはそこで言葉を切った。

 食堂の中で、その続きだけが宙に残ったように感じた。


「約束して」


 玲司さんはすぐには答えなかった。

 その沈黙が、食堂全体に広がる。


「玲司さん」


「分かっている」


「本当に?」


「紗英」


 玲司さんの声には、わずかな苛立ちがあった。

 紗英さんはそれ以上言わなかった。

 けれど、彼女の表情には安心ではなく、もっと深い不安が残っていた。


 静乃さんがそれを見て、薄く笑った。


「帰れない理由でもあるのかしら」


「ありません」


 玲司さんは即答した。


「なら約束してあげればいいじゃない」


「叔母様、今は食事中です」


「そうね」


 静乃さんはようやくスプーンを置いた。


「人が死ぬ話は、食後にしましょう」


 食堂が静かになった。

 冷たい沈黙、という言葉を頭の中で思い浮かべてから、僕は少し大げさだと思い直した。

 実際に聞こえていたのは、雨音と、誰かが息を呑む気配と、銀器が皿に触れる小さな音だけだった。


 美和さんが皿を取り替えようとして、手を滑らせかけた。

 鷺沼がすぐに横から支える。

 その動きは速かった。

 黒い手袋をした指が、銀の皿を音もなく押さえる。


「失礼いたしました」


 美和さんが青ざめた顔で頭を下げた。


「構わない」


 玲司さんが言った。

 しかし、美和さんはその後もずっと目を伏せていた。


 食事の終わり頃、久世さんが思い出したように尋ねた。


「ところで、音楽室は今夜見てもよろしいんでしたね」


 玲司さんは眉をひそめた。


「ええ。ただし、遺品には不用意に触れないでください」


「もちろんです。私は見るだけです」


「そういう方ほど、触ります」


 白瀬さんが言った。

 久世さんは笑った。


「これは手厳しい」


「仕事柄です」


「しかし、第五楽章が本当に館内にあるなら、誰かが今夜中に見つけてしまうかもしれませんよ」


「正式な遺言開封前に騒ぎを起こすのは避けるべきです」


 篠原さんが言った。


「先生のご意思を、勝手な解釈で扱うべきではありません」


「でも、見つけた者に相続権を認めると書いたのは、その先生でしょう」


 久世さんが言う。


「それとも、見つかると困る理由でも?」


 篠原さんの視線が、久世さんへ向いた。


「困る、ではありません」


「では?」


 篠原さんはすぐには答えなかった。

 代わりに、ナプキンを畳む。

 その動作は丁寧だった。

 丁寧すぎて、かえって急いでいるようにも見えた。


「少し、気分が優れませんので。失礼します」


「篠原さん」


 玲司さんが声をかけた。


「問題ありません」


 篠原さんはそう言って、食堂を出ていった。

 その背中はまっすぐだった。

 逃げるようにも見えた。

 いや、そう見たいだけなのかもしれない。


 夕食後、僕らはそれぞれ自由に過ごすことになった。

 久世さんは応接室へ戻り、酒を所望した。

 奏太さんは楽譜を見たいと言ったが、玲司さんに「明日にしてくれ」と止められた。

 静乃さんは鷺沼に付き添われ、一階の寝室へ向かった。

 紗英さんは玲司さんの袖を軽く掴んでいた。

 彼がどこかへ行ってしまわないように。

 そう見えたけれど、今夜の僕は少し見すぎている気もした。


 僕と白瀬さんは、玄関ホールに残った。

 奥の廊下の先から、またあの音が聞こえた。


 ぽん。


 低い単音。

 間を置いて、もう一度。


 ぽん。


「やっぱり鳴っていますね」


 僕は言った。


「自動演奏ピアノでしょうか」


「確かめましょう」


 白瀬さんは、すぐに歩き出した。


「今からですか」


「今の音ですから」


 彼女は振り返らずに言った。


「あとで聞き直すことはできません」


 僕は慌てて後を追った。

 玄関ホールの奥へ進む。

 廊下は応接室や食堂よりも暗く、壁にかかったランプだけが足元を照らしていた。

 奥へ進むほど、雨音が遠くなる。

 代わりに、古い木と紙と金属の匂いが濃くなっていく。


 廊下の突き当たりに、重い樫材の扉があった。

 扉の内側には、防音用らしい革が張られている。


 ここが音楽室。

 宗一郎が、もっとも長い時間を過ごした部屋。

 第五楽章に最も近いはずの場所。


 白瀬さんは扉の前で立ち止まった。

 耳を澄ませる。

 僕も真似をした。

 中は静かだった。

 さっきまで聞こえていたピアノの音は、もうしない。


「止まりましたね」


 僕が言うと、白瀬さんは小さく頷いた。


「ええ」


「偶然でしょうか」


「偶然だと楽ですね」


「楽?」


「考えなくて済みますから」


 白瀬さんはそう言って、扉に手をかけた。

 音楽室の扉は、重い音を立てて開いた。


 中から、古い紙と、磨かれた木と、金属と、微かな黴の匂いが流れ出した。

 部屋の中央には、グランドピアノがあった。

 奥には、古い自動演奏ピアノ。

 壁際には譜面棚。

 その横には、懐中時計の並んだガラスケース。


 僕はなぜか、足を踏み入れる前に息を止めていた。

 白瀬さんは部屋の中を見渡した。

 それから、少しだけ眉を寄せる。


「ここ、変ですね」


「何がですか」


「音が伸びません」


 試すように、白瀬さんは小さく息を吐いた。

 その音は、部屋の中で短く沈んだ。


 音楽室は、静かだった。

 ただの静けさではない。

 誰かが、音の行き先を先に塞いでしまったような静けさだった。

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